プロが教えるわが家の防犯対策術!

  きょうのニュースで 見ず知らずの人たちが力を合わせて ちょっとした救出劇を演じたと言います。
 ▲ (http://news.biglobe.ne.jp/trend/0724/nrn_130724_ …) ・・・駅のホームで、30代の女性が電車とホームの間に挟まれる事故があった。駅員と乗客が協力し合って車体を押して間隔を広げ、転落した女性は無事救出された・・・
 ☆ のだそうです。

 このようなわれら日本人のあいだに見られる協調性は どこから来ているのか?

 稲作農耕の経験からだという見方があります。
 これについて 我田引水といったことわざもあるように いかにもそうだと思わせるのですが どうもそれだけだとは思えないでいます。
 
 あるいは言い方を変えるなら そういう一般的な説明の仕方にはうたがいを挟みたくなります。

 これについて じっさいのところをおしえてください。


     *


 考えるに 稲作農耕の経験によって われら日本人が互いのあいだに協調性を獲得しているといった見方は どうも一面的なものではないか。

 日本における人びとの《協調性》は ひとり《稲作農耕文化》によってもたらされたとは考えられないのではないか。

 ほかに何が要因としてあったかというよりも そもそも人間が互いに社会を成して生活するということにおいて《協調性》を持たないという見方を前提とすることのほうが おかしいのではないか。

 つまりたとえば 《人は人に対して狼である。 Homo homini lupus. 》とかあるいは《万人の万人に対する闘い。 Bellum omnium contra omnis.》といった人間観が 一面的であるということだと考えるべきではないか。




 そのつてでは 日本人は その日本人という自覚も認識もなく石器や土器を用いて生活していた縄文時代から やがてゆるやかに農耕が現われ弥生時代となるにつれ 稗・黍・粟から陸稲や水稲を主力とするようになって その収穫の量にかんして徐々に格差が現われて来た。

 つまりやがて 小さな甕棺墓などから大きな古墳に埋葬するまでになったことなどからその格差という事態は 実証されます。

 むろんこの格差をも――人それぞれの自由として――引き受け 精神の胃袋に飲み込み 人びとはさらにあたらしい生活の共同自治の方式を模索して行きます。

 つまり議論を端折りますが ひとり稲作農耕の共同作業のあり方などから影響を受けて 互いの協調性が培われたという見方は およそ狭くちぢこまった人間観であり歴史観であるように考えられます。


 いま上で自分から言ったのですが それでも稲作農耕が 家族という枠組みを超えてムラの共同作業だという見方 これが つねに成り立つと言うべきでしょうか?

 家として持つ田畑などは それとして社会的に(相対的に)独立した経済的な生活単位体としてあるのではないか。


 よろしくお願いします。

A 回答 (18件中1~10件)

今までの回答と、めざす方向が違う回答なんだけど....



>われら日本人のあいだに見られる協調性は どこから来ているのか?
これは、通常の意味に取ります。
すなわち、外国人平均より日本人平均のほうが協調性がある。それは何故か?

とすると、以下のような疑問は、論理的にいって発生しません。
>人間が協調性を持たないという見方自体がオカシイ。
いえね、それでは、外国人も日本人と同程度に協調性を持っている、
持っていないなら、それは何故か、ということになり、当初質問に戻ります。
トートロジーであり意味なし。ゆえに、こういう手の疑問はいだきません。
人間の本来の本質が協調性でも非協調でもいいのだけど、
結果として、日本人のほうが協調性がある、その理由は何か、ということに対し、
何がしかの回答になっていないと変。
ゆえに、「人間は~ 」という回答だけは成立しません。

それとも、
>日本人のあいだに見られる協調性
の部分が、外国人と比較しないでモノ言ってます?
それなら、牧畜なら協調アタリマエ、稲作では協調不要なのに何故か日本人は協調。スゲー。
というような意見がアリなんだが。(外国の論調はそうではないけど。)


>日本における人びとの《協調性》は ひとり《稲作農耕文化》によってもたらされたとは
>考えられないのではないか。
これまた、どうして?そんなこと誰も言っていません。
協調性を養う方法は稲作のみとも言っていないし、稲作すれば常に協調性を持つとも言っていません。
ただ単に、稲作すれば協調性を持つ可能性が増えると言っているだけ。


>稲作農耕が 家族という枠組みを超えてムラの共同作業だという見方
>これが つねに成り立つと言うべきでしょうか?
常に成立するわけではありません。部分的に成立するだけ。でも、それで、協調性が必要となる条件は満たします。
 ※個人の水田から得られた収穫は個人に帰し、共同とはならないことを指す。
   少なくとも日本の場合は、ずっとそうなっている。
   なお、灌漑施設は、現在でも共有です。(水利組合=用水使用者 の持ち物です。)

ただし、日本式稲作というのは、畑作/果樹園に比べ、協調性が必要なのは間違いないところ。
(牧畜はよくわからんので、比べるのは別人にまかせます。)
理由の1. 灌漑設備が必須。(陸稲の場合、収量は3割~4割程度に落ち込む。)
何? 世界4大文明は全部畑作で、灌漑網が無いと成立しない? よって、理由の2。
理由の2. 畑作の場合、個人で好きなときに種まきできるが、稲作はそうではない。
      代掻きのときにつかう水量は、普通期の4~5倍。
      結局、2~3週間かけて、少しずつ代掻きするしか方法がない。
      (水資源的にも、水路の規模からも。現代も、これは変わっていない。)
        ※この手の純工学問題に対し、哲学カテ常連で大丈夫そうな人、少ない.....
          農学常連さんあたりに、確認とってほしいけどなあ。

ですので、陸稲や天水田にはこういった事情が当てはまりません。
水稲でも、浮稲は当てはまりません。
熱帯の水田の場合、いつ田植えしても収穫できるから、逆に代掻時期が大きくばらついて良いので      
代掻時期を統制する、といった問題は発生しません。

結果的に、稲作の最北端である日本で、最もこの現象が顕著である、ということが言えてしまいます。
※韓国については、明治以前は稲作はほぼゼロであり麦作地域になり除外できます。
※※中国の南朝エリアも顕著、ということになってしまうが、それ以外の稲作地域は
   ほとんど除外できると思う。
※※※かつ、今までに書いた諸問題の解決方法は「協力」だけでなく「強権」というのもアリ
   なので、当然ながら、稲作(灌漑型)イコール協調とはならない。

尤も、最後まで嫌らしく残るのは、これらが全て偽相関だった、という可能性。
協調性の定義如何では、日本人より米国人のほうが協調性がある、という論文あり。
※何せ、協調性とはどういうものか、定義しないで議論しているので、定義は結構何でもアリ。
※※私の使っている定義は、
   「個人の利益より集団の利益を優先することを協調という。」
   (米国人のほうが協調性があることを除外するのにはこう定義すればよいため。)
   ちなみに、発端の駅での救出劇は、個人の利益最優先と仮定し他場合でも協調する、という解が存在するので協調がどうかが曖昧となる。

ゆえに、
>稲作農耕の経験からいう見方だけとは思えない
という意見には賛成しますが、そう思う理由や思考経路は、まるで違います。
そもそも、稲作だけが原因だとは誰も言っていないので。それ以外も、いろいろ違う。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 まさ2211さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~
 とすると、以下のような疑問は、論理的にいって発生しません。

  >人間が協調性を持たないという見方自体がオカシイ。

 いえね、それでは、外国人も日本人と同程度に協調性を持っている、
 持っていないなら、それは何故か、ということになり、当初質問に戻ります。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは 文脈が決まっています。

 ☆☆(趣旨説明欄) ~~~~~~
  日本における人びとの《協調性》は ひとり《稲作農耕文化》によってもたらされたとは考えられないのではないか。

 ほかに何が要因としてあったかというよりも そもそも人間が互いに社会を成して生活するということにおいて《協調性》を持たないという見方を前提とすることのほうが おかしいのではないか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 このようです。つまり 《ほかの国の人たちも 一般に協調性を持っている。または よほど現実に現われていないとした場合 それでも 潜在能力として持っている》という前提における含みを排除しないで しかも 問題の焦点は 《協調性が ひとり〈稲作農耕文化〉によってもたらされた》と言うのなら それは違うであろう。なぜなら――ほかに要因が多くあるとか無いとか考える前に―― そもそも協調性は 人がその能力をすでに初めに持っている。ゆえに たとえば稲作農耕の場合にも 必要な場合や所で発揮されて来るのであって 稲作農耕をおこなったゆえに 協調性が 能力として芽生えるという見方は おかしいのではないか? ――こういう文脈と論旨のはこびにおいて出した疑問でした。



 要するに 協調性と稲作農耕とを 一対一の相関関係において捉えることに異議をとなえている。という問題です。



 ★ ~~~~~~~
 >日本における人びとの《協調性》は ひとり《稲作農耕文化》によってもたらされたとは
 >考えられないのではないか。

 これまた、どうして?そんなこと誰も言っていません。
 協調性を養う方法は稲作のみとも言っていないし、稲作すれば常に協調性を持つとも言っていません。
 ただ単に、稲作すれば協調性を持つ可能性が増えると言っているだけ。
 ~~~~~~~~~~
 ☆ 出所は伏せておきますが 次のような文章に対する物言いです。
 ● ~~~~~~~~~~
  明治維新以降、素早い工業化を可能にした、集約農法のジャポ
 ニカ米稲作農耕文化の協調性と、島国文化の妥協性のコンビと
 いう、世界でも稀な集団主義的な文化は、確かに劣化している。
 ~~~~~~~~~~~~




 ★ ~~~~~~~~
 ※個人の水田から得られた収穫は個人に帰し、共同とはならないことを指す。
   少なくとも日本の場合は、ずっとそうなっている。
   なお、灌漑施設は、現在でも共有です。(水利組合=用水使用者 の持ち物です。)
 ~~~~~~~~~
 ☆☆ 回答No.15お礼欄) ~~~~~~~~
  2. 稲作農耕は 水利の都合を共同作業に負うのだ(回答No.5)けれど その水をめぐって ひとつの川の上流・中流そして下流の周辺の農村がそれぞれ 日照りがつづき渇水のときには むしろ残り少ない水をめぐって争ったようである。争いのつまりけんかの・つまり戦争の中身は すごかったし 和解してよい妥協案が採択されるまでけっこう長くかかった(回答No.2&7)。
 ――この史実の示す内容は 稲作農耕=協調文化論を 手放しでは 推しがたいと思わせるものがある。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ および
 ★ ~~~~~~~~~
 ※※※かつ、今までに書いた諸問題の解決方法は「協力」だけでなく「強権」というのもアリ
   なので、当然ながら、稲作(灌漑型)イコール協調とはならない。
 ~~~~~~~~~~




 ★ ※何せ、協調性とはどういうものか、定義しないで議論しているので、定義は結構何でもアリ。
 ☆ 定義はしていませんが 例示は 電車の車両を皆で押して車両とプラットホームとの隙間を広げて そこに挟まった人を引き上げ助け出したという出来事として 出しております。言ってみれば 助け合いであり お互いさまと言って ふつうは利己心にもとづく行動がふつうのところをしかるべき要請を願っている特定の人の利益を増したり損害を減らすか無くすかしたりする行為への志向性でしょうか。

 電車押し救助事件のその後の反響を聞くと 日本以外では――情報が限られてはいますが――そういった協調性に富んだ人びとの行動様式はなさそうだと言われています。米英伊中韓露泰。
 ▲ 日本、また世界驚かせた」電車押し救助を絶賛
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130726-00000 …


 ★ ~~~~~~~~
 ※※私の使っている定義は、
   「個人の利益より集団の利益を優先することを協調という。」
   (米国人のほうが協調性があることを除外するのにはこう定義すればよいため。)
   ちなみに、発端の駅での救出劇は、個人の利益最優先と仮定し他場合でも協調する、という解が存在するので協調 がどうかが曖昧となる。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの場合には 《個人・対・集団》ですとか《利己・対・利他》といった対立する二項を持ち出して その二者選択を否が応でもさせるように導く内容は 定義に使いません。そもそもそういう二項対立を ほとんど推論の道具として不毛だと見るからです。


