神棚の「天照皇大神宮」を中心に納めるのが何時代に始り、その理由が何か教えて下さい。

神社庁の祀り方説明では、三社造りは真ん中に、一社造りは手前にと説明が有りますが。八百万の神の中で、これをNo.1に納める理由を教えてください

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A 回答 (4件)

そりゃ日本人にとっての神様の頂点は天照大神だからです

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この回答へのお礼

御回答、有難うございます。ところで、下記はどう思われますか?
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question …

お礼日時:2013/07/20 17:51

「天照皇大神宮というのは伊勢神宮の内宮のことです。


ここには三種の神器の一つである八咫鏡が安置され、
天照大御神(アマテラスオオミカミ)が祀られています。
この天照大御神は天皇家の祖神であり日本国の総氏神になります。
つまり一番偉い神様ですね。

天照大御神の孫が瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、
この神が高天原から天下り
豊芦原の瑞穂の国である日本を治めることになりました。
その曾孫が神武天皇です。

伊勢神宮がいつごろか祀られているのかと言うと
天武天皇14年(685年)から式年遷宮が始まっているので、
それ以前であることは間違いないようです。

日本書紀では雄略天皇の22年に伊勢の地に移したとされていますが
雄略天皇は「宋書 夷蛮伝」に記述されている倭王「武」に比定する説があります。
宋書の記載は477年なので雄略天皇22年は5世紀末になります

つまりその頃には皇室の祖先神として伊勢に祀られていた可能性はあります。
天皇家の祖先神ですから当然貴族階級には信仰されていたはずですが
伊勢信仰が庶民にも広まったのはもっと後と思います。
伊勢のお札を配り歩く伊勢の御師(おんし)が鎌倉時代以降活躍を始めてからでしょう。

総氏神として神棚の中央に納められるようになったのもその頃ではないでしょうか?
神仏習合による本地垂迹説が鎌倉時代以降大流行していますが
その説によれば天照大御神は大日如来の化身となります

大日如来はキリスト教が伝来したとき唯一神を大日と訳したように仏の中では
最も中心的存在ですから天照大御神もまた神々の中で中心的存在とみなされた
可能性は高いと思われます。

とにかく江戸時代には何度も伊勢参りが大流行していますから、
江戸時代にはもう総氏神の地位は確立していたようです。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2013/07/31 12:57

すこし泥くさい話としては、wikipediaの天照大神の近代の節


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%85%A7 …
に面白い話があります。

もちろんwikiの神棚も参照ください。


よく天照は皇祖神だからという説明があるが、それなら伊邪那岐がなどという話になる。どちらかというと太陽神として身近な存在だったというところが大きいのだと私は思います。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2013/07/31 12:58

実は大昔から天照大神を祀る風習があったわけではありません。

それぞれの神社がそれぞれの祭神の大麻を配布していました。
その中で「御師」という人々が伊勢の大麻を持って日本中を巡り、伊勢講(神宮に詣でる会員のようなもの)の人々にお祓いと大麻を授けて廻っていました。この頃はまだ伊勢が総鎮守という認識は余りなかった筈ですが、やはりご祭神ですから伊勢講の数はかなり多かったと思います。
明治になり、国が神社を管理するようになると御師という制度は政令で廃止させられます。コレに対し、明治天皇は各神社に神宮大麻を配布させようとご提案になったのです。(という事になっていますけど、実は神宮の方から配布させてくれと新税されたのが事実)
コレにより神宮大麻を各地の神社を通じてその氏子に配布する制度が出来上がりました。(明治4年12月)

その後明治政府は神道による教務(簡単に言えば情操教育)を辞め、その際に教義を持っている神道の多くが国の手を離れたので、現在これらが神宮大麻を配布しているかはわかりません。

天照大神は高天原を治める神です。そして葦原中国を収めるのはニニギノミコトの子孫でもある天皇です。
立憲君主制というのをご存知でしょうか?「君主は君臨すれども統治せず」という英国の国の仕組みですね。そして日本もコレに倣い立憲君主制になりました。
しかし実はこの原型といえるのが天照大神と天皇、そして天皇を大国主命の間に築かれていたのです。
つまりアマテラスは世界に君臨しますが統治はニニギノミコトに任せた。またニニギノミコトは大国主に対し「天孫が葦原中国を君臨し大国主が統治するという構図を造ったのです。

なので恩師制度も当初は出雲派と神宮派に分かれて権力争いをしました。しかし出雲大社が国の管理を外れたことで神宮大麻だけが配布されるようになったのです。
そしてアマテラスは世界に君臨することから天照大神を真ん中に祀るようになりました。

実は神宮大麻を前にするか後にするかは両方ともあったのです。どうして前になったかのいきさつは私には判りません。
例えば偉い人は後からやってきますよね、普通。大名行列だってそうです。天孫降臨のときもまずタケミカヅチを降ろして交渉させましたし、実際に降りてくるときもサルタヒコが先達です。
そう考えれば一番偉いアマテラスは当然最後だっていいはずです。
しかしなぜか神社本庁は天照を先頭に持ってきた。そう決めたのだからそうなんだとしか言いようがありません。

