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天文23年に結ばれた所謂、甲相駿三国同盟について質問です。当時最も強力な同盟と語り草となりましたが、永禄3年の桶狭間の戦いを期に結束が緩み、同10年の義信事件の発生により実質的に破綻を来たしました。もしこの攻守協力同盟がその後も存続していたならば、信長・秀吉・家康の時代は永久に来なかったのでしょうか?

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A 回答 (10件)

ご質問頂いてましたのにすいません日が開きました。



あびゃびゃそうです太原雪斎死亡後ですよね!すいません子供の頃に見た漫画がフィクションだったものので、その作品では雪斎が軍師として今川軍に居た設定だったんです。思いっきりそっちで覚えてしまったのでボロが出まくりです。


ご解答感謝です。1つ質問します。もし三国同盟がなければ締結三国は滅亡せずに済んだと思いますか?歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。桶狭間役は発生したのか?宜しければお答え頂けると嬉しいです。

三国同盟が無かったら「三国が生き残ったか」ですね。

うん、確かに同盟が「有ったから存続」よりも、「無かったから存続」の方が想像すると楽しいですね。

うーん、国力差、かなぁ。織田が伸びたのは1567年頃の美濃取りがキーだと思います。それが達成できるか、ですね。

1560年時点でたかだか(公称)4千人しか兵を動かせない織田では、関東から伸びる手を止める事は難しいかも。桶狭間は、織田が勝った事も大事ですが「松平」が三河に立った事も重要で、織田からすると上洛までのていの良い壁が出来た訳ですものね。

桶狭間が無くって、家康がそのまま今川の手ゴマ状態、名君の素養高い義元が生存してるとすると。

中部地方の覇権は混沌かもしれませんね。北条は京に興味が無かったそうですし、武田は謙信攻略および信濃平定無くして西進は厳しい。義元はもともと今川領であった尾張取りを公言してますし、桶狭間時点で動かせる軍勢は(公称)2万って言うのですから、やはり同盟が無くとも織田への戦があったと思います。そうなると、織田は武田と連合して今川を背面から攻撃できるかどうかで存続決定かなぁ。三国同盟が無いならば、武田は塩の確保が必須なので乗って来る可能性があると思います。

すると、三河地方が織田に攻められるので、元康たちが獅子奮迅の戦い?今川・織田が双方つぶし合う状況では織田の斎藤攻めは難しいですねぇ。すると逆で、斎藤義龍が怨恨をもって織田攻め?それはあるかも。斎藤家が腐っていくのは道三が信長に美濃を渡すなんて言っちゃった事が影響大きそうですし、義龍は戦上手だったかもしれない訳ですし(道三が義龍の戦い方を見て後悔したとか何とか)。うーん、天下人は出ないかもしれませんねぇ。

そんな感じで、3国同盟が無かったら、北条氏圧倒的に優位に存続、武田は対応次第、今川織田は揺れ動くって感じでFAにしておきます。

>歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。
混沌の末ですから、遅くなったと考えます。

>桶狭間役は発生したのか?今川→織田は結局起きたと思います。

人の心情はほとんど考慮してませんので片手落ちですが、まままIFですので!
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 えーと、同盟なんてものはそもそも利害関係が一致しているから有効なのであって、逆を返せば利害関係が一致している間だけ機能するものです。


