出産前後の痔にはご注意!

大日本帝国の人について興味あります。
司馬遼太郎の坂之上の雲は呼んだことある方いますかね?教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?当時の人の暮らしぶり、考え方など知りたいです。
戦前、戦争とは関係ない人々の普通の暮らしぶりはどんなでしたかね?何を考えどう生きていたのですかね?特に教育勅語を学んだ世代の人生観、今の若者をどう思うかを知りたいです。
戦後、メーデー、安保闘争など日本人は今のように去勢されておらず元気いっぱいでした。当時の人の考え方、暮らしぶり、将来への不安と期待など知りたいです。あ、米国の奴隷になったり、米ソ冷戦に巻き込まれて再び戦地となる不安はなかったのですかね?
各地に海外移住された方もいるときいてます。どのような思いで日本を離れたのですか?
よろしくお願いします

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A 回答 (4件)

戦前生まれの後期高齢者です。



まず、司馬遼太郎の著書は作者の思い込みや作り事、独特の推察などを網羅している一つの作文だとしてお読みになったほうが良いと思いますよ。

歴史は作られるって本当。

いつの間にか老舗になっていたり、何代も続いた家柄ですや、此処は勤皇の志士が隠れたところですだとか、まあ念入りに地図まで掲げて。現在はまやかしが多いけれど戦前はあくどい商売人と言えどもそう云う誇張はしなかったように思います。

戦前とは言え大正時代の人たちの生活は非常に楽天的なものだったと思います。(従兄弟大正生まれ90歳余曰く)

昭和の初期でも都会では幼稚園はスクールバス。映画もダンスホールも、フランス料理も今あるものは全て溢れ返ってました。

水洗はごく一部で近郊の百姓が肥を汲みに来て御礼の大根なりを置いていくのが都会でも普通の事でした。

また、戦前はそこそこ金を持っている連中でも借家が普通で、余程の事業家や成金、爵位のある家系以外は全て借家。

土地の有力者・・・例えば豪農や代々の庄屋などは家屋敷がありましたが。
家を買うという発想はほぼありませんでしたね。

腰弁(サラリーマン)の出社は歩くのが原則で交通費を貰って電車に乗るというような事は大正の初期までは無かったと従兄弟は申しております。

一家団欒、一家そろって食事と云うのも精々戦後の事です。
商家なら手の空いた人から食事をしますから。

一家の主のお膳は(おかずもご飯も)全て妻子とは別、同じ膳では食べません。主の食事が終わってから妻子の食事。(今ならよめはんに殺されるかも)

子供と大人の世界は完全に区別。

ネットは当然、普通の家に電話もありません。(うちの電話探ってみると最初に置かれたのは大正7年でした。)

戦後初めて白黒TVが発売された時TV一台の値段で当時40坪くらいの家が一軒買えました。

戦後宝くじは一等10万円。一枚10円。小さな家なら買えた。

終戦の年、すぐにアイスキャンデーを作って売ってました。一本1円。

不味いガムやチョコレートは昭和23年頃だったかに。

当時、バスやタクシーは電気自動車が多かった。充電はどうしていたのか??ですが。

従兄弟の戦前の中学校の教科書を見ると(電気技術書)きちんとテレビの写真と技術解説が載っています。

私たちがよく読んでいたのはヘッセ、Tマン、メリメ、シュトルム。

哲学をやっている連中はこんなの読みません。

明治の文学はほぼ濫読、南総里見八犬伝まで手を出した奴も居ます。

映画は手当たり次第。戦前の名画も戦後公開されましたから。
最初のアメリカ映画は確かユーコンの叫びだったかと。

普通の人にとっては戦前の、支那事変や日露戦争の結果に一喜一憂していたのは今と人たちの野次馬的な処と変わりはありませんし、人間の常として考えが楽なほうへと傾いていたのも事実です。

今と違って身分社会(出自によって社会的地位が決まる)ですから、例外はあるとしても(例えば爵位のある人や軍需産業などで大金を得て社会に還元したいと地方の優秀な男子や子女を養子として、或いは書生として住まわせて立身の道をつけてやるなど)、ほぼ人は生まれた時に取るべき道は決まっていた社会です。

で、各自それなりに、政治や軍事は・・・そんな難しい事は誰か偉い人がすることであって私たちには関係の無い事、其れよりも毎日の生活や楽しみが先決・・と云うのが本音だったでしょう。

メーデーや安保闘争など・・私の考えですが今の団塊の世代の初期の人たち(昭和22年生まれ以降)は肝心の小学校の教室も教員も足らず、抑留から引き上げてきた共産主義に洗脳されたような代用教員に習った結果が、戦前の身分社会の不条理に気づき労働者とブルジョワジーの対立と云う形で爆発したものだと思っています。

団塊の世代が愛用した歌声喫茶で歌われている歌って労働歌やロシア民謡などソ連に関係したものばかりですよね。

確かに農村部では(戦前は長男が後を取り、次男以下は出て行くか良くても他の農家の婿養子になるかで、軍隊が出来ると米の飯が腹いっぱい食えるとばかり召集どころか争って志願した人が多いのが現実で、後に赤紙で召集される頃は兵役忌避の脱走者も多かったようですね。

でもねぇ、戦時中食べるものが無かったとは云いますが金さえ出せば何でも買えたのです。(結局は金があるかどうかで決まるのかも)

徳川無声の戦時日記を読めば東京空襲時でも牛肉の配給(食糧は物価統制令で自由に売買が出来無い、主食の米などは各戸に割り当てで配るのを配給制と云います。違反者は投獄。外食は外食券が無いと出来なかったけれど、店は知り合いには出来る限り物を提供していた。)があったと記述されていて驚きます。

