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先祖の調査をしようと本家に行きました。
お墓と位牌を見てきましたが、わからない事だらけです。

以下の調査結果から農民だっと思うのですが、どんな暮し(身分の)農民だったのでしょうか。

1.位牌は沢山出てきましたが、一番古いのは寛文三年 戒名は 禅定門と禅定尼
2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。
3.墓で一番古いのは(判明できるのは)正徳です。
4.場所は栃木県です。
5.菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました。

まったくの素人なのである程度詳しい方の意見や実際に調べている方の意見など頂けると幸いです。

上記と直接関係があるかわかりませんが、以下についても記します。

5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。しかし状態が悪く、ほとんど書いてあることが読めない。

6.上記位牌は菩提寺の住職が読める範囲で書き直したらしい。

7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。

8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?

よろしくお願いします。

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A 回答 (7件)

こんにちは。


私は、自称「歴史作家」です。

中々の銘家と推察いたします。

>>2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。

「禅定門」「禅定尼」は基本的には、禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)寺院での戒名と考えて良いかと思います。
もし、現在禅宗寺院を菩提寺としていない場合は、先祖の誰かが改宗したものと考えます。

また、武士階級や商人でも藩に関わる仕事をしていた方に「禅定門」「禅定尼」の戒名が付けられることが多く見受けられます。

従って、昔、城があった・・・と言うことですので、武士・・・それも徴兵された百姓などのように「にわか武士」ではなく、城主に仕える身分だったのかもしれません。
ただ、蔵があった・・・と言うことから考えると、城への出入りを許された商人のような気もします。こちらの方が強いかな?


>>4.場所は栃木県です。
>>5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。

栃木県には足利氏の荘園が幾つも存在し、貞和四年(1348)と言うことは、足利尊氏が征夷大将軍を務めていた時代ですから、栃木県は足利氏の影響力が非常に強かった時代です。
その頃、あなたのご先祖さまは足利氏に直接、または、その家臣たちに取り立てられて、次第に大商人となり、活躍していた可能性が考えられます。

>>7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。

これには2つの考え方ができます。

1.大商人であったから、他人にみせびらかすような派手な行為を慎むと同時に「節約を旨とすべし」のような家訓があった。

2.何かの失態があって、他人(ひと)さまに顔向けができない。そこで、全ての行事は内々に内輪だけで執り行うようになった。

>>8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?

昔は、現代のように「恋愛結婚」などは、特に、大商人や地主、武士などもそうですが、絶対的にありませんでした。
全て、親が、相手の家格や財力などを基に嫁などは決めていましたので、あなたのご先祖さまも大商人で、当然、それに見合った嫁選びをしたことと思います。
従って、長持ちの中には代々のお嫁さんが実家で用意してくれた衣装などが入っていたと考えられます。

また、他の位牌については、なぜ蔵にあったのか疑問ですが、或いは、母屋も焼失してしまったのかも含めて、貞和四年(1348)から、いきなり、寛文三年(1663)まで、約300年間が飛んでしまっていますので、その間の位牌ではないかと考えます。

総合的に判断すると、城へ出入りを許された「大商人」の家系のように思われます。

余談になりますが、
私の実家は本家は古くは、やはり、平安時代にまで遡ることができますが、江戸時代の宝暦年間(1751~)に、佐渡奉行所が財政難になった時、当時、庄屋であった夘兵衛という者が近隣の庄屋四人に声をかけて資金集めをし、佐渡奉行所へ300両(約3,000~4,500万円)を寄付したことから、佐渡奉行より「○○家を名乗るように」と姓を授かりました。
そして、その夘兵衛の四男が分家をし「△△家」」を起こしたのが私の家です。
ただし、あくまでも農家でした。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

商人ですか。意外な回答でした。ずっと農民だと思っていたので。

戒名:
謎です。お寺は真言宗なので、改宗したのかもしれません。

蔵:
商人説がやや有力かもしれません。
祖母に連絡したところ、祖母の祖父の代(おそらく江戸後期から明治初期)に蔵があり、燃えてしまったようです。
また祖母の母の実家は商人で家に奉公人がいたそうです。子供女学校に行っていたり、祖母の母の父は趣味で鉄砲狩りをしていたそうです。その祖母の母と父(本件の家系)が婚姻したのですから、同じくらいの家柄だったのだと想像できます。