 

お礼日時:2013/08/02 00:06

ブラジュロンヌさんこんばんわ。

どうも少し、或いはだいぶ誤解を招いてしまったようです。若干の補足説明をさせて頂きます。専門用語を用いないために、返ってまどろっこしくなってしまったのかな、という思いはあります。私はそもそも専門分野に関する質問で無い限り専門用語は滅多に使用しません。しかし、知的好奇心旺盛な方から「どうでしょう?」と言われれば、私もお返事せざるを得ないでしょう。しかし、もはやこれが最後です。そもそも、私の世界にご興味がおありなら、私がイキオイで述べてしまった専門用語についてご自分でお調べになるでしょう。私もあまりしつこく連投すると押しつけがましくなってしまいますので、あとはお任せします。



私の発言、例えば以下のように述べたとします。

{ニューロンに癒着する流動思念体のような幽質が有る、これが意識の実態の一種です。身体には大まかに分けて肉体と幽体と霊体があります(本当はもっと幾重にも身体はあるらしいですが)。その幽体レベルで、意識を司る粘性の強い流動思念体というのが有るようです。ということは恐らく霊体になると流動思念体もさらに精妙な波動のものになっているのでしょう。

こういった説明という背景があって初めて私は「顕在意識は魂が脳に癒着する部分」などと表現出来ます。確かに私の発言は、私という人間の脳を介在したものだから、本来の霊言とは何かが異なるのかもしれない、しかし、現世に伝え得る限りの中核は捉えているだろうと思います。}

この幽体における流動思念体の説明は、生前心霊学を研究していたフレデリック・マイヤースという学者が、他界後も探究心を持ち続け、幽界を探求し、30年経ってジェラルディン・カミンズという霊媒(これを日本では審神者とかイタコと呼ぶのでしょう)に憑依し、自動書記によって送って来た通信内容です。

私の説明は常に霊言を根拠としてそれらを整合したものです。整合され解釈されたものは私のものなので、人間のものと言えるでしょう。しかし、霊言そのものは人間のものではありません。

高級霊言を通信してきた霊には様々ありますが、私はモーリス・バーバネルを霊媒としたシルバーバーチ霊と、先述のフレデリック・マイヤース霊、浅野多慶子を霊媒とした小桜姫霊の3視点を整合すればおおむね幽実を立体視できるのではないかと思います。が、フレデリック・マイヤース霊は他界後30年の若い霊ですので、若干の問題点(動物的な人が夢幻界=幽界からすぐ再生してしまうということ)も感じますが、シルバーバーチ霊に、マイヤース霊の類魂の説明への全面肯定と思われる発言がございますので、マイヤース霊を全否定することは出来ません。問題点は言葉が色彩界から日本に渡る途中、どこかで間違って日本語になった、ということなのだろうと思われます。本当はここは再生ではなく憑依とするのが整合性が取れるのではないか、と。

シルバーバーチ霊というのは3000年前のアメリカ・インディアンですが、それは彼が使用した幽体の中継物であり、本人は霊界の上方、マイヤース霊が分類するところの光明界あたりに進んでいるものと思われます(この辺は私の想像に過ぎませんが)。もっとも、私はこれはやはり3000年前に他界したアメリカ・インディアンの魂なのだろうと思います。幽界に用意してあった幽体は本人のものなのだろうと。そうではないような言い方をされているのは、類魂の高いところへ融合してしまったから、発言が融合体のものであるということなのではないかと思います。

小桜姫霊は室町末期の三浦半島を治めていた三浦氏の嫁で、北条早雲によって城を焼かれ落ちのびた先で精神病にかかり他界した霊です。この霊は日本のものですから、日本人として眺める幽界を垣間見ることが出来ます。幽界の様相は、幽体レベルの意識体が自在に表すものです。現世の人間が「夢」と呼んでいるものです。この霊は球体になることも出来るようですから、やはり幽界(形象の世界)を卒業して霊界(光の世界)に至っています(私が解釈するところの火焔界=光焔界<マイヤース分類…あたり)が、「精神統一の修行がある」ことと「現世と神界の取り次ぎ役」の使命があるので、形象を持つ幽界上層(サマーランド~色彩界あたり)の海に座しておられます。


「天照大御神以上も存在するようだが、まぶしすぎて私には分からないのだ」

これは小桜姫霊の発言ですが、霊性が無限であることは3視点の共通認識でしょうから、矛盾が無いのです。

私はこのようにして霊言の整合解釈を根拠に、物事を述べています。


「人間は自由意思を持つ」

これはシルバーバーチ霊の発言です。それさえも潜在意識の作用だろう、これは私の発言です。

「カルマの清算」

これもシルバーバーチ霊の発言です。実は仏教発信ではございません。用語は仏教のものでしょうけど。

ついてこれていますか?
おそらく「ちんぷんかんぷん」か「どうせそんな事だろうと思った(私のOKWAVE生活が既に5年にのぼることを思えば)」かのどちらかでしょう。どちらでも構いませんが、一応上述の世界からご返答申し上げます。

「完全利他」とは魂に宿る神性それ自体です。全ての魂にはそれが含まれております。神性自体は完全です。しかし、魂は完全ではありません。だから向上もあるのです。

>☆ これについては ひとことでお応えし得ます。《あなたは 神の視点を自分のものにしたのか?》 これです。つまり あなたは神なのか?

答えはNOです。私は霊言を解釈して伝えただけです。

では、エジソンを神にして見て下さい。自分の問いのあまりの滑稽さが浮き彫りになりませんでしょうか。

エジソンが神だとすると、霊言はエジソンの近親者ということです。で、私はエジソンの近親者からエジソン周辺の事情を、人づてに聞いて、あなたに漏らしただけです。エジソンの恩恵をあなたは享受しています。しかし、エジソンの恩恵のカラクリが分からないとします。それで私にエジソンについて訊いたとします。すると私はエジソンの近親者はエジソンについてこう言っていたよ、とあなたに言います。

それが何故、私がエジソンになるのでしょうか?

何故私がエジソンの能力を持っていることになるのですか?

その時、エジソンの視点はどうでもよいのですか?

何でしょう、感識作用の差でしょうか。


>★ 人間の器でそれを理解することは出来ないのです
 ☆ 審神者とて 人間です。

霊言は人間の言葉ではありません。より神に近づいた霊のものです。霊媒はその時入神状態か半入神状態で居眠りをしております。


神の心は全ての魂に潜在しております。それをどの程度キャッチできるかは各魂の霊性によります。

私は仰られるところの「神の心を知り得た」のではありません。霊言を整合解釈しただけです。そして、自分の中に宿る神性(善の感識)によって、これを真と感じた、ただそれだけのことです。真善美の感識作用は全ての魂が本来持っているものです。例えば、私はエジソンの能力を得たのではありません、エジソンが素晴らしいことを認めた、ただそれだけです。

さて、もはやこれだけの名前が出れば、私の出る幕はございません。あとはご自身の潜在意識からどんな恣意が湧いてくるか、ただそれだけでしょう。


最後に「日本人の協調性」について

それは日本人に課せられたカルマだろうと思います。私は最初に物質次元での説明を試みました。なるべくなら、ゆっくりと、じんわりと幽実を現そうとしたから。いきなり幽実を持ってきてしまうと、胃がびっくりして受け付けないのではないか、と思い。物質次元の裏側では、「協調性」という習慣には様々なしがらみ、人間関係が発生する訳で、それを利用して成長しようとする魂が集まっている、それが日本である。利他愛ということも課題に含まれている。それがどの程度のスケールで発揮されるのか。これが実態だと思います。

    • good
    • 0
この回答へのお礼

 何で11字さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 わたしの物言いは 単純ではっきりしています。

 ひろく神といったとき 神をひとがいだくことに何の問題もありません。
 神のお告げといったとき こんどは 問題が生じる場合があります。
 お告げを聞いたひとが その内容と神とを引き続き心にいだくことには問題ありませんが その内容をほかの人につたえる場合には――自己表現としてつたえることまでも 自由ですが―― その内容がひとの経験合理性によって理解できるものでなければ 意味が生じません。それなのに《意味が生じているではないか》と伝え続けても どうにもならない。――こういう問題が生じます。

 以上が 物言いの内容です。


 たとえば
 ★ 私の説明は常に霊言を根拠としてそれらを整合したものです。整合され解釈されたものは私のものなので、人間のものと言えるでしょう。しかし、霊言そのものは人間のものではありません。
 ☆ 《整合性のあるものとして解釈した内容》は わたしたち人間が一般に理解できるように表現されていないと 話にのぼって来ません。そういう物言いです。
 《人間のものと言えるでしょう》というのは――その意味内容が ほかの人に伝わらないのならば―― その解釈した本人の主観の中でのみ言えることです。

 ひとことで言えば

   霊言を持つな ではなく 霊言を一般に分かるように解釈して表現せよ

 です。
 ★ 幽体における流動思念体の説明
 ☆ は 《解釈》ではありません。霊言の解釈ではなく 霊言の現われるときの仕組みについてです。霊言を得ていない人から言えば そんなものはどうでもよいことです。霊言はその内容で勝負となります。内容がよさそうだというものでなくては だめでしょうし その前にほかの人に伝わらなければ何にもなりません。

    *

 いいですか。
 ★ 高級霊言を通信してきた霊には様々ありますが、私はモーリス・バーバネルを霊媒としたシルバーバーチ霊と、先述のフレデリック・マイヤース霊、浅野多慶子を霊媒とした小桜姫霊の3視点を整合すればおおむね幽実を立体視できるのではないかと思います。
 ☆ こんなことは どうでもよいのです。楽屋裏を見せることに いまは意味はありません。
 理想概念をつねに持ちこれを目指そうとする意志のうごき このことは 一般に強迫観念にかられている場合が多いという初めの物言いを反駁されることを 俟っています。

 霊言の世界に入って行ったという状態をつくることで この強迫観念を言わば上から抑えているのではないかと推し測られます。もしくは 自分では強迫観念などはないのだが 人びとに霊言の話を交えて ふつうの話をすることによって 人びとの《強迫観念――言いかえるなら この場合は 人びとの向上心や求道の心――》にうったえている。といったところでしょう。


 ★ 私はこのようにして霊言の整合解釈を根拠に、物事を述べています。
 ☆ とおっしゃっても その説明はすべて楽屋裏のお話です。舞台での演技表現をお示しください。

     *

 ★ 「人間は自由意思を持つ」
 ☆ これは ヒトが生まれて来たその状態――自然本性――において 分かりやすく例示的に述べるなら おのれの心に従って思惟し行動する場合と そうではなく心にさからって振る舞う場合とがあり それらはいづれもヒトとしては 自由におこなう。というコトを言っています。

 自分の心に従う場合もさからう場合も むろん社会的動物として生きる――つまり共同自治をおこなって共生する――限りで その思惟や行動は 過去の歴史やほかの人びとの思惟や行動とからみ合っていて 互いに影響を与え合うということ。これも 現実の事態です。

 たぶんそこから
 ★ カルマの清算
 ☆ といったことが言われて来るのでしょうが これは ひとつにもし過去というものが前世のことだとすれば あり得ません。ヒトは 同じ遺伝子の存在は――双生児を除いて――二人として いないのですから。

  ちなみに 《類魂》ゆえに過去ないし人類全般とかかわっていると言う
 とすれば それは 経験科学としては分からないことです。
  ですが それは言わゆる仮説ではありません。検証しえないことだからです。
  神霊学・心霊学と言っても それは 経験科学ではありません。
  おのが主観 または 仲間どうしのあいだで 表現がやり取りされるという
  にとどまります。

 もうひとつに あたかも《カルマの清算》といった主題を立てることが 人間の自己到来と言うべき《自己との和解および世界との和解》に必要なことだと思われるかも知れませんが それは 微妙に考え方が違うと思われます。
 《われに還る あるいは わたしがわたしである》ことにとって あたかもカルマの残留物とでも言うべき世間のシガラミ(つまり そういった人間関係)から完全に自由となることは 生きているかぎり 必要ではない。からです。

