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紀国造の称号が現在も紀氏の末裔の方に連綿と受け継がれているということを聞いたことがあります。
いわゆる古代豪族(物部氏・葛城氏・蘇我氏・大伴氏など)は奈良時代から平安時代(藤原氏の台頭)に合わせるように歴史から消えてしまったかのように見えますが、彼らは本当に没落してしまったのでしょうか。名前等を変えて近世まで貴族として残った例はあるのでしょうか。
また地方豪族(尾張氏・上野毛氏など)なども同じころに名前が出なくなりますが、そのまま地方に根を張り武士化して近世に至った例などはあるのでしょうか

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A 回答 (9件)

ANo.5 です。

お礼ありがとうございます。
お礼へのコメントを兼ねて回答の追加をさせて頂きます。
私は「古代豪族」を王権に影響力を行使するような大豪族、例えば質問文にあるような物部氏・葛城氏・蘇我氏・大伴氏などと認識しておりましたので、土師氏のような職能集団は除外しておりました。
ANo.6 さんが既に土師氏を掲げておられますが、土師氏からは後に菅原氏・大江氏が出ます。
菅原氏は菅原道真が出て堂上公家の地位を確立します。本来ならば藤原氏によって潰されるはずなのですが、子孫は江戸時代には数家に分かれて堂上公家として繁栄?します。菅原道真の怨霊を恐れて、子孫が公家社会で厚遇され続けたのでしょうかね。また、加賀藩前田家は菅原氏を称しています。系譜詐称で菅原氏を称しても何の箔もつかないので、恐らく本当なのではないかと愚考します。
大江氏は京都の公家社会では地位を確立できず下級官人で終わりますが、大江広元が鎌倉幕府の創業に参加し、子の毛利季光が戦国の大大名毛利家の始祖です。但し、大江氏の出自、大江広元の出自とも中世の系譜ですら異説が記されており、信憑性には疑問が残ります。
蛇足ですが、大江広元の出自は中原氏とも言われています。中原氏は安寧天皇の子孫を称する橿原市・桜井市付近の小豪族が出自のようです。中原氏は堂上公家の地位を確立できなかったものの、嫡流の押小路家は准堂上として認識されていました。つまり堂上が公家1軍とすれば、中原氏の押小路家は2軍筆頭ということです。で、直江兼続の実家の樋口家が中原氏だったりしますが、こちらも異説があり判然としません。
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この回答へのお礼

重ねてのご教授ありがとうございます。
上辺だけの横好きなので、特に姓を意識したわけでなく、単に古墳時代に名前の通った氏族という程度で上げさせていただいたものです。土師氏は出雲氏の系列のようですね。職能集団と言う意味では忌部氏も中臣氏も同じ属性と言うことになるのでしょうか。
やはりほとんどの古代豪族が、枝分れ的に改姓し歴史の中心からは離れてしまっているようですね。
堂上公家とはいわゆる公卿のことですね。地下とは天地の差なのかも知れませんが、公家の序列は、正直かなり詳しい方でないとピンと来ません。
戦国大名は四姓にこだわるのが常套なので、あえて地方豪族にこだわるのは根も葉もないことではないのでしょう。
客観的に考えても、古代豪族直系の守護や戦国大名がいたら、大型古墳の埋葬者がはっきりした例が、もっと残っていてもいいはずですから‥‥

お礼日時:2013/08/30 00:54

京都の商店街の八百屋さんとかが、


何気に古代豪族の男系男子を守りぬいてたり、、、
するわけないか。。
うちの姓は中原ですよ(笑)
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この回答へのお礼

もしかしたら、安寧天皇の御血筋かも知れませんね。(笑)

お礼日時:2013/09/09 23:51

古代豪族の末裔を追跡するのに「姓」を手懸かりとするのは非常に難しいでしょう。

「姓」が各時代でどの様に決められていったのかについては下記サイトをご参照願います。
名字 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/名字

>名前等を変えて近世まで貴族として残った例はあるのでしょうか。
とご質問されておられますが、厄介なのはその時代の権力者といいますか、名家とされる人々は系図を作成する際に捏造とは言わないまでも、何らかの貴種に連なることを記載しました。したがって残されている系図の全てについて真贋を決定するのはほぼ不可能に近いでしょう。

