ちくのう症(蓄膿症)は「菌」が原因!?

 先に論点をかかげます。
 表題ないし主題は 《〔日本人にとってのと言ったほうがよいのかどうか・・・〕神がいた。見つかった》というような内容ですが 論点としては こうだと思います。:
 
 (α) 《人が 人を 不幸にすること》は ありうるか。そんなことは ほんとうには 出来ないことだと主人公ないし作者は言っているようなのだが。

 (β) 《不幸にすること》がありえない場合も 人を《傷つけること》はあるか。

 (γ) 《傷つけ得る》として そのとき 《傷つけた者が 傷つけられた者に赦しを求めること》は すべきや否や。

 (δ) すべきかどうかを別として そのように《赦しを求める心》は むしろ《驕り高ぶり》であるか。

 (ε) 矛盾した問いになるかも知れないが あらためて問うて 《人が人を傷つけること》はできるか。

 (ζ) 質問者のたたき台としては 《ひとは 人を不幸にしたり傷つけたりすることは ない》です。
 もし傷つけられたと感じた場合には それは おのれのへそが曲がっていた(つまりウソ・イツワリをおこなったなどの)そのツケが回って来ただけだと考えます。つまり 自傷行為においてのみ ひとは心が傷つく。と。
 他人の言動で こころが傷つくわけには行かない。



 ▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~
 夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。

 湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬から落ちた。

  《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》

 見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。

  《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》

 《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりましてな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。

 若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へた美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。

  《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》

  《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》

  《さやうですか。》

 鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。

  《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》

 彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。

  《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》

 鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。

  《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》

 《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。

 (あの少女だ。)

 彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。

 鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。

  《さあ 一ぺん沈め。》

 妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。

 そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとうかがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶつてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して傾いてゐた。

 泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつかないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつたのも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうまで不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。

 鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判になつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩として誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来ないので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。

 湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出て 妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせて 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつたりしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんでやつた。

 帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原はほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。

 鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らずのうちに素直な心で呟いてゐた。

  《神います。》

 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。

  《神よ 余は御身に負けた。》

 彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で聞いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~


 ☆ 鳥屋は 《とや または とりや》として 専門的な用語もあるようですが ここでは《鳥を売り買いする商人》として見ておきます。(異論がありましたら おしえてください)。


 思いっきり自由なご見解をお寄せください。

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A 回答 (15件中1~10件)

まだ回答がついていないようですので、初回答の栄誉に浴したいと思います。


ブラジュロン様、興味深いご質問ですね。
わたしのケンカイとしては、
人間は普段から傷つけあうことをやっています。
それが下界の現状です。
川端の理想世界のみでそういった奇跡のようなことは実現するのでしょう。神に祝福された美しい心の人間達、彼らの間では当然ながら傷つけあうことはないし、たとえ下人に傷つけられたとしてもいずれ癒されて、なかったかのように忘れ去られる。たとえ、殺されてもイエスのように蘇り、天国へ向かうことが出来る。そういうことを言っているのではないでしょうか。
私はいつも単純化してしまう癖がありますが、こういった単純化は間違っていましょうか?
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この回答へのお礼

 そうですね。ずばり こちらからの見解を述べてみます。

 その前に こまあす88さん あらためましてこんにちは。ご回答をありがとうございます。


 趣旨説明欄にかなり述べてもいますが 次のおぎないをしたほうがよいと考えました。


 《心が傷つく。傷つけられる》には けっきょく心理的なその場の一時的な上っ面の怒りや悔しさや〔相手が間違っていると分かっていても 反論することも出来ない場合に感じるような〕悲しさをおぼえて 心が深く傷つけられたと感じること これはあります。

 でもこれは 心の一部だと考えられませんか?

 心という海の表面で その場でムッとしたり敵愾心を燃やすばかりに悔しさや恨みをおぼえたりしているのではないかという見方です。

 さもなければ・つまりほんとうに心に痛みを感じたり落ち込んだりするときというのは じっさい自分もそのののしりを浴びせて来た相手と同じように 自分の心をあざむきウソをつき何とかその場で恰好をつけようとしていたりしたから そのしっぺ返しによって 自分が自分の心を傷つけた。ということではありませんか?


 つまり 結論:ひとは 他人のウソ・イツワリあるいは誹謗中傷などによって 心が傷つけられることはあり得ない。
 心の表面に 心理的なその場としての波風が立つだけだ。
 こちらの心の奥にまで 他人による(他人自身のみづからの心にさからうことから出た)発言や行動の内容が 入って来ることはない。



 こう考えるなら イエスだとか理想世界だとかを持ち出すことなく 世界は和解へと進み入るものと思うのですが いかがでしょう。

 もちろん 川端も主人公に語らしめていたように 何らかのかたちで《神》のことにもかかわっているのではないかとは思うのですが。《ブッダター(仏性)》と言ってもよいのでしょうし。


 いえ。わたしも単純化してしまっているかも知れません。ひきつづき みなさんをも交えて 問い求めが深められるなら 質問者冥利に尽きると思います。さて どうなりますやら。

お礼日時:2013/07/30 20:08

B様、どうも。




>「人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。うんぬん
 とつづく《彼》の思いが来ます。そこで《赦す・赦さない》という問題も触れられていますが 


 ★ 「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」
 ☆ といった視点とは別だと言ってよいでしょう。そんなことは言っていないはずですよ。
 それに なお触れるなら 《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていたのですから。」

だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。


>「《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていた」

この「それまで」の、「それ」について、御詳解ください。
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この回答へのお礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。
 ☆ いえ これは そうではなく きちんとはっきりしています。

 何よりも先に 《夫に負んぶされた若い妻の足が 夫の腕よりも小さかった》その光景を見て――そしてむろん そこまでの会話やいきさつを踏まえてですが 特にはその光景を見て―― ふと 《神います》という言葉を言い出しつつ むしろしっかりとした感覚をおぼえた。ということにあるはずです。

 つまり それまで いちいちねちねちと あぁ わたしは あの少女にわるいことをしてしまったという罪の意識と後悔の念とを持っていた。そのもやもやとしたわだかまりの心が 一気に晴れた。ということだと思います。そういう感覚です。

 すなわちそのあと 心のわだかまりやら何やかやを
 ★ 神に「丸投げ」しちゃった
 ☆ のではないはずです。《一気に晴れた》時点で すべては決まったと言っているのではないですか?



 むろん 主観としての心の問題であり そのようなヒラメキのごとき《一気に晴れた》出来事について 誰にも分かるように(つまり おのれの主観が共同性を持つように)説明しているかと言えば 必ずしもそうではありません。

 説明していることは どのようにして《心が晴れた》かではなく そうではなく心が晴れたというその内容についてだけです。

 すなわち その感覚の内容をさらに――そのわだかまりをほぐして もつれを解くようにして――みづからに明らかにしています。
 ▲ (川端) ~~~~~~~~~~~~~
 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。
 身の程を知らない考へであることが分つた。
 人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。
 彼女に許しを求めたりしたのも誤りであることが分つた。
 傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけられたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。
 人間は人間を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ です。
 
 どうしてそのように心の中身が変わったのか? 何でそんな出来事が起こったのか? これについては 説明していません。主観であるに過ぎず 或る種のヒラメキのような出来事だと言っていることにしかなりません。

 つまり この《なぜ心が晴れたのか?》という問いには答えていないのですから その点をうたがうことは出来ます。しかも その《なぜ?》を別とすれば 《彼》の心の中に起きたことは いま引用したような内容だったと言っています。

 つまり ひとつには このように何故起きたかの説明のない出来事をうたがって あとは放っておくか それとももうひとつには その出来事は ヒラメキのようなものとして受け容れて 《神よ 余は御身に負けた》という表明の内容をみづからが解きほぐして語ったようにそのまま受け留めるか どちらかひとつになるのではないでしょうか・

 前者の場合には したがって
 ★ だからこそ、神に「丸投げ」しちゃった、というように、見えるんですよね。
 ☆ という反応は出て来ないはずです。言ってみればその出来事においては 《すべてをすでに神に丸投げさせられ終えてしまっていたのだ》と知ったと言っているのですから。

 つまりそのヒラメキが起きたあと では それまで悩んでいた問題をすべて神に丸投げしてみようかなと思ったわけではありません。そうではなく もうあれこれ考える余地がない状態にまでみちびかれてしまっていたと言っています。

 ★ ~~~~~~~~~~~
  >「《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていた」

 この「それまで」の、「それ」について、御詳解ください。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ かつての少女すなわちその今の若い妻の足の小ささを見たときを境として それまでとそれからとです。そこで 地割れが起きました。あるいははっきりと地滑りが起きて 断層が出来ました。さらに考え悩み続けるかとか あるいは 何ものかに丸投げしてしまおうかなどを考える余地がなくなりました。

お礼日時:2013/08/04 07:01

bragelonneさん、こんばんは。




「神、ゆえに、許す(赦す?)」は、信教の自由だが、


「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」とは、信教の自由を逸脱する可能性が高いのでは。
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この回答へのお礼

 くりなるさん こんばんは。


 ちょっと違うと思いますよ。

 川端が作者として言おうとしていることは 

  《神います》

 という言葉で主人公の《彼》がその心に感じたことです。すなわち

  《神よ 余は御身に負けた。》

 です。
 《赦す・赦さない》とはおそらく別の《われがわれに還ったその心の状態》を言っているのでしょう。
 そのあとに 

   人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。うんぬん

 とつづく《彼》の思いが来ます。そこで《赦す・赦さない》という問題も触れられていますが 

 ★ 「神、ゆえに、許(赦)してくれ!?」

 ☆ といった視点とは別だと言ってよいでしょう。そんなことは言っていないはずですよ。

 それに なお触れるなら 《彼》は それまで自分のおこなったことは到底ゆるされないと思っていたのですから。

お礼日時:2013/08/03 23:18

こんばんは



>《お信地蔵》は 思想内容としていただけないと判定しました。よ。
果たしてそうでしょうか?私は同じものだと思いますが
彼は 栗の樹の下にあるお地蔵さんを観て そして 山の男達がそのお地蔵さんを大事にしていることを観て この物語を考えたのだと思います
彼の小説では 女性のありのままの姿が生き生きと描かれます 普通の人にとっては ただの女性なのかもしれません
そんな女性達でも 男性にとっては無くてはならない 愛おしい存在なんだと云うことを 鮮明に 男性からの「ありがたい」「眩しい」「愛すべき」存在として捉えたんだと思います

栗の木の下のお地蔵さんは 栗の花の独特な臭いに包まれ 毬栗が落ちてくると云う 世の中の 要らない 薄汚れた存在に観える
でも 本当は全く逆の存在なんだ と云いたいのだと思います そうすることにより より女性を崇高な存在として描きたかったのだと思います
男性が世の中に流され傷つけられた女性を「愛おしい」と捉え優しくする姿に そう云う女性だからこそ素直に喜べる姿は 美しいではないですか?