 つまりは 何ならこのシガラミを負ってシガラミの中にあって 《〈わたしはわたしである〉わたしがわたしする》というふうに生きればよいのですから。

 すなわちこのふたつの理由で 《カルマの清算》は要りません。

    *

 ★ 「完全利他」とは魂に宿る神性それ自体です。全ての魂にはそれが含まれております。神性自体は完全です。しかし、魂は完全ではありません。だから向上もあるのです。
 ☆ これは あいまいな表現です。もしその意を汲んで表わすなら 《人間もその心において――神の霊をやどすと想定されるなら―― その神の霊を分有しており 神の完全性につらなっていると言えるし 神なる利他のハタラキをやはり分有している》となります。そして そこからは 
 ★ だから向上もある
 ☆ というふうに向上をみちびくのではなく そうではなく 《人間として分有した神なる利他ないし愛のハタラキを 時として 発揮することが出来たという場合もある》ということであろうし 《向上》は すでにその利他ないし愛のハタラキをやどすことにおいて すでに《わたしがわたしである》こと・すなわち人間としてはそれとして(生きる動態として過程的な)完全な状態にあることをあたえられている。となります。 

 このような視点から《向上》については 捉えるとよいでしょう。


   *

 ★ 私は仰られるところの「神の心を知り得た」のではありません。霊言を整合解釈しただけです。
 ☆ いいえ。理解できる解釈をまだ聞いていません。楽屋話だけです 聞いたのは。



 協調性の主題については すでに舞台における演技が始まっているところを わざわざ楽屋裏から《幽実》の世界の話をかぶせておられる。すでに神の霊としてのハタラキが〔部分的に〕人間のなすワザとしても現われているのに その仕組みは こういうことだと説明しておられる。

 つまり 《完全性》や《向上》について すでに自然本性としてそなわっているというのに 楽屋裏あるいは芝居作者の台所を見せようとしておられる。そういった《観念》の世界を 人びとのあたまに叩き込んで よきにつけあしきにつけ 人びとを洗脳しようとしておられる。ひろく大雑把に言えば 《イデア》も《ブッダのさとり》も 同じようなものです。
 
 神秘思想には ご用心あれ。
 《かぶせ》の手段・道具に転用され得ます。

 以上が わたしのいつわらざるお応えです。

お礼日時:2013/07/31 04:57

こんばんは。

Ano.12~14です。お礼に疑問点が投げかけられているので、私もお付き合いしたいと思います。私が述べることは全て、審神者による情報に根拠を求めているので、これが陳腐であると感じられれば、無視して頂いても構わないし、拒絶されても構いません。私もイキオイで類魂という専門用語を使ってしまったので、もう後戻りは出来ないという事情でこの記事を書かざるを得なくなったという状況です。

実際には人の器も千差万別、受け容れられるものもあればそうでないものもある。だから、私はこの世界観を人に押し付けるものではありません。人は、それぞれの器に見合った自然の認識の上に育つのが最も効率的である、と思っております。全ては自然で良いのです。ブラゲ(ジェ?)ロンさんのおっしゃる理性も、それも自然の成り行きなのです。だから、脅迫とは受け止めて頂きたくは無いし、私が強迫観念を持っているのでもありません。全ては自然で良いのです。

>☆ 微妙な違いは わたしの場合は 《完全利他》という理念のような想定を――主観として自由に持ってもよいが 理論としては――持たないということです。《打算》と《相手のことを思う善意》とが入り混じっていてもよいという見方です。ふつは そうだと見ると言っています。

「普通」ということに対する感識作用の個性差ではないでしょうか。その差は自然なことなので、私は問題にしません。私にとって完全利他かどうかは、とても大きなものでして、「微妙」ではありません。理論に組み込んで当然のものです、しかし、感識作用が人によって異なる限り、私はその「微妙」という認識ですら自然のことと受け容れなければなりません。

-----------------

>なんで理想概念? という問いです

性(サガ)です。幸福への向上心(=退屈)とでも言いましょうか。では、仏教には何故「無縁慈悲(=完全利他?)」という言葉が存在するのか。「無縁慈悲」とやらは恐らく、限りなく高みを持ち、到達は不可能(というか終わりが無い)なのでしょう。しかし、魂は自ずとそれを目指して、現世に苦しみに来るのです。苦しみを乗り越えると、魂に成長があります。限りない高みは、神の光の中です。人間には性のカラクリを理解することが出来ません。神の仕組みを暴き切れると思うのは人間の傲慢です。全ての魂は神への融合を求めて現世へ苦しみに来るのです。仏教世界にも、なんとなくそんな様相を感じられた人が居たのではないでしょうか。だから「無縁慈悲」とやらの言葉が出来た。

別角度から切り込むと、人間を始め、生きとし生けるものは、自らが宿る肉体という課題と闘い、克服するために現世に顕現するのです。魂の進化段階に該当する発達段階の生物に宿るのです。人間だけが特別という訳ではありません。人間は地球の物質次元では最高の発達段階の肉体ですが、他の惑星では人間より発達した身体もあります(物質次元とは限らないけれども)。

----------------

>《協調性》を発揮するとき――その現場において―― 《慈悲》だとか《完全利他》だとかの理念は要らない。のではないか? 

上記のような事情で、「協調性」も課題の一部です。全ての事象は向上のためにあるのです。だから私は、「完全利他」の理念を外しては「協調性」も説明出来ません。

「完全利他」とは神のことです。イエス「が」祈るところのそれです。ゼウスとかアラーとか天照大御神とか呼ばれているものです。厳密に言えば、高みは無限なので「上には上が有る」訳ですが、人霊に感識出来る限界が「その辺」なので「その辺」を「神」と呼んでいるのです。

日本で言う「八百万の神」は、いわゆる自然霊(生物に顕現したことの無い魂)のことで、全ての物質を管理しております。そしてピラミッド型の管轄構造があり、その頂点(というか人霊に感識出来る限界)が天照大御神他なのです。自然霊の進化段階も無限にあり、人霊より高いものもあれば、低いものもあります。

-----------------

 ★ 私は打算、利己主義と言ったものは動物時代の名残だと思います。
 >☆ そう思い それにもとづきあたらしい人間論を打ち立てるなら 協調性はさらに高く深く発揮されるようになる。ということでしょうか?

幽実(幽かな世界の実際)を全ての人が理解、受容するなら、協調性も上がろうものでしょうが、そうはいきません。人間にはまだまだ乗り越えるカルマが山積みになっていると思われます。

私は「打算」「利己主義」を肉体の面から説明しましたが、それに対応する魂の面もあるのです。

------------------

 >☆ だとしても その一枚のメッキの皮は とても動物が埋め合わせることのできる差ではないと言わねばならないでしょう。

そのメッキの皮は神から見ると薄皮一枚なのです。動物に毛が生えた程度に過ぎないのです。例えば、昆虫の本能行動と犬猫などの「立ち止まる」行動が違うことは、顕微鏡で見ればとても大きな問題ですが、人間の肉眼から見れば「理性的判断による意志決定ではない」ので大差無いことになるでしょう。それと同じことが、より神に近い霊の目線に起きているのです。より神に近い霊には、人間に及びもつかない深慮遠謀が存在していて、人間の器でそれを理解することは出来ないのです。

私はこのことを「自分が神だ」という目線で述べるのではありません。あくまで審神者の情報によっています。

-------------------

> ☆ ぢゃあ その《動物時代の名残り》が いつでも――ホンショウを表わすように――現われて来るということでしょうか? だから 《完全利他》なる理想をつねに スローガンとしては 言っていなくてはならない。こういうことでしょうか?

言わなくても良いのです。自然な生活を心がければ、カルマの清算は自然にやってくる。それが最も効率的な向上です。だから、自然な自分の認識を持ち続ければ良いのです。それが例え、幽実に適っていようがいまいが、です。自然で無ければ歪んだ生活となり、清算される筈だったカルマは先延ばしになるし、新たなカルマが発生するだけです。それもこれも、本人の自由意思次第ですが。

-------------------

>わざわざ完全性を 理想概念としてのように 想定する必要はないのではないか。こう問うています。

私は上述のような世界観の元に意見を述べているので、こうなってしまうのです。

-------------------

 >☆ どうしてこのように 互いに相容れないと見るかのような対立するふたつの事柄に分けなければならないのでしょう?

相容れないというか、肉体は魂が現世というバーチャル世界にアクセスするためのパソコンなのです。そのパソコンが、38億年かけて進歩してきたが、古い部分はそのまま残っている、それを新機能が制御している、という話なのです。二つの事柄に分けるというか、元々パソコンと使用者は別モノということなのです。確かに、その魂にふさわしいパソコンが用意されることはされますが、それは相応の修行のためであり、パソコンは使用者そのものではありません。

-------------------

>何のために?

問いに答えると最終的に、そこに来ざるを得なくなったという自然な流れだと思いますが。「思い知ったか」と私が思ったかどうかは知りません。主観的には「否」ですが、人は相手の中に自分自身を見るものです。貶められたと感じるかどうかもカルマの清算と関係しているのでしょう。

もっとも、人間は自分が万物の霊長であり、世界の支配者であると思い上がる気持ちを、諌められていると感じるならそれは自然でしょう。幽実は思い上がる人間の鼻をへし折ってしまいますから。それが私というちんけな人間の口から出ているから、なお酷なものとして受け取られてしまうかもしれません。

-------------------

>それは 社会的な自然淘汰ですらなく そうではなく あくまで人間の意志行為としてのたたかいである。こう捉えます。

人間の意志行為は神の手のひらの上です。人間には確かに自由意思が有りますが、実はそれでさえ、魂の鍛練のために自然にそうさせられているものです。自然なのか意志なのか、それは視点の問題なんだろうと思います。自由意思で何と思っても、潜在意識の作用であるという見方もあります。

-------------------

>★ 幽かな世界
 ☆ は関係ありません。

幽かな世界が想定されなければ、私の考えの全ての根拠は無くなります。ですが、幽かな世界を知ろうが知るまいが、自然に生活すれば良い、ただそれだけのことです。「理性と意志が むしろ感性の知覚するがままのオシエを忠実に果たすかどうか ここにかかっていることでしょう」その「かかり」は「自然」にかかっているでしょう。

私は審神者に対する信頼によって「知り得た」としています。もちろん、これをどう捉えるかも、あなたの自由です。自然なのです。それが一番良い。そしてそうあるしかない。なるようにしかならない。

私は「知り得た」と思っているので、強迫観念ではありません。しかし、その認識があなたを脅迫するなら、自然に拒否して下さい。


これでおおむね疑問は晴れたのでしょうか。私には分かりません。そろそろ文字数も疲労感も限界が近づいたようです。後は、自然に考えて頂ければ結構です。それも潜在意識のなるようにしかならない訳ですが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 何で11字さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。ぶらじゅろんぬと申します。

 一つづつお応えしていまいります。

 いまさらですが
 ★ 審神者(さにわ)
 ☆ は 神託を審(さば)く つまりそれをつまびらかにする といった捉え方ですね。
 つまり ふつうに《神》のことを言うのでは必ずしもなくて 神のお告げというような感じでしょうか。

 ★ 私にとって完全利他かどうかは、とても大きなものでして、「微妙」ではありません。
 ☆ これが《感識作用》によって個人差があるというかたちで そのように持たれていると。その差は 自然のことなので問題にはならないとも。

 《感識》というのは 感覚および認識といったことでしょうか。
 ここで ひとこと――深入りはしませんが――述べるとすれば 完全利他の《完全》という概念は 概念としては人間が持ち得ますが その実際の中身は それほどふつうに経験しうることだとは思えません。

 利他や慈悲にかんしての完全は 円や正三角形が完全であるといった使い方とは別です。

 《絶対》という概念も 言葉としては強調のために用いることがあるように この《完全》も 強めのために用いたりしますが ここでは そういう意味で使っておられるとは考えられません。つまりあるいは 極論を打ち出すことによって話をすすめるといった用法もありますが どうもそうではなく言わば《神について言われるような完全》のことであるようです。どうもそうであるらしい。