お礼日時:2013/06/22 14:48

近所の日本史家にきいたらどうかとおもいますが。



蔵については、燃えないのが蔵ですので、おっしゃることの意味がよくわかりません。

納屋のことでしょうか。

お寺の立地についていえば、城のあとにはあまりたてないかと思いますが、住所

がどこの何というお寺ですか。

いずれにせよ、本家にいったのなら、本家のひとにきくのが一番では?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

残念ながら蔵が燃えたのを誰も見ていません。ただ、蔵は燃え難いだけで、燃えないものではないと思います。土と木でできているものですから。

寺名は伏せておきますが、間違いなく元城です。市の史跡に認定せれてて、土塁なども残っております。

お礼日時:2013/06/23 23:08

こんにちは。


相当古くから続いている御家のようですね。

戒名と仰っている「禅定門」(男性)「禅定尼」(女性)は戒名ではありません。

浄土真宗や禅宗の信者が没した時につける戒名の前の記号とも言うべきものです。

例えばお寺で戒名を付けて頂く時、現在の浄土真宗では「釈****」女性の場合は「釈尼****」とつけますね。

御布施が多いと「院号」(**院***居士と云う風に)を付けて頂けますよね。

これらの「釈、釈尼」や「**院」に当たるものが「前定門、前定尼」(ぜんじょうもん、ぜんじょうに)です。

又、戒名の前に付ける禅定門、禅定尼は熱心な仏門帰依者(浄土真宗或いは禅宗)である事が多いようですね。

従ってその後に戒名が書かれているはずなのですが、消えているのか、或いは全く書かれていなかったのか、或いは前もって用意されていた位牌なのかは判りませんが、字が書かれた痕跡すら無いのであれば逝去された人のものでは無く前もって用意されていた位牌であろうかと思います。

質問でお書きになった・・・7.古い掟では、正月飾りをしてはなら・・・から独断と偏見で推測しますと古い御家柄の落ち武者の家系で表立った目立った行為を避けたのを戒めとして一族の家訓になさったか、或いは鎌倉時代に親鸞によって始められた浄土真宗(当時は異端とされたことがあります)に帰依されたので、表向きその事が判ると色々な差し障りが出るのでそう云う戒めを伝えられたのかもしれません。

武士は元々農民ですから、鍬を刀や槍に持ち替えて戦うと云うこともあったのですから一概に農民の・・・と云う訳でもないと思います。

古いご一族のお墓があるのでしょうからそのお墓の何処か、有るいはいずれかの墓石に家紋が彫られていないでしょうか?

若し家紋でなく「梵字」であり傘を冠ったような石塔などの墓石であれば間違いなく武家の一族で、事情があって表立った暮らしをしてはならない(例えば幕府に楯突いていたなどの)とされたのだと思います。

土地を支配した様な豪農であれば墓石は普通でしょうが、そうでない農民なら墓石などは無く目印の石を置くだけですね。

又、昭和30年頃までは地方へ行くと普通に見られたのは家を囲む垣内(かいと:石などで敷地を囲む)に井戸、代々のお墓(無論土葬ですが、武家以外では墓石は珍しく、普通は握り拳大の石を沢山積み上げる形)が一緒に並んでいる光景でした。

菩提寺が落城の後に立てられたとお書きになっているのでまず間違いなく武家の出自でしょう。

家紋から出自を結構見つけられます。

又、空襲に会っていない土地ならば、役所で父方の祖父、曽祖父の除籍謄本を見ることによって慶応位まで遡れます。(祖父の名前欄の脇にその父母の名前が書かれていますから3代前の方の名前も判りますよ)

私事で恐縮ですが10年ほど前ネット友達に頼まれ、その方が住んでおられた九州の某都市に一軒しかない苗字だったのを家紋から遡り(珍しい苗字でしたが)福島県に同姓を十数軒見つけ、其処へ会いに行かれてなんとその村の菩提寺にあった古文書から5代前に出て行かれたと言う先祖が判り、泣いて喜ばれたこともあります。(一門同じ家紋でした)

一度身近なところから手を御付けになればと思います。

又、過去を調べるのにお寺に目を向けがちですが、お住みになっている地区に鎮守社があれば意外に古文書が残っている事もあるものです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

大変詳しい説明、ありがとうございます。
お墓といっても1mぐらいの高さで、石を長方形に削ったものです。ハの字型の屋根はついていますが、表はまったく読めません。風化したのかと当初思っていましたが、削ったようにも思えます。なので梵字や家紋は分かりません。