私は 彼が純粋な観方を捨てなかったことにより 物事の本質を捉える事ができたのだと思います
彼にとって 全ての事象を真、善、美として捉えたかったのだと云うことです 
話の内容は忘れましたが『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』いずれも日本人の美しさを描いた作品です
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この回答へのお礼

 てふ_てふさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 彼の小説では 女性のありのままの姿が生き生きと描かれます 普通の人にとっては ただの女性なのかもしれません
そんな女性達でも 男性にとっては無くてはならない 愛おしい存在なんだと云うことを 鮮明に 男性からの「ありがたい」「眩しい」「愛すべき」存在として捉えたんだと思います
 ~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ここで――再反論になりますが―― 片や 女性一般とそして片や 《わたし》にとっての特定の女性とは 別だという視点が必要だと考えます。

 男のワタシにとって 女性一般が《ありがたい・まぶしい・愛すべき存在》だとしても 自分にとって特別な関係の特定の(つまり ひとりの)女性とは まったく別です。

 それは 生き方にかかわります。実存のかたちとして 特別の相手とその他の女性とでは 別になります。(実存一般としては 同じですが 要するに連れ合いになるような相手とは 互いに卑小なおのれをも含めた存在の全部を受け容れます。その他の女性一般に対しては 同性に対するのと同じ実存の姿勢で 相対します。むろん人格の全体でなのですから 存在の全部だと言えばそうなのですが それを受け容れるまでの姿勢はなくてよいし ないのだと考えます。そのように 区別が成ると考えます)。



 ★ 男性が世の中に流され傷つけられた女性を「愛おしい」と捉え優しくする姿に そう云う女性だからこそ素直に喜べる姿は 美しいではないですか?
 ☆ 文学作品としてそのようにうつくしい姿にえがかれているとしたとしても 哲学は 別だと思います。

 若者たちのあいだに 必ず違和感をおぼえる者が出て来るものと思います。小説では出て来なかったわけですが。
 そのような《異分子》が出たという場合を では えがくならどうなるか? こういったところに小説家としての腕の見せ所があるのではないかと考えます。しかも 哲学にもかかわるものと思います。


 ★ 話の内容は忘れましたが『伊豆の踊子』『雪国』『千羽鶴』『山の音』『眠れる美女』『古都』いずれも日本人の美しさを描いた作品です
 ☆ これにしゃれたお応えをしえないでいます。

お礼日時:2013/08/03 06:06

いま、ふっと思いついたのですが、


《方生の説》は、一種の弁証法的思弁なのですね。
 《正・生》⇔《反・死》
《合・一》が《気(き)》になるという図式なのですね。
《生》と《死》の矛盾が、《一・気》によって解消されると考えればいいわけですか。

にしても、
この《彼此、方生》を読み、龍樹を思い出すのは、僕だけなのだろうか。
似てますわね~、荘子と龍樹は。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 ねむりねこさんが 荘子なら荘子の中に 龍樹なら龍樹を読み込んでいるというように思えてしまうのですけれど 中国思想への偏見から来るものでしょうか?



 ぶっきらぼうですみません。

お礼日時:2013/08/02 22:14

こんばんはです。




☆ どうもこの回答者は 中国の人ではないかと思います。息の音( / h / )が入るか入らないかの有気音か無気音の区別だけであって 有声音つまり濁音がないので 無気音だと見なした場合には クセによって《有声音=濁音》で平仮名を書いているのだと思います。
◇ということには、頭の中で文章の修正を行っていたらしく、まったく気づきませんでした。
プロフィールを拝見したところ、どうやら、この方は中国のお人のようです。



☆ 《見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが》と言っても じっさいに《死んでいる》ぢゃないの? としか思えないのですが。何でいまは《生きている》と言えるのでしょう?
◇ドクロが話かけるという現実ではありえない寓話ですので、突っ込まれると弱ってしまいます(苦笑い)。

なのですが、これに関係する『荘子』の超有名な箇所をご紹介します。

─────────
 〔万物斉同〕すべてのものは、彼れと呼びえないものはなく、是れと呼びえないものはない。それなのに、なぜ離れているものを彼れと呼び、近いものだけを是れと呼ぶか。離れている彼れの立場からは見えないことでも、自分の立場で反省してみれば、よく理解することができる。だから、身に近いものを是れと呼んで親しみ、遠いものを彼れと呼んで差別しているにすぎない。だから、次のように言える。彼れという概念は、自分の身を是れとするところから生じたものであり、是れという概念は、彼れという対立者をもとにして生じたものである。つまり、彼れと是れというのは、相並んで生ずるということであり、互いに依存しあっているのである。しかしながら、このように依存しあっているのは、彼れと是れとだけではない。生と並んで死があり、死と並んで生がある。可に並んで不可があり、不可に並んで可がある。是に並んで非があり、非に並んで是がある。すべてが相対的なものにすぎず、絶対的なものではない。だからこそ聖人は、このような相対差別の立場によることなく、これを差別という人為を超えた自然の立場からものを眺めるのである。このような聖人は、是非の対立を超えた、真の是に身を置くものといえよう。
 もしこのような自然の立場、相対差別という人為を超えた立場から見れば、是れと彼れとの区別はなく、彼れと是れは同じものになる。たとえ是非を立てる者があったとしても、彼れは彼れの立場をもととした是非を立てているにすぎず、是れの是れの立場をもととした是非を立てているにすぎない。それに、もともと彼れと是れという絶対的な区別がはたして存在するのか、それとも、彼れと是れとの区別が存在しないのか、根本的に疑問ではないか。このように、彼れと是れとが、その対立を消失する境地を、道枢という。枢――扉の回転軸は、環の中心にはめられることにより、はじめて無限の方向に応ずることができる。この道枢の立場に立てば、是も無限の回転を続け、非もまた無限の回転を続けることになり、是非の対立はその意味を失ってしまう。だから、「明らかな知恵をもって照らすのが第一である」というのである。