 ひとまづこの点に触れておきます。

 -----------------

 ★ ~~~~~
  >なんで理想概念? という問いです

 性(サガ)です。幸福への向上心(=退屈)とでも言いましょうか。では、仏教には何故「無縁慈悲(=完全利他?)」という言葉が存在するのか。「無縁慈悲」とやらは恐らく、限りなく高みを持ち、到達は不可能(というか終わりが無い)なのでしょう。・・・
 ~~~~~~~
 ☆ そうですね。なんで理想概念? と問うのは なんでその理念を最後まで保って あたかもつねにその理念から見て ふつうに経験行為としておこなっている振る舞いについて監視したり採点して裁いたりするのか? になります。

 ブディズムの問題としてなら 無縁慈悲なる概念を持ったなら それだけでよいと考えます。その心は いわゆるブッダター(仏性――何なら 神性)》がひとの心にやどるという想定に立つからには あとは ふつうに振る舞っていれば――そしてもし神の嘉(よみ)するところとなるならば―― そのブッダターなるハタラキが起きて 無縁慈悲なる内容をも実現することが出来る。かも知れない。・・・このように捉えているのであって たとえばその無縁慈悲なる《彼岸》をつねに頭の中に保ちつつ その理念に照らして行動を考えつつおこなう・・・といったようなあり方はしていません。そういう意味になります。

 むろん《向上心》について何も問題はありませんが 言って来ていますように 何か《監視カメラ》が作動しているかのように たとえば《完全利他》ならそれとしての理念が つねに持たれているように感じます。そういう率直なコメントです。


 ----------------


 ★ 「完全利他」とは神のことです。
 ☆ ええ。ですから この神は われわれ人間には知り得ないのではないですか? むろんそういう言葉もあり概念としても 神学が築かれ それとしてオシエは持たれ得ていますが 《神》そのものは 知り得ないですよね?

 知り得ない何かによって 《向上心》を活かしさらに発揮しうるようにするというのは どうなのでしょう?

 ★ 人霊に感識出来る限界が「その辺」なので「その辺」を「神」と呼んでいるのです。
 ☆ だとしたら その《「神」》は 人間の知覚し得て思考し得て認識しうる概念になります。つまり 想像と思考との産物です。これは《完全》ではありません。人間の理性や知性なる能力には限界があるのですから。

 つまり 《完全利他》なる《「神」》という想像物によって 世界において行動しその行動を認識したという思考物を言わば査定しているわけになります。これは 堂々巡りになると言わざるを得ません。


 -----------------


 ★ ~~~~
  >☆ だとしても その一枚のメッキの皮は とても動物が埋め合わせることのできる差ではないと言わねばならないでしょう。

 そのメッキの皮は神から見ると薄皮一枚なのです。
 ~~~~~~~
 ☆ これについては ひとことでお応えし得ます。《あなたは 神の視点を自分のものにしたのか?》 これです。つまり あなたは神なのか?

 あるいはつまり 神の視点など ここではどうでもよいのです。動物とヒトとのあいだにある隔たりが確認できたらよいのです。

 ★ より神に近い霊には、人間に及びもつかない深慮遠謀が存在していて、人間の器でそれを理解することは出来ないのです。
 ☆ どうして そのようなことを 人間であるあなたが知り得るのですか?

 ★ あくまで審神者の情報によっています。
 ☆ でしたら その知り得た結果としての内容について どうであるかを考えればよいとも言えます。つまり審神者も人間のことなのでしょうから その得た情報について中身を問えばよいことになります。

 つまりは
 ★ 人間に及びもつかない深慮遠謀が存在していて
 ☆ この命題は 意味を持ちません。主観の内でのみ自由に持たれて 大切にされることがあっても ほかの人に対しては 意味がありません。《及びもつかない》ことなのですから。
 ★ 人間の器でそれを理解することは出来ないのです
 ☆ 審神者とて 人間です。

 -------------------

 ★ 自然な生活を心がければ、カルマの清算は自然にやってくる。
 ☆ これは 上に《無縁慈悲》のことでわたしも同じようなことを述べました。


 ---------------


 ★ 相容れないというか、肉体は魂が現世というバーチャル世界にアクセスするためのパソコンなのです。・・・二つの事柄に分けるというか、元々パソコンと使用者は別モノということなのです。
 ☆ でしたら わたしの立ち場として 《その魂ないし霊が 仏性としてあるいは神の霊として われわれそれぞれの〈身と心〉にやどる》と想定しており そのかぎりで《二つないし三つというふうに区別しうるけれども もともと一体である》と申し上げます。
 
 ---------------

 ★ 幽かな世界が想定されなければ、私の考えの全ての根拠は無くなります。 / ・・・/ 私は審神者に対する信頼によって「知り得た」としています。
 ☆ 《神》を想定することと その神の心を《知り得た》とすることとは 別です。
 神を見た・神の心を知り得たと発言することは 自由ですが その中身がひとに伝わるかどうかは 別のことです。

 言いかえると 片や 《想定》のもとに神をいだき 議論にかかわるかぎりでその信仰とそこから得られる観想や思惟について述べることと 片や 《神の心を知り得たという今度も別の想定》のもとに議論をすることとは 別です。

 《神の心を知り得た》と言わなければ 話をすすめられないというのは 狭い信仰です。独り善がりの審神者です。
 相手が神の心を知り得ていないという前提で ご自分の情報を経験合理性で分かるように説明するのでなければ その審神者は 眉唾物です。
 むろん 信仰は自由です。ですが その中身は 神を取り違えておられる。こう結論づけます。どうでしょう。

お礼日時:2013/07/29 23:41

>日本人の協調性は 稲作農耕という経験から来たか



 そうですね。それもあると思いますが、ヨーロッパの歴史と比較すると、他にも思い当る事があります。#14さんの後などに、これをアップすると場違いな気もしますが、こういう視点もどうか?という事で・・・(^^;)。


1)稲作農耕
 例えばフランスは今でこそ農業大国になっていますが、昔のヨーロッパは基本的に土地が貧しかったはずです。オリーブとブドウくらいしか育たなかったのですから。そこから想像するに、一般的な狩猟生活は長かったと思います。日本にもマタギがいますが、あの人達は基本的に山の民で、一種のプロフェッショナル集団です。ヨーロッパではプロでなくても狩猟民、という事になります。

2)異民族との軋轢
 イギリス,フランス,スペイン,ドイツ,ギリシャ,イタリア,(一派一絡げで申し訳ないが)北欧などと代表どころを並べてみても、そのそれぞれの血統を遡れば、全部別だったと思います。出自の違う民族が、歴史的偶然でヨーロッパという地続きの大陸に混在する事になってしまった。カタロニア(スペインのバスク地方)の人達には、今でも異常にRH-の血液型が多く、他のスペイン人とは違う民族ような気がする。バスク地方の人達も、それを誇りにしてたりする。

 過激に言いますが、民族が違えば「人ではない」はずです。殺したって罪にはならない。逆に「人ではない」奴らから受けた仕打ちは、一生どころか歴史的に忘れません。ボスニア,ヘルツェゴビナの血で血を洗う争いを見た時、そう思いました。もとはユーゴスラビアという一つの国内にいだのに・・・(過激派から言わせれば、そっちの方が異常だったのですが・・)。

 一方、今でも日本人の起源はわかりませんが、日本ではアイヌとシャモ(和人)の対立くらいしか明確にはなっていない。どうも日本人は最初から、大和民族という自覚を持っていた気がする。そしてシャモは一方的にアイヌを排撃し、同化した。アイヌの血は出たかもしれないが、シャモの血は余り出なかった。

3)侵略
 日本は侵略を受けた事が余りない。あるのは元寇くらいだ。それも歴史的偶然(神風)によって、内地に被害の及ぶ事なく退けられた。一方異民族の入り乱れるヨーロッパにおいて、侵略は日常茶飯事だった。

 ここで興味あるのが、中世のヨーロッパ辺境であったイギリスです。当時の大陸(ヨーロッパ大陸)では、イギリスには蛮族しかいないと思われていた。日本の東北には蝦夷しかいないと思われていたように(北海道なんて、世界の境界外だった)。だから征夷大将軍の職もあった。

 イギリスは、例えば鎖国できなかったのだろうか?。ここで重要なのが、案外ドーバー海峡の狭さかも知れない。フランス,スペインとイギリスの地理的な偶然です。ドーバー海峡の最狭部は35kmしかない。

 一方日本の対馬海峡は朝鮮半島と壱岐島を挟んで約100kmの距離がある。そして日本は壱岐島に自衛隊(?)を置ける。実際に対馬藩は壱岐島に守備隊もどきを置いた。

 後は「そこまでしてやる価値があるのか?」の話になる。当時の中国なら、たぶん日本を侵略できた。しかし日本にそこまでの価値は見い出せなかった。やるにしても日本に最も近い朝鮮にやらせるのが筋だ。でも属国とは言っても朝鮮は独立国だった。それなりの面倒臭い手続きを踏まなければならない・・・。日本にそこまでの価値はなかった・・・。

 一方イギリスはドーバー海峡が狭いという理由から、常にフランス、スペインから侵略を受けた。地理的に可能だから両国には行ってやるだけの価値があった。だから大戦争なんかも起こり、それらの王家の血統は混ざり合い、イギリスは鎖国政策を考えなくなった。

4)そして既に仏教があった
 地理的・歴史的偶然から、日本は鎖国できたと思いますが、そのとき既に仏教が浸透していた。その仏教もシルクロードを渡って来る過程で、ヒンドゥー教などと本来共有していた南方的な生臭さを、剥ぎ落とされたものだった。本当の現実は違うでしょうが、とにかく日本には不殺生の建前が浸透し、ヤオヨロズの神の伝統といっしょくたになって、ほとんど何でも受け入れるようになった気がする。

 一方ヨーロッパは、基本的に異教徒を排撃するキリスト教だった。


 1)~4)を眺めると、他者への攻撃性を助長する要因がほとんどない事に気づきます。一方西欧圏は、帝国主義という形で、非西欧圏に対する異常な攻撃性を持つにいたる。

 江戸末期から明治に日本を訪れた来訪者の記録には、日本を桃源郷のように書いてある面がある。小泉八雲などは居心地が良すぎて、住み着いてしまった。

 スペインのアルマダを破り七つの海を手に入れたイギリスは、世界の最先進国に躍り出たが、そのスラム街は糞尿まみれのままだった。一方で江戸の庶民は、世界一清潔で治安の良好な貧民街に住み、礼儀正しく性格は穏やかで、物はないが(宵越しの金は持たないからね(^^;))豊かな生活をしていた(とある)。

 悲惨というイメージの強い農民一揆も、本当に悲惨なのもあったが、武士と農民の間での年貢調整を目的とした談合の色合いが強い。

 そうすると興味あるのは戦国時代ですが、このとき既に宣教師の記録には、礼儀正しく微笑みを浮かべ協調性に富む涅槃の国といった記述がある。生存競争の激しかった戦国時代にも、一定のクウキがあったのでしょう。例えば戦闘は農閑期にしか行わない、という不文律があった。その中で職業軍団を育てようとした尾張の大ウツケは、確かに異能な人だったんだと思う。

>何だか 何百年かのあいだ・われわれのまわりでは 《慈悲》だとか《さとり》だとかの文句がそこら中に看板が立てられたり誰のだか知りませんがあたかも CM やコマーシャルソングとして流れて来たりしていて 人びとはどうしても《利他》だとか《無私無欲》だとかといったことを 二言目にはつぶやかなくては さげすまれるというような強迫観念になやまされて来たのではないか?