宗教にとても詳しいお方ですね。
大変勉強になりました。

新たな情報も得ましたが、新たな謎も出てきました。
やはり現地調査が必要ですね。

お礼日時:2013/06/23 23:04

法務局に行って、本家のある地域(村)の旧土地台帳を確認しましょう。


地租改正後の土地の台帳です。土地の値段、地租、面積、そして所有者がわかります。
そこから明治初期のご先祖様の名前を片っ端から見つけていくのです。
明治期に突然急成長を遂げた家でなければ、多くの場合江戸時代から継続して所有している土地を示します。
他の家と所有地を比較すれば、どの程度の家であったかは判明します。
法務局にある(役場・公民館にもある場合あり)、和紙の公図を撮影、印刷してその上に落としていくと面白い傾向をすることができるかも知れません。

あとは、検地帳や宗門人別改帳が役場などに保管されていないか調べてみては如何でしょう?あれば江戸期の身分が判明したりします。ただ取り扱いには十分ご注意を。

貞和四年だけ異常に古いですね。何が書かれていたのか気になるところです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
法務局に、検地帳、宗門人別改帳と調べる事満載ですね。
時間がかかりますが、じっくり調べてみます。

お礼日時:2013/06/22 15:11

質問者さんにお伺いしたいのですが



===

(1)「昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか?」
というのは、どのような情報なのでしょうか?何か証拠は残っているのですか?
仮に本当であれば、「蔵を持っていた」ということだけで、「裕福な家だった」という根拠になるでしょう。

===

(2) 質問者さんのご本家のお墓は菩提寺の墓地にあるのでしょうが、どこにあるのか、で、暮らしぶりがある程度推定できます。菩提寺の墓地の中には、「お寺の歴代住職・その家族の墓」があります。檀家としての格は「お寺の歴代住職・その家族の墓との距離」が近いほど高いと考えるべきのようです。

===

(3) 質問者さんのお身内で、記憶がはっきりしている最年長の方は何歳くらいですか?そういう方は、
「戦争の前に、質問者さんのご先祖が、何を職業として、どこに住んで、どんな生活をしていたか」
を知っているでしょう。質問者さんのご先祖が武士であった場合を除き、江戸時代に裕福な暮らしをしていた家は、昭和戦前期まで同程度の暮らしを保っていた例が多いようです。

仮に質問者さんの先祖が武士であったとすれば、どの武士も明治維新によって家禄を失った=失業したことに違いはなく、スムーズに「官吏」「教師」などに移行できた人を除き、江戸時代より貧しくなっていることが多いです。

ただし、「武士の子孫の家には、『ウチは金沢前田家に仕える武士だった』といった情報が伝わっており、大筋では正しいことが多い」と言いますので、「質問者さんのご先祖が武士だったという言い伝えが存在しないなら、平民だったのでしょう」

===

さて、他の情報は、質問者さんのご先祖の「暮らしぶり」について知る手がかりとしてはさほど役に立たないと思います。

「菩提寺はもともと城で、戦国時代後期に落城。その後死者を弔うために建立されました」

これは、質問者さんのご先祖の暮らし向きとは関係なさそうです。

「位牌はたくさん出てきた」「上記位牌は菩提寺の住職が読める範囲で書き直したらしい」

現在見ることができる位牌は、菩提寺の「今のご住職」が書き直したもの、ということでしょうか?私の知る範囲で、位牌というのは保存状態が悪くない限り何百年経っても読めるので、何で書き直しが必要だったのか良く分かりません。位牌が、ご本家の仏壇の中にたくさん入っていて、蝋燭のススで真っ黒になっていたとかでしょうか?

また、「たくさん存在する位牌が、質問者さんのご先祖のものである」というのは確かなのでしょうか?
位牌はどこにあったのでしょう?菩提寺の位牌堂ですか?ご本家の仏壇の中ですか?

「たくさん存在する位牌」が、質問者さんのご先祖のものであるのが確かであり、位牌が1600年代半ばの寛文まで遡れ、お墓が1700年代はじめの正徳まで遡れるのでしたら、「貧乏ではなかった」とは言えるでしょうね。平民であっても、そこまで先祖を遡れる家というのは、他の方も言っておられますが「きちんとした生活基盤を有しているために、家系を続けることができた家」と判断する材料になります。

ただ、その場合は、先述したように、少なくとも
「昭和の戦前期に、質問者さんのご先祖が、何を職業にして、どこに住んで、どんな生活をしていたか」
が伝わっていないと変です。