http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_2.html
─────────

俗に《彼是、方生の説》、《方生の説》と呼ばれる超有名な箇所です。

原文は非常に難解です。
─────────
物無非彼,物無非是。自彼則不見,自知則知之。故曰:彼出於是,是亦因彼。彼是,方生之說也。雖然,方生方死,方死方生;方可方不可,方不可方可;因是因非,因非因是。是以聖人不由,而照之于天,亦因是也。是亦彼也,彼亦是也。彼亦一是非,此亦一是非。果且有彼是乎哉?果且無彼是乎哉?彼是莫得其偶,謂之道樞。樞始得其環中,以應無窮。是亦一無窮,非亦一無窮也。故曰「莫若以明」。

http://ctext.org/zhuangzi/adjustment-of-controve …
─────────

《彼是,方生之說也》が《方生の説》の語源です。
言葉遊びといってしまえば言葉遊び、論理を弄んでいるといえば、論理を弄んでいますが、
《彼と是》、《生と死》は二項対立であるので、《彼》、《生》と言った瞬間、《是》、《死》が同時に派生する、生まれる、
なので、《生》とともに《死》が生まれる、
「方生方死」となるのだそうです。
少し文学的な表現をしますと、
 「生はその中に死を含み、死は生を含む」
となりますでしょうか。
わたしは、こういった誤解を招く表現を好みませんけれど・・・

なお、
《方生》の《方》の意味は、
─────────

ピンインfāng

((文語文[昔の書き言葉]))

1 今まさに,ちょうど,あたかも.≦正.

用例
 形势方在变化发展中。=情勢は今まさに変化発展中である.

http://cjjc.weblio.jp/content/%E6%96%B9
─────────

真偽は定かでないのですが、聞くところによりますと、
《方生の説》は、荘子のお友達、大親友の《恵施・恵子》の説だそうで、その説を荘子が応用した
と言われているようです。


この他に有名なところですと、

─────────
生也死之徒,死也生之始,孰知其紀!人之生,氣之聚也,聚則為生,散則為死。若死生為徒,吾又何患!故萬物一也,是其所美者為神奇,其所惡者為臭腐;臭腐復化為神奇,神奇復化為臭腐。故曰:『通天下一氣耳。』聖人故貴一。

『荘子』・外篇 知北遊
http://ctext.org/zhuangzi/knowledge-rambling-in- …
─────────

意味は、
「生は死のお友達、死は生の始めなのよ。誰がその始まりを知るのよ。〔誰も知らない!!〕人の生は、気の集まり、〔気が〕集まれば生となって、気が離散すれば死となる。もし死生をお友達とするならば(考えるならば)、我々は、いったい、何を憂えるのよ。
だから、万物は一つなのよ、その美(よ)いところが神奇(人知を越えた不思議なもの)となり、悪いところが臭くて腐ったものとなる。臭くて腐ったものもまた神奇となって、神奇もまた臭くて腐ったものとなるのよ。───ただ気が循環するだけ───
だから、
『天下(あめした)のものはすべて一つ〔の気に還元される〕』というのよ。
だっけ、聖人は一を貴(とうと)ぶのよ。」
といったところでしょうか。

荘子とドクロのお話は、
─────────
 〔荘子、髑髏と語る〕荘子が楚に行き、空の髑髏を見た。風雨にさらされて、骨だけしかない。馬の鞭でこれを叩いてから、髑髏にいった。
「あなたは悪事を行って、このようになってしまったのか」
 こういい終わると、髑髏を引き寄せ、枕にして寝た。夜半、髑髏が夢に現われていった。
「あなたの論は弁士にそっくりだ。死ねば何も残らない。あなたは死のことを聞きたいか」
「ききたい」
「死ねば上に君が無く、下に臣が無い。のびのびとして天地を春秋のように楽しめばいい。南面する王の楽しみでも、これに及ぶものはない」
 荘子は信じないでいった。
「わたしがあなたを生き返らせるとすれば、あなたは欲するか」
 髑髏は眉をひそめ顔をしかめていった。
「どうして南面する王の楽しみを捨てて、また人間の苦労を味わおうか」

http://www.geocities.jp/sei_taikou/soushi_18.html
─────────
ちと、気の循環による死生同一説に反しますが、
生を一方的に好いものとし、死を悪しきものとする考えを捨てちゃいなさい。
生死の違いにこだわるな、
と言いたいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

 漢文と言いますか 古典となっているような中国人の思想 これらからわたしは ゆえなく遠ざかって来たのですが たしかに何故かわたし自身の思想からは遠いと 今回思えるように感じました。