 ・・・案外、正しかったりして・・・(^^;)。


 日本人の攻撃性は低いと思います。自分には中国,韓国,タイ,アメリカ人の知り合いがいました。この人達の攻撃性が取り立てて高かった訳ではありません。でも日常的な何気ない言動から、日本人の攻撃性の低さを逆に感じました。

 しかし攻撃性を持たない人間はいない。長年攻撃対象を持たなかった日本人は、それを社会への積極的な(攻撃的な)関わり方として、協調性に転化させたような気がします。

 日本人だって十分な攻撃性は備えている。それが目覚めた時、脱亜入欧と富国強兵を掲げ、西欧圏の一等国になろうとしたが、いかんせん慣れてないので戦略が下手糞だ。下手糞故に日本の外交官の余りの誠実さに諸外国は驚いた、という記録がここにも残っているが、植民と戦争で大失態を演じる。民主党も読めてなかった。まわりを全く見ない勘違いの自慰行動を行った。

 とは言え、協調性や穏やかさは失って欲しくないな、とも思います(^^;)。

この回答への補足

 おぎないですが
 バスクとカタローニャとは別です
 と ほかの人からの指摘を受ける前に 質問者のほうから。

補足日時:2013/07/28 14:35
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ううーん。まづは でぃーでぃーてぃーさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。ここまでをわたしなりにまとめてみますと:

 1. 和の協調性といった性格的な特徴を 稲作農耕にしてもひとつの要因に帰することは ちょっと行き過ぎだ。さまざまな要因を広く考えるべきである。(=ほぼみなさんの見方)。

 2. 稲作農耕は 水利の都合を共同作業に負うのだ(回答No.5)けれど その水をめぐって ひとつの川の上流・中流そして下流の周辺の農村がそれぞれ 日照りがつづき渇水のときには むしろ残り少ない水をめぐって争ったようである。争いのつまりけんかの・つまり戦争の中身は すごかったし 和解してよい妥協案が採択されるまでけっこう長くかかった(回答No.2&7)。
 ――この史実の示す内容は 稲作農耕=協調文化論を 手放しでは 推しがたいと思わせるものがある。

 3. (1)に加えて 外国の事情との対照や 日本の置かれた地理的条件 あるいはそしてその国際関係のあり方 これらをめぐって 考察を加えてもらいました(本回答)。


 わたしも専門家ではなく あやふやかも分かりませんが のべてくださった中から 検討・検証事項にあがるかと思われるところを 確認事項とともに 拾い上げてみます。さらに問い求めが深まればさいわいです。


 3-1. ★ 日本人の攻撃性は低い――か?
 ☆ これは そうは言っても
 ★ しかし攻撃性を持たない人間はいない。
 ☆ と事割りがそえてありますので問題はなく むしろこの《攻撃性にかんする恬淡さ》ゆえに 一度実際に兵士となって特によその国でたたかわなければならなかったときには いろんなことを仕出かしたかも知れない。とも書き添えられています。

 明治維新からは むしろけっきょくささやかながら・そしてイヤイヤながらも 《帝国主義》の仲間に入って行った。問題が起こらないほうがおかしい。
 ★ 日本人だって十分な攻撃性は備えている。それが目覚めた時、脱亜入欧と富国強兵を掲げ、西欧圏の一等国になろうとしたが、いかんせん慣れてないので戦略が下手糞だ。
 ☆ だから 戦争放棄は けっこう性に合っているかも。

 3-2. ただ あれですね。秀吉の半島侵攻がきわだつことになりますね。
 ★ そうすると興味あるのは戦国時代ですが
 ☆ これはすでに信長が 半島をも越えて中国をも望んだ その遺志を秀吉はついだだけだとか。それでは 
 ★ 例えば戦闘は農閑期にしか行わない、という不文律があった。その中で職業軍団を育てようとした尾張の大ウツケは、確かに異能な人だったんだと思う。
 ☆ といったふうにひとりの人間の特異さに原因をもとめるべきか?

 3-3. そのまた昔 半島に出かけて行かなかったわけではない。
 ちょうどいま読んでいた本のひとくだりを掲げてみます。
 ▼ (天智朝での国際関係) ~~~~
 〔天智天皇がなくなりその殯(もがり=一定の期間おこなわれる葬儀)のときに〕郭務悰が唐皇帝の使者として筑紫に来航し新羅攻撃への支援を要求してきた・・・。総勢二千人 船四十七艘という空前の使節団によって圧力をかけられた倭王朝は 国王の喪中であることを告げ 甲冑・弓矢と大量の献上品を差し出して お引き取り願うしかなかった。しかし 新羅攻撃への協力を命ずる高宗の国書を受け取らされた以上 倭王朝としては何からの対応を取らざるを得なくなった。『日本書紀』には外交・軍事の機微は書かれていないが このように読むのが自然だろうと思われる。
  ( 吉川真二:『飛鳥の都』 2011 p.122)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ むろん 例の白村江の戦いにはすでに兵士を送って戦闘し負けています。


 3-4. ★ 江戸末期から明治に日本を訪れた来訪者の記録には、日本を桃源郷のように書いてある面がある。小泉八雲などは居心地が良すぎて、住み着いてしまった。
 ☆ 八雲の場合も 出雲はそうだったのですが すでに次の任務地の熊本では ソフィスティケートしていて何とも応対しきれないような西洋的ニホンジンが 一部分 いたとも言っていたと思います。

 3-5. 対馬海峡とドーバー海峡との 幅の広い狭いはよく引き合いに出されるようですね。

 3-6. ★ 悲惨というイメージの強い農民一揆も、本当に悲惨なのもあったが、武士と農民の間での年貢調整を目的とした談合の色合いが強い。
 ☆ 人びとがいかにおとなしいか。お上を転覆しようとは思わなかった。か?
 例の加賀・吉崎の一向一揆は 守護を追い出したか自分たちが擁立したかだったような。まぁ そこまでなのでしょうね。足利氏を倒そうというところまでは・まして天皇をしりぞけるというまでには・・・。

 3-7. ★ 一方、今でも日本人の起源はわかりませんが、日本ではアイヌとシャモ(和人)の対立くらいしか明確にはなっていない。どうも日本人は最初から、大和民族という自覚を持っていた気がする。・・・
 ☆ ここで大きな議論にまでは行けないと思います。
 アイヌは 意外と――つまりその居住範囲は最大限では 大和というまでの見方もあるにもかかわらず――その跡を残していないように思われます。アイヌも 同じことにはこだわらない性格で 水に流すという文化を持っているのでしょうか。

 南方・マレーシャなどのオーストロネシア語族と 北方・朝鮮半島からのアルタイ語族 そして新説としてはインドのドラヰダ語族 これらの重層的な成り立ちではないかと。
 発音の傾向は 南方人。文法は ドラヰダ(ないしタミル)語。または 朝鮮語などのアルタイ語。(いづれも よく似ている)。

    *


 ★ とは言え、協調性や穏やかさは失って欲しくないな、とも思います(^^;)。

お礼日時:2013/07/28 14:33

改めまして、何で11字と申します。

これは、ハンドルネームが10文字しか入力出来ないのに、11文字以上の人が存在するから、「何で」ということで決められました。その件に関してはだいぶ前解決しました。

相互利己の内容を分析しているかどうか、という問題だと思いますね。相互利己には自分の身を守るための、あるいは利害、名誉、名声などを打算的に目論んだ「お互い助け合う」ということと、誠の利他愛の「助け合い」の2種類があると私は考えています。どちらでも「相互」「利己」ということにはなるのではないでしょうか。利他愛でさえ、究極的には利己だという立場に、私は立っているのですから。

しかし、実際には善行にはその2種が両方混じり合っていると思われます。人間の心はそんなに単純ではない、二つ以上の動機が行動させていると思われます。「相手にとって良いこと」と「自分にとって良いこと」を動機としているが、どんな比率でそれを発揮できるのか、ということで精神性の進み具合が決まるのではないかと思っております。

善意が自分の心に湧いて来た瞬間、注意深く自分を内観して見て下さい。それは本当に完ぺきに、相手のためなのでしょうか。「自分が良く見られたい」などという打算が、全く無い自信がおありでしょうか。おありならスゴイことですが。たいていは入り混じっているものなのですよ。自然の想い、というけれども、細かく見て行けばその心は必ずしも完全利他ではないのではないでしょうか。

「相互利己」という言葉も細かく分析すれば色んな度合い、色合いと言うべきかな?があるのではないかな、と思います。

成長ということは、常に人はし続けております。だんだん自分都合の行動から、真の、相手を思う気持ちへと成長して行きます。どうしてそう成長するのかは性(サガ)であるとしか言いようが無く、人間の理解を超えます。

私は打算、利己主義と言ったものは動物時代の名残だと思います。大脳新皮質を少し剥けばサルになり、もっと剥けばどんどん下等生物に劣化して行くでしょう。つまり、人間とは革命的に変化した動物なのではなく、塗り重なった動物の歴史なのです。大脳新皮質の巨大化、それだけで他の動物と一線を画しているのです。ということは、動物性は人間には無くなっていないことになります。理性はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです。

つまり生存本能は動物時代から無くなったのではなく、脈々と受け継がれ、現在も人間の行動する動機の大きな要因になり得ます。そのとき理性はそれを達成するためのコンピュータとなるのです。

ウソ・イツワリそのものは理性上で練られたものかもしれないけれども、それの発端が脳の動物部分に付き従ったものなのか、それとも大脳新皮質で純粋に考察されたものなのか、という分別が生まれるのです。

脳の、古い動物部分に従った動機で無いとしたら、その時大脳新皮質は、魂に使用されていると思われます。動物部分の生存本能と関係ない何かが、脳というコンピュータを使用しているのです。

実際には魂と脳の動物部分は複雑な関係の、大脳新皮質というコンピュータの、共同使用者なのだろうと思います。

私の意見はこういった認識の元に発せられています。

スペンサーという人が言うところの、自然淘汰が無い、というのは、実際人間には自然淘汰が無いんでしょうけど、それは「相互利己」上、社会上の結果であり、その根拠・要因であるところの理性の発達が、必ずしも「人間には動物性が無いのだ」ということにはならない、ということなのではないかな、と思います。

厳密に言えばこの格差社会において、若者の結婚、出産率が落ちているのだから、自然淘汰は存在することになりますが。


「極端な2つ」

脳の動物部分に従うのか、魂に従うのかという選択が顕在意識に許されています。顕在意識とは恐らく、大脳新皮質に癒着した魂の部分です。大脳新皮質に癒着していない部分は潜在意識として有ると思われます。これは物質より幽(かす)かなものですがこの空間に漂っているんだろうと思われます。相互利己というけれども、動物部分に付き従った動機と、魂の潜在部分に従った動機ではまるで別です。魂には神性が宿っているからです。

結果は同じでも動機が違えば実情はまったく別です。現世の人間は現実の結果で全てを決めつけるものですが、幽かな世界では現世の結果は関係なく、動機が全てなのです。動機がそのままその人のレベルを決めるのです。結果とは現世だけのものです。だから私は相互利己という結果が同じであるということを軽視しているのです。ただ、これらのことは科学的には実証されていません。私の信じるところということに過ぎません。

私にとってこの認識は自然な自分を説明したものであり、特に強迫観念とは思いませんが…
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 何で11字さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 お名前のことが分かりました。ありがとう。《時》とまちがえました。



 ★ 利他愛でさえ、究極的には利己だという立場に、私は立っているのですから。
 ☆ ここの議論としては それほど違いはありません。たとえば
 
 【Q:《自己の精神的充足》は 《利己》ではないですか?】
 【Q:利他って何ですか?】

 というふうに設問をももうけて 問い求めて来ていますので。

 くどくなってもよいとすれば
 ★ 相互利己には自分の身を守るための、あるいは利害、名誉、名声などを打算的に目論んだ「お互い助け合う」ということと、誠の利他愛の「助け合い」の2種類があると私は考えています。
 ☆ というふうに何故 ふたつなら二つの概念に分けてから 考えをすすめようとするのか? です。
 人間の意志行為は おおむね自己や身内のためになることを思っての利己的な部分が基礎になっていると考えますが そこで ほかの人びとのためになることを考えていないというわけでもないと思われます。とっさのときには 利己心をかえりみず ほかの人のためになることをおこなう場合さえあります。

 もしこのように《利己心を基礎としつつ 利他的なふるまいや助け合いをも ときにはすすんでおこなう》ということが おっしゃるところの前者すなわち《自己保身としての相互利己》だとすれば つまりはどうしてそのほかに後者を別建てで立てるのだろう これです。

