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最近仏教の入門編のような本を読みました

そこにはブッダがひらいた悟りの内容は「これあれば、かれあり」、「これ滅すれば、かれ滅す」等の「因縁」、つまり「結果には必ず原因がある」というコトだったと書いてありました

しかし結婚や出家には説明できる理由はなく、あるのは「縁」だけだとも書いてありました

「ご縁があったから」で済まされるのであれば他のことも「運命だったから」で済まされてしまいます

これは過去からのご縁「袖触れ合うも他生の縁」などのように死後の世界から続くものもこの世に影響しているから、「原因はあるけど説明はしきれないんだよ」と、いうことなのでしょうか?

でもそれだとしたら「結果には原因がある」と分かった所でどうせ抗えないのなら、心も軽くならないし意味がないのではないのか?と思ってしまいます


仏教はとても素晴らしい教えで屁理屈を言いたいわけではないのでご理解ください

もっと理解を深めたい、との心から出た質問です

宜しくおねがいします

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A 回答 (4件)

仏教は自分の思う通りにならない人生を受け入れることの重要性を説いていると思います。



諸法無我。

わたくしたちが何を考えようと、何を望もうと、それとは関係なく諸法が機能している現実です。

だからといって、何かを望んではいけないと言っているわけではありません。
望みどおりでないことも「受け入れる」ことの大切さを説いているのではないかと思います。
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この回答へのお礼

全て受け入れるのにまた、その道、方法がありそうですね

長い道のりでも諦めずにトライしてみます
ありがとございました

お礼日時:2013/07/30 20:36

「結果には原因がある」、確かにそうですがそれだけではないのです。


文面を反対側から考えましょう。これは銀河英雄伝説というアニメからの引用ですが、

「どうせなら過去の結果としての現在より、未来の原因としての現在を、より大切に
なさるべきでしょうな。」

こんなセリフがあります。発言した者はいけ好かないキャラですし、場面は相手を
見下しているところですが、言葉自体は至極真っ当なのですw

まあ、原因も結果も絶え間なく連続しているのです。一つ一つの結果に一喜一憂して
いるヒマがあったら、次に勝ち星を挙げられるようにするべきじゃないかな?
結果には原因があるという事は、今からの言動でよくなる原因を起こせば、未来の
結果をよくする事がいくらでもできるという意味になりませんか?

あと、「原因」+「縁」(不確定要素?)→「結果」です。

あと、プロ野球で最年長の山本昌投手を例に挙げますが、質問者のように彼が
絶望視していたら、30年もピッチャーをやっていないでしょう。また、師と仰ぐ
人物との邂逅から、自分を見直して大きく成長を遂げました。これは原因と縁が
噛み合って今という結果を出しているのです。縁は不確定ですが、だからといって
自分が努力しなければ、その原因が脆弱で結果を導き出せない。科学反応だって
仕事だって、原因を追究する。それは次なる結果のためでしょう。

ご賢察を祈ります。
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この回答へのお礼

最善を尽くす、ということですね

そうですね

それしか、ないですもんね


ありがとうございました

お礼日時:2013/07/30 20:35

>「結果には原因がある」と分かった所でどうせ抗えないのなら、心も軽くならないし意味がないのではないのか?と思ってしまいます



素晴らしい着眼点です。

実はこの教えには重要な秘密あって、ブッダはこの秘密を敢えて教典には書かず、
口伝である法華経の中に隠しました。何故ならその時代は正法であった為、
また人間の生命が清らかであった為に、その妙薬を処方する必要性が無かったのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E6%B3%95

それから二千年の時が流れ、時代はいよいよ末法時代を迎えます。
末法は人間の生命が醜く濁り、争いや妬み憎悪に満ちています。
仏陀はこうした事態を予言しており、その法華経に隠された解決法と
その秘術の発見者の出現をも明言しています。

その人物とは日蓮であり、南無妙法蓮華経こそがその秘術です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E7%84%A1% …

過去の因を知らんと欲せば 其の現在の果を見よ
未来の果を知らんと欲せば 其の現在の因を見よ

日蓮はその著書でこのように述べています。
そしてこれを直ちに転換する魔法を転重軽受と呼んでいます。

http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Circle/20 …

ですので何の心配も要りません。
明るく楽しく生きていくのが人間の一生です。
我々はこの娑婆世界で楽しく遊び回るために生まれてきたのです。

http://www.miura-lotus.com/gosho193.htm

仏法は希望の宗教です。
明るく朗らかに進んで参りましょう!
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この回答へのお礼