また、栃木県にご本家があり、少なくとも菩提寺は戦災を受けていないようですね。戦災で財産を焼失したのでなければ、「位牌」以外にも様々な古いものが残っているのではないでしょうか?
「系図」はあてになりませんが、江戸~明治・大正・昭和戦前期に裕福な暮らしをしていたのなら、古いものがいろいろ残っているはずです。
残っていないのなら「裕福な暮らしとは言えなかった」という傍証になるでしょう。

「戒名は 禅定門と禅定尼」

これについては、仏教に詳しい方がフォローして下さると有り難いのですが、「戒名から何かを判断出来る」というほどの情報ではないように思えます。

「実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。しかし状態が悪く、ほとんど書いてあることが読めない」

『ほとんど書いてあることが読めない』位牌と、質問者さんのご先祖の関係はどのようにして分かるのでしょう?書いてあることが読めないのなら、その位牌は
「辛うじて、南北朝時代の年号が読める、正体不明の位牌」
以上でも以下でもなさそうです。

この回答への補足

補足させて頂きます。

1.蔵
蔵はあったそうですが、祖母の祖父の代に火事で燃えたそうです。今はその残りが別の蔵にあります。
2.墓
今回の墓は残念ながら自宅の敷地にあります。それ以前は調べてみないとわかりません。
3.近年の暮らし
武士ではないと思います。質問時に書いた通り農民だと思っていました。年長者が私の祖母になり、年は90近くになります。祖母以外にも兄弟が沢山いるので、聞いてみたところ、詳しい職業を誰も知りませんでした。ただ、祖母の祖父の代に投資に失敗し、暮らし向きが悪くなったようです。また祖母の祖父の代(おそらく江戸後期から明治初期)に蔵があり、燃えてしまったようです。
また祖母の母の実家は商人で家に奉公人がいたそうです。子供は女学校に行っていたり、祖母の母の父は趣味で鉄砲狩りをしていたそうです。その祖母の母と父(本件の家系)が婚姻したのですから、同じくらいの家柄だったのではと思います。
4.その他
先祖代々同じ土地に住んでいます。また位牌は間違いなく当家のものです。別の人が調べたときに過去帳を見たようです。
位牌を書き直したのは今の住職なのか不明です。書き直した理由は読めなくなってきたので、読めるうちに書き直したそうです。読めなかった位牌は書き写せず、まとめて1とつの位牌にしたようです。一番古い貞和の位牌だけはなぜか残していたようです。

補足日時:2013/06/22 15:10
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どんな暮し(身分の)農民



いい暮らし、あるいは上層農民とか


17世紀の人口バブル(100年で二倍)以外の時代は、子孫を残すのは大変なことでした。

上層=子孫を拡大できる
中層=現状維持、ただし飢饉などの時には破綻の可能性が高い
下層=現状維持が難しい、飢饉などの時には破綻しやすい

経済要因のない 日本人の名字の統計解析(全員が中層というような仮定)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110003502725

1世代で6300種類の名字が消滅しているそうです、このように、名字の多様性が減少することを、逆の言い方をすると
みんなの先祖はほぼ一緒

であり、子孫を残すことに関して経済要因の強かった近世以前においては、先祖はみんな上層農民であったと推測されます。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
子孫はかなり拡大したようです。
本家を含め分家が4家あり、〇〇5家と地域では呼ばれていたようです。

 

お礼日時:2013/06/22 14:20

禅定門と禅定尼は、禅宗の者が使用する戒名ですな。


あとは、貞和四年が1348年、寛文三年が1663年、正徳年間は1711-1715年ですな。

質問者の言う分野は郷土史になります。一般人は学校レベルの政治史しか習っていないので、まず分からないでしょう。しかし、地元スペシャルの史料があるかもしれませんので、
閉架のある図書館へ行きましょう。それがもっとも無難な選択肢だと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

図書館ですか。思いつきませんでした。

地元の図書館に行って調べてみます。

お礼日時:2013/06/22 14:18

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ご誠実なお礼ありがとうございます。
私にも状況が分かって参りました。
善良なご質問だと感心しています。

