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小中学校での(高校もか)「いじめ」の実態の報告のなかに、仲間はずれの例がありますが、
いじめているほうには、いじめている、という意識がなく、集団帰属に関わる人間的習性(児童たちが属している文化圏の、あるいは全人類的な習性)に基づいているように見えます。
自然に内在する規範を素直に行動に移せば、社会全体が幸福lになるというのが私の性善説の解釈ですが、これが正しいとすれば、性善説は、いささかお気楽すぎる思想のように思われます。
皆様のご意見をお聞かせください

ほんっとに暇なときにでも、投稿していただければうれしいです。

A 回答 (17件中1~10件)

そう思います。



お気楽というか、よく夢の科学などで理論上実現可能だという話がありますけれど、それですね。実際上、小さな問題が大きな障害になる現実を無視しています。まさに思想的。
赤ん坊が泣きわめくような本性を甘く見ていますね。
宗教も思想もケインズ経済学も人間集団を洗脳して支配する技術ですから、性善説の理念の下に性悪説の治世をするのが良かったのでしょう。建前というか。
現代ならば、政治に関心を持ちましょう、大事な一票です、という詭弁です。性善説的です。
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この回答へのお礼

回答の投稿、有難うございます

性善説は夢物語でありましょう。控えめに言っても、ごく少数の集団内でのみ成り立つ原理だと考えています。しかし、また、追うに値する夢だという気持ちも捨てきれません。
>宗教も思想もケインズ経済学も・・・
それらの始祖たちは、夢の殉教者だったのではないか、そんな思いがあります。

お礼日時:2013/07/10 00:38

最近の心理学の研究では、6人に1人ぐらいは、生まれつき意地悪のようです。


私の経験では、大人の3人に1人ぐらいは意地悪だと思います。

後、歴史を振り返ると
ミクロなレベルでは大半の人間は概ね善人だと思いますが
マクロなレベルでは、相当、愚かであると言わざるを得ないと思います。

ですので「性善説」は、仰る通り、あまりに楽観的で
かつ、危険ですらあると思います。

人の本性を良く見極めて行動するのが肝要だと思います。
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この回答へのお礼

回答の投稿、有難うございます

>6人に1人ぐらいは・・・・なるほど
>3人に1人ぐらいは・・・・いやいや、5人に3人くらいは、、、

愚か、というのは善が、ただただ、善意から発生するという発想のことかと思います

>「性善説」は
地獄への道は善意で敷き詰められている、という格言があったような・・・
善人が寄り集まって善を成し、それゆえに不幸が生じる。
善とは善人の善意とは似て非なるものだということを、そろそろ義務教育で語られてもいいのでは
ないかと思います。、

お礼日時:2013/07/10 01:09

>自然に内在する規範を素直に行動に移せば、社会全体が幸福lになるというのが私の性善説の解釈ですが、これが正しいとすれば、性善説は、いささかお気楽すぎる思想のように思われます。


⇒仰せのとおりだと思います。

そもそも、「人間は人間に生れるのではない。人間に“なる”のだ」と言われます。つまり、人間は、「野獣として」生れて、文化的な学習(規範もその一つ)を通して「人間になる」わけですよね。その意味では、「我々はつねに人間になる過程上にある」と言えるでしょう。

野獣として、「本能のままに生きる」のは、人間的文化に照らして見れば、性善説とは言いがたいことが大半を占めるでしょうね。では、どのようにして性善説に近づくのでしょうか。それは、社会環境から学んで吸収しながら、自己の内側に認識力・理性・英知・精神姓・愛情…等を、つまり、「人間性という文化」を、獲得形成していくことによるのではないでしょうか。

ですから、ある意味、人間の「個人史」は、「性悪説的存在から性善説的存在への移項の歴史」とも言えるのかも知れませんね。そのことに関してどんな「心的態度」に立つかによって、大きな個人差はあるでしょうけれども。

以上、「一例的」ご回答まで。
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この回答へのお礼

回答の投稿ありがとうございます

私だけの解釈かもしれませんが、性善説も「人間を放任しておけば皆が幸福になる」などとはいっていないと思います。
>文化的な学習(規範もその一つ)を通して
これと同趣旨のことを言っているのではないでしょうか
>認識力・理性・英知・精神姓・愛情
これらが、人間に内在しているとして、行動として引き出すことを主張しているのが性善説
(放任しておけば引き出せる、というものではない。率直ということはかなりの難事です)
外部(社会)から吸収し、魂魄の内に組織化する必要を主張しているのが性悪説だと思います

「仲間はずれ」といういじめは、児童たちに内在している規範の率直な表れのように見えます。
人間内の規範を率直に行動に移せばこのような結果になります。
(一事をもって万事を決めつけることはできませんし、仲間外れということを後から集団内で学習したとも考えられますが・・・・)
「善」の在り処を問うに、とても児童たちに内在しているとは思えません。
私が性悪説を支持する根拠です

お礼日時:2013/07/10 10:10

どっちでもいいんじゃないですか?