 三国同盟に付いては互いに消耗を避けるためのものであり、それぞれに相手を凌駕するだけの実力があると確信した時点で消え去る運命のものだと思います。ですから、その同盟自体は決して失敗ではなく、「一定の成果こそあったけれどもはや存在意義がなくなって」消えたんだと思います。
 よく、織田と徳川の関係をして長く続いた稀な同盟として取り上げる人がいますが、あれは同盟などではなく、徳川の織田への従属です。徳川が独立して直ぐに三河全土を領有したなんてとんだ勘違いで、当初は岡崎周辺を維持するだけの、それこそ今川の反乱勢力でしかありません。
 同盟が長く続いたのは、単に徳川の目の前に勢力を広げ得るだけの原野がなかっただけの事。主が討たれたとはいえ未だ強大な今川があり、それが滅びた後に武田がある以上、徳川が生き残れるかどうかは織田と言う後ろ盾の有無次第ですから、破棄なんて出来る訳がないのです。
 徳川・北条・伊達の三国同盟ですが、あれは徳川・北条の不戦同盟と北条・伊達の対佐竹共闘同盟がたまたま同時期に在ったという程度のものだと思います。家康は秀吉に対抗する為には、それこそ自国の総てを投入して戦うしかありませんでした。実際、徳川は局地戦でこそ勝利を得たものの、その国力は疲弊しつくし、領地のあちこちで多くの餓死者を出したと言います。そんな状況ですから、背後に北条なんて敵を置く余裕はありません。それだけです。第一、対秀吉の同盟として此の三国が結んだところで、矢面に立たされるのは徳川だけです。機能しません。
 秀吉に下った後の家康はあっさりと掌を返し、北条を攻めています。此の時の徳川には三国同盟などもはや無用の長物になっていたのではないでしょうか。
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>>もし三国同盟がなければ締結三国は滅亡せずに済んだと思いますか?歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。

桶狭間役は発生したのか?宜しければお答え頂けると嬉しいです。

 三国同盟はある意味必然だったと考えています。
 私は果して今川に天下への野心があったとは考えていませんが、大変経済観念の進んだ大名で、その目が常に西に向いていた事は事実だったと思います。豊かな濃尾平野の経済的価値は山がちで貧相な武田領や、未開の湿地ばかりの北条領とは比べるべくもありません
 一方、北条の始祖早雲は京の混乱を目の当たりにして中央から独立した勢力圏を関東に作り上げようとしていましたし、それは一族の使命の様なものとして受け継がれていたんだと思います。
 そして当時の武田はこれら強国と正面から対峙できるだけの力を持ってはいませんでした。(これは長くなるので後述します)
 つまり、互いに興味が無い、争う価値が無い、争いたくないという利害の一致があったのだと考えます。ですから、互いに協力し合うなどと言う考えは全く無かったでしょうが、不戦の約定は願ったりであり、三国同盟の締結は自然な流れだったのではないでしょうか。
 私は三国同盟を締結した上での今川の西進は理に適っていると考えます。あの情勢でのあの進行はこれ以上無い位の絶妙なタイミングだったと思います。が、信長にはそれを覆えせる程の能力と、強運が有ったんでしょうね。
 で、「三国同盟がなければ」のifですが、前述の理由でちょっと考えにくいのです。ですがもし仮に三国同盟が締結されていなければ、今川の西進はもっと慎重なものになっていたと思います。桶狭間の戦いの基となる大規模西進をする余力は無いのではないでしょうか。同時に北条の関東進出も困難を極めたでしょうし、増して武田の北進は不可能だったのではないでしょうか。互いに背後に敵をおいた状態では正面への戦力の集中は難しいでしょう。
 一方、そうなると織田の快進撃も果してあったかどうか疑問です。織田家の強大化には少なからず桶狭間勝利の宣伝効果があります。無論、それ以前からの積み重ねがあってこそなのですが、寄らば大樹の影の通り、強い者には人が集まります。
みな生き残りに必死な訳ですから、強い大名であればこそ多くの身方が集まり、それ故に強大になれるのです。
 三国同盟がなされていなければ、日本の混沌は寧ろ長く続いたかもしれませんね。