特に時代とともに支配階級が入れ替わり、末裔が没落するケースは歴史上日常茶飯事ですから、いよいよややこしくなります。
更に長子相続というのも大分時代が下ってからの制度というか習慣ですので、これも混乱を招きます。
平安時代には、皇族の子弟を扶養しきれなくなり、皇籍を離れてと言いますか離脱させて臣下の列に落とし、自立用の土地を与えるました。その際に「姓」も同時に与えました。有名なのが「源」と「平」です。
「源」姓は比較的早くからあり、本人は相変わらず都で暮らしていましたが、武力勢力として臣下となったのは後の時代のいわゆる清和源氏です。この頃には都に居住せず拝領地に住みました。平氏は初代から上総に住みました。
上総・常陸・上野の三国の「守」=国司は皇族系のみとされました。江戸時代になってもこのルールは引き継がれました。有名な吉良上野介も、上野守ではないのはこの為です。(江戸時代は守名乗りは自由で幕府に届けるだけした。)
これ等の武家は、時代が下るとともに各地へ分散して行きましたが、一族が全て「源」や「平」ではややこしいので、所有地の地名を「姓」としました。この為に、現在になって貴種であるのかどうかを「姓」で追跡するのが難しくなりました。
「征夷大将軍」という称号は「源」系の武家にのみ与えられました。平清盛が「征夷大将軍」を名乗らなかったのはこの為です。信長は敢えて平氏の末裔を主張して、元服の際に上総介信長と名乗りました。これに対して家康は源氏の末裔を主張して、征夷大将軍の称号を獲得しました。両者とも本当にそうであるのかは藪の中です。北条氏が鎌倉幕府の実権を握っても、将軍は都から迎えてお飾りとしていました。北条氏は平氏の末裔です。

江戸時代は「家」を継ぐことが最優先されましたから、大名家や名家の家系には養子が多数います。元々は貴種でも貧乏で養子先の「姓」を引き継ぐケースもあり。ここでも「姓」の追跡が困難になります。
更に、明治になって国民全員が苗字を持つよう定められ、届け出は本人の申告にまかされました。さすがに「徳川」「豊臣」は叱られたようです。あるいは武家として受け継がれていた「姓」を自分の好みに変えてしまった人もいます。これでお寺の過去帳すらも探せなくなりました。

と、ざっと申し上げましたが、伝承だけを頼りにしてもなかなかご希望には添えないでしょう。
元はといえば「何とかだ」と言う人は地方へいけば今でも沢山います。
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この回答へのお礼

興味あるご指摘ありがとうございます。

>名家とされる人々は系図を作成する際に捏造とは言わないまでも、何らかの貴種に連なることを記載しました。したがって残されている系図の全てについて真贋を決定するのはほぼ不可能に近いでしょう。

仰る通りでしょう。“捏造とは言わないまでも”といってもほとんど捏造です。ですから真偽のほどは分からないと思います。ただ、僭称にしろ「有名な戦国武将の××は蘇我氏の直系を名乗っている」とか「政治家の××氏は物部の血筋と言っている」などということをあまり聞かないので、そのような例がないかと思った次第です。

苗字が地名に由来するのは古代においても地方豪族はそうですね。ただ支族がどんどん分かれていくと、広義の国名などから限定された地名に変わってしまうのでしょう。そのうちもっとメジャーな氏名が出てくると、それにあやかったりする。
特に蘇我氏などは、比較的長い間悪人のレッテルを貼られてしまっていますし。物部氏も支族に弓削氏などがいるから、藤原からは煙たく思われていたでしょう。

そういえば、戦国大名の長宗我部氏は蘇我氏の末裔とも、また秦氏の末裔とも聞いたことがありますが、出身はまったく違う土地のようですから、過去からの地名と氏名のつながりもあてにはならないようですね。

お礼日時:2013/09/09 23:36

近世まで貴族(五位以上)として残ったのは、藤原氏(中臣氏)・藤波氏(大中臣氏)・北王路氏(土師氏)ぐらいでしょうか。

没落した古代豪族の子孫を名乗る武士は多くいます。
地方豪族が土着化して武士として近世まで残ったケースは大名に限らなければ相当数あります。ただ、自称であり、事実かどうかは検証の必要があります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
大中臣氏とは、もとは中臣氏ですね。藤原の血筋なので貴族として残れたのでしょう。
土師氏は貴族として残っていたのですね。大型古墳のいくつかは土師氏にかかわるものだと、歴史本で読んだことがあります。

