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古文書の解読のお願い

 1 .Wikipedia(フリー百科事典)に掲載してある古文書を解読した資料がありましたならご紹介願い    ます。

 2. 上記Wikipediaに掲載してある2件について取りあえず解読してほしい。
  (1) 織田信長紀講文ー織田信長が石山本願寺に提示した7ヶ条の紀講文
  (2)顕如書状ー顕如が太田衆に宛てた書状

A 回答 (7件)

”織田信長紀講文”


で検索しても、質問者の質問しかひっかかからないというのは、たぶん”織田信長紀講文”というのが存在しないことだと思われる。

URLを出すなりしないと、質問が成立しません
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正確に史料名を引用するか、史料そのものを引用あるいはURLを示してください。


回答の仕様がありません。信長の方は見当が付きますが(起請文?)、希望のものか確認できないですし、顕如書状については候補がいくつもあります。
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 これに関しては恐らく以下の書物が参考になるかと存じます。


(1)「日本思想体系」『蓮如・一向一揆』岩波書店刊
(2)「戦争の日本史」『14 信長の天下布武への道』『14 一向一揆と石山合戦』
(3)『一向一揆の研究』井上鋭夫:吉川弘文館刊.1988年
 尚寡聞にして「紀講文」との古文書形式を私は存じませんが、もしかしたら「起請文」の誤りではないでしょうか。であるならば、「神仏の力」などを頼まない信長としては不自然でもある。
 また一向門徒の間では蓮如ならびに顕如の言葉を「御文(おふみ)」と呼び習わしています。この場合は太田衆ですから、石山戦争で信長と和睦した顕如が大坂の地を離れ、紀伊の鷺森に移り、その理由として雑賀衆の力を頼んだとも言われています。この時点では信長も健在でしたからその様な判断も可能だったのでしょう。
 しかしながら本能寺を境として、一向衆の動向も変質していきます。紀伊殊に雑賀を支配した鈴木孫一に代わり土橋春胤が雑賀衆の中心となり、秀吉と対峙する形となります。そうした中にあって顕如は大坂の貝塚に去ります。本願寺による一向一揆はもはやコントロールできる段階ではなくなっているともいえます。
 そして秀吉に対峙したのは根来寺であり雑賀衆であるとの話になりますが、それも秀吉の前には一溜まりもなく敗北し、秀吉が最後に攻略したのが太田城(現在の和歌山市)です。
 この段階でなぜ顕如が太田衆に書状を送ったのか、それが説明されていないことも不自然です。何かこの質問は胡散臭いですね。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
 早急に貴殿紹介の書物を調べてみます。
 尚、紀講文ではなく、起請文が正しいものと判断されます。
 大変歴史に詳しいので今後ともご指導のほどよろしくお願いいたします。

お礼日時:2013/07/01 16:22

wikiに引用されている信長から大坂本願寺に示した7か条は次のものしか見つけえませんでした。

覚書であり、起請文ではありませんが、これであっているでしょうか?。

  覚

一 惣赦免事
一 天王寺北城先近衛殿人数入替、大坂退城候刻、大子塚をも引取、今度使衆を可入置事
一 人質為気仕可遣之事
一 往還末寺如先々事
一 加州二郡(江沼・能美)、大坂退城以後、於無如在者可返付事
一 月切者七月盆前可究事
一 花熊・尼崎、大坂退城之刻可渡事
  三月十七日 朱印(信長)

一、すべて赦免すること(加賀や播磨の一揆など大坂本願寺配下の勢力は例外なく許す。)
一、天王寺の北の城はまず近衛殿の軍勢と交替させ、本願寺が大坂を退場した時に、大子塚の砦も引き取り、今回の使者たちを入城させること。
一、人質を気遣いとして送ること。
一、本願寺と末寺との往来は以前どおりでよい。
一、(退城の)期限は七月の盆前とすること。
一、摂津の花熊城・尼崎城(荒木村重が信長に背いた後本願寺の兵が籠城していた)は、大坂退城の時に明け渡すこと。

ざっと解読するとこのような内容です。
奥野高広『増訂 織田信長文書の研究 下』(吉川弘文館)でより詳しい解説がされていますので、一読ください。
なお、信長が起請文を記すことはよくあったことです。不自然ではありません。
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この回答へのお礼

大変わかりやすい回答ありがとうございます。
 欲を言えば、敬白・起請についても解読していただければ感謝感激であります。

 補足
  「奥野高廣」著の「織田信長文書の研究」を読みたいのですが購入するのには
   あまりにも高額で手が出ません。当該書類を拝見できる施設(図書館等)を
   ご存じであれば教えていただけませんか、よろしくお願いいたします。
   当方の住所は茨城県です。

お礼日時:2013/07/06 17:35

 No.3です。

No.4の方に質問です。
となれば信長は誰に起請文を立てたのでしょうか。古文書学の形式からは疑問符が付きます。そして古文書学としては「誰が誰に対して出した書状なのか」が常に問われて然るべきです。ただ単に現象としてあるからといって、それを何の問題もないとするのはいささか性急であり根拠に欠けると言わざるを得ません。明確な回答およびその言説を補完する論文の提示を求める次第です。
 もしそれが示されないのであれば、それは単なる仮説それも仮説の上に仮説を重ねる観念論の一つでしかないとの結論にもなりますので、宜しくご教示願いたいと存じます。 
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No.4です。


別の質問がありましたので書き込みます。質問と直接関係ありませんがご寛恕ください。
信長の起請文が不自然でないことについて、明確な論拠を提示せよとのことでしたので、少し史料・論文を確認して整理する時間をいただきます。
その前にこの質問が首尾よく解決した場合は答えられませんので、No.5の方は別に質問をしてください。そこにお答えします。
文書の形式に疑問と仰いますが、その根拠は『「神仏の力」などを頼まない信長としては不自然でもある。』という認識でしょうか?もしそうであるならば、信長は無神論者だったとする旧態然とした考えを近年の研究論文・著書を読んで再検討してください。これこそが観念論ですので。
いずれにしても、別に質問していただければ時間はかかりますがお答えします。
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 なんと失礼な回答が寄せられましたので、釘を刺しておきます。


「起請文」の形式および発生に関しては古文書学のテキストとしては古典的かつスタンダードであり、これが現在の学界の共通項とも呼びうる規定があります。佐藤進一氏の『古文書学入門』です。また「起請文の性質」に関しても、近年では清水克行氏および佐藤弘夫氏の論稿も示されております。
 在野のアマチュア歴史趣味と同列に語られては困ります。ましてや、僕は信長の発想の一例を挙げましたが、それを以てして信長が無神論者であるなどとは全くのこじつけでしかありません。むしろそうした突飛な発想をするのがアマチュア歴史趣味が抱える最大の問題点であり、我々歴史学徒としては放逐すべき対象でもある。このことは強く警告しておきます。
 後日改めて質問を立てますので、その際には明確な根拠(学術誌に発表された論文のタイトルおよび著者そして掲載誌のNo.)も付記していただくよう求めます。
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この回答へのお礼

大変遅くなりましたがご回答有難うございます。
 質問者がよく理解できていないもんですから皆様にご迷惑をお掛けいたしまして
 申し訳ありません。

お礼日時:2013/07/19 18:06

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