 すなわち後者とは 《誠の利他愛〔としての助け合い〕》といった どう言いますか 純粋概念のことですが どうしてこれを持ち出して来るのでしょうか。
 つまり いわゆる慈悲です。それも 一般に人びとが成し得るところの衆生慈悲や法縁慈悲ではなく まれにしか実現し得ない無縁慈悲といった概念 これのことです。




 むろん そのことにも触れておられます。
 ★ しかし、実際には善行にはその2種が両方混じり合っていると思われます。
 ☆ ですが 実際くどいように取り上げましたのは それがやはり言わば対立する二項に初めに分けてその前提を 最後まで保とうとして議論をみちびいて行くこと ここには どうしてか? という疑問が持たれます。すなわち
 ★ 「相手にとって良いこと」と「自分にとって良いこと」を動機としているが、どんな比率でそれを発揮できるのか、ということで精神性の進み具合が決まるのではないかと思っております。
 ☆ つまりやはり《比率》を気にしておられる。

 ★ 人間の心はそんなに単純ではない、二つ以上の動機が行動させていると思われます。
 ☆ という背景としての事情や事態を捉えておくだけではなく その前提を最後まで一つの基準枠として用いていくそのやり方です。

 すなわち
 ★ ~~~~~
 善意が自分の心に湧いて来た瞬間、注意深く自分を内観して見て下さい。それは本当に完ぺきに、相手のためなのでしょうか。「自分が良く見られたい」などという打算が、全く無い自信がおありでしょうか。おありならスゴイことですが。たいていは入り混じっているものなのですよ。自然の想い、というけれども、細かく見て行けばその心は必ずしも完全利他ではないのではないでしょうか。
 ~~~~~~~
 ☆ 微妙な違いは わたしの場合は 《完全利他》という理念のような想定を――主観として自由に持ってもよいが 理論としては――持たないということです。《打算》と《相手のことを思う善意》とが入り混じっていてもよいという見方です。ふつは そうだと見ると言っています。

 なんで理想概念? という問いです。

 《協調性》を発揮するとき――その現場において―― 《慈悲》だとか《完全利他》だとかの理念は要らない。のではないか? です。



 つまり
 ★ 「相互利己」という言葉も細かく分析すれば色んな度合い、色合いと言うべきかな?があるのではないかな、と思います。
 ☆ と言うにとどめておくという理論です。



 ★ 私は打算、利己主義と言ったものは動物時代の名残だと思います。
 ☆ そう思い それにもとづきあたらしい人間論を打ち立てるなら 協調性はさらに高く深く発揮されるようになる。ということでしょうか?
 
 ★ 動物性は人間には無くなっていないことになります。理性はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです。
 ☆ ぢゃあ その《動物時代の名残り》が いつでも――ホンショウを表わすように――現われて来るということでしょうか? だから 《完全利他》なる理想をつねに スローガンとしては 言っていなくてはならない。こういうことでしょうか?


 けれども そうは言いますが ヒトはすでに 欲望が衝動的に起きて来ても それを もしそうだとしたら 《むさぼり》であると認識しうる動物です。しかもその認識は かなりの程度において 行動を拘束します。
 極端な例を出すなら レープを頭の中に思いついたとします。ですがこれを 相手の意志を踏みにじる不法行為としてのレープだと認識し得るし そのことが一たんとしてでも 心や脳裏をかけめぐります。

 つまり言いたいことは 動物は 本能にまかせて――本能のみによって――行動するのみなのです。ヒトは 認識を経て たとえそれが善くない・マチガイだという認識内容であったとしても もし実行しようと思えば意志がそれを敢行します。という具合いに成っています 行動の形式として。

 動物は一たん立ち止まるということはありません。獲物を取るために よりよい方法を考え出そうとするために立ち止まるかも知れませんが そのいまおこなおうとしている事を認識しいちど利己か相互利己かなどなどといういわゆる善悪の判断や それを経たあとの意志決定といった過程を経ることはないでしょう。

 ★ 理性(* むしろ善悪の判断は 感性であり 理性はそれを確認するだけであり 問題は最終の決定として意志にある。こうだと見ますが)はメッキのように動物の上に覆いかぶさっているだけです
 ☆ だとしても その一枚のメッキの皮は とても動物が埋め合わせることのできる差ではないと言わねばならないでしょう。

 そういう人間が考えておこなう《利己ないし相互利己》なる意志行為である。こういう理論であるのですが そうであれば わざわざ完全性を 理想概念としてのように 想定する必要はないのではないか。こう問うています。

 敢えてさらに言えば 《動物時代の名残りであるかも知れない打算や利己主義》のうちに――つまりは そのような動機で行動しているところで―― 広く社会全体を見渡せば そこそこの互いの助け合いや秩序と安定した成長が得られることがあり得る。こう考えます。


 繰り返しになりますが
 ★ 脳の、古い動物部分に従った動機で無いとしたら、その時大脳新皮質は、魂に使用されていると思われます。
 ☆ どうしてこのように 互いに相容れないと見るかのような対立するふたつの事柄に分けなければならないのでしょう? 分けてもいいですが その区分が最後まで理論の上でも保たれて 両者はどうしても相容れないのだと言おうとしている。むしろ そう言うことを目的としているとさえ見られます。

   ひとよ おまえは あかるくあたたかそうな心を見せるときがあって
  それにもとづき おとなしくやわらかな考えを持った知性の人であると
  いうが じつは仮面をかぶっている。
   そうではないか?
   おまえなどは 一皮剥けば 動物なのだ。
   四足で這いつくばって そこここで餌をあさっているただの動物である
  に過ぎないのだ。思い知ったか。

 とでも言いたそうな気配です。何のために?


 わたしは
 ★ 「人間には動物性が無いのだ」
 ☆ とは考えていません。生理的な欲求とそれの充足行為は 動物と同じものを共有しています。
 ただし 動物と違って そのことの認識とどうすべきかの判断力をも持っています。上にレープの問題ですでに考えました。

 それと 動物の習性を ひとは今度は認識し得てそのことを 理性と意志とであたかも再現しようとすることがある。これを 経済的なあるいは政治的な競争の場にあてはめると あたかもそのありさまは 動物の自然淘汰と同じようないきさつが繰り広げられている。けれども それは 社会的な自然淘汰ですらなく そうではなく あくまで人間の意志行為としてのたたかいである。こう捉えます。
 
 すなわち
 ★ 厳密に言えばこの格差社会において、若者の結婚、出産率が落ちているのだから、自然淘汰は存在することになりますが。
 ☆ とは見ません。共同自治としての政策の不備であろうと考えます。意志行為の問題であると。


 ★ 魂には神性が宿っているからです。
 ☆ その神性――ないし仏性とでも――を活かすのは 理性と意志が むしろ感性の知覚するがままのオシエを忠実に果たすかどうか ここにかかっていることでしょう。
 そのとき
 ★ 幽かな世界
 ☆ は関係ありません。それを人間は知り得ないのですから。
 知り得ないものを持ち出して つねにその理念から思惟をはこぶのは 《強迫観念》です。

お礼日時:2013/07/28 09:39

お礼ありがとうございます。



 ☆ なかで《利他》なる行為は 相互利己なるおのれの意志行為だと思うのですが だとすると 利他愛による協調性は 相互利己としての助け合いであり そういった生存および共存のための行動の傾向であるように思いますが どうでしょうか。

★まさにそこなのです。人間の意識は個に分かれているため、自分主義、自分勝手に陥りがちです。これを仮に狭義の利己主義と呼びます。ところで、私の認識では現世を離れれば、人間の意識は個に分かれておらず、意識が通じ合っていると思っているのです。だから全ての魂をひっくるめて自分と呼ぶことも出来るのです。これを類魂と呼びます。全ての魂が自分であるという視点に立った時、利他愛は広義の利己主義である、という言い方も出来るのです。

ここで前回答に立ち返ると、、人間の成長は、狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるということなのではないかな、という話だった、と言い換えることが出来るのです。

類魂とは、審神者による幽明交通によってもたらされた概念に過ぎません。だから類魂を科学的に実証することは出来ていません。

とは言ったものの、利他愛が究極の利己主義であるということとは綺麗に合致していると思われるのです。

生存本能とは、ダーウィン進化論によると、あくまで同じ種の中でもある個性が生き残っていくことによって他が淘汰されて行くという仕組みです。全体が生き残ったら進化が無いことになります。ので、人間全体の種の保存という意識が生存本能なのではない、と私は感じております。あくまで自分と言う個が生き残るための本能です(狭義の利己主義)。そして、他者を命がけで助けるという時、自分と言う個の生存本能の可能性が排除されるということは、それは利他愛(広義の利己主義)であると思われるのです。自分と言う個の生存本能に従うならば、他者を命がけで助けるということは矛盾していますね。

 ☆島国なら 大陸における社会生活とは違った亜種のような心性や性格が生まれるのだろうか? とか。
 島や人口がどのくらいの大きさにおいてその島国人間の特徴は 現われるのか? 同じような島国としての条件なら 同じような性格が出来上がるのか? とか。

★自然災害だけの問題ではないでしょうね。日本は人口密度も世界一ですから、協調する機会も多いということが出来るでしょうね。世界を見渡すと、地平線まで同じ風景が広がっていることが良くあります。人が視界に入ってきません。しかし、日本国内は山以外どこへ行っても農村か市街地です。少ない平地に人間が群がっております。そして国土の多くが山であり、世界一の人口密度がさらに部分に凝集します。だから他者に遭遇する機会も多いわけです。

宗教的特異性は無いのか、とも考えましたが、神道は単なる審神者の儀式のようで、「協調せよ」という教義が特にあるということでもなさそうですが…

 ☆自然災害に遭うこと またその災害の種類や程度が同じようならば 同じような性格が出来上がるのか?

★今までの論筋だとそういうことになりますね。災害の種類や程度、人口密度などの程度が同じ島国が存在しないので何とも言えませんが。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 何で11時さん あらためまして こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 ★ ここで前回答に立ち返ると、、人間の成長は、狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるということなのではないかな、という話だった、と言い換えることが出来るのです。
 ☆ これは そういう仮説においていちおう成り立つと思います。
 ★ 全ての魂が自分であるという視点に立った時、利他愛は広義の利己主義である、という言い方も出来るのです。
 ☆ といった仮説を前提にした場合です。

 そう思いますが そうですね じっさいの行動を採るときには おのおの《わたし》は利己主義ないし利己心の広義と狭義とに必ずしもこだわらず その相互利己(?)の思いから行動におよぶものと思われるのです。

 ということは そのつど今回の救出劇のような事態に遭遇した場合には みづからの自然の思いに応じて振る舞うということではないか。

 それとも 《類魂》といった理論に合わせて そのつどの事態に当たっても 
 ★ 狭義の利己主義を減らして、広義の利己主義を増幅させるという
 ☆ 人間の成長を目指すことになる。――こうお考えでしょうか?




 それから はっきりものを申しますが
 ★ 生存本能とは、ダーウィン進化論によると、あくまで同じ種の中でもある個性が生き残っていくことによって他が淘汰されて行くという仕組みです。
 ☆ というときのそれとして正式の《本能》については 人間はそれがほとんど残っていないとわたしは考えています。

 動物であることの名残りとしては 大きくほかの動物とこの本能という衝動ないし欲動を共有すると思われますが それがじっさいにはたらくか? となると あまりそうだとはわたしは思っていません。やはり理性ないし理屈ないしさらには打算計算がはたらくのではないかと捉えています。

 言いかえると 理屈で捉えた方程式のようなかたちにおいて たとえば《社会的な自然淘汰》が起こると計算したりする。また その淘汰という法則に合わせたかたちを採るかのように そこへと追い込んだりする。とは思いますが じっさいに現実に 勝ち組と負け組とに分けられたからと言って それが本能としての生存競争をたたかって勝った・負けたとなったのだとは見ません。
 たとえば 人間は 動物とちがって《ゆづること――さらには ゆづりあい――》をすすんでおこなうことがあるからです。

 生存本能を自然のかたちでむき出しにした社会的な(スペンサーとかいった人の説の)自然淘汰が そのままに人間の社会において繰り広げられるとは 思わない これです。

 むしろ――言葉を存在が時間的なものであるからには 時間的な過程の中で・つまり歴史という舞台において用いて生きる人間としては―― ウソ・イツワリを初めとするアザムキをとおして淘汰〔という言葉を用いるとするなら〕されるのであって 本能の勝負だとは見ません。

 その勝負は しばしば悪知恵のはたらくほうが勝つ場合が多いようですから――そういう意味において 人間論や世界観といった理論の問題ではなく ただただチカラの方程式によるところの社会力学の問題であるようですから―― 生物学的に動物としての本能という行動形式をあてはめたい誘惑にかられるとは思いますが やはりそうではなく 文化的な仕掛けによる知恵どうしのたたかいではないかと考えています。



 お尋ねしますが どうして次のようにふたつの極端な場合に分けて議論をすすめていかれるのでしょう?
 ★ あくまで自分と言う個が生き残るための本能です(狭義の利己主義)。そして、他者を命がけで助けるという時、自分と言う個の生存本能の可能性が排除されるということは、それは利他愛(広義の利己主義)であると思われるのです。