海外へ移住された方は明治以前から沢山居ますので戦前の暮らしのごく一部の現象に過ぎないと思っていてください。
これに関しては色々本が出版されているので図書館でお読み下さい。

明治中期生まれだった私の母親など若い頃毎晩ダンスホールで踊っていたと。(写真が残ってますわ)

慶応生まれの祖母なんか刺身が好きで良く無理難題を。でも結構手に入ったのですよ。

果物も、ケーキも、菓子も巷に溢れ返ってましたし戦争が始まっても暫くはまだフランス映画など上映してましたしね。

学童疎開はしてましたが食べ物に不自由だった事は有りません。
(場所によるのでしょうけれど)

戦争が始まっても一般の人の生活が急に変わる事は有りませんでした。

東京や大阪名古屋の空襲にあった人たちは大変だったでしょうけれどね。
一般の庶民にとって将来の事などは戦争の行方は心配しても身の振り方までは考えられなかったと思います。

進駐したアメリカ兵が抵抗されゲリラにでもやられるかると緊張していたのに拍子抜けと、戦後隣に住んでいた大佐が笑いながら話してくれました。

昭和20年代は内憂外憂が一般の人には全く感じられなかった時代。
20年代終わりにはアメリカ文化がど~~っと。

圧巻はジャズ。ベニーグッドマン、JATP、サッチモ、ハリージェームス、ライオネルハンプトンetc。飯を惜しんで東京へだら(普通)の夜行で14時間かけ学区をサボって聞きに行った。

新宿あたり焼け跡がまだ板囲いしてありまだ戦争浮浪児も居た時代。

昭和34年まだ国道一号線は舗装なし。トヨタのクラウンの前身トヨペットスーパーがこなれてきて試乗に行きました。

クッションは板バネ。遠出でしてバネが折れて挙母市(今の豊田市)で修理をするはめに。

閑話休題

今時ああだこうだと大げさに言われている面は何事に付けても大いにあると思います。

大正、昭和の話を書いた本は沢山出ていますが、その前に矢田捜雲の江戸から東京へや生方敏郎の明治大正見聞史の一読をお勧めします。
もう少し前の幕末の世人の暮らしや出来事などは鹿島萬兵衛の江戸の夕映をぜひお読み下さい。

教育勅語の内容は素晴らしいものですから私たちは否定しません。
まだ同級生は200人以上が健在ですし、何時もわいわい集まっていますが1年先、3年先の心配をする輩はいませんねぇ。
其れより100年先どうなっているかの議論に口角泡を飛ばすほうです。
戦前、戦中、戦後を冷ややかな目で見てきた世代ですのでなるようにしかならんと物事を割り切ってます・・が多い。(^^)/

取り留めの無い文、乱文で失礼しました。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大先輩がいたから今の若者がある。若者は年配の努力とそれへの感謝を忘れてはいけないかもしれませんね。最近の若者はバカ化しています。顔が明らかにバカっぽいし、何を言っても聞きません。天皇陛下の誕生日は皆無視して、クリスマスを平気で祝う。日の丸持ったことすらない、民族意識がなく、基本がなってないのに個人の自由ばかり掲げる。日本人の多くはだらしました。ただ、良くぞ高度経済成長を遂げていただいたと深く感謝しております。個人的に。

お礼日時:2013/09/12 13:10

幕末百話 篠田鉱造著 岩波文庫


明治百話(上・下) 篠田鉱造著 岩波文庫
東京風俗志(上・下) 平出鏗二郎著 ちくま学芸文庫
断腸亭日乗(上・下) 永井荷風著 岩波文庫
誰か「戦前」を知らないか―夏彦迷惑問答  山本夏彦著 文春新書
おせい&カモカの昭和愛惜 田辺聖子著 文春新書

以上の九冊を順に読んでいただければ、幕末から第二次世界大戦前までの雰囲気は大まかに御理解いただけるかと思います。
いずれもAmazonで入手可

司馬遼太郎の作品とは相当雰囲気が違うのでガッカリしないで下さい。(庶民というのはこんなものです)
司馬遼太郎も晩年反省していました。
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以前、亡くなったお祖母ちゃんに戦前何を着て何を食べてたのかを聞いたことがあります



   答え
中折れ帽子に背広、お洒落ハットにワンピースに決まってるじゃない
(モダンボーイ、モダンガール)
食べ物はコロッケとか今とそんなには変わらないよ

坂之上の雲に書いてあること
史実には存在しない嘘や司馬の捏造、妄想がいっぱい書いてあります
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>教科書にしてもいいくらいだという人もいるくらいで、どんなことが書かれていますか?



あくまで「小説」であるので、歴史的事実と食い違う点も多々あります。
ただ、大きな流れを掴むのには適しています。
また、自虐的歴史観の世代?の人が読むと、「日本人てすごい!」と、それまでの価値観が覆ります。日本の歴史に自身を持つという意味ではいいかも。
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Q戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍人、民間人合わせて310万人の人が死亡し、都市面積の30%が消失したと言われています。
しかし、310万人の死者は一見多いように見えますが、1億人の人口から見たら3%で、97%の国民は生き残っているわけです。
また、国土が焼け野原になったと言われますが、都市面積の70%は無傷だったわけです。

