紫禁城はなんで紫禁と名がついたのでしょう?

A 回答 (2件)

つい先だって行ってきました。


紫禁城とは主に明・清朝の皇帝の城の呼称です。
中国では古代、星座を三垣二十八宿に分けました。その三垣の中央が「紫微垣」で、北斗星の東北方にあたります。そしてそこが玉皇大帝(道教の最高神)の住む場所とされていました。皇帝は「天子」とされていましたので、その生活の場所も紫微と一致しすように宮殿の方位、向きもきちんとした観測して作られました。
その皇宮の中は、もちろん一般の人にとって入ることができない「禁地」です。それで皇宮のことを「紫禁城」と呼ぶようになったとのことです。

なお、現在、紫禁城(故宮)の中はほとんどからっぽです。
中身は台湾の故宮博物院にあります。
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この回答へのお礼

明瞭な回答ありがとうございます。
ちなみに「しびかき」とよむのでしょうか?

お礼日時:2004/04/09 16:18

> 明瞭な回答ありがとうございます。



どういたしまして。
中国旅行楽しかったですよ。また行きたいです。

> ちなみに「しびかき」とよむのでしょうか?

非常に変わった読み方ですが「しびえん」と読みます。

参考URLをどうぞ。

参考URL:http://www.toxsoft.com/stella/html/shibi.html
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この回答へのお礼

「しびえん」ですか!
どうりで検索しても出てこないはずです。
(笑)
私も秋に初中国旅行計画してます。
又、質問を見かけたらお教えください。
ありがとうございました

お礼日時:2004/04/09 17:29

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Q紫禁城

紫禁城はなんで紫禁と名がついたのでしょう?

Aベストアンサー

つい先だって行ってきました。
紫禁城とは主に明・清朝の皇帝の城の呼称です。
中国では古代、星座を三垣二十八宿に分けました。その三垣の中央が「紫微垣」で、北斗星の東北方にあたります。そしてそこが玉皇大帝(道教の最高神)の住む場所とされていました。皇帝は「天子」とされていましたので、その生活の場所も紫微と一致しすように宮殿の方位、向きもきちんとした観測して作られました。
その皇宮の中は、もちろん一般の人にとって入ることができない「禁地」です。それで皇宮のことを「紫禁城」と呼ぶようになったとのことです。

なお、現在、紫禁城(故宮)の中はほとんどからっぽです。
中身は台湾の故宮博物院にあります。

Q清朝の王宮、紫禁城には水周りの施設がなく、水は井戸から召使が持ち運びし

清朝の王宮、紫禁城には水周りの施設がなく、水は井戸から召使が持ち運びしていた、と聞きました。すると、大小便の始末はどうしていたのですか。特に、妙齢の姫君など、かなりお困りになったのではと思いますが。

Aベストアンサー

用を足すときには、宦官や宮女などの召使いに声をかけ
彼らが便器(洋式のイスっぽいの)を持ってきて、あとは便器ごと片付けられます。
とうことで、身分の高い方のトイレは決まった場所になかった、という話です。

紫禁城の歴史や習慣については以下の本が非常に詳しいです。

紫禁城―清朝の歴史を歩く (岩波新書) [新書]
入江 曜子 (著)


http://www.amazon.co.jp/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E%E2%80%95%E6%B8%85%E6%9C%9D%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E6%AD%A9%E3%81%8F-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%85%A5%E6%B1%9F-%E6%9B%9C%E5%AD%90/dp/4004311411/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1278382084&sr=8-2

Q北京の紫禁城、正確に南北を指していないのはなぜ?

北京の紫禁城やその延長である北京中軸線は、各種の(キチンとした)地図で見ても、衛星写真で見ても、南北軸が少しブレており、真北から僅かに(1~2度)西に傾いているようです。
http://maps.google.co.jp/maps?ll=39.919798,116.392878&spn=0.248630,0.334637&t=k&hl=ja

あれだけの壮大かつ緻密な計画に基づいて建築された紫禁城が、このようにいい加減であるはずはないと思いますので、どんな理由があったのかを知りたいのですが...

小生が推測する理由を掲げます(行頭の印は自己評価)
 ○ 当時(明の永楽帝が紫禁城を建設したころ?)の地球の自転軸が現在とは
   微妙にズレていた
 ◎ 元代に大都(今の北京)を建設したときの測量精度が悪く、明でもそれを
   引き継がざるを得なかった
 △ 北極でなく、磁北極を指している
 × 地殻変動/大陸移動でズレた

Aベストアンサー

紫禁城のずれは二度ちょっとだそうです。正確なずれは、最近計測したものだそうです。

ただし、紫禁城を遠景で見ても、ずれが分かるそうです。中軸門の終わりは、子午線から300メートルずれているそうなので、ずれていることは既知のことだそうです。
理由はよく分かってないみたいですが、技術が悪いと言うことではなく、大都の構造に理由があったという推測がなされているようですね。

http://tech.sina.com.cn/d/2005-01-05/1129495189.shtml

Q武士はなんで二本刀を持つ?

武士はなんで二本刀を持つのでしょうか?

Aベストアンサー

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10117282920
の解説がよろしいかと...