 ☆ 利他は 相互利己であり 利己でさえ その利己の行為が間接的に社会関係の構造をつうじて利他になっている部分もあるはずなのですが やはり相互利己である。というふうに おそらくそれがふつうの見方だと思われるのですが 捉えるということを 人びとは どうしてしないのでしょう?


 何だか 何百年かのあいだ・われわれのまわりでは 《慈悲》だとか《さとり》だとかの文句がそこら中に看板が立てられたり誰のだか知りませんがあたかも CM やコマーシャルソングとして流れて来たりしていて 人びとはどうしても《利他》だとか《無私無欲》だとかといったことを 二言目にはつぶやかなくては さげすまれるというような強迫観念になやまされて来たのではないか?



 ★ 自分と言う個の生存本能に従うならば、他者を命がけで助けるということは矛盾していますね。
 ☆ いや 分かりませんよ。《本能》は あたかもそれになぞらえた理屈と打算とがあるのみだと捉え返すのですが それを除けば ひとは咄嗟の判断で 赤の他人を命がけで助けるということを けっこう平気で(というよりも 意図や意識はなかったでしょうが)やってのける。かも分かりません。



 あとは 日本の置かれた地理的・自然環境的な条件をめぐっての確認だと思います。


 何だか論議がはじまったかのようですが 取り敢えずこのように考えて お応えとします。

お礼日時:2013/07/27 12:42

>日本人の協調性は、稲作農耕文化という経験から来たか



過去回答にも度々登場しますが、諸外国にも稲作農耕文化はあったのであり、インドネシア方面を向けば日本とよく似た棚田があって、「美しい棚田100選」のような外国の写真も、このネット上には散見されます。稲作農耕文化が日本人の強調性だというなら、同じ棚田を持つ諸外国の地域も日本人と同じ強調性でなければならないことになります。

そもそも、日本人と同じ資質である社会ならば、もっと日本に近い状態の社会が有ってもいいはずで、それが見当たらない、話に聞かない、ということであれば、日本人とは資質が違う。資質が違うということは社会的に重要な意味を持つ強調性の有り方も違うのではないでしょうか。

私はここで一度日本が置かれた状況に立ち返ってみたいと思います。

例えば、私の趣味の一種であるところの、昆虫に関してですが、カブトムシには本土カブト、沖縄カブトなど亜種に分かれています。クワガタにしても、本土ノコギリクワガタ、琉球ノコギリクワガタ、トカラノコギリクワガタ、奄美ノコギリクワガタ、八丈、八重山など、離島に応じて亜種が居ります。つまり、その島にしか存在しない種があるということです。それでいて、本土ノコギリクワガタと、琉球ノコギリクワガタは交配可能です。

私が何を言いたいかというと、日本自体が大陸から離れた離島であるから、日本だけ特異に発達した何かがあり、日本人はそれに適応するために現在の文化状況となった筈だということです。そしてそれはどんな生き物にも言えることです。その土地で生き残るには生活形態を変える必要がある、その独自の進化が亜種を作ったのです。

では、人間の日本亜種の特徴のひとつであるところの、「強調性」を作った原因は何だったのか。日本という独自の地理が、「強調性」を生んだ筈でしょう。

大陸から隔絶された日本という島国の特徴は、まず、台風が多いということです。
http://emigration-atlas.net/environment/typhoon- …
これによると、台風、サイクロン、ハリケーンの最大威力は日本南洋であり、多くが日本に向かってきていますね。もっとも、これだけでは「日本だけが」と言うことは出来ませんね。しかし、他の自然災害の情報とも合わせたらいかがでしょう?
http://emigration-atlas.net/environment/megathru …
http://emigration-atlas.net/environment/tsunami. …

日本は「巨大災害に遭い易い」から強調性が生まれざるを得ないのではいでしょうか?

日本の耐震構造の強さは世界一でしょう。それは他の国の震災被害を分析すれば一目瞭然、日本はハイクオリティな技術を身につけなければならない事情があった。

日本の持つハイクオリティの一つが強調性です。自分が生き残るためには周辺社会が生き残っていなければならない。その防衛本能のために「強調性」を可能な限り駆使しなければならなかった。

これが私が今即席で打ち立てた日本人が持つ「強調性」の正体です。

しかし、ご質問にある、ニュースの美談と、この生存本能的「強調性」とは違うのではないでしょうか。生存本能的強調性は生存本能です。この美談は利他愛であると私は解釈しました。危険を顧みず線路に踏み込むのは生存本能ではありません。

利他愛です。

それへの共感が参加者を増やし、美談を生みました。

そしてこれは日本だけのものではありません。世界中どこへ行っても美談はあると思います。これは人間の亜種の枠を超えた、神が人間に与えし普遍的なものなのではないでしょうか。

利他愛であるところの誠の強調性ならどこの国の人間にもあると思います。生存本能的「強調性」は厳しい日本の自然環境が、人間をそうあるように、特に鍛えたのだと思います。

実際には、利他愛と利己性は入り乱れております。どちらも動機に含まれることが出来ます。そのうち、利他愛をより増やし、利己性をより減らしてゆくことが、人間の成長の性質なのではないかな、と思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 なんで11じさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 そうですね。島国で自然環境として災害に遭いやすい そのような環境条件を踏まえてそれに対処しつつ協調性を培って来たというご見解でしょうか。

 ★ 生存本能的「協調性」は厳しい日本の自然環境が、人間をそうあるように、特に鍛えたのだと思います。

 ★ 大陸から隔絶された日本という島国の特徴は、まず、台風が多いということです。
 ★ 日本は「巨大災害に遭い易い」から協調性が生まれざるを得ないのではいでしょうか?

 ★ しかし、ご質問にある、ニュースの美談と、この生存本能的「協調性」とは違うのではないでしょうか。生存本能的協調性は生存本能です。この美談は利他愛であると私は解釈しました。危険を顧みず線路に踏み込むのは生存本能ではありません。


 ☆ なかで《利他》なる行為は 相互利己なるおのれの意志行為だと思うのですが だとすると 利他愛による協調性は 相互利己としての助け合いであり そういった生存および共存のための行動の傾向であるように思いますが どうでしょうか。

 島国なら 大陸における社会生活とは違った亜種のような心性や性格が生まれるのだろうか? とか。
 島や人口がどのくらいの大きさにおいてその島国人間の特徴は 現われるのか? 同じような島国としての条件なら 同じような性格が出来上がるのか? とか。

 自然災害に遭うこと またその災害の種類や程度が同じようならば 同じような性格が出来上がるのか?


 などという思いも起きましたが

 ★ 日本の耐震構造の強さは世界一でしょう。それは他の国の震災被害を分析すれば一目瞭然、日本はハイクオリティな技術を身につけなければならない事情があった。

 ★ 日本の持つハイクオリティの一つが協調性です。自分が生き残るためには周辺社会が生き残っていなければならない。その防衛本能のために「協調性」を可能な限り駆使しなければならなかった。

 ☆ このようであるかも知れないと思いました。

お礼日時:2013/07/27 05:57

ブラジュロン様、私もカテさせてください。


日本人の協調性、人の良さというものが何からきているのか?というご質問ですね。

一般には農耕(ほとんど稲作)での共同作業の必要性から来たという一般的な説明に物足りなさを覚えると仰るのでしょうね。

私もそれはおおむね間違っては居ないと思います。完全な説明にはなりえないというのは、他国にも稲作はあり、それらと比較しても日本人の人の良さ、あるいは倫理的な性格は特筆されると言われます。
私は何でも単純に考えるもので、それは以下によるのではと考えます。

稲作やそれに伴う農業はほとんど同じ頃に、同じやりかたで、みなが共同の作業を繰り返すことで成功するものなので、村八分などになれば生活にすぐ困ります。何よりも土地に縛られる行き方であれば、隣近所と何代にもわたって共同の生活をしなければならないことが分かっているので、独立独歩と言う生きかたはあまり成功しないし、やらないほうが良かったと思われます。これが協調性、あうんの呼吸が皆に通じるという村全体の仲のよさにつながったのでしょう。

倫理面を言えば、社会が平和を保ったまま深化すれば、うそをついたりすることは反社会的なことで、結局制裁を受けるし、他人といさかいを生じても丸く筋が通る方向で収めるほうが全体として得なことは誰にでも理解できるようになったのでしょう。泥棒などをしてもそういう社会では結局割があわないのです。
大陸などの人民は違います。何百年かに一度はまったく異なった民族が現われて逆の教えを説いたり、皆殺しにあわせたりして、泥棒をすることだってそんな混乱した社会では損にはなりません。うそを平気でつくのもおなじことで、安定した社会が長く続かなかったためだと思われます。

ご参考になれば。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 こまあす88さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 まづ掌編小説をかかげます。

 ▼ 川端康成:《お信地蔵》 ~~~~~~
 山の温泉宿の裏庭に大きい栗の木がある。お信地蔵はその栗の木の蔭にある。

 名勝案内記によると お信は明治五年に六十三で死んだのださうだ。二十四の時 亭主に先立たれてから一生後家を立て通したといふ。つまり 村の若者といふ若者を一人漏らさず近づけたのである。お信は山の若者たちを一切平等に受入れた。若者たちはお互ひの間に秩序を立ててお信を分ち合つた。少年が一定の年齢に達すると村の若者たちからお信の共有者の仲間に入れてもらった。若者が女房を持つとその仲間から退かせられた。かういふお信のお蔭で 山の若者は七里の峠を越えて港の女に通ふことなく 山の乙女は純潔であり 山の妻は貞潔だつた。この谷間のすべての男が谷川の釣橋を渡つて自分の村に入るやうに この村のすべての男はお信を踏んで大人になつたのだつた。

 この伝説を彼は美しいと思つた。お信にあこがれを感じた。しかし お信地蔵はお信の面影を伝へてはゐない。目鼻もあるかないかの坊主頭だ。墓場にでも倒れてゐた古地蔵を誰かが拾つて来たものかもしれない。

 栗の木の向うはあいまい宿(* = brothel )である。そこと温泉宿とを忍び歩く浴客は栗の木蔭を通る時に お信の坊主頭をつるりと撫でて行く。

 夏 或る日三四人の客が集まつて氷水を取つた。彼は一口飲むとぷつと吐き出して眉をひそめた。

 「いけませんですか。」と宿の女中が言つた。

 彼は栗の木の向うを指さした。

 「あの家から取つたんだらう。」

 「はい。」

 「あすこの女がかいたんだらう。きたないぢゃないか。」

 「あんなことを。でも おかみさんがかいてくれましたんです。私が取りに行つて見て居りました。」

 「しかしコップや匙は女が洗ふんだらう。」

 彼はコップを捨てるやうに置いて唾を吐いた。

 滝を見に行つた帰りに彼は乗合馬車を呼び止めた。乗ると同時に彼は堅くなつた。珍しく綺麗な娘が乗つてゐる。この娘を見れば見る程彼は女を感じた。色町のなま温かい欲情が三つ児の時からこの娘の体にしみ込んで肌を濡らしてゐたにちがひない。円円しい全身のどこにも力点といふものがない。足の裏にも厚い皮がない。黒い眼がぽつりと開いた平たい顔は疲れを知らない新鮮な放心を示してゐる。頬の色を見ただけで足の色が分るやうな滑かな皮膚は素足で踏みつぶしたい気持を起させる。彼女は良心のない柔かい寝床である。この女は男の習俗的な良心を忘れさせるために生れたのだらう。

 彼は娘の膝頭で温まりながら眼をそらして谷間に浮かんだ遠い富士を見た。それから娘を見た。富士を見た。娘を見た。そして 久しぶりに色情といふものの美しさを感じた。

 「この女こそは何人の男に会っても疲れも荒みもしないだらう。この生れながらの売笑婦こそは世の多くの売笑婦のやうに眼や肌の色が荒れたり 首や胸や腰の形が変つたりはしないだらう。」

 彼は聖なる者を見出した喜びで涙ぐんだ。お信の面影を見たと思つた。

 秋 狩猟季節が始まるのを待ちかねて 彼は再びこの山へ来た。

 宿の者が裏庭に出てゐた。板場の男が棒切れを栗の梢に投げた。色づいた栗の毬(いが)が落ちた。女たちが拾つて皮を剥いた。

 「よし 腕試しに一発。」

 彼は猟銃をサックから取出して梢に狙ひを定めた。谷の木に先立つて毬栗が降つた。女たちは喊声(かんせい)を上げた。温泉宿の猟犬が銃声を聞いて躍り出した。

 彼はふと栗の木の向うを見た。あの娘が歩いて来る。肌理は細かく美しいが青白く沈んだ肌で歩いて来る。彼は傍の女中を顧みた。

 「あの人病気でずつと寝て居りましたんです。」

 彼は色情といふものに対して痛ましい幻滅を感じた。何物かを憤りながら引金を引いた。山の秋を突破る音。毬栗の雨。

 猟犬は獲物に走り寄ると おどけて一声吠えながら首を落して前足を伸ばした。前足で毬を軽くとんとんと蹴つてもう一吠えおどけた。青白い娘が言つた。

 「あら。犬にだつて毬は痛いんですわ。」

 女たちがどつと笑つた。彼は秋の空の高さを感じた。もう一発。

 褐色の秋の雨の一滴 毬栗がお信地蔵の坊主頭の真上に落ちた。栗の実が飛び散つた。女たちはくづれるやうに笑つた どつと喊声を上げた。
 (完)(『掌の小説』所収)
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この《お信と山の若者たちとのあいだの平等――それとしての自由――》のようなものだと考えるのです。つまり ムラの共同体にあって もしムラハチブにはならないように注意しつつ そのためにこそ《協調の心》を持ちこれを重んじまた発揮して暮らすというのはです。つまり:

 ★ ~~~~
 稲作やそれに伴う農業はほとんど同じ頃に、同じやりかたで、みなが共同の作業を繰り返すことで成功するものなので、村八分などになれば生活にすぐ困ります。何よりも土地に縛られる行き方であれば、隣近所と何代にもわたって共同の生活をしなければならないことが分かっているので、独立独歩と言う生きかたはあまり成功しないし、やらないほうが良かったと思われます。これが協調性、あうんの呼吸が皆に通じるという村全体の仲のよさにつながったのでしょう。
 ~~~~~~