これらのことから見ても、当時の国民で、肉親や親戚に死亡した人がおらず、空襲も受けなかった人はかなりの数がいるはずです。
その中でも、農村部に住んでいる人であれば、食料にも不自由せず、普段通りの生活をしていた人も多くいたと推測されます。
もちろん時代が時代ですから、派手なパーティーをやったり、観光旅行にでかけたりということはできなかったでしょう。
しかし、戦後世代の人が教わったような、日本中が地獄絵と化したというのはちょっと大げさなのではないでしょうか。

当時は情報も統制され、日本がどんどんやられているというような情報は入って来なかったでしょうから、いずれ自分たちも攻撃を受けるというような危機感もなかったと思われます。
当時の国民の、少なくない数の人たちが、実は普段通りの平和な生活を送っていたと推測されます。
戦時中、実際にこのような普段通りの平和な生活を送っていた方の体験談を聞かせていただけませんか。
また、そのようなことを紹介したサイトなどがあれば教えて下さい。

なお、私が聞きたいのは「戦争中、普段通りの生活をしていた人の話」であって、「そんな人はいない」とか、「そのような質問は不謹慎だ」というような回答はお断りします。
質問の趣旨を理解した上で回答をお願いします。

戦争中、普段通りの生活をしていた人の話を聞きたい

戦争体験としてよく語られるのは、原爆や空襲などの攻撃によって肉親が死んだり、家が焼かれたりというものが中心ですよね。
戦後世代の人は、戦時中は1億人の国民全員がこのような辛酸をなめ、苦しい生活を送っていたと信じ込んでいます。
戦時中を過ごした1億人の国民全員が苦労人で、戦後の日本があるのはその人たちのお陰で、その人たちに感謝しなくてはならないという論調が多く見られます。

でも、これってちょっとおかしいですよね?確かに戦争で軍...続きを読む

Aベストアンサー

 母は田舎にすんでいたので、まったく戦争の影響はなかったそうです。
確かに統制品は手に入りにくかったらしいですが、食べるのにはまったく困らなかったそうですよ。
 よく、都会から食べ物を分けてくれって人が来たらしいです。

 父は逆で都会で生活していたので疎開をしました。
疎開には、集団疎開と縁故疎開ってのがあるんです。
中でも悲惨なのが集団疎開です。学校の力関係が24時間中です。いじめっ子はずっといじめ、いじめられっこはそれこそ現代で言うイジメなんかと比較できないほど酷かったらしいです。

 また、縁故疎開っていうのも、ようするに都会のこじゃれたガキが、自分の親戚をたよって田舎に疎開するんです。すると、もちろんその子のキャラにもよりますが、めちゃ人気者になった人もいたみたいです。

Q戦時中の日本国民の生活は、本当はどうだったのか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足しているイメージがありますが、豪邸なんて建てられるのでしょうか?
それに国家の命運がかかっている時期に豪邸を建てるなんて贅沢な事を世間は容認したのでしょうか!?
私は、戦争中にそんな事をすれば批判されそうな気がします。
戦時中に、それも台湾出身者が日本でビジネスをし、その上、大儲けをする。
台湾人がそうなんですから、日本人や朝鮮人などでも大儲けし、景気の良かった人はたくさんいたのではないでしょうか!?

それから話は変わりますが、数週間前の読売新聞の日曜版の中の新刊本を紹介する欄で、本の名前は忘れましたが、戦時中の事が書かれた本の内容が一部紹介されており、戦争中に日本国内で温泉旅行ブームが起こったと書かれていました。

戦争中に温泉旅行ブームは意外な気がしたしたが、戦況の悪化に伴い日本国民の生活はどんどんと厳しくなっていったのは確実だとは思いますが、これまで日本国民がメディアから聞かされてきた様な、戦争中は主食に芋やすいとんを食べていて非常に貧しかったというのは、数ヶ月、半年、一年間の事なんでしょうか?
私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく、食べる物にも事欠いて、窮乏生活を強いられていたと思っていました。

事情通のみなさん、実際はどうなんでしょうか?

数日前、家でNHKのファミリーヒストリーという番組をたまたま観ていました。
この番組は各界の有名人の家族の歴史を探って紹介しており、私が観た時は女優の余貴美子の家族でした。
余貴美子さんはお爺さんとお婆さんが台湾人で、日本で一旗上げる為に来日し商売を起こし、東京で手広くビジネスを展開していたそうです。
その中で、私が"あれっ"と思った事があったのですが、余貴美子さんのお爺さんは戦時中には乾燥バナナを台湾から輸入して、大儲けし大豪邸を建てたという事でした。
戦争中と言えば、物資が不足...続きを読む

Aベストアンサー

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思想に基づいた教育が続いた結果、左翼系思想に対する制限の強化が殊更に強調されて伝わってしまっています。

(2)の影響で
「私は、戦争が始まる頃からか、その少し前頃から日本国民は自由がなく」
というイメージを持たれたのだと思います。

庶民生活への経済的影響は昭和2年の金融恐慌が発端となりました。
昭和12年の盧溝橋事件を切っ掛けに軍事費が財政を圧迫し始めました。
同時に米英を中心とした今で言う経済制裁が始まりました。