私はシステム屋なので、どうしてもプログラミング的な発想をしてしまう
んですけど、データベース上で○/×がランダムに多数存在する場合の
処理として、全体が○で、×の時例外処理を走らせるのが「性善説」、
全体が×で、○の時例外処理を走らせるのが「性悪説」だと思ってます。

・・・システムってのは、いずれにせよ絶対「例外処理」は走るんです。

「例外処理」の存在を認めれば、デフォルトを○にするか×にするかは、
それこそプログラマーも好みでしかありません。どっちにせよ、ちゃんと
システムが動けばそれでオッケーなんです。

ということで、どっちでもお好きなように。あなたが「性悪説」プログラマー
ならそれでオッケー、どっちが正しいってことでもないと思いますよ。
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この回答へのお礼

回答の投稿ありがとうございます

>システムってのは、いずれにせよ絶対「例外処理」は走るんです。
そうです。そして、例外が多いほど住み易い世の中のような気がします
でも、例外処理に「ウヤムヤ」という方法をとる人間が多くて、いやはや
まァ、それがいいときもあるんですがね 失礼、余談でした

>デフォルトを○にするか×にするかは
社会全体のことは誰彼の好みとはいかないでしょうが、世過ぎのための自分の身の処し方として
どちらかを選べばいいのでしょうね

>どっちが正しいってことでもないと思いますよ
どちらかが、数学でいうところの無縁根のような気がします。式と解に間違いはないのに
なぜかしら、現実に合わない解のような・・・

お礼日時:2013/07/10 10:46

自然というのは「バランス」で成り立っています。


人間も自然の一部であるためこのことから逃れられず善にも悪にも偏ることはできず、どちらも所有しているという「バランス」で成り立っているため、存在できていると思われます。
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この回答へのお礼

回答の投稿ありがとうございます

自分ではバランスのとれているつもりが、他所から見れば
キミョーキテレツ、それだけならまだしも、傍迷惑ということが多々あります
社会において、個人において、バランスがとれているとはどのような状態なのか
バランスをとるためにはなにが必要なのか。
性善説、性悪説とも、そのバランスの基底を問うたものです

>善にも悪にも偏ることはできず
ほんとうに腑に落ちたなら、人生がだいぶ楽になるでしょうね

お礼日時:2013/07/10 11:07

性善説と性悪説は逆説ではないですよね。



自分の中を覗いてみると、どちらも持っていることに気がつくと思います。
つまりは、人間はどちらも内包しているということです。

どの場面でどちらをどう使うかは、個人の選択として自由意志に任されています。
あなたがどちらをどのように使いたいかで決まるということです。

どちらも持っている故に、一歩間違えると内側でせめぎ合いが生じます。
よくよく自分を省みて選ぶことですよね。

No.4・No.5の方々と共通した見解ではあります。
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この回答へのお礼

回答の投稿ありがとうございます

>性善説と性悪説は逆説ではないですよね。
たしかに、単純な逆説ではないようです

>個人の選択として自由意志に任されています
どうするべきか、どうしたらよいか、ということについての
洵氏、孟子の意見の陳述ということでしょう

お礼日時:2013/07/10 11:38

そもそも善と悪からして曖昧なものだと思います。


ただ人間は本能的に「悪」と思われるコトを為したと感覚的に襲われたとき、それが法的にどうであれ、反動的に罪の意識に駆られるようです(これがいわゆるバランス感覚なのかも)。

さて提示の「仲間外れ」、これは小中生に限らず大人の世界でも存在しますが、その実は自己保身に過ぎないものでしょう。自分がその行動(多数に就く)を取らなければ自己に災難(仲間外れ対象者と同括りに扱われる)が降りかかるわけですから。
ある集団、特に小中生(&おばちゃんs)においては、ボス的位置人間の感情がその集団の方向性・色を決定し、それに従ったほうが無難だからそうするだけです。そこに独立した個人は存在しません(犬猫と同類)。別例を挙げるなら、酷く嫌われる人間がある集団内に存在し多数がその子を避けようとしてもボス(+準ボスs)が認めれば、他多数は同じくボスに従い仲間外れにしないのです。

性善説性悪説、自然に内在する規範、いずれを採るにせよ徳に基づいた知的判断からの他者尊重を実践しなければ幸福にはならないでしょう。

といっても世の中大多数は文字通り「多数」で構成されていますが
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この回答へのお礼

回答の投稿ありがとうございます

アタクシくらいの歳になると仲間はずれにされたほうが煩わしくなくてうれしいくらいですが。
閑話休題

仲間はずれにおいて、ボス的存在が認められる例は比較的、対処は簡単です。
そうではなく、集団内の構成児童が、ただなんとなく特定の子を嫌いになる、という現象があります
みんな仲良くとはいっても、人間関係に好き嫌いはあって当然なのですが、なにかのバイアスが
かかったか、本能的に自集団にそぐわない固体を識別し、排除しているかのようです
もし、これが、人間内に自然に備わった規範に沿った行動なら、断固、性善説反対を唱えるところです
しかし、教育がわるくて、その規範が休眠したままだからこうなるのだ、ともいえるようです
蛇足かもしれませんが、性善説は放任主義とは違うと解釈しています。人間内のよいものをひきだす
ためには、それなりの学習や指導が必要らしいです。