質問文の農地が武家の物だったというご認識に異議を唱える回答が集まってしまったと思います。兵農分離されていますから武家の物というにはそこら辺からになりますよね。公地公民制まで行かずに江戸時代ぐらいからという観点が現実的でしょう。ややこしくする原因は明治以降の近代化が王政復古的だからですよね。
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また衣服に紋章を付ける用い方は、日本独自のもので、他の国には見られないようです。
家紋には、自然物からの描写である雲・波・草花、扇面・亀甲や文字を意匠化したものまであり、現在では5000種類、一説によれば2万種類もあるといわれています。
家紋をつける風習は、平安時代の中頃、公家が自分の牛車や調度品に本人や家の好みの文様を付けたことから始まったといわれています。実際着物に家紋を付け出したのは、足利時代以後のようです。その頃の紋は男性のもので、女性が紋を付けるようになったのは、江戸時代中頃になってからのことのようです。そのころから「女紋」が作られ、男性の紋と区別するようになりました。
身分に関係なく、どの家でも自家の紋を持つようになるのは明治になって、一般庶民にも苗字が許されるようになってからのことです。
ただ、それ以前でも苗字帯刀を許された一部の豪農は武家を真似て家紋を使用していたようです。また商人は、所謂「屋号」としての紋章は使用されていました。

日本における紋章は、苗字と共に受け継がれた「家」との関係を表わすもので、称して「家紋」と呼んでいます。
また衣服に紋章を付ける用い方は、日本独自のもので、他の国には見られないようです。
家紋には、自然物からの描写である雲・波・草花、扇面・亀甲や文字を意匠化したものまであり、現在では5000種類、一説によれば2万種類もあるといわれています。
家紋をつける風習は、平安時代の中頃、公家が自分の牛車や調度品に本人や家の好みの文様を付けたことから始まったといわれています。実際着物に家紋を...続きを読む

Q江戸時代の戸籍謄本を入手する方法は?

私の家の家系図を作成する計画です。その為の参考資料として戸籍謄本を利用したいと思います。

私を起点として、私の祖先(配偶者含む)の名前と生年月日、没年月日、結婚又は離婚の年月、養子縁組の年月、祖先の親の氏名などを世代を遡って把握します。また父母、祖父母、曽祖父母に関する事項だけでなく、彼らの兄弟姉妹に関する情報も必要になります。そこで質問です。

質問(1)今の役所で保存されている戸籍の原本では、祖先の系譜をどの頃まで遡ることができるのでしょうか。明治の初めまででしょうか。

質問(2)(この質問の方が重要ですが)仮に遡る限界が明治初期の場合、それ以前、つまり幕藩体制時代の戸籍についての記録は、どこで保存されているのでしょうか。(ちなみに私の祖先は愛知県知多郡におりましたので、「尾張藩」です。)菩提寺の過去帳では戒名は分かりますが俗名が分からないのです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

質問の答が分からなくても、質問の答を見つける方法をご存知でしたら教えて下さい。(どの役所に聞いてみる、とか、どこの歴史資料館で捜す、とか、ホームページとか。)

私の家の家系図を作成する計画です。その為の参考資料として戸籍謄本を利用したいと思います。

私を起点として、私の祖先(配偶者含む)の名前と生年月日、没年月日、結婚又は離婚の年月、養子縁組の年月、祖先の親の氏名などを世代を遡って把握します。また父母、祖父母、曽祖父母に関する事項だけでなく、彼らの兄弟姉妹に関する情報も必要になります。そこで質問です。

質問(1)今の役所で保存されている戸籍の原本では、祖先の系譜をどの頃まで遡ることができるのでしょうか。明治の初めまででしょうか。...続きを読む

Aベストアンサー

ご自身が含まれる戸籍は自由に入手は可能ですが、いくら親兄弟であっても戸籍が別となっていれば、正当な理由や権利が無ければ入手できません。
相続や先祖を祀るなどの理由があれば直系であれば入手は可能でしょう。
それぞれから委任状などを得る必要があると思います。

1については、戸籍によって保存期間があり、既に処分されているものもあるようです。自治体によって法律上の保存期間を超えても処分していない役所も多いと思いますので、それぞれの役所へ確認しましょう。私の地元の役所では江戸時代ぐらいのものはまだあるようです。

2については、役所の戸籍でわからず、寺などの過去帳でわからなければ難しいでしょう。

戸籍謄本は自分との関係を証明しながら取る必要性がありますので、ご自分や親の戸籍から遡って、わかる範囲で戸主の名前で請求するようになるでしょう。縁故者の協力状況によっては、遡るにも限度があると思います。
行政書士などは職権で戸籍謄本などの入手が可能な為、一部の行政書士などが家系図作成を請け負っている場合などもあります。

私自身、家督相続時代を含めた相続手続き(登記)を行った際、遡るのに結構大変でした。

頑張ってください。

ご自身が含まれる戸籍は自由に入手は可能ですが、いくら親兄弟であっても戸籍が別となっていれば、正当な理由や権利が無ければ入手できません。
相続や先祖を祀るなどの理由があれば直系であれば入手は可能でしょう。
それぞれから委任状などを得る必要があると思います。

1については、戸籍によって保存期間があり、既に処分されているものもあるようです。自治体によって法律上の保存期間を超えても処分していない役所も多いと思いますので、それぞれの役所へ確認しましょう。私の地元の役所では江戸時代...続きを読む

Q壬申戸籍の謄本を入手する方法は?