昭和12年 9月 東京市内の円タクの深夜営業禁止
      10月 東京市内の銭湯の朝湯禁止
      12月 東京に木炭バス出現
昭和13年    代用品と呼ばれる品物が出現
           陶製のナベ、竹製のスプーン、鮫皮の靴、鮭皮のハンドバッグ、木製バケツetc
昭和14年 6月 料亭の営業を午前0時までに制限
      12月 歳末大売出し禁止、門松廃止
昭和15年 1月 後楽園球場で炭焼きが始まる。神宮球場が木炭倉庫に転用される。
       5月 東京市が外米(輸入米)6割混入の米を配給する。
       8月 「ぜいたくは敵」「ぜいたくは出来ない筈だ」などの標語が発表された。
           同時に啓蒙と称する取り締まりが始まる。
      10月 浅草で「代用食展」が開かれる。
          ダンスホールの営業禁止
昭和16年 4月 六大都市で米穀配給通帳が発行され配給制度が始る。外食券が発行される。
       5月 「肉なしの日」が実施される。・・・実質的には市中の食肉は欠乏していました。
       8月 食堂や料理屋での米食を禁止し、販売時間制とする。
       9月 砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の集成配給切符制度が設けられる
      10月 配給米の輸送をトラックから電車に切り替える。(ガソリン不足)
      12月 東京市内の妊婦診断の結果、
           栄養不良により半数が罹病しているかあるいは障害があることが判明
昭和17年11月 家庭用蔬菜の登録販売が始まる。
      12月 東京市内ガス使用が一戸一孔に制限される
           「欲しがりません勝つまでは」の標語が発表される。
昭和18年 4月 鉄不足を補うために銀座の街路灯が撤去される。
       6月 東京の昭和通りの街路樹が取り払われ畑に転用される。
昭和19年 3月 バー等の飲酒サービス店閉鎖
       4月 六大都市の学童給食用に米を一人7勺配布する
       9月 学童給食の米を廃止しパンを支給する。 
       11月 都民食堂と称する雑炊食堂が設けられる
           物価が高騰し始める 前年比13,3%上昇
昭和20年 6月 都民食堂(雑炊食堂)600軒が外食券食堂となる。朝食25銭夕食50銭
       8月 六大都市の主食配給が一人2合1勺となる

以上で、徐々に物資が手に入り難くなり、食糧事情が悪化して行く様子がイメージできましたでしょうか。
余貴美子さんのお話や、温泉ブームの話については、何時の時代でも金をかき集める才能がある方はおられます。

終戦と同時に、都市という都市が焼け野原になり、工場という工場が破壊されたところへ、満州や朝鮮半島、台湾などから着の身着のままの引揚者や復員兵が帰ってきたのですから戦後の窮状は惨々たるものでした。
この記憶と、戦前戦中の物資の欠乏との記憶が混同して伝えられているのも止むを得ないことかと思います。

社会が暗かったか明るかったかは、その日その日を送っていた人達がどのように受け取っていたか次第です。
当時の流行歌がyou yubeに沢山投稿されていますので聞いてみて下さい。
昭和11年 わすれちゃいやよ、ああそれなのに、東京ラプイソディー
昭和12年 青い背広で、人生劇場、人生の並木道、妻恋道中、マロニエの木陰
昭和13年 別れのブルース、支那の夜、満州娘、初j恋、雨のブルース
       (エノケン一座が旗揚げ)
昭和14年 名月赤城山、東京ブルース、港シャンソン、懐かしのボレロ、一杯のコーヒーから
       (後楽園球場の入場者2万人)
昭和15年 湖畔の宿、誰か故郷を想わざる、ラバウル小唄
       (東京競馬場第九回ダービー入場者6万人、銀座のお汁粉屋が19軒を越える)
       (芸能人の英語風芸名禁止)
昭和16年 北上夜曲、明日はおたちか、船頭さん、たきび
       (街頭でのスナップ写真が流行する)
昭和17年 婦系図の歌、新雪、勘太郎月夜唄、湯島の白梅、鈴懸の径
昭和18年 十三夜、南国の夜、スキー
昭和19年 惜別の歌
       (俳優座が結成される)
昭和20年 りんごの歌
       (12月31日 NHK第一回紅白歌合戦が実施される)
戦前も戦中も庶民は軍歌ばかり歌っていた訳ではありません。

出典:江戸東京年表 小学館




      

「戦時中」と言われるておられる時期(期間)と、庶民生活に影響が及んだ期間についてのイメージが錯綜されて伝えられているために判り難いのか思います。

イメージが錯綜してしまう原因はおそらく次の2点の影響が大きいのかと思います。
(1)歴史本や教科書は政治史が中心になっています。
(2)表現の自由や報道の自由というものが、昭和初期から徐々に制限され始めました。特に共産主義思想や社会主義思想への弾圧が強化され続けました。
これに対する反動として、第二次世界大戦後の暫くの間、いわゆる左翼系思...続きを読む

Q戦前と戦後の教育の違い

戦前と戦後の教育制度の違いについて教えてください

Aベストアンサー

教育内容についての違いはさておいて、制度上の一番大きな違いは戦前の学校制度が複雑な複線であるのに対して、戦後はいわゆる63制という単線であることです。
戦前と言っても時期によって多少の差異がありますが、基本的には6年制の尋常小学校が義務教育になります。それを卒業した後は色んな線に分かれますが、中心となるのは中等学校(中学校、工業学校、商業学校、高等女学校、家政女学校など)で、その上に高等学校→大学とあるのがいわば王道です。
それ以外に中等学校へ行けない、行かない人のためには2年制の高等小学校がありました。そして高等学校と平行する高等教育機関としては各種の専門学校、師範学校などがありました。また私立では大学予科というのがありまして中等学校卒業後すぐ入学することが出来ました。
留意すべきは戦前には時期、地域にもよりますが、中学校へ進学する者は限られており、ある意味ではその地域のエリートであり、ましてや高校、大学へ進学する人は超エリートといってもいい存在でした。
戦後は6334の単線化となりましたが、例外として新制度の大学に昇格するには資格不足の専門学校は暫定的に2年制の大学として残し、そのうちに解消するはずが図らずもその後恒久化し、短大として今に残っています。それと、昭和30年代末、時代の要請から5年制の高等専門学校が開設されたのが63制の例外として存在します。