 まづは ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 陰陽といった物の元を立てるとか またそこから世界についての分析的認識を打ち立てて行くとか それとして論理的なところもあるのでしょうし たとえ文学に片向いたとしても それなりに風情があったり現代人にも通じるところもあるのでしょうが どうもわたしには なじまないような感じがします。

 ◇ 言葉遊びといってしまえば言葉遊び、論理を弄んでいるといえば、論理を弄んでいますが、
 ☆ まづこの理由が 大きいと思います。

 なじめない理由の第二は 必ずしも全体観を語っていないと思われることです。

 ▲ 万物斉同・生死斉同
 ☆ と言いますが 例の《色即是空》と同じであって この認識のあとあらたに《空即是色》という補いが 現実論として・また全体観として 添えられることになっていなければおかしいのではないか。これです。

 つまり 万物斉同や生死斉同と言ったそのあと ただし現実には 是があってそれとは別の彼があるということ 生があるのであって それは死とは別だと言うということ これが必要だと思いますね。
 《斉同》のままに放っておくのは やはりおかしい。一面的な議論だと思います。


 三つ目に ドクロが話をするというのは 荘子の主観なる世界において かれが独りでいわば問いと答えを繰り返す思惟なのだと捉えます。

 それはそれで 思想の表現形態としてあり得るとは思います。


 四つ目には その問答を繰り広げる独語録の内容は いただけないように感じます。《アマテラス公民がスサノヲ市民を見下ろすときの上からのマナザシと そのマナザシを受けるスサノヲといった〈マナザシ連関〉》が有るか無いかで 生と死との区別にあてはめて ああだこうだと議論している。というように感じます。



 五つ目には
 ◇ 『天下(あめした)のものはすべて一つ〔の気に還元される〕』というのよ。
 ☆ だとしたら この《気》についてさらにさらに現実に即した分析を展開し 世界観〔の一環〕とすることがのぞまれます。現実と連動させるというところが 重要だと思われます。

 信仰からヒラメキから あるいは世俗的なクウキの問題から 幅広い議論とそれとしての理論も――この《気》学から――得られるかも分かりません。《気》という一元と見るのではなく 人間関係として見るなら 《マ(間)》の理論にも成りうるとも考えられます。


 どうも素直に受け留められないそのままを 反応しました。

 中国人のまじめな思想ってあるんでしょうか。

お礼日時:2013/08/02 22:11

いけない、またポカをやってしまいました。


NO7ではなく、NO8です。
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この回答へのお礼

 了解。

お礼日時:2013/08/01 23:19

NO7を少し訂正します。



【訂正前】彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。
【訂正】彼の生前の時とは異なり今は《生きている・you are alive》のでしょう。

《本当の意味》は《本当は》は余計ですね。
この言葉を付け加えると、厄介になりそうなので、除いてください(ペコリ)。
その方が賢明です。
ここはボカすべきところです。
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この回答へのお礼

 つづいてです。

 文や語句の読み取りもそうですが どうも思想としても わたしには 意味が採りにくいように思えます。

 生死斉同 とすれば分かるように見えますが その思想をどのようにみちびているのか。分かりにくいと思います。

 ◇ (回答No.8)~~~~
 たぶん、
 このドクロは、見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが、彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。
 でないと、話がつながりません。
 ~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが》と言っても じっさいに《死んでいる》ぢゃないの? としか思えないのですが。何でいまは《生きている》と言えるのでしょう?

 No.8のほうに書き込んでいればよかった話になりますが。

お礼日時:2013/08/01 23:18

こんばんはです。




中国語カテで教えていただきました。
「唯予與汝知而未嘗死,未嘗生也。」

「私と貴方だけ知っている、貴方は本当の意味で生きでないし、まだ本当の意味で死んでない。」
らしいです。

http://oshiete.goo.ne.jp/qa/8200626.html

知るの目的語は、省略されていますけれど、
「(汝)未嘗死,未嘗生也」
となるようですね。
そして、
「而」は、順接(?)の接続詞ということになるのでしょう。

「本当の意味で」がどこから出てくるのか知りたいところですが、
この意味ですと、非常にしっくりします。

なのですが、
ここは
「〔汝〕、いまだ嘗(かつ)て死なず、いまだ嘗て生きず」
と訓読すべきところなのでしょうね。
「you are not dead, and that (aforetime) you were not alive.」
の意味に解釈するべきなのでしょう。
で、
たぶん、
このドクロは、見た目がドクロとなり今は死んでいるように見えますが、彼の生前の時とは異なり今は本当の意味で《生きている・you are alive》のでしょう。
でないと、話がつながりません。

《未嘗》の用例としましては、
─────────
尝(嘗)
ピンインcháng

((文語文[昔の書き言葉])) かつて,以前に.≦曾经.

