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歴史に無知な者でございます。

今まで、聞いたことが無かったのですが、キリスト教の宣教師が日本人を奴隷として拉致・連行し、外国に売り払っていたという話を耳にはさみました。

これは歴史上の事実ですか?  
それとも、キリスト教嫌いの人が捏造した作り話なのでしょうか?

あるいは、キリスト教宣教師と緊密な関係を築いてた南蛮商人が独自に奴隷貿易を実施しただけで、宣教師は日本人の奴隷貿易には一切関与していなかったのでしょうか?

私が学校教育を受けた時代は、アメリカ人やキリスト教徒に遠慮しなければならない時代で、第二次大戦中に国際法違反で非人道的な原爆を投下したキリスト教徒たちを糾弾することもありませんでした。そんな時代の教育でしたので、キリスト教徒や南蛮商人が日本人を奴隷として輸出していたなど、キリスト教徒に失礼になる事実は教えてもらえなかったのかもしれません。

しかし、現在はアメリカによる占領は終わり、キリスト教を特別に崇める必要もない、自由な良い時代になりました。

今の時代になったからこそ、歴史の真実を知っておきたいと思います。

戦後の検閲教科書に書かれていない歴史の事実をご存じの方から、教えていただけるとありがたいです。

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A 回答 (21件中1~10件)

16世紀の南蛮貿易というのは一般には



東南アジア交易圏に南蛮人も参加するようになった
と、ご理解ください。
南蛮人が来る前と来た後で交易の構造はそれほど大きく変わっていない。
商材として鉄砲が加わった
※ ちなみに日本にもたらされた鉄砲も西欧から持ってきたのではなく、東南アジアで製造されていたものがもたらされています。

人間を商材にすることは、世界中どこでも行われてきたことです。
この際に、人間を確保するのは現地の権力、交易の主体になるのは交易業者となります。
※ アフリカの奴隷貿易も人間確保はアフリカの現地権力です。

後期倭寇における禅僧の位置づけは、南蛮貿易におけるイエズス会士である。

ということで、他の方へのお礼の中の文章になりますが「まとめ」ということで書かれている文章に関して。

1.奴隷の調達は日本人がやっていた(奴隷狩り)。キリシタンは直接の奴隷狩りには手をださなかった。
※ 手を出さなかったのではなく、手を出せなかったと考えるのが妥当かと

2.奴隷売買は日本人の奴隷商人がやっていたことであるが、鎖国時代であったため国内売買だけで、輸出はできなかった。
※ 江戸時代に入って日本人の海外渡航禁止令がでるまでは、奴隷交易に参加していたと推測するほうが妥当かと。


3.日本人の奴隷商人から奴隷を購入したキリシタンの奴隷商人が独占的に日本人奴隷を貿易することができた。
※ この判断はできない。

4.世界各地のポルトガル人の街で日本人奴隷が観察され、レポートされているが、輸出された日本人奴隷の人数は定かでない。
※ メキシコはスペイン領ですので、ポルトガル人の街と限定する必要はないかと。
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この回答へのお礼

有難うございます。

歴史を不勉強だったので、江戸時代=鎖国時代というアバウトな認識でおりました。

年表を調べてみると
●1452年:ローマ教皇ニコラウス5世はポルトガル人に異教徒を永遠の奴隷にする許可を与えて、非キリスト教圏の侵略を正当化
・・・・・・・
●1571年:当時のポルトガル王セバスティアン1世から日本人貧民の海外売買禁止の勅令が発布されるが、奴隷貿易は根絶せず
●1587年 (天正15年):豊臣秀吉はバテレン追放令を発布して、イエズス会布教責任者であった宣教師ガスパール・コエリョに人身売買と宣教師の関わりについて詰問
●1596年 (慶長元年):長崎に着任したイエズス会司教ペドロ・マルティンスはキリシタンの代表を集めて、奴隷貿易に関係するキリシタンがいれば例外なく破門すると通達
・・・・・・・
●1603年 (慶長8年):徳川家康が征夷大将軍。江戸に幕府樹立
・・・・・・・
●1624年 (寛永元年):スペイン船の来航禁止
●1633年 (寛永10年):奉書船以外の日本船の海外渡航禁止
●1635年 (寛永12年):海外渡航と在外日本人の帰国を全面的に禁止
●1637年 (寛永14年):島原の乱
●1639年 (寛永16年):ポルトガル船の来航禁止
●1641年 (寛永18年):平戸商館を長崎出島に移す
●1659年 (万治2年):江戸城本丸造営竣工
・・・・・・・
●1833年 :イギリス領諸島で奴隷制が廃止
●1846年 :スウェーデン属領で奴隷制が廃止
●1848年 :フランス領で奴隷制が廃止
●1863年 :オランダ領で奴隷制が廃止
●1865年 :アメリカ合衆国で奴隷制が廃止
●1868年 (慶応4年):江戸城が明治政府軍に明け渡される