自称(と言うか系図)もあてにはなりませんね。戦国武将は源平藤橘との結びつきを金で買うといわれていたようですし、超没落平民の我が家も、口伝えとしては貴族の出だと聞いているくらいですから‥‥

お礼日時:2013/08/27 21:14

貴族というのが堂上公家という意味ならば、古代豪族の子孫は ANo.4 さんの通り、藤原氏だけです。


それ以下の、地下(じげ =下級官人)・社家には、古代豪族の子孫がいます。
地方豪族はけっこう社家になっていますね。例えば、紀国造の子孫の紀氏は日前宮の宮司。尾張氏は熱田大宮司家となりますが、平安末に藤原氏に嫁いだ娘の子が大宮司職を継承し、以後藤原氏となります。(藤原季範 源頼朝の外祖父) その子孫には武士となった千秋家もあります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
千秋四郎季忠は南家の血筋だったんですね。しかし元はやはり藤原ですね。
社家として残った例は先の皆様にもご教授いただきましたが、藤原以外の豪族と著名戦国武将とつながる例が見受けられないようです。
伴氏などとともに百済王氏(百済王と言う氏名なのか本当の百済王家だったのか分らないが)も戦国時代前半まで続いていたのを見つけましたが、戦国武将であったかは分かりませんでした。

お礼日時:2013/08/27 20:53

mv-tribeさん、こんばんわ。



余りにも有名ですが、中臣鎌足の子孫の方は藤原氏を名乗っている人が多いですから、五摂家を筆頭に公家になり、現在まで存続しています。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
すみません。「藤原氏を除き」を書き加えるのを忘れておりました。中世以降の貴族はほとんど藤原といっても過言ではないですね。政界・財界などでも藤原の血を引く方は多いようです。

藤原氏のルーツには興味あります。藤原不比等は天智天皇の御落胤とか、中臣鎌足は百済王豊璋の後身だとか、他の豪族を全て排除し同属支配を確立してきた過程はすごいですね。

当方家系も藤原に繋がるもので、実家には系図もあったと、古い親類から聞かされましたが、実家も今はなく家系図は探せませんでした。

うちが藤原傍系だとしたら、イグアスの滝から落ちるくらいの大没落ですね。
どこの藤原なのかもわからないので、今でも将門公の首塚には近寄らないようにしています。

お礼日時:2013/08/27 00:28

物部氏は蘇我氏に滅ぼされて滅亡


蘇我氏も大化の改新で滅亡しましたが傍流の蘇我石川麻呂が石川氏として現在まで続いています

大伴氏は大友氏と伴氏に別れました
親王に大伴親王という人がいたので同じ名前では恐れ多いということで伴氏になったそうです
伴さんは今でもいますよね
大友さんも割りと多く残ってます
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
物部氏も平安中期ころまでは中堅官僚などとして存続していたようですね。

蘇我さん・大伴さん・阿部さんなどは今でも比較的よく聞く苗字ですが、全てが古代豪族がルーツとは限らないようです。

蘇我氏も石川宿禰から発していましたね。

お礼日時:2013/08/27 00:08
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この回答へのお礼

勉強不足で申し訳ありません。阿蘇氏は古代豪族なのでしょうか。八色の姓などにも組み入れられているのでしょうか。熊本なので火君と関わりがあるのでしょうか。

情報ありがとうございます。その辺も教えていただけると、よりありがたいです。

お礼日時:2013/08/26 23:57

各家が武士として各地で氏を名乗ってあちこちに残ってるのだと思いますよ。


氏を名乗り長くなると、本姓はなかなかわかりませんからね。

私が知ってるのは大伴氏だけですが、鶴岡八幡宮の社職は大伴氏らしいです。
http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/north/s_t …
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この回答へのお礼

大伴氏は応天門事件以来、官職としての名前は出てこない(素人知識ですが)ようですが
、神職として繋がっているのですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2013/08/26 23:43