用例

未尝见过=いまだかつて会ったことがない.
何尝不想去((型))=(反語)どうして行きたくないものか.

http://cjjc.weblio.jp/content/%E5%98%97
─────────


☆ なんで《百年》と分かるのでしょう? ただ古いと言っているのでしょうか。でも分かりますか?
◇百年は、古いということを示す文学的修辞だと思います。
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この回答へのお礼

 しっくり来ましたか。

 わたしは まだです。

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 ● 「私と貴方だけ知っている、貴方は本当の意味で生きでないし、まだ本当の意味で死んでない。」
 ☆ どうもこの回答者は 中国の人ではないかと思います。息の音( / h / )が入るか入らないかの有気音か無気音の区別だけであって 有声音つまり濁音がないので 無気音だと見なした場合には クセによって《有声音=濁音》で平仮名を書いているのだと思います。

 ● 未嘗生: 貴方は本当の意味で生き≫で≪ないし 
      → ・・・生きてないし
 ● 未嘗死: ま≫だ≪本当の意味で死んでない
      → また 本当の意味で死んでない

 だと思います。
 すなわち 《ドクロのあなたは いまだ嘗て生きていないし また いまだ嘗て死んでいない》。


 でも意味を取るのに苦労すると思うんですが しっくりしましたか?

お礼日時:2013/08/01 23:11

こんばんは ブラジェロンさん



よかったですね 日本に川端康成さんのような人がいて
私は彼の綺麗な日本語による純粋な文学こそ 日本の神だと思いますが
彼の中で創造された神は 言霊となって 彼の小説で日本語という言葉により日本人の美しさを表しています 

日本人が彼の小説を手にして読めば そこに神がいるのです それ程 彼が神を求めていたのかもしれません
いや 彼は神を観ていたのでしょう 彼の心には 観た事全てが神の行いに思えたのでしょう
私は彼が彼の観た神のもとに逝かれたことを信じます

人間は誰もが未来を想像して生きています 常に彼のように神を観ることができる人は幸せな人だと思います
殆どの人は 神を観たとしても一瞬です むしろ 無に苦しむのかもしれません
この世界で人間の想像が他の生き物に劣らないことを願っています(の´v`の)

あっ 何故 彼に神が観えたのかって? それは 彼の心が神であったからです
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この回答へのお礼

 てふ_てふさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。

 えらく川端に入れ込んでいらっしゃいますね。
 
 この一編は すなおによいとわたしも思いますが もう一編の《お信地蔵》は 思想内容としていただけないと判定しました。よ。


 まぁ 《神います》という感覚は すなおな表現で 現実味があると思います。妻をおぶった鳥屋を見送ったときに その妻の足の小ささに 何かを感じたのでしょうね。いちいち面倒なことを考えることなど何もない。といったヒラメキのような・さとりのような。


 神の霊がやどる。または ブッダター(仏性・自性清浄心)がやどる。といったことを思わせてくれるようです。



 感想だけで終わっちゃった。

お礼日時:2013/08/01 22:32

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Q川端康成:《神います》

▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~
1 夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい 
目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の
道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。

 湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬か
5 ら落ちた。                             

  《お寒くなりました。たうとうお正月もこちらでなさいますか。》

 見ると 宿へ来るので顔馴染の鳥屋だつた。

  《いいえ 南へ山を越えようかと思つてゐます。》

 《南は結構ですな。私共も三四年前まで山南にゐたので 冬になると南へ帰りたくなりま
10 してな。》と言ひながらも 鳥屋は彼の方を見向かうとしなかつた。彼は鳥屋の不思議
な動作をじつと盗み見してゐた。鳥屋は湯の中に膝を突いて伸び上がりながら 湯桶の縁に
腰を掛けた妻の胸を洗つてやつてゐるのだつた。

 若い妻は胸を夫にあてがふやうに突き出して 夫の頭を見てゐた。小さい胸には小さい乳
房が白い盃のやうに貧しく膨らんでゐて 病気のためにいつまでも少女の体でゐるらしい彼
15 女の幼い清らかさのしるしであつた。この柔らかい草の茎のやうな体は その上に支へ
た美しい顔を一層花のやうに感じさせてゐた。

  《お客様 山南へおいでになるのは初めてですか。》

  《いいえ 五六年前に行つたことがあります。》

  《さやうですか。》

20 鳥屋は片手で妻の肩を抱きながら 石鹸の泡を胸から流してやつてゐた。

  《峠の茶店に中風の爺さんがゐましたね。今でもゐますかしら。》

 彼は悪いことを言つたと思つた。鳥屋の妻も手足が不自由らしいのだ。

  《茶店の爺さんと?――誰のことだらう。》

 鳥屋は彼の方を振り向いた。妻が何気なく言つた。

25  《あのお爺さんは もう三四年前になくなりました。》

 《へえ さうでしたか。》と 彼は初めて妻の顔をまともに見た。そして はつと目を
反らせると同時に手拭で顔を蔽うた。

 (あの少女だ。)

 彼は夕暮の湯気の中に身を隠したかつた。良心が裸を恥かしがつた。五六年前の旅に山
30 南で傷つけた少女なのだ。その少女のために五六年の間良心が痛み続けてゐたのだ。
しかし感情は遠い夢を見続けてゐたのだ。それにしても 湯の中で会はせるのは余りに残
酷な偶然ではないか。彼は息苦しくなつて手拭を顔から離した。

 鳥屋はもう彼なんかを相手にせずに 湯から上つて妻のうしろへ廻つた。

  《さあ 一ぺん沈め。》 

35 妻は尖つた両肘をこころもち開いた。鳥屋が脇の下から軽々と抱き上げた。彼女は賢
い猫のやうに手足を縮めた。彼女の沈む波が彼の頤をちろちろと舐めた。

 そこへ鳥屋が飛び込んで 少し禿げ上つた頭に騒がしく湯を浴び始めた。彼がそつとう
かがつてみると彼女は熱い湯が体に沁みるのか 二つの眉を引き寄せながら固く眼をつぶ
つてゐた。少女の時分にも彼を驚かせた豊かな髪が 重過ぎる装飾品のやうに形を毀して
40 傾いてゐた。