ということですから、江戸時代よりも150年早くキリスト教徒が全世界で奴隷貿易をしておりました。その中で、日本は開始時期が遅かった事、そして鎖国によって比較的早い時期に奴隷貿易が終了したことは幸運でした。

奴隷貿易というとどうしてもアメリカ合衆国の事と思いがちでしたが、ポルトガル、スペイン、オランダなど、カトリックもプロテスタントも両方で奴隷貿易を推進していたことがわかりました。

お礼日時:2013/06/19 20:10

本題とずれた部分で恐縮ですが、毛利氏はキリシタン大名ではありません。


むしろ当時の宣教師からキリシタンに好意的ではないと警戒されたほどです。
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この回答へのお礼

それは失礼しました。
ご先祖さまでしたら、間違えをお許しください。

Wikipediaのキリシタン大名一覧に下記三人の毛利名がありましたもので、、、、。

毛利重政 - 豊後速水郡の内で1万石。豊後守。
毛利高政 - 豊後佐伯領主。伊勢守。
毛利秀包(シマオ) - 毛利元就の子、小早川隆景の養子。筑後国久留米城主。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC% …

お礼日時:2013/06/19 23:42

要するに、



乱世であり、武士の戦いだけでなく、村対村のケンカですら、捕虜は奴隷として売買される時代、奴隷狩りが「庶民のたしなみ」「若者の通過儀礼」に近かった時代に、西洋人が日本にやってきて、それに加わった、ということです。

「悪徳商人」や「キリスト教」に責任を転嫁したがるのは、「理性的な歴史研究」ではなくて、「イデオロギーで興奮」に過ぎません。私は30代後半で「興奮」はやめました。もう、若くはなかったので。
 
どちらかというと、善悪ではなくて、「荒っぽかった」と評価すべきことなんでしょうし。
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この回答へのお礼

善悪に関する意見を聞いているのではなく、私が善悪の判断材料とする歴史的事実を質問しておるわけです。
おわかりおと思いますが、善悪は個人が判断することであって、他者に質問することではないのですよ。

色々いただいた情報を総合すると、

1.奴隷の調達は日本人がやっていた(奴隷狩り)。キリシタンは直接の奴隷狩りには手をださなかった。
2.奴隷売買は日本人の奴隷商人がやっていたことであるが、鎖国時代であったため国内売買だけで、輸出はできなかった。
3.日本人の奴隷商人から奴隷を購入したキリシタンの奴隷商人が独占的に日本人奴隷を貿易することができた。
4.世界各地のポルトガル人の街で日本人奴隷が観察され、レポートされているが、輸出された日本人奴隷の人数は定かでない。

史実としてはこんなところでしょうかね。

お礼日時:2013/06/19 11:28

http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bit …


戦国期日本の貿易担当者 : 禅僧からイエズス会士へ

こんな論文もあった。

南蛮貿易に関してはイエズス会が主導権を握った、という前提に立ち、ではその前は?ということで海洋貿易国家「宋」から話を紐解き、禅僧からイエズス会士に担当者が変わりましたと説いている。

参考URL:http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bit …
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この回答へのお礼

狸4Uさん、
毎度貴重な資料提供ありがとうございます。

当時、数少ないバイリンガルであった禅坊主が、日中交易に貢献したとうのは説得力がありますね。

しかし、禅坊主は奴隷貿易もやっていたかどうかとなると、ご紹介いただいた資料では分からない。

やはり、アフリカなど世界各地で奴隷貿易の経験を積み、ポルトガル語が堪能で、かつ「売り先」を確保できるという条件を具備しているのは、南蛮商人だけでないかな。(思うだけで史実は不明)

この辺の歴史的な資料が見つかると良いのですが、奴隷貿易という歴史の暗部ですから、歴史の勝者によって資料は抹消されているのかもしれませんね。

お礼日時:2013/06/19 11:38

>バテレン追放令が発令以降、キリシタン大名以外の一般の日本人悪徳商人は、南蛮貿易の奴隷商人と接点があったのでしょうか?