教育内容についての違いはさておいて、制度上の一番大きな違いは戦前の学校制度が複雑な複線であるのに対して、戦後はいわゆる63制という単線であることです。
戦前と言っても時期によって多少の差異がありますが、基本的には6年制の尋常小学校が義務教育になります。それを卒業した後は色んな線に分かれますが、中心となるのは中等学校(中学校、工業学校、商業学校、高等女学校、家政女学校など)で、その上に高等学校→大学とあるのがいわば王道です。
それ以外に中等学校へ行けない、行かない人のためには...続きを読む

Q小学生でもわかる第二次世界大戦の流れ

小学生と、知的障害がある中学生に第二次世界大戦のことについて
説明してほしいと頼まれましたが、しゃべった内容が難しかったのか
ぽかーんとされてしまいました。自分が完ぺきに理解しているというわけでもないので
説明しながら自分でもわからなくなってしまいました。

そこで、子どもにも簡単に説明できるような第二次世界大戦の
開戦きのっかけ、流れ、終戦、状況などをとても簡単に教えてください。
お願いします。
一時間以内で話せたらいいかなあと思っています。

Aベストアンサー

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメリカ
  やイギリスが邪魔をしたのでそれら強国との大戦争に
  なった。
 ・ドイツも同じく周りの国々を軍隊の力で支配し、
  アメリカやイギリスと大戦争になった。
 ・強国に支配されていた国々は日本やドイツのやりかた
  が酷かったので日本やドイツと戦いを始めた。

(3) 流れ

 ・日本とドイツの戦争のしかたは奇襲といって相手が
  油断しているときに突然襲う戦い。だから初めは
  勝つけれど、より強いAグループが本気を出すと
  日本・ドイツは負けていく。そして支配の仕方が
  酷いので支配された国の人から恨みをかい日本と
  ドイツは大敗する。

(4) 終戦
 ・負けることがわかっても日本だけ戦いつづけた。
  理由は天皇を守るためということだった。
  戦いが続く中、アメリカは原爆という大きな爆弾を
  日本の広島と長崎に落として日本は降参した。

(5) 状況

 ・この大戦争は初めは強国どうしのよその国を奪い合う
  喧嘩だった。けれど日本やドイツが少人数の偉い人の
  命令をみんなは文句を言わず聞け、一人一人の事より
  国=偉い人のほうが大事なんだという考え方と、一人
  一人の事を大切にする考え方に賛成する国々との戦い
  となり、最後は日本と80の国々との戦いとなった。

 ごめんなさい。やはり難しいですね。でもこれを下敷きに

もっとお話し的に変えたらどうでしょう?

 

 こういうのでどうでしょうか?

(1) 世界は3つのグループがあった。
 A)アメリカやイギリスなどお金持ちの強い国。
  Cグループの弱い国を支配していた。

 B)日本・ドイツなど貧しくて強くなりたかった国。
  AグループからCの国を奪おうとして戦争を起こした。

 C)AグループやBグループに支配されていじめられて
  いたので支配から逃れようと運動をおこしていた。

(2) 開戦

 ・日本は朝鮮や台湾・中国の北部を支配していた。
  中国全部を支配しようと戦争を始めていたが、アメ...続きを読む

Q現代と第二次世界大戦後の生活環境の違い

家族関係や学習、住環境、仕事について現代と第二次世界大戦中および終戦後の違いについてご存知の方。漠然としていますがどんなことでもいいので教えてください。
たとえば、食べ物はこんなものを食べていたとか、こんな家で生活していたとか。

Aベストアンサー

 おはようございます。

 家族関係でいいますと、何世紀にもわたって続いてきた制度である、家督制度がなくなったということが一番大きな変化だと思います。

昔は家が共同生産,共同消費の共同体でしたから、家の財産はできるだけ分散を防ぎ、いつまでも家が続くようにしなければなりませんでした。
 そこで家の財産の管理者である家長が死亡すると新たに家屋を管理する家長が必要となり、その要請にこたえるために、家督制度という長男子単独相続制度が生まれてきました。

 ところが現代では、工業の発達にともなって、家はしだいにその生産性を失い、単なる共同消費の共同体となってしまいました。
 家族員はみんなそれぞれ思い思いの職業について収入を得、それによって自分または自分と配偶者と子の生計をたてていかねばならない世の中になったのです。
 そして、家族みんなが自分で自分の家庭の生計をたてていくことになれば、家の財産の永続も、職業の世襲も不可能になります。これが現代の家族の姿です。
 
 そこで、相続制度もこの家族の形態に見合うように変化しなければなりませんでした。
 このため、現行民法はこのように考えて、配偶者に相続権を認めるとともに、諸子均等相続制を採用しています。

 ちなみに、今の戸籍は親子2代しか載っていませんが、戦前は家長を筆頭に親子3代まで一緒に載っていました。

 おはようございます。

 家族関係でいいますと、何世紀にもわたって続いてきた制度である、家督制度がなくなったということが一番大きな変化だと思います。

昔は家が共同生産,共同消費の共同体でしたから、家の財産はできるだけ分散を防ぎ、いつまでも家が続くようにしなければなりませんでした。
 そこで家の財産の管理者である家長が死亡すると新たに家屋を管理する家長が必要となり、その要請にこたえるために、家督制度という長男子単独相続制度が生まれてきました。

 ところが現代では、工業...続きを読む

Q戦前と戦後の政治の比較

日本の戦前の政党政治~と、戦後の政治の主な違い(比較)は何なのでしょうか?

