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こんにちは。
哲学と言うよりは、人生哲学の質問です。
私は、一生懸命生きることの勇気が持てないでいます。
しかしながら、日々を過ごす中で、或いはここで皆さんと話す内に、自分の消極性に気付き、このままではならないと思うようになりました。
単刀直入にお尋ねしますが、人生とは、如何に生くるべきでしょうか。
どうぞよろしくお願いします。

A 回答 (24件中1~10件)

>自由、ですか。

なるほど。臨機応変にということでしょうか。
>或いは積極的な自由でしょうか。

「一生懸命生きることの勇気が持てない」

人は、勇気をもって積極的に一生懸命に生きるべきだ。
かろやかに生き生きと自由で楽しく、そして、みんなの幸せを望んで・・

こんな答えをお望みですか?
言葉が人生を変えることもある。けど、そんな時って、既に自分の内面に変化のエネルギーがあって、記号でしかない言葉が触媒になっているだけ。

「一生懸命生きることの勇気が持てない」ことを問題と感じた時点で既にあなたの答えは出ているじゃありませんか。

 それは、それとして、どんな苦境に立っていてもどんな状況に追い込まれていても、誰もが、今までも「自由」だったし、今も「自由」だし、これからもずっと「自由」だってこと。こうして如何に生きるべきか道を尋ねることができる自由があるってこと。重要なのは生きるべき道よりもむしろ自由の方です。今のね。

一生懸命生きたがっているあなたのたった今の自由。

 
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この回答へのお礼

やさしい御回答をありがとうこざいます。
勇気がもてました(^ω^)

お礼日時:2013/06/14 16:07

 さらに出しゃばります。



 こんどは うきよとんぼさんとは違って ただし《不自由になれ》とは言えませんから 世の中に自分の人生は不自由だなぁと思っている人たちの気持ちになってみるということを提案します。

 いえ それでは生ぬるいですね。天の邪鬼になれとは言えませんから 天の邪鬼な考えを持ちそう振る舞う人たちの気持ちを思ってみることを提案します。

 あなたは たぶん粗野な振る舞いにまで行き着くような天の邪鬼には目をそむけることでしょう。かかわらないことに考えを決めることでしょう。

 まじわれとは言いませんから そのような人たちの気持ちにいちどなってみるのは よいのではないでしょうか。

 なぜ 反抗ばかりするのか。
 相手を罵倒することのみに時間をついやしている人たちのことです。

 そのような人たちも その基礎の基礎においては 自分の人生をそれぞれ《一生懸命に生きて 死ぬこと》と見ているのだと思いませんか?

 たぶんそれを表現する勇気の持ち方が違って来ているのでしょう。

 そしてあえて言うならば れいんとーくさんの場合でも――勝手な憶測なのですが―― そのような人たちとは別のかたちで しかも大きくは同じ類型において勇気の持ち方・出し方が 違っていたということかも知れません。

 勇気もあるし 行動も積極的なものがあったはずではありませんか。



 たぶんひとつには おれはあいつらとは品格としてちがうんだというかたちで一部の人間たちを相手にせずという態度を取り人間を品分けするところがあったか もしくは どんな人に対しても例外なくすべての場合に相手の気持ちを思いやっておとなしい態度に出るか だったのではないか。そういうかたちでの積極的な勇気の発揮の仕方だったのでは?


 ひとをさげすむなら 誰からでも自分がさげすまれてよいと言ったことになります。
 でも おかしいと思う態度を取ったり発言をしたりする相手に対しては やはり自由に――信頼関係を築き時宜を得て――批判することをしないならば それは 積極的な消極性になります。自分をおしころすことになります。

 どちらの場合も おもしろくありません。たのしくありません。
 単刀直入にもうしました。
 筋違いであったならば スルーせずに容赦なく罵倒してください。
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この回答へのお礼

自分は今まで人間関係において、少なくとも意識的には、品格や寛容と言った事柄については無頓着だったと思います。以前福祉の仕事をしていまして、障害を持たれている人の気持ちを考えた事がありますが、とてもではないが、その気持ちにはなれませんでした。自己の矮小さを知りましたが、勇気を持って世の中のいろいろの事に働きかけたいと考えるようになりました。
手前はこのようなかんじです。
再回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/14 16:13

>私はまだ、自分の生きて行く場所を見つけられていません。

きっと見つけられると思って、肩の力を抜いて歩みたいと思います。

 なら、話せる相手を見つけることですね。世の中、いろんな人がいます。でも人と人の相性という物もあります。私に変なことを言うと、根掘り葉掘り聞かれるかもしれない=話しづらい、という人はいるでしょう。それは仕方ないんです。お互い悪気がなくても、齟齬は起きるもんです。自由に何を言っても聞いてくれる人を見つけ、それが上司であったりすると、何か違いますよ。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございます。
この質問をして、ずいぶん考えが柔軟に纏まりました。
話せる相手、たまには親友にでも電話してみます。