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Q夫が部落出身である可能性が高いです

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
出会った当時、夫は実家にルートセールスで度々来ていました。
母は時々物を買っていて、私と知り合う2年前から夫を知っていました。
その間、彼氏がいなかった私の写真を見せていたのは知っています。よく母から、「面白いお兄さんがいて○○(私)に会ってみたいと言っているけれど、どうする?」と言われており、その一年後に初めて3人で食事に行きました。
付き合いはそこからです。
付きあってから度々悩まされたのは、他人に対して暴言を吐いたり道路の真ん中で車を止めて怒ったりすることでした。
(先日も駐車場の枠外にとめていた車の人に暴力団のような言葉を吐いていたので知らない顔をして子どもと逃げました。)
私にも暴言や暴力(年に数回)があり、何度も別れようと思ってきました。
しかし、夫にも優しい所があり、初めての人でしたので夫がすべてだという気持ちがあり、結局結婚に至りました。
何かがおかしいと思ってきたのは結婚してからのことです。
毎週夫の実家に行くごとに義父母から親戚の職業を耳にしてきましたが所謂部落の方が多い職業についており、部落の方と結婚している人がとても多いのです。
また、義父は自営業をしていますが暴力と酒癖が悪く部屋中のものを壊したり、年に数回は義母の顔にあざができるほど殴るので本当に恐ろしいです。
本人たちの口から「部落」という言葉は結婚してからは何度となく聞いていますが、自分たちは違うというニュアンスで話してきます。
差別があるから夫のいとこは子供をつくらないし、結婚もしないとも聞かされてきました。
私が少し調べた結果は義父が部落出身のようです。
調べるきっかけとなったのは私の職場に夫がやくざまがいの電話をしてきたことでした。
それは、私の仕事用携帯に職場の男性のアドレスがあっただけのことでした。私的なメールは一切しておらず、上司から同僚まで全ての電話番号とアドレスが入っています。
夫はそれを浮気だと勘違いして、会社に怒鳴りこみの電話をしてきました。しかも妊娠初期の事でした。
その後出産の為辞めることとなりましたが、会社の上司から夫のことをかなり詳しく聞かれた上でそれとなく言われました。
本当にショックで血の気が引きました。
その後、義父母や夫がよく口にする地区をネットで検索してみると、全て部落に当てはまる地区で自分が住んでいる地区も昔はそうだったと知りました。
本当にショックでした。
冒頭に「悔しい」と書いたのは騙されたと感じるからです。
結婚前に夫の性格や暴力のことで母や親戚から反対されながらも結婚を選んだのは私です。
でも、墓場まで持って行こうとした夫が許せません。
私に話していたら結婚は迷ったかもしれない。
でもきっと結婚していたと思うんです。
それなのに純粋な気持ちでずっと夫を思ってきたのに隠し通そうとしている夫は裏切り者です。大嘘つきです。
夫を許せません。
結婚するまでは部落の人がいるのかどうかも知りませんでした。そして、部落が何かもよくわかりませんでした。
しかし、少しずつ勉強したり地区や周りの人間を見ていく中で分かったことがあります。それは差別する人間だけが悪いのではなく、差別される側にも問題があるということです。
義父や夫の親戚の会話は人間の血が通っていなくて、私にはとても理解ができません。酷い言い方かも知れませんが、気が狂いそうになるほど見ず知らずの他人を悪く言ったり暴言を吐きます。
私が言われることもあります。
今、人生にとても悩んでいます。こどもが小さいので母子家庭は厳しいかもしれませんが、穏やかな暮らしがしたいです。
夫とも義父母とも一切の縁を切ってこの土地からも逃れたい・・普通の考えをした人間と関わりあって生きたい。これが正直な気持ちです。
簡単にはいきませんが、何も考えずに生活しようとしても夫や義父が何か言動を起こす度にうんざりしている自分がいます。
まとまりの無い文章ですみません。
経験談やアドバイスなど、皆さんの考えをお聞かせ下さい。
どうぞ宜しくお願い致します。
最後まで読んで下さってありがとうございました。