 ここからは質問と関係ない後述のコーナーです(笑い
 意外に思われるかもしれませんが、実は武田はさほど強大な大名ではありません。武田の領地は一時日本一の面積を誇った事もありますが、内情はと言えば全盛期ですら120万石に過ぎませんでした。これは同時期の北条の半分です。さらに同時期の織田となるともう比ぶべくもありません。現代の地図を開き(衛星写真地図が最適)、当時の武田領を重ねて見てください。如何に生産性の低い山がちな領地が多いかすぐに判ると思います。つまり、連年の様に戦に繰り出す武田の財務基盤が如何に脆弱だったかと言う事です。
 では何故に武田戦国最強説が言われるのか。
 宣伝です。
 長らく徳川は大勢力ではありませんでした。むしろ、大大名ばかりが生き残る安土時代においては弱小勢力だったといえます。その徳川にとっては武田と言えど強大すぎる敵でした。この印象は徳川家臣団に計り知れない影響を与えてきたと言っていいでしょう。また、徳川が信長死後のどさくさにまぎれて得た領地はそれまでの自国の領地の数倍です。当然深刻な人手不足が起こりますが、徳川はそれを武田旧臣を取り立てる事で補います。
 徳川が後に幕府を開く際、その威信を高めるためには徳川家康のみならず家臣の優秀さを知らしめる必要があります。その為には強大な敵の存在が必要であり、それが武田でした。本来、徳川にとって強大な敵と言えば無論豊臣です。が、あちらは持ち上げるわけにはいきませんよね。徳川の正統性が問われてしまいますから。その点、徳川には武田旧臣が大勢いますから、問題ないわけです。まして先祖を褒められて嬉しくない人間なんていませんから、小幡景憲の様に寧ろ進んで宣伝しまくったんじゃないでしょうか。
 もし、豊臣が幕府を開いていたなら、戦国最強は毛利と言われていたかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ご解答どうも有難う。結局三国同盟の意義は群雄割拠した古臭い地方勢力の統合(大掃除)と新体制を布く次世代新興勢力への権力移譲に尽きるのでしょうか。三国同盟の失敗は地政学的に必然ですか?善徳寺の三国同盟と天正18年の三国同盟(徳川・北条・伊達)ではどちらがより可能性があったのでしょうか。考えるだけで好奇心を掻き立てられますね。

お礼日時:2013/07/31 22:16

三国同盟が無くても締結三国は滅んだでしょう


同盟云々より当主の実力だと思いますよ

北条氏康と武田信玄は戦国三強と言われたほどの実力者ですし
今川義元も言われてるほどの愚将ではありませんでした

なので彼らが死んで国力が衰退し滅亡したのは当然だし
それが同盟の存続の有無でそうなったかは関係ないと思います



後は 桶狭間ですが
今川は上洛のために三国同盟を結んだわけです
つまりは上洛しないなら同盟の必要もない
そうすれば桶狭間も発生しません
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この回答へのお礼

ご解答どうもです。確かに三国同盟がなければ三国は互いに潰し合い(甲駿同盟は既に存在していたが)を演じ、貴重な時間と国力を消耗していたかも。盟約に縛られない信玄はもっと早い時期に尾張(信長)に接近していたかもしれませんね。これは当然信長の中央進出にとって有利に働く要素の方が多いですかね。
ところで歴女のazukiさんはお綺麗ですね。関係ない話してすみませんでした。

お礼日時:2013/07/30 15:46

毎度失礼します(笑い


No.1さん、失礼ですが、桶狭間の合戦(1560年)は太原雪斎(~1555年)没後ですぞ。
頑張ったとしたら寿桂尼ですな。でもいい加減老害の域。氏真にとっては小うるさいばーさんだっただけかしらん。
個人的には岡部元信が好きなので、彼が支えていたーなんていうと嬉しいが、実際どうだったのだろう。最後は武田に降ってるしなぁ。
義元の首を大事に抱えて鳴海を退場する。つと立ち止まって振り返り、復讐を決意するとか、想像するとなかなか画になるのだが。
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この回答へのお礼

ご解答感謝です。1つ質問します。もし三国同盟がなければ締結三国は滅亡せずに済んだと思いますか?歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。桶狭間役は発生したのか?宜しければお答え頂けると嬉しいです。

お礼日時:2013/07/30 10:16

No1です、たびたびお邪魔してます^^;



個人的にNo2さんと仲良くなれそうだな~とか思ってたり。

>回答どうも有難う。
私は三国同盟が有効機能していた場合、三河徳川の独立や信長の上洛が可能であるか甚だ疑問に感じます。信玄の後ろ盾で氏真がともらい合戦の軍を興せば信長の美濃経略は遅れに遅れる事が予想されます。


もし弔い合戦があれば、上洛が遅れに遅れたのでは、と言うIFですね。

質問者様のおっしゃる「三国同盟での弔い合戦」をする、となれば、「武田」および「北条」が「今川領」にズカズカ入ってくる事になります。ここで疑問はそれを太原雪斎が許可するか、ですね。