  我が家の家系図を作成しています。祖先の(戒名ではなく)俗名が必要なため、市役所で戸籍謄本(除籍謄本、原戸籍謄本を含む)を取って世代を遡って調べたのですが、明治19年に編成された戸籍まで遡りました。しかし、明治5年に編成された戸籍(通称、壬申戸籍)は期限切れのため保管していないと言い方でした。
  壬申戸籍はどこで保管しているのか、インターネットで調べたところ、法務省の法務局らしいことが分かりました。で、法務局に問い合せたところ、「期限切れなので・・」という回答なのです。決して「破棄した」とは言わないので、現在もどこかで(法務省管轄下で)保管されているように思えます。昭和43年頃、旧身分制度に関する事柄が社会問題化して(→同和問題?)壬申戸籍が封印されてしまったというのが真相の様です。
  他人の祖先の名前を知りたいのではなく、自分の祖先の俗名を知りたいのです。壬申戸籍の謄本を発行しても身分に関する情報を知るのは子孫である私なのであって他人ではないのだから問題ないのではないでしょうか。壬申戸籍の謄本を入手する方法はないものでしょうか。

Aベストアンサー

入手方法は、現在ではありません。
壬申戸籍は、確かに法務局で保管はされています。それは遠い将来に「歴史資料となりうる」という観点で保管されているようです。
従って「旧身分」が記載されている戸籍を子孫であるとはいえ閲覧させることは現在はできません。

◎ 他人ではないのだから問題ないのではないでしょうか。
これを認めてしまうと「子供の結婚相手であり、身内となる可能性があるのだから(あるいは身内となったのだから)問題ない」と言い出す人もでてくるでしょう。結果として「同和問題」に行き着くことになります。
また子孫は複数・多数にわたりますから....結果的に「広く公開する」ことに繋がっていきます。
現段階ではあきらめるしかありません。