お礼日時:2013/06/14 03:59

●人生とはいかに生くるべきでしょうか。

・・・・・・・・ーーーーーーーーー○自分の・・・・・《好きな物》や・・《好きな人》を・・沢山見つける事だと思います。・・・・僕は、・・・・・・ーーーーーーーーー《AKB48》や・《乃木坂46》が・好きです。・・・・ですが、『まさか、自分が《AKB》を好きになるなんて』夢にも、思いませんでした。・・・・・むしろ、最初は・・《AKB》や・・・《アイドルグループ》は、嫌いでした。ーーーーーーーーー《人生》何が起こるか分かりません。・意外な《サプライズ》が、待っているかもしれません・・・
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この回答へのお礼

ふふ、面白い回答をありがとうございます。
自分も、深夜アニメを見るようになるとは思ってもいませんでした。
人生は奇なり、ですね。いい意味で、サプライズを期待しようと思います。

お礼日時:2013/06/13 23:09

自分の思う存分に生きる事、


ルールや理想なんて無い、
結果、自分が後悔しなければ良い、
あのとき、つまずいていた自分を、
許してあげるだけ。
僕は金持ちだけが、成功者だとは思わない。
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この回答へのお礼

瑞々しいご回答ありがとうございます。
いつまでも若さを忘れず、フレッシュな気持ちでいたいです、

お礼日時:2013/06/13 21:33

 「べき」を付けるべき生き方は、究極的にはないでしょう。

しかし避けられない事実があります。

 「人は自分の好きなようにしか生きられない」という事実です。もちろん普通は色々な制約があるわけで、完全に好き放題はできませんが、制約内で好きなように生きるのも自由、制約を突破して好きなように生きようとするのも自由、という事になります。

 積極的に生きるとは、「自分は自分の好きなようにしか生きられない」という、覚悟を持つ事だと思います。


 最近、美郷あきの「美しい地球(ほし)を知る者よ」という某アニメのエンディングテーマを偶然に聞いたんですが、はっきり言って他愛もない歌なんですけどね、サビの最後の一言を気に入っちゃいました・・・(^^;)。

 「この先へと走る定め」・・・。誰もがそれしか出来ないし、それ以上の事もできない、と思ったからです。
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この回答へのお礼

好きにしか生きられない、何処か鳥を思わすようなフレーズですね。
皆さんよく自由を持てておられる。
ゴダイゴの歌の、銀河鉄道999に、安らぎよりも素晴らしいものに、さあゆくんだ、という歌詞があります。走り続けなければ、我々は生きてゆけないのかもしれませんね。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/13 21:37

>人生とは、如何に生くるべきでしょうか。



結論から申し上げますと、「人生とは、如何に生くるべきでしょうか。」とご自分に尋ねる必要もないほどにハッピーな状態で生きるということになるのではないでしょうか。

ある学者によりますと、「人は楽しみを追求する動物であり、困難や苦しみを避ける動物である」と定義しています。この視点から人生を考えると、とにもかくにも苦しいことや、面白くないことは極力避けて、楽しいことのみ追求することがより良く生きることになるように思います。

しかし人生は実に逆説的で、新聞の3面記事をにぎわしている多くの人々が、上に述べられているような概念通り、自分の求めるままにいきて、重大な事件を起こしてきました。その結果は楽しみとなるはずであった人生が苦しみとなるという逆の結果を生み出しています。それでは自分の楽しみや快楽の追及を50%程度に抑制し、困難や苦しみに50%ぐらいの労力を用いて立ち向かってゆこうとしたら、その結果はどうでしょうか。おそらくご質問者さんの人生がこのような選択をしてきた結果なのではないでしょうか。つまり依然として人生の問題は解決しておらず、ハッピーとは言えない現状があるわけで、「50%/50%理論」は破綻していることに気がつきます。

米国の西海岸のサンフランシスコから数時間内陸に入ったところにヨセミテ国立公園があり、その一部は昔氷河がけづった垂直に1kmも立ち上がっているような岩があって、観光名所となっていますが、石を投げてももちろん音は聞こえません。もし人がその岩の上から飛び降りれば、いずれ氷河が削った渓谷の底に激突して死ぬことになります。人生とは行く先が死であると決まっていることを考えると、ヨセミテの岩の上から飛び降りた人に似ています。つまり死に向かって生きているというわけです。

つまり少しばかり、前方が見える人は、私どもが向かっている方向が本人の目的であろうとなかろうと、「死」ですから、楽しいなどと考えることも出来ないというわけです。つまりなにを申し上げたいといいますと、人は自分の死生観が明確に確立していない限り、不安とそこから発生する苦しみから逃れることができないとういうことを述べたいとおもいます。

先程「人生は逆説的だ」と述べましたが、「自分の楽しみの追及の前に、他人のためにこの人生を与えてしまおう」と考えることが出来るでしょうか。実はこのように生きたをした人がいました。それは聖書の主題になっている男でイエスキリストと呼ばれています。聖書で彼は次のように述べています。