民主的な政治は、戦前の政党政治でも多少はされていると思うのですが、度合いが全然違うのでしょうか?

Aベストアンサー

戦前には、日本にも華族(貴族)制度があり、庶民院(下院)と貴族院(上院)による二院制でした。戦後、日本は貴族制度を廃止したはずなのに、二院制を続け、衆議院(下院)と参議院(上院)を持っています。世界でも例の少ない制度で、貴族制度もない、連邦国でもないのに、2つの議会があり、その権限が、ほぼ、対等というのは珍しいケースです。いわゆる「ねじれ国会」は、日本の外では、ほとんど見ることが出来ないでしょう。ねじれ国会の本質は、下院(衆議院)は上院(参議院)に対して、内閣総理大臣の選出、参議院で否決された法案も衆議院の3分の2の賛成で再議決可能、内閣不信任案の提出権くらいしか優位性を持っていないのに対し、厚生労働省が出し渋っている年金記録の実態を明らかにする国政捜査権や、公的組織人事における両院の権力は、衆参でまったく互角であることにあります(だから、日銀総裁がなかなか決まらなかったりするのです)。

内閣総理大臣の権限が強化されたことも、戦後の制度改正のポイントです。戦前には、総理大臣は、内閣の全大臣のまとめ役程度の権限しかなく、陸軍大臣が暴走して戦争を止めることが出来なかったことを反省し、内閣総理大臣がいつでも防衛大臣を罷免する権限を持つようになったことも重要項目といえるでしょう。

戦前には、日本にも華族(貴族)制度があり、庶民院(下院)と貴族院(上院)による二院制でした。戦後、日本は貴族制度を廃止したはずなのに、二院制を続け、衆議院(下院)と参議院(上院)を持っています。世界でも例の少ない制度で、貴族制度もない、連邦国でもないのに、2つの議会があり、その権限が、ほぼ、対等というのは珍しいケースです。いわゆる「ねじれ国会」は、日本の外では、ほとんど見ることが出来ないでしょう。ねじれ国会の本質は、下院(衆議院)は上院(参議院)に対して、内閣総理大臣の選...続きを読む

Q戦前の日本は先進国だったのですか?

日本が経済発展して先進国になったのは70年代と聞きましたが、それでは

1.国際連盟の常任理事国だった戦前の日本は先進国だったのでしょうか?

2.そうだとすれば、ドイツも戦前は先進国で、戦後日本と同じように経済発展して先進国になるまでは暫く後進国の状態だったのでしょうか?

Aベストアンサー

なかなか難しい質問をしますね。
日本の戦前の経済レベルは、近代国家として産業革命成し遂げ、それなりの工業力もあり、技術水準も一部では引けを取らないところがあったというくらいでしょう。
つまり、マンガ雑誌で例えればガンガンとジャンプを比べてみてください。
上のほうのレベルではそれほど差がありません。しかし、全体の平均値で見ればレベルの格差は非常に大きいようなものです。

例えば軍事技術で言えば
日清戦争の時(1894-95)は殆どの武器、兵器は輸入品でした。
日露戦争の時(1904-05)は半分くらい国産でしたし、その後はほぼ全て国産化しました。
しかしこれは、国力のかなりの部分を兵器開発に注いでいたからだとも言えます。兵器開発能力も所々に優秀なモノがあったのも事実ですが、総合力ではアメリカやドイツに劣っていましたし、何よりも数を生産する能力においては圧倒的な格差が存在しました。

次に、産業構造で言えば、日露戦争後くらいにようやく産業革命に一区切りが付いたわけですが、それでも日本はまだまだ弱小国でした。
日本の経済力が飛躍的に上がったのはWW1(1914-18)の時ですが、WW1後ですら日本の工業は繊維(生糸や綿織物)などの軽工業が中心でしたし、第一次産業に就業する人が国民の50%を占めていたのでむしろ農業国だったといえます。
世界恐慌を機に重工業化が進みましたが、それでも国民の半分くらいは農民という構造は変わっていません。

という訳で
1.
精一杯背伸びして列強の仲間入りしているけど、足腰の強さ地力の強さではアメリカには全く適わないし(まあ当時のアメリカは欧州全部と戦争しても勝てるくらいの力があったわけですが)、ドイツにもかなわない。
全ての力を戦争に注ぎ込んでもちょっと本気を出したアメリカに一蹴される程度の国力でした。

2.
ドイツは戦前の時点で世界第二位の経済大国でした。
日本人一人当たりのGDPがドイツに追いついたのは70-80年代です。

なかなか難しい質問をしますね。
日本の戦前の経済レベルは、近代国家として産業革命成し遂げ、それなりの工業力もあり、技術水準も一部では引けを取らないところがあったというくらいでしょう。
つまり、マンガ雑誌で例えればガンガンとジャンプを比べてみてください。
上のほうのレベルではそれほど差がありません。しかし、全体の平均値で見ればレベルの格差は非常に大きいようなものです。

例えば軍事技術で言えば
日清戦争の時(1894-95)は殆どの武器、兵器は輸入品でした。
日露戦争の時(1904-05...続きを読む

Q戦時中の富裕層について教えて下さい。

戦時中の富裕層について教えて下さい。


戦前から戦後にかけて、日本のお金持ちor身分がいい人達はどんな生活を送っていたのですか?
また、敗戦でなにか生活様式に変化がありましたか?
特に若い世代について興味があります。


・20歳前後で結婚前の若者(男女)はどんな生活スタイル?
・戦争中は富裕層の御令嬢は何をしていた?