難しくてよく理解出来ない所もありましたが、楽しく遊びまわる為に生まれてきた。とは良い言葉ですね

実際に遊び呆けるという意味では無いと思いますが

楽しく跳び回りたいと思います

お礼日時:2013/07/30 12:05

無神論者です。



宗教に対する私の気持ちですが・・・

悪い意味では、すべての宗教は古より続く詐欺と思っています。大昔の賢い人が考えたよく出来た詐欺商品です。

あらゆる宗教の真理(商品)を科学で証明(詐欺と立証することが)できないからよく出来ています。

売った者勝ちで、買った者は金品・労力・命などを提供し、代価として死や恐怖、罪からの解放、心の安らぎなどを得る。

需要のバランスを崩さず、ゆき過ぎなければ時代も人民も文句は言わない。

古代からの心療内科、精神科の役割を果たしてきたと思えば、宗教が世の中の為になっているとも矛盾しながらも考えられなくもない。

ただ、許せないのは古より続く戦争の殆どに宗教の対立があること。宗教が無ければ戦争が無いのではないかとさえ思える。



宗教の所謂、教典などに書かれていることに整合性を求めてはいけませんよ。

所詮、心の安らぎを求める人への都合の良いことしか書いてない商品なのですから。

都合の良い解釈をして咀嚼して万民に分かりやすい説法を説いてくれる高僧はIQが高いだけです。悪知恵が働くとも言えます。

現代の先進国では心療科、精神科もカウンセリング等、飛躍的に発展してるので宗教の役割も減ってきたでしょう。

宗教に没頭するのもいいですが、答えが見つからずにお迷いでしたら心療科、精神科、カウンセリング等をオススメしますよ。


科学が万能とは思いませんが、宗教が詐欺商品であることを立証できる唯一の学問だと思います。


こんなこと書いてる私ですが、やはり親類知人の葬儀では参列もしますし、涙もします。無神論者のつもりなんですけどね(^^ゞ
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Q仏教の教えの矛盾?

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。

しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。

そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。

どうぞよろしくお願い致します。

仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。

しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべき...続きを読む

Aベストアンサー

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うなら、生まれ変わる主体がないのだから、「輪廻転生」はないことになると思います。
>>生まれ変わりがあると言うなら、その生まれ変わる主体があって、それが生まれ変わると考えるべきだと思うので、生まれ変わる「我れ」の実体がある(例えば霊魂など。)ことになり、「我れ」には実体がないと言う命題と矛盾するのではないかと思います。
>>しかし、これまで長い間、偉いお坊さんたちの間では、この二つの命題の間には「矛盾はない」と理解されて来ていたのでしょうから、多分、この二つの命題に関する私の理解が不十分なのだろうとも思います。
 この矛盾を指摘して今でも影響力を持つ説として挙げられるのは和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』という書籍かと思います。かいつまんで和辻氏の説を説明しますと、輪廻には主体となる「我(attan・アートマン)」が必要である、しかしお釈迦様は「我」を否定する、故に輪廻と無我は両立しない、だから輪廻説はお釈迦様の説でがなく後に付け加えられたものであろう、というのが和辻氏の説です。この説は仏教学者中村元氏においても『中村元選集』15巻で輪廻説は無我説と矛盾することが学者によって指摘されているというような内容があったはずで、中村氏をもってしても批判は加えられておりません。
 ですから、質問者のする輪廻と無我は矛盾するという指摘は中村元氏でもひっくりかえせなかった、矛盾を見つけたという事ですからなかなか鋭い指摘といえます。 

>>そこで、一見矛盾するように見えるこの二つの命題を矛盾なく理解するには、この二つの命題の、それぞれの本当の意味をどう理解したら良いのか、また、両者の関係をどの様に理解すれば良いのか、どなたかご教示頂けると大変有難いと思います。
 もちろんこの矛盾に対して答えたかたはいらっしゃいます。例えば、和辻氏が批判の対象として木村泰賢氏の『原始仏教思想論』なんかが、通仏教的な矛盾の解決を論じています。木村氏の文章はショウペンハウワー氏など、西洋哲学の人の言葉を使ったりして現代的な理解として論じておられますが、私は西洋哲学ちんぷんかんぷんなので、木村氏の説をもとに私のわかる言葉書きます。もし木村氏の実際の文章が気になるのでしたら書籍を手に取ってみてください。
 まず、お釈迦様は実際に筆をとって言葉を残したことはありません。あくまで、現存する資料はお釈迦様が亡くなってから三百年以上たってから書きとめられたものである、という事を前提におきます。しかし、ながらお釈迦様の教えを知るにはそういった文献によらざるを得ません。そのなかでもっとも古い成立起源をもつ経典の一つが『スッタニパータ』というものです。この中で輪廻がどのように説かれているか、最古層といわれる部分から抜き出していきますと、(文章は中村元氏訳を使います。『ブッダのことば』岩波文庫)