Q夫が部落出身である可能性が高いです

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
出会った当時、夫は実家にルートセールスで度々来ていました。
母は時々物を買っていて、私と知り合う2年前から夫を知っていました。
その間、彼氏がいなかった私の写真を見せていたのは知っています。よく母から、「面白いお兄さんがいて○○(私)に会ってみたいと言っているけれど、どうする?」と言われており、その一年後に初めて3人で食事に行きました。
付き合いはそこからです。
付きあってから度々悩まされたのは、他人に対して暴言を吐いたり道路の真ん中で車を止めて怒ったりすることでした。
(先日も駐車場の枠外にとめていた車の人に暴力団のような言葉を吐いていたので知らない顔をして子どもと逃げました。)
私にも暴言や暴力(年に数回)があり、何度も別れようと思ってきました。
しかし、夫にも優しい所があり、初めての人でしたので夫がすべてだという気持ちがあり、結局結婚に至りました。
何かがおかしいと思ってきたのは結婚してからのことです。
毎週夫の実家に行くごとに義父母から親戚の職業を耳にしてきましたが所謂部落の方が多い職業についており、部落の方と結婚している人がとても多いのです。
また、義父は自営業をしていますが暴力と酒癖が悪く部屋中のものを壊したり、年に数回は義母の顔にあざができるほど殴るので本当に恐ろしいです。
本人たちの口から「部落」という言葉は結婚してからは何度となく聞いていますが、自分たちは違うというニュアンスで話してきます。
差別があるから夫のいとこは子供をつくらないし、結婚もしないとも聞かされてきました。
私が少し調べた結果は義父が部落出身のようです。
調べるきっかけとなったのは私の職場に夫がやくざまがいの電話をしてきたことでした。
それは、私の仕事用携帯に職場の男性のアドレスがあっただけのことでした。私的なメールは一切しておらず、上司から同僚まで全ての電話番号とアドレスが入っています。
夫はそれを浮気だと勘違いして、会社に怒鳴りこみの電話をしてきました。しかも妊娠初期の事でした。
その後出産の為辞めることとなりましたが、会社の上司から夫のことをかなり詳しく聞かれた上でそれとなく言われました。
本当にショックで血の気が引きました。
その後、義父母や夫がよく口にする地区をネットで検索してみると、全て部落に当てはまる地区で自分が住んでいる地区も昔はそうだったと知りました。
本当にショックでした。
冒頭に「悔しい」と書いたのは騙されたと感じるからです。
結婚前に夫の性格や暴力のことで母や親戚から反対されながらも結婚を選んだのは私です。
でも、墓場まで持って行こうとした夫が許せません。
私に話していたら結婚は迷ったかもしれない。
でもきっと結婚していたと思うんです。
それなのに純粋な気持ちでずっと夫を思ってきたのに隠し通そうとしている夫は裏切り者です。大嘘つきです。
夫を許せません。
結婚するまでは部落の人がいるのかどうかも知りませんでした。そして、部落が何かもよくわかりませんでした。
しかし、少しずつ勉強したり地区や周りの人間を見ていく中で分かったことがあります。それは差別する人間だけが悪いのではなく、差別される側にも問題があるということです。
義父や夫の親戚の会話は人間の血が通っていなくて、私にはとても理解ができません。酷い言い方かも知れませんが、気が狂いそうになるほど見ず知らずの他人を悪く言ったり暴言を吐きます。
私が言われることもあります。
今、人生にとても悩んでいます。こどもが小さいので母子家庭は厳しいかもしれませんが、穏やかな暮らしがしたいです。
夫とも義父母とも一切の縁を切ってこの土地からも逃れたい・・普通の考えをした人間と関わりあって生きたい。これが正直な気持ちです。
簡単にはいきませんが、何も考えずに生活しようとしても夫や義父が何か言動を起こす度にうんざりしている自分がいます。
まとまりの無い文章ですみません。
経験談やアドバイスなど、皆さんの考えをお聞かせ下さい。
どうぞ宜しくお願い致します。
最後まで読んで下さってありがとうございました。

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
出会った当時、夫は実家にルートセ...続きを読む

Aベストアンサー

難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。

自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか?
と聞かれると自信がありません。

普通に・・・・と言う気持はよくわかります。

昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに
違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。

そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が
表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませんしね。

この事案からまったくかけ離れた所で生活している物が
当事者に対して簡単に「差別はいけません」とは言い難いです。

関わった物の苦しみは関わった者しか分かりませんね。

輪の中に身を置くという事で、私は単なる個人の人格だけの
問題でもない気がします。

生活の環境と言う物は、個人の主観に大きく影響します。

周りを取り囲む人々が同じ価値観で接してくれば、少なからず
感化されますからね。

さて、問題は今後ですよね。
離婚されるなら身を隠す必要があると思いますよ。

今までの言動・行動を見ても旦那様自身がこの事をかさに
人を威圧する性格が見受けられます。
そういう境遇が持たしたら性格かもしれませんが、実際問題
多少危険である事は覚悟する必要があると思います。

出来れば御実家のご両親にもきちんと相談されて、考えうる
対応を模索しておく必要があると思います。

それでも先を考えれば、行動する価値は十二分にあると思います。
今は×1も珍しくありません。
心穏やかな生活が迎えられると良いですね。

難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。

自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか?
と聞かれると自信がありません。

普通に・・・・と言う気持はよくわかります。

昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに
違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。

そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が
表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませ...続きを読む

Q先祖代々の位牌のまとめ方について

こんにちは。先祖供養についての質問です。

先日、複数のご先祖のお位牌を繰出し位牌にまとめたのですが、
位牌のない、それ以前のご先祖の供養もしてあげたいと思うようになりました。
それで、そういった場合、どういう形でお位牌を作ればよいのか、
お分かりの方教えてもらえませんでしょうか?
(例えば、繰出し位牌とは別に、「○○家先祖代々之霊位」という位牌を作る、とか)

どうぞよろしくお願い致します。

Aベストアンサー

位牌は夫婦の戒名を並記して50年まで仏壇にてお祀りを致します。
いずれかが50回忌を迎えますと、先祖代々の位牌へ合祀し纏めます。
今までの位牌が不要になって寺でお焚き上げをなさいます。

繰り出し位牌なるものが有りますが、纏める方法として賢明な策ではありません。
大部屋に閉じ込めるような個々の仏格を否定してはならないのです。
位牌とは夫婦で並び祀ります。
独身死者は単独で。