その他何でも構いません。当日の富裕層についての情報を頂けたらうれしいです!!

Aベストアンサー

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府から学生(生徒)たちも軍需工場に動員すべきという主張が現れ、これがやがて学徒動員令として実現化しました。なお、この有識者というのは戦後一転して市民運動で活躍した著名な方々でした。

 当時の新聞(現代仮名遣いに改め)から引用すると、

> 箱入り娘は旧観念 男子と職場交替

> 不急学校の整理は当然 市川房枝女史談

> この決戦が始まってから下層階級には遊休女性はすでに一人もいないはずです。ただ、中産階級以上の家庭では圧倒的に多く所謂不急学校ともいうべき花嫁学校、料理学校、洋裁学校その他何々講習会といった教養施設に篭る子女は全国で相当数に上っていましょう。したがってこれらの整理は当然のことですが既存施設を全て閉鎖したりなどはせずに割烹学校を栄養士養成所に転換させるとか ~ 決戦女性は家庭と共に職場を持つのが当然であります。(43年5月4日 東京新聞)


> 政府こそ躊躇せず女性を徴用なさい

> 婦人代表総蹶起の感激

> 中央協力会議第二日、第一委員会が緊急国民動員に関する議題に入ると宛ら婦人代表の独壇場となり花木チサヲ、羽仁説子、村岡花子、桐淵とよ、山高しげりの各委員が期せずして各自の立場から女性勤労の強力な指導、施設の飛躍的前進を要請 ~ 「徴用の即時断行こそ女子の勤労観念を徹底せしめ工場、事業者側は勤労管理を万全ならしめる、政府は躊躇するところなく未婚女子徴用を断行されたい」(43年7月16日 毎日新聞)

 それでも、やはり抜け道はあるもので、富裕階層のお嬢様のなかにはコネを使って国策会社や官庁の臨時雇いとして採用され、タバコや食券の配給などがあると職員の代わりに並んだりとちゃっかり労働を免れた方々がいたようで、これまた当時の新聞紙上で非難されました。

 戦時中の世相風俗を知るには、当時の雑誌、新聞をアーカイヴなどで読むことをお勧めします。それ以前の満州事変当時の世相であれば、たとえば中村正常とか龍膽寺雄らのナンセンス、モダニズムと呼ばれた小説を読んでみてください。現代の世相と何ら変わらないことに驚かれるでしょう。

 戦時中の富裕層の若者は、一般に其々の学校に学びながら、休日は繁華街に繰り出し映画館や喫茶店、撞球場や卓球場などの遊技場で遊んでいました。ところが、戦局が悪化してきた1943年(昭和18)ごろになると、有識者や政府...続きを読む

Q今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしについて

最近、戦後60年記念類の番組をよく目にします。
今から60年前(昭和16~24ぐらい)の暮らしに興味が出てきました。
その時代と現代を比べれば物質(アイテム)が変わりましたが暮らしそのものは
今も昔も変わらない気がします。
あの当時、庶民より少し上の人達はどんな暮らしをしていたのでしょうか?
車・カメラ・8ミリカメラなど持っていたのでしょうか、後テレビは無いですから
ラジオが主流でしたよね、しかも民放がないのでNHKだけでしたよね
当時のラジオ放送は娯楽性があったのでしょう?(これは戦中と戦後では
違いますが、それぞれの人気番組とか教えてください)
さらに当時の裕福層の三種の神器とはいったいどんな物だったのでしょうか?
また、その時代に発売された商品で今日でも売られている商品はありますか?
後、仕事は週休1日だったのでしょうか?労働時間は?女性の社会進出は?etc
当時の世相がわかる人がいましたら色々教えて頂ければと思います。

Aベストアンサー

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

 まず昭和16年から昭和20年までの戦時中。真珠湾攻撃で始まった戦争ですが、最初の勢いはともかく年々戦局は厳しいものに。米や麦、塩やタバコなどは配給制、食料はもとより物資がとにかく無くなって窮乏生活。
 ただ、わが家にはダットサンという小型車と人力車がありましたが、車引きの方も運転する人もみんな戦地に。それに、ベビーパールとツァイスイコンという2台のカメラにバーディーという8ミリのセット、それに電蓄というオーディオに沢山のレコードもありました。これらは戦前からあったようですが、終戦間際の空襲で全部焼失してしまったということです。

 ラジオはNHKの第一と第二だけですからほとんど選局しなくてもいいという便利さ?も。番組についてはまだ調べ切っていませんが、ラジヲ体操に落語に講談、浪花節などは人気番組。それらに挟まるように「今日の戦果は米戦艦1隻に巡洋艦4隻」なんて臨時ニュースが入るのも毎日のこと。今考えてみれば毎日そんなに戦果が上がるはずもないウソばっかり。そして空襲警報とともに「和歌山上空に敵B29爆撃機が100機編隊で関西方面に向けて侵入中」などとの軍の発表も。当時の子供の歌としては「お山の杉の子」、この歌知っています。

 当時の食事は、かなり裕福だったわが家でも玄米におかずは一品、それにお味噌汁。派手な服や和装、パーマなどは「非国民」と非難されたとか。よそ行きの高級なお召しをリフォームして作ったモンペと白い割烹着姿で国防婦人会というタスキをかけた祖母の写真も。これ、男性はほとんど戦地に出征していて女性が「銃後を守る」、つまり国土を守るということの現われ。
 宝石や貴金属類はもとより、鉄や銅のものなどはお国のためとなかば強制的に「供出」。当時の三種の神器といえば、氷で冷やす冷蔵庫、ハンドルを回して交換台を呼び出してつないでもらう電話、それにラジオぐらい。とにかく「欲しがりません、勝つまでは」がスローガンの時代でしたから。