確かに示す史料はありませんが、あった可能性が高いかと。悪徳商人という表現はいかがなものかと思いますが(当時としては常識的な行為ですので)。

>もし、キリシタンでない悪徳商人が奴隷貿易をしようと試みた場合、奴隷貿易の権益を独占するべくキリシタンに宗旨替えしたキリシタン大名は、キリシタンでない日本の悪徳商人を排除しなかったのでしょうか?
キリシタン大名に限らず一地域権力が経済活動に対して制限を加え徹底させることは容易ではありません。
大友氏はイエズス会に毛利氏に硝石を輸入させないように求めましたが、その後毛利氏が硝石の入手に困ったというわけではありません。
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この回答へのお礼

客観的な歴史考察有難うございます。

キリシタン大名の目を盗んで、独自に南蛮商人と商売した日本人商人が居たのかどうかは、史実として興味がありますね。
もし居たとすれば、巨額の利益を上げて、歴史にのこる大商人になっていたのではないかと勝手な想像をします。


>その後毛利氏が硝石の入手に困ったというわけではありません。

毛利氏もキリシタン大名と聞き及ぶ故、独自に南蛮商人から硝石を購入したとして何ら不思議はござらぬ。
不可思議なのは、キリシタン大名でもない普通の日本人商人が南蛮商人と相通じて、日本人奴隷の輸出ができたのかどうかでござる。

お礼日時:2013/06/19 11:49

NO.1・6です。



日本人奴隷を南蛮人に売り渡していたのはキリシタン大名に限らないでしょう。
当時の日本において奴隷売買はごく一般的な行為です。仕入れようと思えば、どこからでも入手可能というわけです。イエズス会の活動範囲から、九州のキリシタン大名領中心ではあったと思いますが。
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この回答へのお礼

バテレン追放令が発令以降、キリシタン大名以外の一般の日本人悪徳商人は、南蛮貿易の奴隷商人と接点があったのでしょうか?

もし、キリシタンでない悪徳商人が奴隷貿易をしようと試みた場合、奴隷貿易の権益を独占するべくキリシタンに宗旨替えしたキリシタン大名は、キリシタンでない日本の悪徳商人を排除しなかったのでしょうか?

このへんになると、一般の歴史教育でカバーされない詳細事項になりますので、歴史の専門家、あるいは市井の愛好家の史実調査と史実の開示がのぞまれますね。

お礼日時:2013/06/18 00:18

>宣教師は日本人の奴隷貿易には一切関与していなかったのでしょうか?



インドのゴアやら南米やらにも、日本人奴隷はいたという記述があるので関与はしていたでしょう。
ただし、わざわざポルトガル船だけで奴隷貿易が行われたとは考えれず、当時の倭寇(明の海賊)によっても行われていたと見るのが妥当ではないでしょうか。

東洋人は希少性があるので連れて行かれのでしょうかね。
信長に黒人奴隷が献上されたように、西洋では東洋美女が珍重されたでしょうしね。
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この回答へのお礼

有難うございます。

倭寇が極悪非道であったことは既知のことですから、いまらさ驚きません。

「キリシタンは善人であった」かのごとき誤認識があったので、この点に関してはしっかりと歴史認識を修正しなくてはならんと思っております。

また、後進の日本人が誤った歴史認識を繰り返さない為に何をしなくてはならないかを思案するこの頃です。

お礼日時:2013/06/18 00:15

http://en.wikipedia.org/wiki/Catholic_Church_and …

英文とフランス文しかないらしい内容。

一貫した位置はなかったが、1965年に公会議で奴隷制が否定された。

http://www8.georgetown.edu/departments/americans …
イエズス会の奴隷保有をしていたプランテーションの研究


http://en.wikipedia.org/wiki/Slavery_in_Portugal

Until the mid-17th century, during the early Portuguese mandate of Macau, some 5,000 slaves lived in the territory, in addition to 2,000 Portuguese and an ever-growing number of Chinese, which in 1664 reached 20,000.[19] [20] This number decreased in the following decades to between 1000 and 2000.[21] Most of the slaves were of African origin, although they also included people from all around Asia, namely Chinese, Japanese, Malay, Indonesian and Indian people, mostly women with which the Portuguese often married.