軍備を出す以上、それも弔い合戦と言う「今川家のみ」の私怨による戦である以上、同盟国にはなにがしかの「恩賞」を出す必要があります。武田信玄なら、ご褒美たんまり巻き上げた上で、ニヤニヤしつつ駿河と遠江を北条氏と分割する策を考えると思ったりするだけのそれまでの悪行がタンマリと。

自分で書きながら、私は三国同盟は史実では相当今川に有利に働いたのでは無いか、と思ってしまいました。だって義元が死んで大混乱の領土を、武田北条ともに「チャンス!」と攻めなかったのですものね。そう言う意味では雪斎なり寿桂尼なりが義元の死後奮戦した姿が想い描かれます。

IFは楽しいですね!
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この回答へのお礼

ご解答感謝です。1つ質問します。もし三国同盟がなければ締結三国は滅亡せずに済んだと思いますか?歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。桶狭間役は発生したのか?宜しければお答え頂けると嬉しいです。

お礼日時:2013/07/30 10:16

そもそも三国同盟の言いだしっぺは太源雪斎です


当時は同盟を結んだほうがお互い利益だった


今川は上洛するのに後顧の憂いが無くなる
武田と北条は上杉に安易に攻められなくなる

当然情勢が変われば同盟も破棄でしょう


善徳寺で会見したとき

北条氏康…終始無言

武田信玄…一人酒を飲み

今川義元…「やがて日の元(日本)は我ら三人で分け合うことになるかもしれませんな」と饒舌だった

いかに北条と武田が乗り気じゃなかったがわかりますね


本当の同盟は織田信長と徳川家康の織徳同盟でしょう
あれほど長く続いた同盟は知りません
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この回答へのお礼

ご解答感謝です。1つ質問します。もし三国同盟がなければ締結三国は滅亡せずに済んだと思いますか?歴史は変わらずどちらにせよ滅亡したとするならば、それは早めたのか遅らせたのか。桶狭間役は発生したのか?宜しければお答え頂けると嬉しいです。

お礼日時:2013/07/30 10:16

こんにちは。

たびたび失礼します。

>>信玄の話ですが、桶狭間役後岡崎の松平家康が今川から自立した際、氏真に“西三河を譲るならば三国の盟約に従って甲州兵を入れ家康を追い払ってやる”との話を持ち掛けてますが、信玄の野心を見抜いた氏真はけんもほろろにこれを断っています。もし氏真がこの話に乗っていたら・・・

今川は乗っ取られ、勿論北条が黙っていませんから、三国同盟は消滅でしょう。
信玄の事ですから、駿河・遠江を乗っ取って終わりという事もあり得ますな。で、肝心の三河は?手付かずかもしれませんよ(笑い。乗っ取りと違い、三河は端から敵です。直ぐに占領と言う訳にはいきません。増して本拠の甲斐からはかなりの遠方です。そうなれば北条に背中を突かれますので滅亡の危機にもなりかねません。何れにせよ、そうなれば武田VS北条の泥仕合が予想されますので、やはり織田・羽柴の流れに決定的な影響は無いかと。
まあ、氏真は戦国大名としては器ではなかったようですが、決して馬鹿ではありませんでした。乗る訳ないですね。
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>>私は三国同盟が有効機能していた場合、三河徳川の独立や信長の上洛が可能であるか甚だ疑問に感じます。