779 想いを知りつくして、激流を渡れ。聖者は、所有したいという執著に汚されることなく、(煩悩の)矢を抜き去って、勤め励んで行い、この世もかの世も望まない。

877 かの聖者は、『これらの偏見はこだわりがある』と知って、諸々のこだわりを塾考し、知った上で、解脱せる人は論争におもむかない。思慮ある賢者は種々なる変化的生存を受けることがない。」
(文中「種々なる変化的生存を受けることがない」というのは、わかりにくいのでほかの方の訳と原文を比べ
ますと「いろんなものに輪廻して生を受けることがない」ってことです)

901 あるいは、ぞっとする苦行にもとづき、あるいは見たこと、学んだこと、思索したことにもとづき、声を高くして清浄を讃美するが、妄執を離れていないので、移りかわる種々なる生存のうちにある。

902 ねがい求める者は欲念がある。また、はからいのあるときには、おののきがある。この世において死も生も存しない者、──かれは何を怖れよう、何を欲しよう。
(文中「この世において死も生も存しない者」というのは、やっぱりわかりにくいのですがほかの方の訳や原文を比べますと「この世において生まれ変わり死に変わりしない者」という意味でしょう)

1123 師は答えた、
「ビンギヤよ。ひとびとは妄執に陥って苦悩を生じ、老いに襲われているのを、そなたは見ているのだから、それ故に、ビンギヤよ、そなたは怠ることなくはげみ、妄執を捨てて、再び迷いの生存にもどらないようにせよ。」

1055 師が答えた、
「メッタグーよ。上と下と横と中央とにおいて、そなたが気づいてよく知っているものは何であろうと、それらに対する喜びと偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。

私が抜き出せるのはこんなところです。(もっとあったら誰か教えてください。)現存する経典の最古層でお釈迦様は輪廻についてこのように説いておられます。もっともお釈迦様の立場が分かりやすいのは1055かと思います。簡単に言えば、「輪廻しないようにならないといけない」と説いているわけです。しかしながら、このような文章を使って「ほらお釈迦様は輪廻を否定している。お釈迦様は輪廻を説かなかった」と結論付ける方が学者のなかにもがおりますが、確かにお釈迦様は「輪廻すること」を否定はしていますが、「輪廻説」自体は否定していません。こういった文章を読む限り、お釈迦様は輪廻を前提においた解脱という事を説いています。

 では、その時の輪廻の主体は何か?これは『中阿含経』(パーリ『中部』)の中で、漁師出身の嗏帝(サーティ)比丘という方が

サーティ比丘は
「私はお釈迦様の教えをこのように理解します。識だけは、流転輪廻するが、変化することがないと」
と話していた。それを聞いて、お釈迦さまはサーティを呼び出して
「サーティよ、その識とはどんなものですか?」
と問いかけると
「尊い方よ、識とは、語るものであり、感受するものであり、ここかしこで善悪の行為の果報を受けるものです」
と答えたするとお釈迦様は
「そんなことを私はいつ説いたのですか?。私は様々なお話をしましたが、縁によって生ずる識を説いたのではなかったですか。すなわち『縁がなければ識の生起はない』と」。
と御叱りになった。

というような内容です。ここで、問題になるのは、お釈迦様は何について叱ったのかという点です。この中では、「識とは縁によって生ずるものだ」と叱っておられます。決して、「輪廻の主体が識である」という事を叱ったわけではありません。
 そのようなことを念頭において、今一度『スッタニパータ』最古層に目をやりますと、1055には「偏執と識別とを除き去って、変化する生存状態のうちにとどまるな。」とあって、偏執と識別を無くすことで輪廻から解脱することができると考えられています。この中村訳では識別と訳されている部分は、仏教語として識と訳されるもので、先ほどのサーティ比丘のいう識と同じ言葉です。この識という言葉も意味は多岐にわたりますが、区別し知るものという意味で簡単に言っちゃえば「これが我なんだったっていう執着」ってことですかね。十二縁起(十二因縁)などでは、識の原因は行、行の原因は無明という根本的な無知であるとされていますから、こういうことも含めた識なのでしょう。

 大まかに言えば、これが我なんだという執着が、いわば輪廻の主体です。そして、その執着を取り除いていって「そっか我を我たらしめるものなんて、無かったじゃないか」と気が付くことで輪廻からの解脱を勧めるのが無我説という事ではないでしょうか。ですから、仏教においての輪廻説は我(アートマン)というものを必要としない輪廻説といえます。