お礼日時:2013/07/10 13:43

こんばんはです。



質問者さんは、《性悪説》をちょっと誤解してない?
荀子さんのいう《悪》は欲望くらいの意味。

─────────
人之性惡,其善者偽也。今人之性,生而有好利焉,順是,故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉,順是,故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲,有好聲色焉,順是,故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性,順人之情,必出於爭奪,合於犯分亂理,而歸於暴。

荀子・性悪
http://ctext.org/xunzi/xing-e/zh
─────────

我々人間は、欲望によって好きとか自己の利益になるというような考えが起きて、争ったり盗んだりする。だから、欲望を人為的に抑え、ココロを矯正しなければならない。
これが、荀子さんの主張。

荀子さんがこういったかどうかは分からないけれど、
 「人」+「為」→「偽」!!

荀子さんは、
「其善者偽也」、つまり、「善は《偽》だ!!」
とまでいいは放つのだ。
そして、
善は欲望、つまり、善は《性・自然》に反しているので、《偽》・《偽(いつわ)り》だ。しかし、人間は《人為・じんい》的にそれを抑えることができる、
と、荀子さんは言っているのよ。
その《偽り》に真の《人間性》を見ている。

「《惻隠の心》などに代表される《善い心》をもっていない奴は、人間とは呼べない」という点では、性善説の孟子さんの考えと一致しているのよ。

だから、イジメをする奴は人間ではない。人の皮をかぶったケダモノ。
それを見て見ぬふりをするヤツも、ケダモノ次元の心性だ~。
イジメは、如何なる理由があろうとも、絶対に認めてはならないのだ!!


☆性悪説の方が正しい気がする
◇ですね。
人間は本能やそれに基づく欲望を生まれながらにもっているので。
しかし、これは《性悪説》の一面しか見ていないと思います。
荀子さんの主張の主眼は、《性悪》ではなく、この前提にから導かれた結論の方なので。

いやまぁ~、人間は本能や欲望といったものの他に、
脳にミラーニューロンとか共感機能を有していますので、
まったくの《性悪》だとは思いませんけれど。。。
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この回答へのお礼

回答の投稿、ありがとうございます
(お礼の遅れたことをお詫び申し上げます。急な出張で、インターネットどころか電気さえも
ままならない僻地にいましたもので)

>質問者さんは、《性悪説》をちょっと誤解してない?
そうかもしれません。凡人の悲しさで、一人で考えたり調べたりしていると必ず脇道にそれます。

>欲望を人為的に抑え、ココロを矯正しなければならない
これを大義名分として戦時中にどのような教育が行われたかを考えると、「性悪説の方が正しい気がする」ものの、主張はしたくないという気もします。
(凡人らしく、話が脇道にそれました・・・笑)

お礼日時:2013/11/08 20:12

私には中国人の知人友人が沢山いるのですが、


彼らは例外なく性悪説に立っています。

朝日北京支局の記者の話ですが、道でお婆さんが
転んだので、助け起こそうとしたら、怒鳴られた。
「お前、私の財布を盗むつもりだね!」

知人の中国人が来日して、日本企業で働いたが、
もっとよい会社があったので、勤めている会社を
辞めることにした。
その会社の社長が出来たひとで、真面目に働いて
くれたから、ということで、金一封を渡したところ、
その中国人は激怒した。
「これは嫌みに違いない」

靖国問題では、親日の中国人ですら、あれは中国に対する
嫌がらせでやっているのだ、と信じています。

中国の社会は、こういう人達によって構成されて
います。
そして、中国人は皆、日本より不幸です。
それは経済の問題だけではありません。
性悪説に立っているので、片時も油断出来ないからです。
家族すら、敵、という民族です。

だから彼らが来日すると、心が癒やされるそうです。
私の親友の中国人などは、日本人に悪人はいない、と
真面目に信じています。

そういう訳で、性善説はお気楽過ぎる、ということは
ありません。
性善説の社会の方が間違い無く、住みやすくて幸福です。
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この回答へのお礼

回答の投稿、ありがとうございます
(お礼の遅れたことをお詫び申し上げます。急な出張で、インターネットどころか電気さえも
ままならない僻地にいましたもので)

>性善説の社会の方が間違い無く、住みやすくて幸福です
そう思います。しかしながら、「どのようにあるべきか」と「どのようになっているか」は別問題であります
「性善説がいい」と皆が主張するだけで世の中がうまく運営されるものではないでしょう
「性善説がいい」と主張する前に、その説の根拠、妥当性を考えなくてなりません
(ずいぶんと長い歴史的時間がすぎ、これからも、まだ結論がでそうにもありませんが、慌てることは
ありますまい)

お礼日時:2013/11/08 20:33

個人的な見解ですが性悪や性善はないと思います。


ただし、社会の中で、はたらきバチの原理と同じで
何らかの割合で悪を持った人間と善を持った人間が発生するのではないかと
思ってます。
子供の社会でも大人の社会でもいじめとがなくならない現実を見ると、
児童だけに限らない全人類的な習性なのかもしれません。
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