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ヒュームの論理学、数学について

ヒュームは論理学、数学を、何のために使用したのでしょうか?

また、それはヒュームの本則とかかわっていますか?

詳しく教えていただけると幸いです。

A 回答 (1件)

来るね~。


この旺盛な好奇心、嫌いじゃないです。
ならば、わたしも負けずに、コピペとリンク先紹介!!

ここ読め、ニャンニャン。

デーヴィッド・ヒューム:小入門
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 「概念の関係」の方に入るのは、数学、幾何学、純粋論理だけだ、とヒュームは論じた。でも、それは現実については何も述べていない。というのも、こうした分野の命題はすべてトートロジーだからだ。「概念の関係」にはいくつか性質がある――それは検証の必要がない(たとえば、人は 2+2=4 が真か確かめる必要はなく、単に「+」と「=」というものの意味を考えればいい)し、それは定義からして真であり(「4」は確かに、「2の2倍」というのが定義だ) 、否定すると矛盾が生じ(たとえば「2+2=4でないときもある」と言ったら、 4 というものの意味に矛盾が生じる)、そしてそれは必然的に真だ (2+2 が 4 以外になるとは考えられない)。でも、これはすべてトートロジー(同義反復)でしかない、とヒュームは結論づける(つまり 2+2 と言っても 4 と言っても同じことを繰り返しているだけだ)。そして、そのすべてがトートロジーであるなら、現実については何も明らかにしない。それは人間精神の構築物ですらなく、その意味自体から真となる――つまり「2+2=4」「独身者は結婚していない」「三角形には辺が三つある」は、世界についての意味のある命題じゃなくて、対象が述べていることを前提として繰り返しているだけだ。

 じゃあ「事実を述べたもの」はどうだろう。これは個別の感覚にさかのぼる必要がある。これが何を意味しているかというと、それが真実として考えられて、ぼくたちが(多かれ少なかれ)それが真実であると知るためにはどんな感覚を経験すべきかを知っている、ということだ。だから「空は青い」は「事実を述べた」命題だ。というのも、ぼくたちは空が青いと結論づけるためにはどんな感覚を経験する必要があるか知っているからだ。

 でも、ある命題が「概念の関係」でもなく「事実を述べたもの」でもない場合、それは命題ですらなく、単なる「ナンセンス」(ウィトゲンシュタイン的に言えば)だ。したがって、神の存在のような形而上学的な主張はすべて人間の知識の外にあって、「信念」となる。つまり経験から生じたものでもなく、アプリオリに真実でもない。「神は存在する」は、概念の関係ではない。それを否定しても特に矛盾は起きない(「神は存在しない」は神の概念と矛盾するものではない)し、定義から真とはいえないし(「神」と「存在」は同じ概念ではない)、「必然的」に真実とも言えない(神が存在しないことは想像できる)、アプリオリでもない (つまりこの命題の意味を考えるだけで神の存在を決めることもできない)。だから「神は存在する」という命題はどう見てもトートロジーではなく、したがって「概念の関係」じゃない。

http://cruel.org/econthought/profiles/humebio.html
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トートロジー【tautology】

同語反復命題ともいう。恒真命題と同じ意味で使われることが多い。ある種の命題(記述文)は,言語外の世界と照合することなしに,文字づらの上から真となることができる。例えば〈父親は男である〉〈地球は太陽よりも小さいか,小さくないかのどちらかだ〉〈もしソクラテスが哲学者でありかつソクラテスが刑死したなら,刑死した哲学者が存在する〉等である。こういった命題のうちとくに,その論理構造のゆえに真となるものをトートロジーという。

http://kotobank.jp/word/%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83 …
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あと、ここ読め、ニャンニャン。
http://mgenemon.sakura.ne.jp/humeingakankei.html

おおもとの、
http://mgenemon.sakura.ne.jp/kayoubi.html
も。


☆また、それはヒュームの本則とかかわっていますか?
◇直接にはかかわっていない、と思います。
ヒュームさんは、数学は《同義反復・トートロジー》であるとしているので、「ヒュームの法則」はあてはまらない、と思います。
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