悔しくて夜も眠れずこちらに辿り着きました。
(理解していただきたいので内容が細かく、長いです。申し訳ありません。)
出会った当時私は学生で、夫は県外の人間でしたが仕事の為に都心部に移り住んでいました。
結婚して4年です。子供が一人います。
夫が実家近くに転職したので、今は夫の実家の近くに住んでいます。
私は3人姉妹の末っ子で、父が中学生のときに亡くなったので母親に育てられましたが、祖父母が会社を経営していたので何一つ不自由なく育ちました。
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難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
説いても、実際にはいろんな形で区別されている事も事実。

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普通に・・・・と言う気持はよくわかります。

昨今は、まだ昔ほどの差別はないにしても、中には未だに
違った目で見る人がまだまだいる事も確かです。

そのうえ、いろんな事件が世間を騒がせますから、この事が
表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませんしね。

この事案からまったくかけ離れた所で生活している物が
当事者に対して簡単に「差別はいけません」とは言い難いです。

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輪の中に身を置くという事で、私は単なる個人の人格だけの
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周りを取り囲む人々が同じ価値観で接してくれば、少なからず
感化されますからね。

さて、問題は今後ですよね。
離婚されるなら身を隠す必要があると思いますよ。

今までの言動・行動を見ても旦那様自身がこの事をかさに
人を威圧する性格が見受けられます。
そういう境遇が持たしたら性格かもしれませんが、実際問題
多少危険である事は覚悟する必要があると思います。

出来れば御実家のご両親にもきちんと相談されて、考えうる
対応を模索しておく必要があると思います。

それでも先を考えれば、行動する価値は十二分にあると思います。
今は×1も珍しくありません。
心穏やかな生活が迎えられると良いですね。

難しい問題ですね。 差別する事はいけない事だと倫理を
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自分がその立場に立った時に、つゆほども気にせず過ごせるか?
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表だって知られるようになれば、なにがしかの弊害はあるやも
しれませ...続きを読む

Qチャールズがカミラさんにこれほど惚れたのは何故?

イギリス王室の世紀の結婚式を拝見してました。
もし、ダイアナさんが生きてらしたら何処の席で息子さんの結婚式を
ご覧になってたんでしょうか?
いつも疑問に思ってたのは何故美しいダイアナさんよりあの下品なカミラ
さんと長い間不倫を続け、愛を注いだのでしょうか?
男女間のミステリーを感じます。
不誠実な夫に耐えかねた妻の最後はあまりにも悲劇的、それなのに
カミラはちゃっかりとイギリス王室の一員となってしまった。
カミラの前の夫が彼女は凄い床上手だと発言したのを記事で読んだ
事があります。
"君のタンポンになりたい”という信じられない言葉を盗聴されてしまった
チャールズ。
そこまでカミラを愛し続けたのは何故?相性?同じ趣味?価値観?
真面目に答えて欲しいです。

Aベストアンサー

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠れする方みたいですが、伝統を破るほどの革新的な王子ではないそうです。

ダイアナは正直、自分の言いたい事を言う、好きな時に好きなことを楽しみといった自由人で強く、暖かい人情のある方だったそうです。
しかし一般的な母性はあるとしても極端に甘えさせてくれるなどの懐の深さはなかったようです。

チャールズの母であるエリザベスは王女だった為にチャールズに対して母として接する機会があまりなく愛情不足だったと思われます。
チャールズは気難しく理屈っぽい。正直さ、率直な振る舞いが特徴です。
伝統や格式を担う公人としては適役と思われます。

そして問題なのが、公人としてダイアナを妃にした事としかしダイアナは公人としてでは無く私人として愛して欲しかった事です。
ダイアナは彼を変えられると幻想を抱いてたのかもしれません。
ダイアナは言いたい事を言う性格ですので、キレて文句を言う日々が続いたのかもしれません。
しかし、チャールズはグッと考え込んで大事な事だけ発言するタイプです。
ですから元々の性格は真逆だったと思われます。
その為チャールズはダイアナに寄りつかなくなったのかもしれません。

もちろんダイアナは理屈を理解しようと努力をした事は伺えるのですが・・・理解は出来ても許容する事が出来なかったと思われます。

そしてカミラの場合は難しい理屈などは置いておきたい人のようです。
カミラにとって重要な事は自分を求め愛してくれる人がいること。
ドロドロとした三角関係にあってもチャールズの事を理解しそして許容する事が出来る方のようです。