最初のほうで申し上げたように神道は神社本庁が統括する神社神道だけではありません。それ以外の神道も幾つもあります。教派神道だけでも13を数えます。従ってそれぞれの神道にはそれぞれの祀り方があるかもしれません。
神社本庁は明治時代の流れから神宮を占有しているような形になっていますが、規模は大きいですが、あくまでも一宗教法人に過ぎません。よって神社本庁=神道と考えるのは間違いです。
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2013/07/31 12:59

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近年籠神社で発見された系図によれば

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そしてその脇に「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」どと記されていました。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai08.html
卑弥呼とはこの日女命の音に漢字をあてたものではないか、といわれています。

また日神とは天照大神のことだと考えられます。
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卑弥呼には弟がいる、と記されていて合致します。

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ということは天照大神と神大市姫命は同一神で、
二神は近親婚をしたと言うことになるか、と思います。

実際、天照大神とスサノオは姉弟ですが「うけいの子産み」をしたという話があります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%B5%E3%83%8E%E3%82%AA%E3%81%AE%E8%AA%93%E7%B4%84

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http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/04/000787.html

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ただし、魏志倭人伝は卑弥呼の墓は円墳としていますが、箸墓は前方後円墳です。
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また、年輪年代法が確立し、それを用いて調査した結果、築造時期もほぼ卑弥呼の死亡時期と一致すると考えられるようになってきました。

古事記・日本書紀などに記されている神話は、倭迹迹日百襲姫命とその弟をモデルにしたものだと思います。

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今年の初詣で本厄のため、お祓いをしてもらった際、お札2枚を頂き、自分で破魔矢を購入しました。

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奈良時代から室町時代までの
間にそれぞれ何がありますか?

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Q破魔矢の飾り方で混乱しています。

破魔矢の飾り方で混乱しています。
破魔矢についての質問は他にもたくさん出ていますが、やっぱりわからないので質問させてください。
今年初めて破魔矢を買いました。
帰り道、友人に指摘され破魔矢には飾り方があることを知りました。
破魔矢を買った神社は他県でしたので、帰ってからメールで問い合わせしたところ
「特に方角はありません。玄関・床の間等に立ててお飾りください」
という返事がありました。
「立てる」というのはどちらが上なのかわからなくて(当方『やじり』がどちらかも知りません)、ネットで調べようとしたら、いろんなサイトで「凶方位に向ける」と書いてあり混乱してきました。

長くなってすいませんが質問です。
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質問盛りだくさんですいません。
どなたかよろしくお願いします!

破魔矢の飾り方で混乱しています。
破魔矢についての質問は他にもたくさん出ていますが、やっぱりわからないので質問させてください。
今年初めて破魔矢を買いました。
帰り道、友人に指摘され破魔矢には飾り方があることを知りました。
破魔矢を買った神社は他県でしたので、帰ってからメールで問い合わせしたところ
「特に方角はありません。玄関・床の間等に立ててお飾りください」
という返事がありました。
「立てる」というのはどちらが上なのかわからなくて(当方『やじり』がどちらかも知りません...続きを読む

Aベストアンサー

授与(この手のものは買うのではなく授与していただくものです。)していただいた神社が立てるように
言ったのであれば立てて飾るのがその宗派のやり方なのでしょう。
羽のついているほうを上にして立てて飾ればよろしいかと



こんな感じ

やじりは矢の先端の貫通力を上げるためにとがっている部分です。

Q日本の戦国時代の「のろし」と「かがり火」と「伝令」について教えて下さい

日本の戦国時代の「のろし」と「かがり火」と「伝令」について教えて下さい

日本の戦国時代には伝達手段として「のろし」や「かがり火」が使われたそうですが、それらはおよそ何キロ先まで届いたのでしょうか? もちろん地形によっても違うと思いますが、遮蔽物がない場合で教えてください。

それから、長篠の合戦で鳥居強右衛門が命がけで伝令を務めた話が有名ですが、その時に長篠城から「のろし」や「かがり火」を使って援軍を要請することは出来なかったのでしょうか? 武田軍に気付かれるから駄目だったのでしょうか?

あと、敵に囲まれた状態の城から伝令が出る場合、どのようにして敵の包囲を突破したのでしょうか?  

質問が多くてすみませんが、教えて頂けると嬉しいです。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

何キロおきかというのはわかりませんが、例えば武田信玄の場合、次のように狼煙台を
設置したと言われれています。

当然、山の頂上などできるだけ遠方からみえるように、また次の狼煙台からの
視界も確保して設置されたことでしょう。

「例えば、宿敵上杉謙信との決戦場である善光寺平から躑躅ヶ崎までの距離は約160kmあるが、
もしこの区間を早馬で伝達すると十時間以上もかかったものを、烽火を用いると約2時間程度
で伝達されたという。 」
http://www.hokuto-kanko.jp/furinkazan/noroshi.html

>その時に長篠城から「のろし」や「かがり火」を使って援軍を要請することは
出来なかったのでしょうか?