以上引用

イエズス会が奴隷貿易の主体者であったかどうかは不明だが、奴隷保有に関して16世紀ないし17世紀において完全に否定していたわけではない。
イエズス会の場合、17世紀から18世紀の典礼論争に如実に出るように、『郷に入りては郷に従え』的な布教活動をしております。
http://en.wikipedia.org/wiki/Chinese_Rites_contr …

東アジア貿易圏における奴隷貿易(カソリック教国の行なっている)にワザワザ異議を唱えるとは思えない。
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この回答へのお礼

狸さん、いつも貴重な情報源をありがとうございます。

共に理科系の教育を受けて、技術者の人生を歩んようですが、今は理科系の人間が不勉強だった歴史や社会の仕組みなどに興味を持つようになりました。

興味を持ってみると、理科系の分野以上に、文系の分野は出鱈目がまかり通っているような気がします。

今後とも、よろしくご指導ください。

お礼日時:2013/06/18 00:11

>中国人や朝鮮人は儲からないことをするのですか?


中国や朝鮮と、ポルトガルやオランダでは、距離が全く異なりますし、扱う物資も物資の量も異なります。
日本からヨーロッパに行くのに、1年以上かかります。
これは、海流や風向の関係からです。
当時は、帆船でしたので、季節風を利用しての航海だからです。
1年間の食費を考えてみてください。
物資は、食費を必要としません。

奴隷・人身売買を行っていたのは、倭寇と呼ばれる日本人・中国人・朝鮮人の集団です。
私は、「奴隷を売り買いしていたのは、日本人や中国人、朝鮮人などです。」と書いていますが、なぜか質問者は、奴隷を売り買いしていた人の中から日本人を除いて、あたかも日本人が関与していないように書いていますが、これは意図的なのでしょうか?

スペインが奴隷を必要としたのは、西インド諸島やパナマ地域でした。
この地域では、原住民が過酷な労働と天然痘などの疫病により絶滅してしまったためです。
そのため、アフリカなどから、大量の労働力として、黒人奴隷がつれてこられます。

ポメトガルが奴隷を必要とするのは、スペインよりも後、17世紀くらいに入ってからです。
原住民の少ないブラジル北部でプランテーションが行われるようになってからです。

しかしスペインにしても、ポルトガルにしても、奴隷制の経済効率の悪さから、奴隷は、次々と解放されてゆき、実質的な奴隷制は、すぐに崩壊することになります。

>多くの日本人奴隷が広くポルトガル人のいる地域に売り払われていた
これは、どこの事なのですか?
日本近郊で、ポルトガル人のいる地域としては。マカオやマラッカがありますが、それは都市部のごく狭い地域にしかポルトガル人はおらず、奴隷を必要とする状況にはありませんでした。
そもそもポルトガルの人口は、100万人程度で、国外に出せる国民も極めて少ないのが実情でした。
交易のみに従事し、現地での生産を行わないポルトガルが、大量の奴隷を必要とすることはありませんでした。
マカオやマラッカ付近までは、倭寇の活動範囲でしたから、それらの人達による人身売買による人達がいても不思議ではありません。

>イエズス会宣教師の悪行はあったと思いますが
さのような証拠は存在しません。
むしろイエズス会は、奴隷貿易に否定的で、原住民保護志向でした。
全く無かったとは言いませんが、少なくとも、組織としてのイエズス会にはありえませんでした。

質問者は、自分勝手な思い込みが、真実だと勘違いする事態に落ち込んでいるのです。
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この回答へのお礼

有難うございます。

>多くの日本人奴隷が広くポルトガル人のいる地域に売り払われていた。これは、どこの事なのですか?