気難しい彼に対してデリケートな部分を刺激したりしない、とても尊重してくれる方だと言われてます。
そして最大の彼女の魅力は強い母性愛です。
愛する男性を子の様に慈しみ、命を捧げて生涯を守るほどの古典的な母たる姿勢を崩さなかった事と周りから何を言われても誇り高く、強い女性であった為にチャールズにとっては不可欠な女性だったのだと思います。

長くなりましたが、カミラとダイアナでは性格が真逆であることは一番の原因だったのではないでしょうか?
ただ、誰が悪いとかでは無いと思います。

私も最初は否定派でしたが、現在はお二人の関係を暖かく見守って差し上げたい様な心情です。

真面目に答えます・・・。

カミラの曾祖母はエドワード7世(イギリス国王)の長年の公妾にして最愛の女性であるそうです。
そして更に遡ればリッチモンド公爵チャールズ・レノックスの血筋だとも言われてます。

充分に王妃としての素質はあったように思います。

ダイアナと結婚以前からカミラとは関係があったようです。(すでに最愛の人だったみたいですね)
何故、カミラを最初に王妃にしなかったのかまでは王室の事ですので分かりません。
ただ、チャールズ皇太子は伝統に対して抵抗したがるところが見え隠...続きを読む

Q宮内庁はなぜ日本史の解明に非協力的なのか

よく宮内庁は皇室の歴史が明かされるのを嫌う傾向にあると聞きます。
仁徳天皇陵は全く調査をすることが許可されてないのでしょうか。
(社会科の先生からはこう聞きました)

日本は今や世界屈指の近代国家です。
しかし、日本の天皇の由来は全く混沌としています。

ならば、なおさら古代日本史の解明は国家の義務なのではないでしょうか。
その機関たる宮内庁が非協力的というのはどういう態度なのでしょう。
その理由が宗教上にあるというのなら、次に繋がるかどうかは別として
今回は一応納得します。

Aベストアンサー

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしまいます。

で、そういう立場からすると、過去の「作られた歴史」が暴かれてしまうことは権威の根拠に関わってしまいます。例えば、天皇家というのは実は朝鮮半島から渡ってきた騎馬民族の末裔ではないかという話があります。倭国(日本)は百済の支援をして当時の倭国としては大軍事力を半島に派遣して白村江の戦いで敗れてしまいます。なぜ倭国が百済に過大なまでの支援をしたのか、単なる同盟関係であっただけではなく、実は百済が天皇家からみると「本家」で、倭国は百済の分家ではないのかという話があります。
日本ではその後いわゆる壬申の乱が起きて天武天皇が即位するんですが、大友皇子と大海人皇子の関係とかどうも日本書紀を読んだだけではよくわからんことが多いのです。そのへんについて日本書紀が改竄というか捏造というかそういうことをしたことは間違いないのですが、どのへんを歴史を書き換えたのかはよくわかりません。
もし仮に「皇室はかつて朝鮮半島からやってきた渡来一族の末裔である」ということが明らかになってしまったらどうなるでしょうか。嫌韓のネット右翼がなんと言い出すかどうか考えただけでも恐ろしいですね。今のところ皇室半島渡来説は荒唐無稽で根拠のない話ということになっています。なぜなら、日本書紀にも古事記にもそんなことは書いていないからです。しかし、日本書紀も古事記も時の権力者にとっての「大本営発表」なので歴史の削除、捏造、針小棒大などは当然あるわけです。あるけど、ないことになっている。それが我が国の古代史に対する学会の立場です。古代史は天皇家についてはアンタッチャブルの領域なのです。