23 イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。24 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。25 人は、たとい全世界を手に入れても、自分自身を失い、損じたら、何の得がありましょう。
(ルカ9:23-25)

するとご質問者さんの心に今死んでも悔いが無いほどの楽しいさが心のうちから湧いてきます。すると「人生如何に生きようか」という疑問はもはや湧いてはきません。毎日がハッピーになるからです。しかし現実の世界ではその後もいろいろ起こって楽しめないことも多々あります。しかし個人的なことで言えば、仕事がうまく行かない、人間関係がつらいという時でさえもこの地上を去る時が来るということが逆にまた喜ばしい感情を生み出します。生きて死を乗り越えることが出来るということは、この地上にある時間さえも楽しい時間へと変えてくれます。

回答者はプロテスタントのクリスチャンで、モルモン教、統一教会、エホバの証人とは関係ございません。お時間を見つけてお近くのプロテスタント教会に顔を出してみてください。牧師がいまして、いろいろな質問に喜んで答えてくれるはずです。
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この回答へのお礼

教会ですか。一つのきっかけになるかもしれませんね。考えたいと思います。
キリストの救済の教えは少し理解出来ませんでしたが、奉仕?の精神でということでしょうか。キリスト教は私にとっては白、清潔のイメージです。
参考にしたいと思います。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/13 16:39

 なるほど。

やる気になっていると。これは真面目に答えるべき問いなんだろうなあと思いつつ、言葉を探し続けていました。うーん。質問文を読んで、私が引っかかったのは、「生きるべき」という表現と、「勇気」ということです。生きる時に、こうあらねばならないという先入観を捨てよということは他の方が書いていて、まあ、そうだなあと思いました。特に付け加えることもないです。しかし勇気って、必要なんだ。なんで?
 ・バカにされるのが怖いから、
 ・一生懸命やって失敗するとダサいから、
 そんなところがあるのかなあ。どうやって背中を押してあげるべきかと考えましたが、なかなか、雨語りさんの人生を知らないので、わかんないんですよねえ。それで自分の話を紹介してみることにします。

 むかーし、私が習った先生の一人は、「人間はうんち製造機だ」と言っていました。人間は何にも役に立つものを生産しないし、生産したとしても、環境を破壊している可能性がある。最終的に何をしているかといえば、毎日、うんちを生産しているに過ぎない。こんな話でした。私は真面目な子供だったので、反発しました。
 でもこの年になって、自分が生涯でやるであろう仕事が見えてくると、確かにうんち製造機だなあと思います。一生懸命やったとしても、何ができるんだろうか。私のプライベートを言うわけにいきませんが、私の業種、役に立たないんですよ。食料を生み出すわけでもないし、医療でもないし。あってもなくても、どーでもいい仕事。そしてこの中で、私が最大限の仕事をしても、世界の難問の一つも解決しない。

 最初は意気込んでいただけに、これが分かった時は、脱力しますよねえ。一生懸命にできなくなってしまう。このとき何十年も前に言われた、先ほどの「うんち製造機」の意味が分かりました。まあ、そう開き直って行きていくしかない場面が到来するのだ、と。うんち製造機でいいや、まあ、でも、別のものも、ちょっとくらい生産できるかもしれないよ、くらいのスタンスが大切かな、と。
 一言でまとめると、次のようになりますか。偉大な仕事をしようと思わず、自分がやれることをやって、できなかったところは、後継に引き継いでもらう。まあ、肩の力を抜くことが大切だと思います。

 最後に一つ付け加えれば、自分の生きて行く場所を見つけ、生涯の仕事の量などを見通すことが、上の話の大前提になっています。雨語りさんは、それを見つけていますか?
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この回答へのお礼

今後もやるかどうかは未定ですが、直近では福祉の仕事をしていました。
その時に、重度の障害を持たれている方のケアに当たったのですが、自分にはそれが、勇気のいることだったのです。
私はまだ、自分の生きて行く場所を見つけられていません。きっと見つけられると思って、肩の力を抜いて歩みたいと思います。

お礼日時:2013/06/13 16:35

>人生とは、如何に生くるべきでしょうか。



他人を利用しない事。
他人に利用されない事。


そして、好きな事をやりつつも、隣人の幸せに少しでも貢献できることです。
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この回答へのお礼

簡潔ですが、深いなと思いました。謙虚な気持ちでやってみようと思います。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/13 16:31

人は誰しも、その人なりに懸命に生きていると思います。



大切なことは、自分自身から逃げないこと。
その中に、生きがいもやりがいも幸せも、すべてが入ってますから
自分の思いから逃げなければいい。

如何に生きるかは、誰しも自分自身が教えてくれるものだと思っています。


人生は、言い訳をやめて本当に選びたいものを選ぶだけで輝いていきます。
単に、言い訳をやめるだけでも随分違ってくると思います。
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この回答へのお礼

シンプルながら、実際にできることのような気がしました。
自分に素直になるということですね。勇気のでるご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/06/13 16:23

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