インドのゴアです。それ以外にも、名称を忘れましたが南米街でポルトガル人やスペイン人の街ですね。
でも、ゴアは欧州よりも近いですから、きっと、日本人と中国人と朝鮮人が日本人奴隷を輸送したのでしょうね。
日本人と中国人と朝鮮人にはそれほどの航海術が無かった時代だと「勝手に思い込んで」いました。
あの時代に日本人や中国人や朝鮮人がそれほどの船と航海術を持っていたなんて、目から鱗です。


イエズス会は素晴らしいですね!!


「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」

勿論イエズス会の許可なく奴隷貿易をしたに決まってますよね。

お礼日時:2013/06/17 12:07

また追加しますが


私も人身売買が行われていなかったとは認識していません。
ヨーロッパ人にとって奴隷というのはごく普通の商品だったでしょうから
日本人の奴隷がいても不思議ではありません。
ただ、アフリカのように多くはなかったものと思っていました。

それと、そんなに意図的に隠され続けてきたことなんでしょうか?
ジャガタラへ遊女として売られた女たちが帰国の願いを切々と書き綴った
ジャガタラ文など割と有名ではありませんか?
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この回答へのお礼

三度にわたり、有難うございます。

>そんなに意図的に隠され続けてきたことなんでしょうか?

キリシタンがアフリカだけでなく、日本人奴隷貿易もやっていた事は、特別隠されていた事では無いのかもしれません。
中学校や高校で歴史を教えてくれた先生方などにとっては常識だったのでしょう。

しかし、歴史に不勉強な私個人は、アメリカ人とキリシタンは、閉鎖的な日本社会になにか「新しい物」「良い物」をもたらした人達で、日本人は彼らに感謝し、彼らを尊敬しなければならない、という先入観を持っていました。(昔の話です)

それが事実に基づく歴史認識だったのどうか、今後、少しずつ史実を勉強したいと思っております。

お礼日時:2013/06/17 12:14

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 キリスト教布教当初から信仰が拡大するにつれ、キリシタン大名領では神社仏閣の破棄が行われました。そのことから民衆側からもキリスト教を邪教視する風潮がありました。同時に寺社の破棄は、日本の伝統的倫理観の破壊と恐れられたのでしょう。

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参考
『国史大事典』(吉川弘文館)

 ただし、禁制も太平の世が長く続くことで形骸化していき、当初はキリシタン監視の意味でもうけられた寺請制度も、寺院側からすれば「檀家としての勤めを果たしていれば、裏でキリスト教を信仰していても黙認する」という事実もありました。領主も「良き領民としての勤め」を果たす限りは信仰も黙認状態でもありました。キリシタンであると暴露しても、領主の監督不行届と罰せられる危険性があったからです。
 現在でも「カクレキリシタン」の家では、寺院の檀家であり、神社の氏子であり、家には仏壇・神棚が祀られて、同時にカクレキリシタンである。その信仰体系は仏教・神道・民間信仰とキリスト教が混在した、いわゆるカトリック・プロテスタントとは異なる信仰形態ですが、キリスト教公認以後も、カトリック・プロテスタントに改宗せず、先祖が守ってきた信仰として「カクレキリシタン」として守り続ける家があります。

資料
『オラショ―魂の通奏低音 カクレキリシタン』(宮崎賢太郎・長崎新聞社)
http://www.nagasaki-np.co.jp/jigyoubu/book/kakure_book.html

『カクレキリシタンの信仰世界』(宮崎賢太郎・東京大学出版会)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4130104020/250-7207972-6663457

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質問者の方は、「ヨーロッパ諸国は、キリスト教の布教の後に軍隊を送り、植民地にした」と言われていますが、宣教師などを送り込んだのは、カトリック諸国(スペイン、ポルトガル)であって、ブロテスタント諸国は行っておりません。

これは、当時のカトリックとプロテスタントとの宗教のおかれた状況の違いです。

当時のユーロッパでは、宗教改革の真っ只中で、カトリックは、ヨーロッパにおいて、その勢力を大幅に失いました。
それに対し、カトリック側は、イエズス会を中心として、反宗教改革を行います。
その一巻が、海外への布教活動でした。