また、皇室は一応ずーっと続いているということになっていますが、南北朝で相当ヤバいことになっています。血統の正当性という立場からいえば、南朝が正当です。しかし、北朝は時の権力者足利尊氏によって成立しており、最終的に南朝が北朝に吸収される形で再統一されています。このときの北朝系の血筋がね、どうなんだよってところなんです。私もその時代はそんなに詳しくないのですけれど。
で、戦後すぐに「我こそは南朝の末裔であり、正当な皇室の血筋である」と名乗り出た人がいたのです。世間でいわれるところの熊沢天皇事件というものなんですけどね。単なる気が狂ったおっさんが「わしは天皇である」といっただけならこんな歴史には残らないです。熊沢天皇事件が戦後事件史のひとつとして残っているのは「そういわれると、そうかもしれない」というのがあったからなのです。熊沢天皇は「北朝(現皇室)は南朝から帝位を簒奪し不法に即位している」と訴えたのですが、「そういわれりゃあ、そうだよな」ってところはあるんですよ。熊沢天皇は結局のところ南朝の末裔であることを証明することができなかったので最終的には「自称南朝の末裔」ということになったのですけどね。一時的であれ宮内庁は頭を抱えたのですよ。GHQは熊沢天皇に興味を持っていて、場合によっては昭和天皇を退位させて熊沢天皇を(GHQの手先として)即位させるんじゃないかと警戒したのですね。

宮内庁の仕事は、現在の皇室の伝統を次代に繋げることです。皇室にはなんとかの儀、かんとかの儀、と年がら年中しきたりだらけなのですが、それを続けることが最も重要なんですね。伝統の継続というものの頂点にある存在といってもいいでしょう。「歴史的に見て正しい」かどうかはむしろ邪魔なんですよ。まあ宮内庁関連の人といったら公家の末裔とか松平家の末裔とか父は貴族院議員とかそんな人たちばっかりですからね。しもじもの者が入りたいといっても入れてはくれません。

皇室関連の質問をここでしたりすると、「皇室は千年の歴史があり、最も由緒ある皇帝でありそれは世界的に認められていて世界で唯一イギリス王室と並立する歴史的権威が云々・・・」という人たちが必ず現れます。そういう保守的な人たちはもちろん、現皇室は基本的にそういう立場というかそういう建前があって成立しているのですね。これは明治維新以降の皇室の歴史的かつ政治的な立場です。そして宮内庁はそれを「守る」立場にいるわけであります。それを否定してしまったら皇室の存在意義そのものが問われてしま...続きを読む

Q創価学会の人かどうかの見分け方を教えてください。

事情で、創価学会の人とできるだけ関わりたくありません。
(詳しくは書きませんが、かなり迷惑を被っています。)
これからいろいろな人と知り合いになると思いますが、
創価学会の人かどうか見分け方がありましたら、
知っておきたいです。

ちなみに自分なりに考えたのが、
・どこの新聞をとっているか聞く
・どんなスタイルの結婚式を挙げたかを聞く
(神式、キリスト教式だと大丈夫かも)  です。
最近知り合った人には、さりげなく聞いてみて一安心でした。

たまたま私の知り合った人が熱心すぎる人だっただけで、
学会の人全てを否定しているわけではありませんが、
この事にかなりナーバスになっていますので、
学会の方はお気を悪くされないで下さいませ。
あと、学会の批判ではなくて、見分け方のみご回答願います。

Aベストアンサー

学会会員です。比較的簡単な見分け方は.

1.死者がいないのに(紙製の)仏壇を持っている
2.木製の仏壇の場合は.つくりが派手(他の宗派の場合には.分家したときに作った仏壇をいつまでも使いつづけるので.結構古い物が転がっています)。
3.お守り.破魔矢.熊手.達磨等の縁起物を持たない・買わない(私のような例外もいますが)
4.命日など家族で遠距離の墓参りに行く。(近所の宗派の方は.命日の近くの都合のよい日に出かけます。)
5.若い人のばあいには.「宗教の話をする」。今の若い方々は.宗教関係に興味を持たないのが大多数ですから。
6.夕方特定の遊びまわるわけでもないのに集まる(勉強買いです)。若い方の場合には.酒飲んでカラオケで騒ぐのが普通ですが.これをしない場合です。
7.宗教(日蓮)関係のわけのわからない本がある。

Q源 義経に子孫は居たか?

子供の頃のとある日祖母が「あなたは源氏の末裔で義経の子孫なの」と言い家計図のような物を見せてきたが、そもそも義経に子息は居たのか?(色々と説はあるが・・・) 個人的には源姓が欲しくて先祖の誰かが大金でも積んで加わらせて貰ったのだろうと考えているが・・・
日本人は源氏か平氏しか居ないなんて言う人も居るがどうなのでしょう?