 ☆ 言いかえると そうではなく それぞれの家は互いに独立していて 仕事ぶりにしても互いに競い合うようにして それぞれ自分の家族の仕合わせをもとめて 精を出すのではないかと考えます。
 その上で――その上でです―― 協調性をもとうとぶ。こういうことではないかと思っているのですが 果たしてこの見方は ムラハチブに見なされましょうか。

お礼日時:2013/07/27 00:23

いちゃもん ありがとう。




>今度はムラ一番の美人を呼び出して来て おまえが この儀式のためにこれから断食をおこなえと言って それとしての生け贄にすることが始まります。

あまり そう言って 冗談の道に誘わないでくれ・・・
つい
脱線したくなる





義というもの
現代においても生き続ける素晴らしい洗脳というもの の実態を解明してみよう
できるか できないか・・
すこしやってみよう



もうすぐお盆の月になる
お盆ともなれば、日本民族の大移動が始まる
なんでか・・
ふる里へ帰ろう というわけで、はるばる遠くまで家族連れで、わいわい楽しく騒ぎながら行く
ご先祖様のお墓参りに行って、お線香を上げて、なんまい・・
というわけだ

ふる里には、昔からの家を継いで守ってくれている人がいる
長男、長女の人が家を継ぐという風習は今も変わってはいない
そこに義を感じる人は多いと思う
いわゆる家制度の名残りだ
名残りではあるけれども、無くならない

家を守るという義によって、家から出た人には帰る家やふる里がある
ご先祖様という義を守り続けた人がいたからこそ、今現在の生活がある といった感じでもある
自由に暮らす、という事が当たり前になった現代でも、田舎に行けば義が重んじられている
それらはごく自然な事として一般に広く受け入れられているように思える

義のもつ重みと美しさ
それは、家制度とともに日本人に染みついているんではないだろうか
そんな感じがしてならない・・



まあ 簡単ですが、一部解明といった感じですよ
これに加えて、浄土系の宗教が一役かっているような気もします
ご先祖様が安らかに眠っているという感覚が、ふる里にあり お墓にあるという安心感
家を守るという義によって、その安心感も守られている
といった感じもしますね・・


私は古い人間だから
古臭く 考えてしまうんでしょうね
きっと・・

義に安心して縛られている
分かっていながら、それでいいと思っている


もうすぐ 化石か・・・。

 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★★(回答No.9) 一個人の自由さよりも全体を重んじる姿勢が失われないという事に精神の美しさを感じた、或いは、感じ続けるというところに日本人らしさがあるのかもしれません。
 ☆ このときの《全体》つまり《日本は神国であるというその社会秩序の成り立っている過程的構造の全体》にかんして捉えるにあたって 今回は 構造におけるタテの関係は捨象して 人びとの仲間どうしのヨコの関係だけを抜き出して来ましたね。

 曰く:
 ★ ~~~~~
 家を守るという義によって、家から出た人には帰る家やふる里がある
 ご先祖様という義を守り続けた人がいたからこそ、今現在の生活がある といった感じでもある
 自由に暮らす、という事が当たり前になった現代でも、田舎に行けば義が重んじられている
 それらはごく自然な事として一般に広く受け入れられているように思える
 ~~~~~~~
 ☆ 言いかえると 人びとの《家》とその《義》には触れているけれども 《国の家》とその成り立ちについては きれいに上手に目をつむっているというわけです。


 それでいて 次のように表現すると・つまり 
 ★ ~~~~
 義に安心して縛られている
 分かっていながら、それでいいと思っている
 ~~~~~~
 ☆ と言うと この《義》は 国の家のそれ・つまりタテの関係としての義でもある。かのように きわめて上手に われらがとうときヤシロ(社会)の秩序とその安寧のことをもたたえておられる。


 これが 地べたから物申す者の・そうだとすれば《義》なるこころのさけびです。
 すでにつめたくなった一個の石がしゃべっています。

お礼日時:2013/07/26 22:49

一応ですが、道徳観念について感じるままに話しておきます。


日本人の心の底流みたいなものです。

自らを捨てて 他を利する
という義の精神

長い封建社会の影響があるような気がします。
いい意味で日本人に染みついた観念かもしれない
「義」というものを崇高な理念として長く扱ってきたのだと思います。
つまり、封建社会の表の美しさを受け継ぐべきものとして扱ってきたという事です。
これは、日本独自のものではないと思うのですが
古来の精神の伝統として、見えざる形で受け継がれてきたと見た方がよさそうです。

この義の精神というもの
他を利する という事において 無私無欲の協調性の基になってきた事には違いないが
個人の自由を束縛する事にもなりかねない
大義という言葉が示すように
人の命に優先する、全体の利益や名誉が重んじられてしまう場合が生じてしまう
まあ 手っ取り早くいえば 武士道、忠臣蔵の世界です。
それを 悪いとは思わないが
観念そのものよりも
そうした観念が受け継がれてきたところに、日本的なものがあるような気がします。
精神的な美しさを持ち続けようとする人間性というか、そういった傾向が強いのでしょう。

一個人の自由さよりも全体を重んじる姿勢が失われないという事に精神の美しさを感じた、或いは、感じ続けるというところに日本人らしさがあるのかもしれません。
いずれにせよ、日本人の協調性は義の精神が基になっていると見ていいと思います。
仏教における利他行もありますが、義の精神ほどには浸透しきってはいないと思います。

現代においても、義の精神は生き続けている
これがどこへ向かうのかは、日本人の精神的指向性の変化という、普遍性に照らした結果が明らかにしてくれるように思います。
以上です。




(Bさん ・ ・ ちょっと真面目になりすぎちゃったよ ・ ・ また )

この回答への補足

 表題が 《協調性》ではなく 《強調性》となっていました。
 いま気がついた。

補足日時:2013/07/26 14:17
    • good
    • 0
この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 ぢゃあ 嫌味たらたら いちゃもんをつけてみましょう。
 ★ 義
 ☆ というのは少しでも具体的に言えば《善》ということだと考えられますが これはどこまで行っても その人の《主観》の問題です。

 ★ 自らを捨てて 他を利する
 ☆ 《自らを捨てる》はまだしも 《他を利する》というのも 主観の問題です。

 おのおの《わたし》が考える《利し方》になります。
 考えてもみてください。
 日照りがつづいて水が少なくなって来たというとき 祈祷師を呼んで雨乞いの儀式をやらせるというのも そうしようとする人の頭の中では 他を利し人びとのためになると思ってのことです。

 それでも効かないとなれば 今度はムラ一番の美人を呼び出して来て おまえが この儀式のためにこれから断食をおこなえと言って それとしての生け贄にすることが始まります。

 これもそれもみな 《人を利する》ための《義》だというのが その人間の《まことなるこころ》であるのです。まさに
 ★ 無私無欲
 ☆ なる義の心であり ムラの人びとのための《協調性》として自己表現するものだとなります。


 すなわち・つまり
 ★ 個人の自由を束縛する事にもなりかねない
 ☆ ということの実際は 精神的な心の萎縮といったことであるよりも このようなありがた迷惑ということでもあると考えられるのではないでしょうか。




 これもそれも
 ★ 一個人の自由さよりも全体を重んじる姿勢が失われないという事に精神の美しさを感じた、或いは、感じ続けるというところに日本人らしさがあるのかもしれません。
 ☆ というように皆が きれいに洗脳されている。こう考えます。

 お上は 神聖にして侵すべからざる神であるというオシエであり宗教です。
 つまり《全体〔を重んじる〕》というのは 実質的には このお上によって成っていると考えられている社会的秩序のことであり その無謬性の神話にもとづき・実際には社会力学がはたらくところの日本クウキ教のことです。
 聖職者はおらずそのヒエラルキアなどは むしろないというところに その絶妙な成り立ちがあります。


 ひとがいかに哲学したとしても この現実の社会力学がクウキの磁場としてのように作用する社会にあっては その形而上学ぶりは 人びとにとっては阿呆らしくしか見えない。

 このようにひとの心を腐らせて ブディズムの諦観というサトリに達せよと言っており これを成就したなら 一人前のニホンジンの出来上がりなわけです。

 学問にこころざしたい人は おのづと自然科学の方面へ寄って行くということになるようです。クウキの磁場には触れずに じっさいの電磁場さえ扱っておればよいわけですから。
 そうして 文化勲章が俟っているというわけです。


 これを称して
 ★ 精神的な美しさを持ち続けようとする人間性というか、そういった傾向が強いのでしょう。
 ☆ というのですから 人びとは まさに千両役者である。

 モノの力学にだけたずさわっていればよいわけであり 社会力学上のカラクリもシガラミも乗り越えて 《自分を捨てて 他を利する義》に生きることの何と言ううつくしさよ。これを 悠久の大義として たたえ続けるという人びとのけなげな努力。すなわちあらためて:
 ★ 一個人の自由さよりも全体を重んじる姿勢が失われないという事に精神の美しさを感じた、或いは、感じ続けるというところに日本人らしさがあるのかもしれません。

お礼日時:2013/07/26 13:58

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!