 泳いで廻れる程の広い湯桶なので 一隅に沈んでゐる彼が誰であるかを 彼女は気がつ
かないでゐるらしかつた。彼は祈るやうに彼女の許しを求めてゐた。彼女が病気になつた
のも 彼の罪かもしれないのである。白い悲しみのやうな彼女の体が 彼のためにかうま
で不幸になつたと 眼の前で語つてゐるのである。

45 鳥屋が手足の不自由な若い妻をこの世になく愛撫してゐることは この温泉の評判に
なつてゐた。毎日四十男が妻を負ぶつて湯に通つてゐても 妻の病気ゆゑに一個の詩とし
て誰も心よく眺めてゐるのだつた。しかし 大抵は村の共同湯にはいつて宿の湯へは来な
いので その妻があの少女であるとは 彼は知るはずもなかつたのだつた。

 湯桶に彼がゐることなぞを忘れてしまつたかのやうに 間もなく鳥屋は自分が先きに出 
50 て妻の着物を湯殿の階段に広げてゐた。肌着から羽織まで袖を通して重ねてしまふと 
湯の中から妻を抱き上げてやつた。うしろ向きに抱かれて 彼女はやはり賢い猫のやうに
手足を縮めてゐた。円い膝頭が指環の蛋白石のやうだつた。階段の着物の上に腰掛けさせ
て 彼女の顎を中指で持ち上げて喉を拭いてやつたり 櫛でおくれ毛を掻き上げてやつた
りしてゐた。それから 裸の蕊(しべ)を花弁で包むやうに すつぽりと着物でくるんで
やつた。

55  帯を結んでしまふと 柔らかく彼女を負ぶつて 河原伝ひに帰つて行つた。河原は
ほの明るい月かげだつた。不恰好な半円を画いて妻を支へてゐる鳥屋の腕よりも その下
に白く揺れてゐる彼女の足の方が小さかつた。

 鳥屋の後姿を見送ると 彼は柔らかい涙をぽたぽたと湯の上に落とした。知らず知らず
のうちに素直な心で呟いてゐた。

60   《神います。》

 自分が彼女を不幸にしたと信じてゐたのは誤りであることが分つた。身の程を知らない
考へであることが分つた。人間は人間を不幸になぞ出来ないことが分つた。彼女に許しを
求めたりしたのも誤りであることが分つた。傷つけたが故に高い立場にゐる者が傷つけら
れたが故に低い立場にゐる者に許しを求めると言ふ心なぞは驕りだと分つた。人間は人間
65 を傷つけたりなぞ出来ないのだと分つた。

  《神よ 余は御身に負けた。》

 彼はさうさうと流れる谷川の音を 自分がその音の上に浮んで流れてゐるやうな気持で
聞いた。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

(あ) 問題は 人と神とのタテの関係ではなく 人間どうしのヨコの関係のほうにある
とも考えられ それとしては 次のような事実関係またはそれをめぐる心のたどった内容
にある。はずだ。
 ▼ (川端) ~~~~~
 ・ 鳥屋と手足の不自由な若い妻

