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大化の改新では確か中臣鎌足と天智天皇で
余り武士とか居ない様にも思えますが、

一体、武士って何処から生まれているんでしょうか?

A 回答 (8件)

大化の改新の時代は武士はいません。


武力を専業とする特殊な身分層はいないということです。
公地公民制の時代に、軍隊は庶民(農民)を徴兵して国軍としました。
この制度成立時期ははっきりしませんが、大宝律令(701年)には明記されていて826年には辺境以外で廃止されています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%9B%A3_ …
9世紀になると荘園(私有地)が全国に成立します。
荘園が成立すると、官憲の支配を免れるため各自が武力を必要とします。
常備軍の廃止と相まって、各地で治安が乱れ実力社会で他人の土地の奪い合いになります。
こうした中で各地の荘園領主が武装化、あるいは傭兵の導入を余儀なくされ、各地で武装化したものが武士となります。
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この回答へのお礼

皆さん、沢山の御回答、
本当に有り難う御座いました。

それぞれが勉強になり、
とてもよく考えさせられる部分もありました。

これから歴史小説等を読む時やテレビや映画を観る時、
また一味違ってくるような気がします。

お礼日時:2013/07/24 13:16

戦争が起こった時に戦う人という意味であれば、ずっと昔からいました。

古くは古事記にも出てくる防人。当時は朝鮮半島の国や今の中国と争っていましたので、当然戦闘員はいました。
当時の戦闘員は基本的には徴兵された国民(ほぼ農民)です。
だから、当然政治の舞台には顔を出さないというだけのことだと思いますよ。
政治に戦闘員が顔を出すのは、平安末期ですね。
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武士の起こりは地侍で神社.寺等の荘園を守る為に組織された戦闘集団かと、で力を付けて来たその集団の大将は豪族から運良ければ一国一城の主へとのし上がって行ったで良いんじゃないのかな?



一生懸命は地侍が自身の命を掛けて荘園を死守した事から出た言葉です、それでリーダーは信頼を得て豪族へとのし上がって行った、ちなみにみんなで一斉に力出す時のセーノは弓を一斉に射る時の掛け声です。

ソーラン節のヤレンソーランソーランと似た様な物です、息合わせて網撒く時と一緒でそうしないと大漁の時は網負けませんから、一斉射撃は戦闘で威力を倍増させる為でも有りますよね、近代軍隊でも一斉射撃とか出て来ますしで゛。
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中学校教科書にも載っているんだけども、次の3つの論がある。



1,在地領主論・・・・無法地帯と化した地方で、開発領主(豊かな農民)が自衛のために武装化した。地方の中下層の武士を説明しやすい。しかし、地方なんかよりも都に先に武士がいたりしたので、この説は旧説。多くの歴史小説では未だにこの旧説が主流。

2,国衙軍制論・・・・国司に任命された軍事貴族が都の荒くれ者や赴任地の郡司の私兵なんかを配下におさめた。やがて土着して武士団を形成する。源氏や平氏などの武士の上層と、中下層の武士の結合を説明しやすい。

3,職能武士論・・・・武をもって仕える下級貴族や官人。治安維持や護衛だけで無く、疫病や呪いの防御も期待された。

※この3つの合成が教科書に書いてあったりしている。

※~論だったり、~説など、この種の論や説は用語がはっきりしていない。
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kit2012さん、おはようございます。



武士が出現したのは平安時代中期頃のことです。最初は地方在地の開発領主や京の貴族の護衛をする人たちでした。貴族の人たちは必要な時は人を切り殺したり、乱暴したりする彼らを大いに嫌っていました。武士の方では自分たちの領地の保障のためや生活のために権門に仕えているのでした。「侍」は主に仕えているものという意味です。
また、賜姓皇族である源氏や平氏のようにいったん受領国司として下向し、そのままその地方に領主として残ってしまう人たちもいて、その当時流行していた貴種信仰などからその地方の開発領主や武士団(武装勢力)と結びつき、武家の棟梁つまり、軍事貴族として発展する場合が起きてきます。彼らは律令体制の中では律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者ではありませんでした。ただし、官人となって武に携わることを本分とした武装集団ではあったことは”承平・天慶の乱”の時の例を見ても明白です。



大化の改新の頃はまだ、官人という性格が強く、防人や、衛士、あるいは舎人という親衛隊のような人たちがいました。
彼らは律令制の中では律令官制の訓練機構で律令制式の武芸を身につけた者でした。
詳細はこのURLを参照してください。

武士
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB
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武士がいつ登場したかは実はとても難しい問題です。


「武士」という言葉自体は、奈良時代の史料にも見えるので、
奈良時代に登場したと考えることもできます。
何をもって私たちが「武士」と呼ぶのかによって、
武士がいつ、どのようにして現れたかについてはいろいろな説があります。
ただ一般的には、武士は平安時代に生まれたと考えられています。

承平・天慶の乱というものがありました。
承平・天慶の乱は、10世紀前半、関東と瀬戸内海でほぼ同時に起きた戦乱です。
この戦いに参加した人々の中から、
一般的にイメージされる武士が生まれてきたと考えられています。

権力を維持するためには武力が必要です。
それを担当した貴族や役人が段々と専門化していき、武士になった
と考えられています。
軍事を担当していた貴族を軍事貴族と言いますが
この軍事貴族が武士の基になったのだろうと言われています。
また、警察を担当した役人もおり、彼らも武士の先祖だ
と言われています。

武士は、大きく分けて2つの方法で、勢力を強めていきます。
一つは、都に拠点を置いて、天皇家や摂関家といった
国家権力の中枢に近づいて力をつける道、
もう一つは、地方に土着して領主などになっていく道です。

つまり、古代律令国家の中で武芸を身につけた貴族などが、
(1)承平・天慶の乱以後武士となり、
(2)都や地方で成長していって、
(3)前九年・後三年合戦などでその存在感を高めていった。
というのが、大まかな武士の流れです。
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私も以前質問して結構いい回答もらったのですが


OKの方ではなく違うサイトからだったので
IDが思い出せない><

北面の武士あたりがどうも起源ぽい

似たような質問見つけたってか
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/6849877.html

過去ログにもなんども出てくるので
そっち見たほうがいろいろ答えがあって楽しい
http://okwave.jp/searchkeyword/%E6%AD%A6%E5%A3%A …
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質問の主旨が理解できない。


武士とは現代語ですが、天智天皇の時代にも戦う軍団・・人の集団はありました。
但し、国民皆兵制度ですから、戦うことを職業としていたわけではありません。

ちなみに、天智天皇は大軍を朝鮮半島に送り、唐・新羅の連合軍に大敗を喫しています。
日本滅亡の危機を招いたとんでもない天皇でした。
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