位牌の頂部には家宗旨の仏種子を刻みます。
纏める先祖の位牌には
仏種子を刻んでから
『◎◎家先祖代々』とします。
霊位とは刻みません、何故ならば霊の位ではないからです。

Q江戸時代、苗字を持っていなかった人の割合は

江戸時代、公に苗字を名乗れるのは武士や特別に許可された農民だけでした。
しかし、ほとんどの人が苗字を持っていたと思います。
寺社に奉納した石碑などに、農民の名前が刻まれているのを目たことがありますし、
寺の過去帖で、村全員の苗字が載っているのを見たことがあります。
そもそも、名前だけだと、どこの家のものか区別がつきにくいですよね。
明治になって初めて苗字をつけた人がいるらしいですが、
そういう人たちの割合はどれくらいだったのでしょうか?
あるいはそれは俗説にすぎないのでしょうか。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

全国的には、ほとんどの人が苗字を持っていたという事実はありません。ただし、村を個別に見れば元々苗字を持っていた武士が帰農して村民になっていた村もあります。例えば武蔵野台地の多摩地区は、地形が水利に恵まれず、江戸時代以前は全く開発されていなくて原野状態でした。そこに徳川秀忠が鷹狩りに来て、代官に新田開発を奨励させるといったことがありました。多摩地区には滅ぼされた後北条氏の元家臣が大勢残っていて、そうした新田開発の募集に応じた人がいます。逆に代々農民だった人は新田開発に応募しない。農民とは保守的・守旧的な性質があり、冒険的な事業に乗り出そうという気概がある人が少ないのです。そういう村ならば、石碑や寺の過去帖に苗字が載っていても不思議ではない。しかし、そうした特殊な例を持って全国にあてはめるのは間違いです。江戸時代の村の規模は極めて小さく、人口は数百人から多くても千人を越えるぐらいです。保守的・守旧的な農民の性質から、農村は過去のしがらみ、立村の経緯を引きずって、どうしても細かく分かれたままで統合しようという機運が起きないのです。小さな村の合併が進んで町や市に昇格していったのは明治時代以降のこと。

17世紀末たまたまカムチャッカ半島に漂着した伝兵衛という人がいます。大阪の質屋の息子だったが、東京へ向かう途中に嵐があって、なんとカムチャッカ半島まで漂流したというのです。アイヌの村に拾われたところ、たまたまカムチャッカ半島を侵略していたロシア人に見つかってサンクトペテルブルクに強制連行されて日本人学校の校長として一生を終えたと伝えられています。そうした事はかなり後になってロシア側の記録から分かったことです。ところが、伝兵衛の苗字は伝えられていません。ただ伝兵衛というだけ。もし苗字があったなら、ロシア人に対して遠慮なく伝えたはずです。ロシア人に対してなにを遠慮する必要があろうか。

カムチャッカ半島には伝兵衛の後にゴンザとソウザの2名も漂着した事例があったことが分かっていますが、やはり苗字は伝えられていません。どちらもロシア側の記録によります。アイヌは文字を持ちませんから、カムチャッカ半島がロシア領になる以前のことは全く分からない。

また幕末には一介の漁民から旗本にのし上がったジョン万次郎という人がいます。この人も漁に出てたまたま無人島に漂着したところをアメリカ人に見つけられてアメリカで学業を受けさせてもらってアメリカ通になったところを日本へ帰国後に評価されて旗本に取り立てられて苗字を許されました。中濱村出身だから、中濱万次郎となのりました。もし元々苗字を持っていたというなら、その苗字を名乗ればよい。しかしそうしなかった。他に思いつく苗字がない。だから出身地の中濱村から苗字を貰ったわけです。

石碑も過去帖もいいのですが、あったあった、それ見たことかと大はしゃぎにそればかりが一人歩きしている現状はいかがなものか。

全国的には、ほとんどの人が苗字を持っていたという事実はありません。ただし、村を個別に見れば元々苗字を持っていた武士が帰農して村民になっていた村もあります。例えば武蔵野台地の多摩地区は、地形が水利に恵まれず、江戸時代以前は全く開発されていなくて原野状態でした。そこに徳川秀忠が鷹狩りに来て、代官に新田開発を奨励させるといったことがありました。多摩地区には滅ぼされた後北条氏の元家臣が大勢残っていて、そうした新田開発の募集に応じた人がいます。逆に代々農民だった人は新田開発に応募し...続きを読む


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