ポルトガルの場合、まず交易船が現地に行き、現地の確認をすると、イエズス会の宣教師が向かいます。
その場所が、ポルトガルにとって有益な地と判断された場合、そこに拠点を造ります。
この場合、武力によるか、平和的に行うかは、相手しだいです。
ポルトガルの場合は、人口も100万人程度と少ないため、むやみに植民地を拡大せず、あくまで拠点支配にとどまります。
イントではゴア、中国ではマカオ、アフリカのモザンビークなど。

スペインの場合、コンキスタドールなどが、自分たちで勝手に金銀を奪い取るため軍隊を送り、その地を征服してしまいます。
スペイン王室は、その内の一定割合を王室に収める事を条件に、侵略を容認します。
そのため、スペインの植民地は、鉱産資源の豊かな場所がほとんどで、鉱産資源の無い場所や、交易に利点となる場所で無い限り、積極的に殖民を行っていません。
フィリピンの場合、フィリピンは、当時スペインの植民地だったメキシコの植民地で、中国とメキシコの航路確保のために占領しました。
スペイン軍にしても、軍勢は、コンキスタドールの私兵ですから、数百人が限度で、相手がチョットした勢力であれば、占領は不可能でした。

スペインが滅ぼした大きな勢力として、アスティカとインカがありますが、アスティカの場合、スペイン軍というよりも、反アスティカ部族(トルティカ族など)をスペイン軍が結集させ、アスティカを包囲し攻略しています。

インカにしても、当時インカ帝国では、アタワルパとルスカルが、皇位をめぐって戦争中で、ピサロとアタワルパが結び、ルスカルを倒して、インカ帝国に取り入ります。
その後アタワルパを捉え、インカを乗っ取ります。
インカでは、皇帝に権力が集中していたため、皇帝の名代として命令するピサロに反抗できず、のっとられてしまいます。

スペインにしろポルトガルにしろ、まともな国家を占領するだけの力は、当時ありませんでした。
それらを行うのは、イギリス・フランス、オランダといった諸国で、これら諸国は、キリスト教の布教には熱心ではなかったため、質問者のご質問のような事き有りませんでした。
(フランスの場合、カトリックが優位にたっているため、イエズス会などの布教が有りますが、これは占領されてからの話しです。

質問者の方は、「ヨーロッパ諸国は、キリスト教の布教の後に軍隊を送り、植民地にした」と言われていますが、宣教師などを送り込んだのは、カトリック諸国(スペイン、ポルトガル)であって、ブロテスタント諸国は行っておりません。

これは、当時のカトリックとプロテスタントとの宗教のおかれた状況の違いです。

当時のユーロッパでは、宗教改革の真っ只中で、カトリックは、ヨーロッパにおいて、その勢力を大幅に失いました。
それに対し、カトリック側は、イエズス会を中心として、反宗教改革を行いま...続きを読む

Q日本の歴史に奴隷制はあったのですか?

NHKの番組で大阪城夏の陣で
勝利した徳川軍の下級武士たちが
大阪の民衆を1000人連れ去り
奴隷としたとありました。

その中には、3歳の子供もいたそうです。
この子供をなんの役につかせるのかも疑問ですし?

日本の長い歴史の中で奴隷があったとは
知りませんでした(海外と違い民度の高い日本人には、
ないと思っていました)

過去に日本の歴史で奴隷の「制度」は
あったのでしょうか?

Aベストアンサー

確か、魏志倭人伝に「生口?十」と言う日本からの貢ぎ物があり、
生口とは奴隷のことであるからその頃からあったのでは。
 日本では戦闘員(武士)を殺しても、民衆を殺しません。
殊に戦国時代以降は戦闘員と生産員の区別がついていました。
生産員を殺しては、戦闘員は生きて行けません。
3才の子とはいえ、7年養えば十分な労働力となりますし、その母も、子を産む能力を実証した価値ある人です。家康の「子持ち好み」と言うのもこのへんから来ています。
なお、明治以前は「帳はずれ」(戸籍にのっていない)と言う人も多くいましたが、「納税義務がない」と言うことの様です。気楽だったようです。
 奴隷からぬける道も多々あり、これも民度の高い日本ならでは。

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Qなぜ日本は植民地にされなかったのですか?