 当時からの製品といえば、メンソレータム、花王石鹸、中将湯、ライオン歯磨き、三菱やトンボの鉛筆、ナショナルや東芝、シャープなどのラジオや電気アイロン、扇風機といった家電製品。まだ沢山あります。

 とにかく男性が足りない時代とて、家庭の主婦をはじめ女性が職場に。女子高(旧制)などの若い女性も挺身隊として学業そっちのけで職場や軍需工場、そして農村へ。勤務時間などはあってないようなもの、とにかく働けるだけ働くか、空襲警報で避難の毎日だったとか。そして終戦。。。。。。

 あとは#1さんがお答えの通り。終戦の時点ではたしかに車を持っている人はほとんどなかったと思います。空襲で焼け残った親戚にはカメラも8ミリもあって、まだ幼少の頃にそんな古いものを見せてもらった記憶がありますが。
 「尋ね人」、それに戦災孤児を扱った「鐘の鳴る丘(ラジオドラマ)」なんかはとても象徴的ですね。この時代ではとにかく食料が乏しく、まして甘いものがなかったとか。まるで今の北朝鮮さながら。

 ラジオではそのほか、「三太物語」「えり子とともに」、「大学を出たけれど」などラジオドラマや「日曜娯楽版」などが大人気、これやがてのちの大ヒットドラマとなった「君の名は」につながって行く。#1さんよくご存知ですね。

 当時流行した歌に「一万三千八百円」というのがありましたが、これは当時の平均的サラリーマンの給料の額。
 電気洗濯機、電気冷蔵庫、白黒テレビが三種の神器と言われたのはわが国が戦後の復興期から高度成長期にさしかかった昭和30年のこと。もうこの時代ともなるといろいろな分野で今と同じブランドの製品が出ています。こんな話、好きですが書ききれません。

 わたしも書き物をするために、おもに親や当時を生きた方々から昔話として聞きながら、このような時代の資料を集めたり考証を重ねていますが、なかなか興味深いものがありますね。

 ひとつ大きく言えることは昭和16年から昭和20年までの太平洋戦争のいわゆる戦時中、そして昭和20年の8月に終戦を迎えてから昭和24年頃まで。このふたつの期間にはおどろくほど違いが見られます。終戦以降についてはもう#1さんからかなり詳しいご回答がありますので、それ以前の戦時中を中心に書いてみます。

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Q戦争が起きた原因

1・一番始めに戦争が起こった原因は何なのでしょうか

2・なぜ日本が戦争をしなければならなくなったのか
  またその引きがねとなった理由は

3・日本はどこと戦争していたのか

4・戦争中の日本を誰が指揮していたのか

5・なぜ周辺アジアと未だに仲が悪いのか

いまだに全く知らない自分が恥ずかしいです・・・。
よかったら教えて下さい。宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北部中国へと、軍をすすめてゆきます。

当時の中国は、欧米列強による半植民地状態で、中国で、欧米との利害関係での対立を引き起こした事に起因します。

2.日本軍が、中国に深入りしすぎて、撤退も妥協もできなくなったため、国際間での調整がつかなくなったためです。

3.同盟関係は、とても複雑で、基本的には世界の2/3の国を相手に戦いました。
同盟国は、ドイツ、イタリア、ハンガリー、フィンランド、ブルガリア、ルーマニアです。

中立国は、スエーデン、スイス、スペイン、トルコ、タイなどです。

主な敵国は、アメリカ、イギリス、ソ連、オランダ、中華民国、中国共産党、自由フランス、などと、その植民地のオーストラリア、ニュージーランド、インド、カナダ、などです。

4.一応大本営は有りますが、各組織が勝手に作戦をたてて動いていました。

5.アジア周辺と仲が悪いと言っても、問題になるのは、中国および華僑圏と、韓国・北朝鮮です。

東南アジアの華僑は、大戦前は、シギリス・オランダ・フランスなどの植民地支配の手先として、現地人を支配する立場にいましたが、日本軍の進撃により、植民地軍が撤退すると、その利権を奪われてしまいました。
その後、日本の支援で独立国となったため、当時の利権を永久に失ってしまった事によります。

中国(中華人民共和国)は、戦勝国といっても、自分達では、全く無力で、何もできませんでした。
実際、中共軍と日本軍は、ほとんど戦っていません。
戦勝国といってみても、実質が全く伴っていませんでした。
そのため、日本に対し、強いコンプレックスを持ってしまい、やたらに正当性を主張するようになりました。
最近では、中国の国力がアップしてきましたので、コンプレックスは、より大きくなっているようです。

韓国ですが、本来韓国は、敗戦国なのですが、戦勝国としての地位を求め、他国からソデにされています。
ここでも日本に対して強いコンプレックスから、反日になっています。

ただ、韓国の場合でも中国の場合でも、日本に対して、真に反日の人は、それほど多くなく、パホーマンスの域を出ていないようです。

第2次大戦の事として、回答いたします。

1.これは、とても難しい話で、アヘン戦争の時代からの問題で、簡単には述べられません。
当初明治政府ができた時、朝鮮半島は、無政府状態で、そこに欧米列強の進出が有ると、国防上大変な事になります。
そのため、朝鮮半島を日本の勢力化に置き、本土の前哨線としようとしました。
そのため、利害の対立する、清やロシアとの戦いになりました。
朝鮮半島が日本の勢力下におかれると、さらにそこを守る前哨線として、隣接する満州地区を、さらに満州に隣接する北...続きを読む


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