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ギリシャのポリスとローマのポリスの相違点おしえてください

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A 回答 (2件)

ギリシャのポリスは、その一つ一つが一つの都市国家であり、自治をひいていました。

またギリシャ人は海洋民族であったため、地中海のあちこちにポリスを作っていました。

たとえばアルキメデスはギリシャ人とされますが、アルキメデスが住んでいたのはマグナギレキアの一部であるシシリー島で、この時代ギリシャ人はギリシャを離れて、イタリア半島の一部と近くの島、スペインの一部、エジプトや現在のシリアなどアフリカの地中海沿岸などに住んでいました。

これらの居住区を植民地とも呼ぶのですが、定住が進むとそれぞれの都市国家になり、民主制を引くところもあれば、王政になるところもあり、エジプトでは原住民を支配する支配者階級であり、外に向かってはエジプト風の装束で、内なる暮らしはギリシャ風という感じであったそうです。クレオパトラもギリシャ語を話すギリシャ人でした。

これだけ地中海に広がっていたのに、各都市がバラバラに自治をしき、団結しなかったのがギリシャ人の最大の特徴であったといえるかもしれませんし、その資質は船で好きなところにいけてしまう、というところにあったのかもしません。また、ギリシャ人は貿易を尊んだ民族でもあり、各ポリスは貿易でも潤っていました。

地中海世界ではギリシャ人のほうが早く現れ、ギリシャ人が地中海をわが海として利用していた頃にローマは建国されます。

ローマ人の特徴は、ギリシャ人に比べて陸上民族といえる特性をもっていたことです。

そのため、ローマを中心に敵と戦うために、兵士を陸上で移動できる手段を整備しました。いわゆるローマ街道です。最初のローマ街道はアッピア街道で,この街道はイタリア半島のローマの反対側であるアドリア海の要衝であるプリンディシまで整備したものです。もちろん仮想敵国はイタリア半島を取り巻くように住んでいるギリシャ人で、ギリシャから海を渡ってアドリア海側から上陸されることを阻止するために整備されたのです。

この後ローマは共和制から帝政になり、支配地域も現在のトルコから地中海全域、そしてドーバーを渡ったイギリスやドイツはライン川までと、現在の西ヨーロッパと小アジアの一部を版図にするまでに成長します。

その原動力は、征服した土地まで街道を整備し、植民地を作り、定住することによって都市が発展するという方法を取ったことです。

この植民地から都市に発展するまではギリシャも同じであったといえますが、そもそもローマの植民地はその土地に駐屯した軍団兵が住み着き、現地の女性と結婚することで原住民とローマをつなぎ、大帝国になっていったというものです。また軍団が駐屯する場所ですから、軍事的な要衝でもあり、現在でもケルンやパリ・ロンドンなどの都市がローマ支配時代を起源にしたものです。

これらの都市はギリシャと違い、その地域の要であると共に、本国ローマと結ぶ連絡拠点・軍事拠点であり、政治自体も自治の部分はありましたが、かなりの部分でローマ本国より指示をうけていたといえます。

またギリシャ人のポリスは本国であるギリシャ地域を除いて、海洋に面していることがほとんどであり、逆にローマの都市は内陸の要衝に位置しているものもたくさんあります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/25 16:18

ローマ時代の都市のことをポリスとは呼ばないと思いますが、、、



とにかくギリシャのポリスとローマの都市の最大の違いは

ギリシャのポリスが都市を中心として周辺の農村部を含めた独立国家なのに対し

ローマの都市はローマという国家を構成する一都市だったということじゃないかと思います。

つまりナポリに住んでいてもローマ市民はローマ市民なんです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

お礼日時:2013/06/25 12:56

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Qギリシアとローマの関係について

高校レベルの世界史もよく把握していないのですが…
古代ギリシアとローマの関係がよくわからないのです。

・ギリシアとローマは戦争していたこともあり、別個の支配体制ですよね?
・それなのに同じ12神を信奉していますし、使用するアルファベットも似ています
・ローマは土木工事等の実学には長けていたが、ギリシアのような哲学や数学は発達しなかったと聞きます。文化面でもだいぶ隔たりがあるように見えます。

結局この2つはどんな関係で、お互いにどんな相手だと見ていたのでしょうか?