信玄の後ろ盾で氏真がともらい合戦の軍を興せば信長の美濃経略は遅れに遅れる事が予想されます。

 三河徳川の独立は三国同盟が機能していた時期の事象です。なので三国同盟の破綻は関係は無いと思われます。
 また、氏真による弔い合戦は三河衆の離反により事実上不可能。甲相駿三国同盟は共闘同盟というより不戦同盟の側面が強く、武田による支援は有り得ないと思われます。第一、武田は上杉との睨み合いでとても今川に手を貸せる状況ではなかった筈。
 先だって回答されていますが、この三者が不戦を結ぶと言う事は領土拡大の方向性に制限があると言うことです。
キーを握るのは武田ですが、北は上杉、東は北条、南は今川ですから事実上伸びられるのは西だけとなります。しかし上杉と泥仕合をしている間に西にも織田が台頭してしまいます。此の時点で武田は袋小路に陥ったようなもので、このままでは成長ゼロの斜陽企業です。武田にとっては死活問題ですね。打開策はより組みしやすい相手を攻めるしか無いわけですが、周辺四者を比較すれば誰を攻めるべきかはおのずと答えが出るでしょう。つまり、三国同盟は消えるべくして消えたと言えます。
 逆に、武田が馬鹿正直に此の同盟を守ったならば、武田が真っ先に滅んだでしょう。武田は山がちで生産性は低く、常に勝てる外敵を必要としていました。それが無くなれば次は味方同士の殺し合いです。それを周りが放っておく筈がありませんから。
 ちなみに北条にとっては三国同盟は維持したかったものだと思います。北条の目は常に関東に向いていました。山がちの武田領に興味が無かったのは、後の武田の小田原撤退の際に北条方が本気で追撃していない事からもわかります。それに関東にはまだまだ手付かずの獲物が残っていましたしね。
 ついでに言うと、
>>東の結城・佐竹(こちらは伊達正宗が暴れている)
三増峠の戦いは1569年、人取り橋の戦いは1586年です。政宗が暴れると言う事はありえませんので悪しからず。そもそも伊達が直接常陸に手を出せたことは無い。

 結論。三国同盟が仮に維持されていたとしても、織田、羽柴による天下統一事業にはほぼ影響なしと言える。あったとすれば北条討伐にもうちょっと手を焼いたかも知れんというところですかね。
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この回答へのお礼

ご解答有難う御座います。御説興味深く読ませていただきました。信玄の話ですが、桶狭間役後岡崎の松平家康が今川から自立した際、氏真に“西三河を譲るならば三国の盟約に従って甲州兵を入れ家康を追い払ってやる”との話を持ち掛けてますが、信玄の野心を見抜いた氏真はけんもほろろにこれを断っています。もし氏真がこの話に乗っていたら・・・

お礼日時:2013/07/29 01:57

歴史のifですね。



私は信長まではあまり変わらず、秀吉の朝鮮出兵は無理で、徳川家康の天下統一は何とか達成した(ただし1603と言う早い時期では無い)、と言うパラレルワールドを想います。

甲相駿三国同盟が大きく崩壊したのは武田が塩を自国生産できるようにと、弱体化した今川を責めた事が発端です(それを人を中心に描いたのが義信事件)。

では、武田が同盟を守って今川を責めなかったとすると、武田、今川、北条がそれぞれ「どこに」領土を広げる事が出来たのか、です。

武田は北の信濃、越後か三河ですが、今川の三河方面とかぶってしまう。よって北しか無い。北条は西は今川で×、北は武田で×、すると南の安房(ここは制圧した)東の結城・佐竹(こちらは伊達正宗が暴れている)、今川は内紛状態で前に進めない。

と言う事で、甲相駿三国同盟がそのまま残っていたとしても、3国ともに領土は広がらず、一方の信長は京、堺を中心に経済力を持って国力を増大し、結果として最新の軍備を整えつつ領土も拡大していく訳です。

よって、たとえ三国同盟が残っていたとしても、強大化かつ最新化した信長軍を抑える事は、いづれにしても難しいかと思われます。

IFの世界でも本能寺の変→大返し→秀吉が引き継ぐ結果になったとして、軍を引き継いだ秀吉が小田原攻めをする事になるでしょうが、まず武田を徳川と上杉に攻めさせるでしょうね。そしてそのまま徳川に領土を安堵(どうせ江戸幕府)、その上で小田原攻めは、史実通りに兵糧で行くと思います。

まあ長くなりますが、それほどの威力は出なかったかな、と思います。
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この回答へのお礼

回答どうも有難う。
私は三国同盟が有効機能していた場合、三河徳川の独立や信長の上洛が可能であるか甚だ疑問に感じます。信玄の後ろ盾で氏真がともらい合戦の軍を興せば信長の美濃経略は遅れに遅れる事が予想されます。

お礼日時:2013/07/27 22:08

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