 大変おおざっぱなので木村氏の説とはまた違っているかもしれませんが、私の理解はこんなところです。どうぞご自身の理解をより深めていってください。
 急ごしらえのため誤字脱字乱文、引用の間違いがりましたらご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀佛

 あけましておめでとうございます。真宗のボーズと呼ばれているものです。しばらくお話しさせていただきやす。

>>仏教の本を読んでいると、「我れ、私」というものの実体は、物質的なものはもとより、非物質的な霊魂なども含めて、その実体はないと言っているように見えます。
>>一方、「輪廻転生」があると言っているように見えます。
 そうですな。そういう理解でいいと思います。

>>しかし、「我れ」というものがないとすれば、一体何が生まれ変わると言うのでしょうか?
>>「我れ」がないと言うな...続きを読む

Qキリスト教は矛盾していませんか

私は無宗教に近い、葬式仏教の日本人としてイスラム教とかキリスト教とかの宗教にも関心がないのですが、キリスト教が分かりません。
特別な神の子であるイエスが磔で死ぬのはおかしいし、処女懐妊もおかしい。 天地創造の神ヤーウェの力があれは 一瞬にキリストを創造し、無敵の生命力も持たすことができるだろうに、矛盾しています。精霊と神とキリストは一体だと三位一体説もあります。
普通に考えれば、ユダに裏切られたのも、他の弟子に3度知らないと言われたのも、信頼できない指導者であったとするのが自然です。 地域住民がローマ総督に訴えたのもアサハラのような人間であったと考えられます。 奇跡を行ったというのも、詐欺臭い。 復活したというのも騒乱罪で磔になったイエスが失神していて、4日後に意識が戻ったとするのが自然です。
なぜ大宗教になっているのでしょうか。

Aベストアンサー

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思います。
キリスト教が国教になる前、ローマ帝国は「ソル・インウィクトゥス」(不滅の太陽)という太陽神への信仰を広めようとしたことがあるそうです。太陽は1つしかありませんし、どこでも拝むことができますから、国をまとめる宗教として適当だと思われたのでしょう。ローマ帝国にとって重要なのは、政治に役立つかどうかであって、教義などの中身は二の次です。

ともあれ、それなりに信者が多くないと、ローマ帝国もキリスト教を選ばないでしょう。1~4世紀のローマ帝国で、キリスト教が普及したことには、いくつかの理由があるようです。

1.キリスト教は本来、いわゆる社会的弱者に対して共感的でした。これはどうやら、イエス本人の生前の教えによるものです。「貧しい人こそが救われる」など、社会の底辺で苦しい生活をしている人々に、受け入れられやすい教義をもっていました。そういう人ほど、一度信者になれば熱心に信仰しますから、布教には有利な特徴です。

2.キリスト教には、ややこしい戒律などはなく、簡単に信者になれました。大雑把に言えば、「あなたはイエスがいったん死ぬことで、人類の罪をあがなったことを信じますか?」「はい、信じます」だけでOKです(イエスの死後、パウロという人がつくった教義です)。日本でも鎌倉時代に、「南無阿弥陀仏と唱えさえすれば救われる」といった宗教が流行したことがありますが、あれと似たような感じですね。この手軽さも、広く受け入れられた理由でしょう。

3.これはやや否定的な側面ですが、キリスト教の教義では、「イエスの死と復活を信じない者は救われず、永遠に地獄で苦しむ」とされています。救われる(天国に行ける)方法を1つに限定することで、信者を脅している面があるわけです。いまでもカルト宗教などが同じ手を使うことからわかるように、藁にもすがるような心境の人を入信させるには、非常に有効な方法です。

4.ローマ帝国は特に2世紀から、キリスト教を弾圧していました。が、当時のキリスト教徒の多くは、もともと苦しい生活を強いられていたので、この世にあまり未練がありません。「殉教すれば天国に行ける」と信じていますから、なおさらです。苛酷な弾圧にも耐える人々の姿は感動的なので、「これは何か、すごい教えなのかもしれない」と思う人も出てきます。つまり皮肉なことに、弾圧がかえって信者を増やすというケースもありました。

大宗教になった理由は要するに、「ローマ帝国が国教にしたから」です。ヨーロッパ全土を支配する世界帝国が、キリスト教以外を禁じたのですから、信者が増えるのは当然です。

ではなぜローマ帝国がキリスト教を選んだかと言えば、「一神教だから」です。ローマ帝国は広大な領土をもっており、文化や宗教も多様です。これを1つの国としてまとめるには、土着の宗教を根こそぎ否定して、唯一神への信仰を押しつけるのが手っとり早いです。

一神教でありさえすれば、別にキリスト教でなくてもよかったのだろうと思い...続きを読む


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