Aベストアンサー

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・文化は近隣で発展していたギリシア(とりわけ学問先進国のアテネ)に学んだわけです。

 ギリシアの文明に学び、しかも全域が統一されているローマの国力は急速に伸びて行きました。やがて、国力としては劣り、しかも統一できていないギリシアの都市国家を次々と従わせ、ローマの地方都市として、やがてギリシア全域をローマの領土に組み入れることとなります。

 しかし、ローマはギリシアの文明・文化を超えるような独自なことはできませんでした。巨大な建築はできたけど、基本はギリシアのものです。それだけ、ギリシアの文明・文化は発達していたわけです。宗教も、ローマ独自のものはあったのでしょうが、ギリシアの神々と同じものだとしてしまいました。

 キリスト教が広まり、公認されるようになると、ようやくキリスト教由来を加えて、ローマ独自文明・文化が発達し始めました。ローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国が滅びても、東ローマ帝国は長く保ち、首都コンスタンティノープルではヨーロッパ有数の文明・文化先進地域であり続けました。

 そういう例は、古代中国にもありました。殷や周は都市国家連合です。一番国力があり、他の都市国家のリーダーととして取りまとめていたのが、殷や周という大きい都市国家でした。その地域を中原(ちゅうげん)と呼んでいて、そこでは早くから文明・文化が発達しました。

 その周の力が衰えていく一方、地方では楚といった文明・文化は遅れていて、中原の都市国家に学んだ国が、早くから領土的にも統一した国家として台頭して行きました。

 周が衰えて、他の国家が力を得て行った春秋時代は、中原ではまだ都市国家連合がひとまとまりとなった国家が多く、非常に多数の小国が乱立していました。小国とはいえ、文明・文化が発達しているので、その周辺地域の領土的に統一された国家から尊敬を受けていました。

 しかし、続く戦国時代となると、ほとんど国家が領土的に統一された国家となります。都市国家は単なる都市となりました。それでも、小国となっても周とその近辺の小国は、秦が中国全土を領土的に統一するまで、長く尊敬を受け続けていました。

 古代ギリシアは都市国家の集まりです。何度か、都市国家連合としての統一国家になろうとしましたが成功しませんでした。その理由は、おそらくは文明・文化の発達でしょう。自立と自由があって、初めて文明・文化が発達します。そして、それを手放してまで、国力だけのために統一国家となることは受け入れにくいのです。

 古代ローマは、文明・文化の発達が遅かったので、早くから統一国家、しかも都市国家連合という緩い結びつきの国ではなく、全域を中央政権が支配する領土国家にまりました。そして、文明・...続きを読む

Qポリスと国家の違いについて

先日レポートが出されましたが、自分ひとりで考えていても
煮詰まるばかりだったので投稿致しました。

古代ギリシャのポリスと国家(nation-state)の違いについて
もし詳しい方が居れば教えてくれると助かります。

Aベストアンサー

 ポリスは都市国家です。今のような巨大な国民国家でも、官僚制もありません。最大の違いは、直接民主制であるということ。そして、民主主義の原型でありながら、矛盾して奴隷制を採用していたことです。市民権は一部にしかありませんでした。女にもありませんでした。

 国民国家とは、ウェストファリア体制以降です。国民国家とは、実は「国民」が容認して作り上げられるのではなく、一部の支配者が国家間のあいだでいろいろ決めて、それではじめてできたものです。ですから、むしろ国家が領土的国家となったのは、ウェストファリア体制以降、国が官僚制を強め、情報収集能力を高めて、教育によってナショナリズムを醸成してはじめて、「本当の意味で」できあがったといえるのです。ですから、ポリスには明確な領土がありません。

 ポリスには「民族」(市民)意識があっても、「国民」意識はありません。国民意識は間違いなく、ウェストファリア以降に形成されてきたものです。B・アンダーソン『想像の共同体』において、国民国家とは文化的構築物であるといいましたが、その通りです。

 ポリスに現代的な意味で軍隊はありません。国民国家以前の戦争では、多くが民兵(つまり雇う)であったことがほとんどです。しかし国民国家ではナショナリズムの醸成とともに、規律的に徹底した軍隊をつくりあげます。そして官僚に統制された警察組織です。







 

 ポリスは都市国家です。今のような巨大な国民国家でも、官僚制もありません。最大の違いは、直接民主制であるということ。そして、民主主義の原型でありながら、矛盾して奴隷制を採用していたことです。市民権は一部にしかありませんでした。女にもありませんでした。

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Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む


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