Aベストアンサー

…別に難癖をつけるつもりはありませんが、可能性を100%否定することもないと思います。ご存知かもしれませんが、その昔は性に対する倫理も現代ほど厳しいものではなく、祭りの日でもあれば(言い方は非常に悪いものですが)フリーセックスの行為もあったといいます。あるいは閉鎖性の強い地域であるならば宿を借りた旅人に村の娘を差し出すことも珍しくありませんでした(そうやって“血”が濃くなりすぎることを未然に防いだ)。家康の先祖だってそのような事柄がきっかけで三河に定着するようになったという説があります。

また“逆賊”視された平将門の子孫だって、義経の叔父である源行家の子孫だって、一見“皆殺し・根絶やし”にされて存在しないようにも思えますが、実は生き残って後世に名を残しました(豪族が便宜上“私は○○○○の子孫、末裔である”勝手に名乗っている例も多々含まれますが…苦笑)。

名もない旅商人に対してですら“娘を差し出される”ようなことがあったのですから正統な清和源氏の後継者の一人である義経に地方豪族などがその娘を喜んで差し出したり、あるいは遊女などの妻妾の一人がこっそりと子供を残したとしても、それは(正式な)「歴史書」に残されていないだけで、可能性としては全くないとはいえないのではないでしょうか。

…別に難癖をつけるつもりはありませんが、可能性を100%否定することもないと思います。ご存知かもしれませんが、その昔は性に対する倫理も現代ほど厳しいものではなく、祭りの日でもあれば(言い方は非常に悪いものですが)フリーセックスの行為もあったといいます。あるいは閉鎖性の強い地域であるならば宿を借りた旅人に村の娘を差し出すことも珍しくありませんでした(そうやって“血”が濃くなりすぎることを未然に防いだ)。家康の先祖だってそのような事柄がきっかけで三河に定着するようになったという説...続きを読む

Q天皇の側室について

平成天皇、昭和天皇、大正天皇、明治天皇、、、、の中にも側室(二号さん)の子どもであった人が複数いると某雑誌に書かれていましたが、それは誰でしょうか。

 その場合、その側室である女性はどういう人だったのでしょうか。側室の人も公表されて系統図に残るのでしょうか。

Aベストアンサー

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
    権典侍?・園祥子…父:園基祥

孝明天皇
女御・九条夙子(英照皇太后)…父:従一位関白 九条尚忠
側室 典侍・中山慶子【明治天皇の生母】…父:従一位権大納言 中山忠能
    典侍・坊城伸子
    典侍・藤原(堀川)紀子

仁孝天皇
贈皇后・新皇嘉門院 藤原繁子…父:関白 鷹司政熙
女御・新朔平門院 藤原祺子…父:関白 鷹司政熙、義父:関白太政大臣従一位 鷹司政通
女院・新待賢門院 藤原雅子【孝明天皇の生母】…父:正親町実光
側室 権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
    典侍・藤原研子…父:甘露寺国長

光格天皇
中宮・新清和院 欣子内親王…父:後桃園天皇
女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
側室 内侍:菅原(東坊城)和子
    藤中納言局 藤原(葉室)頼子
    菖蒲小路局 藤原(姉小路)聡子
    小侍従局 藤原(富小路)明子

とりあえずちょっと遡って、正妃(皇后およびそれに準じた立場の人)と子供を生んだ側室を列挙してみました。

明治天皇の側室は、典侍、権典侍という身分のある「女官」です。
御所や皇居内に局や部屋をもらい、天皇の身の回りの世話(という仕事)をしていたと思われます。
天皇の子を妊娠した女性は、実家に帰って出産することが多かったようですが(お産は「穢れ」とされていたので、宮中で出産することはできなかったようです)、その後は、また「女官」として生涯宮仕えであり、天皇の子は、実際に自分が産んでも自分の子ではない-ということで、自分の子供にも「仕える」という形だったようです。

私も蛇足ながら…。
#2さんがお答えのように、今の天皇陛下(時々、名前を使って明仁天皇-という表記をされることもありますが)のことは、「今上天皇」、「今上陛下」というのが正しいですね。
明治以降の慣習からすれば、将来、「平成天皇」と言われるのでしょうか、51代の「平城天皇(へいぜいてんのう)」と紛らわしいような気がするので、本当に「平成天皇」になるのかなぁ-と思っています。

今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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