狼煙台はあくまでも事前の設置が必要ですから、戦時に的に囲まれた状態では
意味をなさないということです。

また、細かな情報伝達には向かないので、あくまでも、敵が来たとか、
そういうことをできるだけ早く伝達する手段として用いられたと思います。

>どのようにして敵の包囲を突破したのでしょうか?  

長篠の合戦の小説などには夜間に水連達者な人間が川中を潜って。。
というような描写もあります。

何キロおきかというのはわかりませんが、例えば武田信玄の場合、次のように狼煙台を
設置したと言われれています。

当然、山の頂上などできるだけ遠方からみえるように、また次の狼煙台からの
視界も確保して設置されたことでしょう。

「例えば、宿敵上杉謙信との決戦場である善光寺平から躑躅ヶ崎までの距離は約160kmあるが、
もしこの区間を早馬で伝達すると十時間以上もかかったものを、烽火を用いると約2時間程度
で伝達されたという。 」
http://www.hokuto-kanko.jp/furinkazan/noroshi.html

>その時に...続きを読む

Qダルマの飾り方

先日 某大師にてダルマを購入したのですが
正しい飾り方がわかりません。
小さいダルマから毎年段々大きくするとか
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小さいときに聞いたような・・・
誰か知っている方 教えてください。

Aベストアンサー

商売をやっている人は、だんだん大きくしていきますね。それだけ繁盛するようにという願いからです。そして、毎年買って、前年に買ったのはどんど焼きで焼いていました。今は野焼きができなくなったので、どうしているかはよくわかりません。
でも、どんどん大きくなったら、飾るのは大変ですからある程度のところまでですけど。

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結婚式の披露宴でダルマに寄せ書きをしてもらいましたが、披露宴の時に片目を入れて、子どもが生まれて両目を入れました。そういうダルマもありました。それはしばらくとっておいて、でも何年かして、どんど焼きで天に帰ってもらいました。

縁起物って買うときはいいのですが、天に帰ってもらうときがつらいですね。

Q【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったか

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越しの銭は持たなかったとうう説は間違いとわかる。

大金が回ってくる仕組みを火事が多いので大金を持たなかったという江戸っ子の説は矛盾に気付く。

2つ目の仮説。銀行はなかった。けれども頼母子講という少額を積み立てて大金を引き出す銀行みたいな仕組みがあったのでこれも嘘の仮説だと分かる。

最後の仮説の江戸っ子は貧乏だったという説。

江戸時代に流通していた通貨は金貨、銀貨、銭貨の3種類。

銭貨の価値は現在の価値で50円程度。

江戸時代の江戸っ子の日当が50円程度だった?

金貨の価値が20万円程度だった。

江戸時代の大工に月収は2万円。2万円/30日で日当で666円。

1日銭貨を13枚。

当時の大工は高給取りだったとすると一般庶民のブルーワーカーは大工がホワイトカラー職で現代の月収50万円職に値すると一般庶民のブルーワーカーの月収は25万円として6枚。

で、1日6枚で飯が3食で銭貨3枚が余る。で、相互会に毎日銭貨3枚を預けると月で99枚。1枚50円で5000円。

金貨が20万円なので月5000円で12人で相互会を組んでいるので年1回月収が6万円のときがある。

年1回大金を掴んでも6万円なら江戸っ子は20万円の価値がある金貨を一生見ることがなかったのかも知れない。

ということは、江戸っ子は宵越しの銭は持たないの話には続きがあって、(けど江戸っ子は銭貨を大金の銀貨に変えて貯金していた)。要するに1番価値がない銭貨を持たないで銀行(相互会)に預けて大金にするという仕組みが江戸にはあったので当時の人は江戸の仕組みを珍しく思い、「江戸には銀行という仕組みがある」ということを「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」と表現したのが真相ですかね。

【江戸時代の話】「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」は「江戸は火事が多かったから」、「銀行が無かったから」、「そもそも江戸っ子は貧乏だった」という3大理由がインターネット上に挙げられていますが多分間違っていますよね?

江戸時代、江戸は火事が多かったので頼母子講(たのもしこう)という相互会があった。

少額を毎月12人から集めて12人分を1人に渡す。これを1年間繰り返して12人が1年のうち1ヶ月だけ大金を得ることが出来る銀行のような仕組みがあった。

この事実で仮説1の火事が多かったから宵越し...続きを読む

Aベストアンサー

すごいですねえ。
いろいろ計算して、ここまで考えると、おもしろいですね。

私は、ただ、単に、
物に執着して、がつがつ貯めこむのは粋じゃない。
きっぷ(気風)がいいことが美徳、という考えが江戸では一般的だったから、
(本当にもらったら、もらっただけ使ってしまう人ばかりでなくても)
そういう気質だと、おもしろがって、または、自慢気に、言っていたのではないかと思いました。
開き直ったスローガンみたいな(笑)。
で、そういう風潮ができたのは、
やはり、長屋に住んでいるような、大部分の人が、
ぎりぎりの生活で、贅沢はできない状況だったからでしょう。

ところで、たのもし講、私が小さい頃、母がやっていましたよ。近所のおばちゃんたちと。
なつかしい言葉です。


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