19世紀、他のアジア諸国は欧米列強の植民地にされたのに
なぜ日本は植民地にされなかったのですか?
日本の教育水準が高かったからですか?
それとも単に運がよかったからですか?

Aベストアンサー

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。今もそう呼ばれてます。伊豆代官江川が引き継いで、青銅砲でない鋼鉄砲をつくる高熱の製鉄炉(反射炉)をつくろうとしたり(大砲、兵学などはなんとかヨーロッパの技術においつこうというカンジ)、日本人は形式・格式でガチガチのバカな武士社会の中でも一部の有能な、志ある人たちに助けられてなんとか西洋とわたりあえる学術・軍事・文化・行政制度をもっていたのです。
(ほとんどの藩はド貧乏、借金まみれ。一部の外様大名とかだけです。意識あったのは)

ペリーが来航した時も(一年前くるっていったのに来ないと思って内緒にしちゃったバカな幕府上層部のせいで大慌てしたが)、一年後返事をもらいにくる、といったあと年明け10ヶ月にきた時には、無防備だった江戸湾に砲台島を築かせて防衛体制つくった(江川が指揮)
これが砲台場、今の「お台場」です。
これにはペリーも驚いた。
あと吉田松陰みたいに単身(2人だったけど)黒船に乗り込んで
「我アメリカに行かんと欲す」と叫びまくって返ってきた若者とか。
こんな人他のアジアの国にはいなかった。

日本は天文、数学、測量でもヨーロッパの文献研究したり、和算でも微分積分できたらしい。水準高かったンですよ。富豪商人は学問する人たちが多いとか、そういうこともあったらしいし、町民文化も小説、演劇、レベル高かったです。

アメリカと国土交渉する際もペリーが小笠原はアメリカ人住んでる、国際的に通じる文書で証明しない限りアメリカ国土だ、といった時、フランス語版・林子平著三国通覧図説をだして、出版年からも日本領土だと証明。
松平定信が迫害した林子平の著作が、大黒屋光太夫一行のうちロシア日本語学校教師にのこった一人とドイツ人言語学者の手で訳されて、小笠原諸島をまもったわけですね^^

ま、そんなこんなで、日本は他のアジアの国より運がよかった。
・一応、統一国家でまとまってた。いくつか勢力が争ってるとかじゃなかった
・文化水準がヨーロッパと同程度だった(これは不思議なものである)
・一部の蘭学者のおかげで、外国の情勢なども在る程度はつかんでいた?!ジョン万次郎がいたといなかったじゃ、また違ったろうなぁ
江川さんがいなかったら大変だったと思うよ
・穏健バランス派の阿部が老中(筆頭?)だったのもよかった。水野忠邦だったらボロボロだったんじゃないかなぁ
最後は大分大胆に物事運んだけど。
・武士階級、常時帯刀武装してる階級が行政してる、というのはなかなかすごいかも^^
・シーボルトが日本の文化レベルを紹介する書物を発表してくれていた
(ペリーもちゃんと読んでた)→日本は交渉するレベルの国だと思ってもらえた。おそらく礼砲をちゃんと返せる国なんてアジアで日本ぐらいだったでしょう。

兵力でいえば、この前NHKでもやってましたが薩摩とイギリスの争い、中国のイギリス艦隊きた時は薩摩ボロ負けですよ。海戦は特に。
最初、不平等条約だったのもしゃーない。
しかし、交渉のテーブルがある、というのは在る程度、相手を認めてのことだし、全面開戦しなかった、というのはお互いのメリット、リスクも含めて必然だったのかも。
まぁ頑張りましたね、当時の日本^^

日本は鎖国していたとはいえ、オランダを通じて最新の科学、軍事技術もわづかに取り入れていました。
アヘン戦争の時、中国側の大砲は1600年代のヨーロッパ製だったという…
江戸幕府も同じなのですが。
ところが長崎に高島しゅうはん、という人が役人でいて、脇荷貿易の権限もっていて新式大砲を研究していました。それは出島にくるオランダ船が礼砲を撃つと威力、性能が進化しているのをしっていて、です。
幕府も国防上、江戸へ呼んで演習。一日でその平地は「高島平」(たかしまだいら)になりました。...続きを読む


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