 ・ その妻は 《彼》が五六年前の旅で山南で傷つけた少女だったかと思われる。

 ・ この少女が病気になつたのは 彼の罪かもしれないとまづ思ったこと。
 ~~~~~~~~~~~~~~~

(い) 《少女=若い妻》の内面については何もしるされていない。夫を得てやさしく介
護されつつも 堂々と・ともに生きている様子がえがかれている。

(う) 《彼》と呼ばれるひとりの男は この様子をながめて 《神います。 / 神よ 余
は御身に負けた》とつぶやき この主人公の女は すでに古傷は癒されていると見た。否
その心が傷つくことなどはいっさいなかったのだと捉えた。

(え) 問題は 男が確かに《傷つけた》という言葉で表わした一定の行為が女に向けて
おこなわれたという事実 そしてそのことについてその後《女が病気になったのは 自分
の為したそのおこないの所為かも知れない》と思ったという事実 これらの事実をめぐっ
て むしろ女のほうは どのように対処したか? どう解きほぐしたか? でしょうか。

(お) もし男に自分で言うほどの行為があったとしたなら 女は ムッとしたりムカつ
いたり怒ったり憤ったりしたのではないかと推し測られる。つまり 心の上っ面において
だけとしても 相手に敵対心をおぼえたり報復は成し得ず恨みをかこったりしたかも知れ
ない。これを どう解きほぐしたか?

(か) 男は この湯場での出来事をとおして 女との関係におけるわだかまりや罪悪感
からすっかり吹っ切れて 世間とのそしておのれとの和解が成った。ようである。――女
は どうであったか?

(き) 女はすでに初めから 何のわだかまりや怒りやも覚えず 心のひねくれも へそ
のひん曲がりも 味わわなかったのだろうか。

(く) 質問者は 一方で上っ面の心理的な動きとしては 怒りや恨みなる波風をみづか
らも立てたが 他方でそれはあくまで海の表面のそれであって 心の奥底には到っていな
い。と見ることで 解こうとしている。――これで よいか? まだ一面的ではないか?

(け) あるいはつまり 女は 男が 身から出た錆びだとは言え 相手に対して心に損
傷をあたえたのではないかと悔やみつつ良心のとがめをも感じていたというその有りさま
について 無関心でいてはおかしい。とも考えられる。

(こ) そのあたりは 女の内面において どうなっているか? その・どうなっている
かについての男の思いや考えは どうであるか? もうありがたいという思いとその受け
留めで 済ませているのか?

▼ (川端康成:神います) ~~~~~~~~
1 夕暮になると 山際に一つの星が瓦斯灯のやうに輝いて 彼を驚かせた。こんな大きい 
目近の星を 彼はほかの土地で見たことがない。その光に射られて寒さを感じ 白い小石の
道を狐のやうに飛んで帰つた。落葉一つ動かずに静かだつた。

 湯殿に走りこんで温泉に飛び込み 温かい濡手拭を顔にあてると 初めて冷たい星が頬か
5 ら落ちた。                             

  《お寒くなりました。たうとうお正月もこ...続きを読む

Aベストアンサー

これ多分 昔読んだことあるかもな
リアルな描写ですよね何か・・
要は 彼女は彼に気付いていないので 事無きを得た

事件のせいで? 彼女が手足に障害はあるものの 
鳥屋と結婚して 幸せに暮らしている
ここに 神います かな
しかも彼は気付かれもせず

彼は多分 金星のでかく美しいのに驚いて泣く 感受性の強いやつ
この序章が 神 についての布石みたいなものかしらん・・
彼女が彼に気付いていたら 修羅場になっていたのかも・・?

伊豆の踊子 とか その辺の物語は 他にも書かれているのかな??
清張の 天城越え とか 歌もありましたね昔

Q「恐ろしい愛」川端康成の解釈

最近、川端康成の「掌の小説」を買いました。でも、その中でどうしても理解できないのが、「恐ろしい愛」という短編です。

主人公の「彼」は、大変なナルシスト。その彼が、死んでしまった妻・その死を、妄想によって語る…?という話の大筋はつかめたのですが。(自分の解釈ですが)

物語の中の「娘」についての描写がよくわかりません。
「はさみ」「白い布」「水道の音」「夜中に爪を切る」「娘の秘密」

これらは、一体何を表しているのでしょうか?
父親を殺すことの前触れ?

「爪を焼く臭いで吐きそうだった」というのは、
爪=身体の一部だから、
それを焼くこと=死体を焼く ことを想像させた?
「娘の秘密」は、父親を殺そうと計画を立てていることで、だとしたら、娘が真夜中に泣いていたことも納得できるのですが。

そして、最後。
娘に殺される彼は、そのことまでも妄想によって美化してしまうという解釈で良いのでしょうか。
本当は娘は母の仇でもなんでもなく、ただ父親が憎かったから殺したのに、彼はそれを認めたくなくて、妄想へ走る…
こんな風に感じました。

読んだことのある方、それぞれどう解釈したか教えていただけると嬉しいです。

最近、川端康成の「掌の小説」を買いました。でも、その中でどうしても理解できないのが、「恐ろしい愛」という短編です。

主人公の「彼」は、大変なナルシスト。その彼が、死んでしまった妻・その死を、妄想によって語る…?という話の大筋はつかめたのですが。(自分の解釈ですが)

物語の中の「娘」についての描写がよくわかりません。
「はさみ」「白い布」「水道の音」「夜中に爪を切る」「娘の秘密」

これらは、一体何を表しているのでしょうか?
父親を殺すことの前触れ?

「爪を焼く臭いで...続きを読む

Aベストアンサー

全くの私見ですが

彼は、妻を極端に溺愛したのですよね?
それで、妻が死んだのは自分の妻への溺愛の天罰だと思い、
以後は、一切の女を遠ざけ、女を諦めようとしています。
というのも、女という女がみんな妻に見えるからでした。
ところが、家には、妻に似た娘の存在がありました。

次の場面を、私は、とても恐ろしいことと解釈しました。
立膝を開いて、鋏を使っていましたね。そして、
夜中にシーツを洗っています。
つまり鋏を用いる行為でシーツを汚してしまった訳です。
どんな行為か、想像がつくと思います。
どうしてこんな行為に走ったか、それは、
亡き母を溺愛していた父親が、自分の中に母親の
面影を見て、女を諦めようとしている彼の決意が揺らぐ
ことになりはしないか、という恐れからだと思うのです。
(女を諦めているのに、夜中に部屋を覗きますね。)
そしてこれは、ついに彼への殺意に発展します。
爪の焼ける匂いで吐き気をもよおすのは、その娘の恐るべき行為の
生々しさを知ったからではないでしょうか。
そして、あまりに妻を愛しすぎたために、妻に似た娘にさえ
尋常な目を向けることができなくなった彼の顛末が
娘からの刃だったのではないでしょうか?

あまりに短い文章で、想像でしか語れませんが
参考までに書いてみました。

全くの私見ですが

彼は、妻を極端に溺愛したのですよね?
それで、妻が死んだのは自分の妻への溺愛の天罰だと思い、
以後は、一切の女を遠ざけ、女を諦めようとしています。
というのも、女という女がみんな妻に見えるからでした。
ところが、家には、妻に似た娘の存在がありました。

次の場面を、私は、とても恐ろしいことと解釈しました。
立膝を開いて、鋏を使っていましたね。そして、
夜中にシーツを洗っています。
つまり鋏を用いる行為でシーツを汚してしまった訳です。
どんな行為か、想像...続きを読む


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