Q紫禁城 掟 習慣 について

紫禁城 掟 習慣 について質問があります。
ご存知の方いましたら教えたください。
紫禁城関連のTVドラマや映画を最近みているのですが、
その中に

1 親王や宦官などが皇帝に挨拶するまえに両腕の袖のまくりを下ろす行為した後膝ずきますが、その行為の由来。

2 側室が初めて皇帝と夜を共にするとき宦官に麻の袋に包まれて担がれていきますが、その習慣の由来。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

1 詳しい由来はわかりませんが、三跪九叩頭という奴ですね。皇帝に対する絶対服従を表現する礼儀作法です。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC

2 その晩に誰が皇帝の寵愛を受けたかを分からなくするためです。誰が一番愛されているかが分かってしまうと嫉妬の原因になるからです。中華皇帝ともなると側室の数も多いので嫉妬や妬みの原因となり、もめ事になることを防ぐためらしいです。結局、紫禁城という閉ざされた狭い生活空間での暮らしを強いられるために生まれたしきたりということではないでしょうか。

以上が私の知る情報です。正しいのかどうかは自信がありませんが、浅田次郎の小説に「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」「中原の虹」という清朝末あたりを描いた中国近代史の小説があり、それらを読むとこういったしきたりや風習についてのっています。1,2ともにそこから得た知識ですので、多少の脚色はあるやもしれません。興味があれば一読してみてください。長いですがお薦めです。

1 詳しい由来はわかりませんが、三跪九叩頭という奴ですね。皇帝に対する絶対服従を表現する礼儀作法です。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%B7%AA%E4%B9%9D%E5%8F%A9%E9%A0%AD%E3%81%AE%E7%A4%BC

2 その晩に誰が皇帝の寵愛を受けたかを分からなくするためです。誰が一番愛されているかが分かってしまうと嫉妬の原因になるからです。中華皇帝ともなると側室の数も多いので嫉妬や妬みの原因となり、もめ事になることを防ぐためらしいです。結局、紫禁城という閉ざされた狭い生活空間での暮ら...続きを読む

Q中2で習った歴史についての質問です。徳川慶喜が大政奉還をした理由はなんででしょうか?薩長同盟は、そ

中2で習った歴史についての質問です。
徳川慶喜が大政奉還をした理由はなんででしょうか?薩長同盟は、そんなに権力をもっていたんですか?そんな急に権力を朝廷に返したりして、幕府側の人は納得いったんでしょうか?

その後の戊辰戦争で、旧幕府軍VS新政府軍で、旧幕府軍は誰がいたんでしょうか?
なぜ旧幕府軍は負けたんですか?

このへんの流れがよく分からないので、お願いします

Aベストアンサー

徳川慶喜が大政奉還をした理由はなんででしょうか?
    ↑
西欧列強が虎視眈々と狙っているのに、
内戦なんかしている場合じゃない。
このままでは中国のようになってしまう。
大政を天皇に奉還して、挙国一致体制を
構築しよう、としたのです。


薩長同盟は、そんなに権力をもっていたんですか?
   ↑
ハイ、長州討伐が失敗して、薩長が強気になり
幕府側が弱気になったわけです。


そんな急に権力を朝廷に返したりして、幕府側の
人は納得いったんでしょうか?
   ↑
戦争に負けるとそうなります。
  


その後の戊辰戦争で、旧幕府軍VS新政府軍で
、旧幕府軍は誰がいたんでしょうか?
    ↑
徳川慶喜、榎本武揚 、松平容保等です。


なぜ旧幕府軍は負けたんですか?
   ↑
・武器が旧式であったことがまずあげられます。

・それから士気ですね。
 総大将の徳川慶喜が逃げ出すようでは終わりです。
 まともに戦ったのは、会津藩と新撰組ぐらいだった
 と言われています。
 
 徳川軍、特に旗本は平和ボケして、官僚化
 していました。
 馬には乗れないわ、鎧は着れないわ、刀など抜いたことも
 ない、なんて連中がゴロゴロしていたと言われています。
 つまり、軟弱な都会人になっていたのです。

 これに比して薩摩などは、ド田舎人ですから
 武士らしい武士がたくさんおりました。
 墓から死体を掘り出して、刀で斬りつけ、肝を練る
 なんて訓練を若い頃からやってきた連中です。
 
 つまり、武士が武士でなくなったのが敗因です。

徳川慶喜が大政奉還をした理由はなんででしょうか?
    ↑
西欧列強が虎視眈々と狙っているのに、
内戦なんかしている場合じゃない。
このままでは中国のようになってしまう。
大政を天皇に奉還して、挙国一致体制を
構築しよう、としたのです。


薩長同盟は、そんなに権力をもっていたんですか?
   ↑
ハイ、長州討伐が失敗して、薩長が強気になり
幕府側が弱気になったわけです。


そんな急に権力を朝廷に返したりして、幕府側の
人は納得いったんでしょうか?
   ↑
戦争に負けるとそうなります。
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Qトプカプ宮殿は紫禁城やヴェルサイユ宮殿の様に大きいのですか?また、トル

トプカプ宮殿は紫禁城やヴェルサイユ宮殿の様に大きいのですか?また、トルコ料理はおいしいですか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

トプカピ宮殿(70万平方メートル)はかなり大きいです、
紫禁城(72万5千平方メートル)とあまり変わりません
ヴェルサイユ宮殿は知りません。

トルコ料理は美味しいです、

特にお薦めなのがピラフです、発祥の地だけあってとてつもなく美味いです、
あとは、チーズが嫌いでなければ羊のチーズを堪能して下さい。
待ちで売り歩いているパンを買って、バザール入り口付近のチーズ屋さんでチーズを購入、パンと一緒に食べると最高です。


そのた、ケバブやドルマなど。

ケバブのホットサンドも安くておいしいです。

ピザも脂っこくなくスパイシーで幾らでも入ります。

Q紫式部は何冊の原本を書いたのですか?

源氏物語の写本が新たに発見されたというニュースがありました。

その中で、紫式部本人が書いた原本は現存していないと説明がありました。

当時、紫式部は多くの人に読まれるように源氏物語を書いたわけですよね?
 
一方、印刷技術なんて存在しない時代ですから、「手書き」 しか方法は無かったはずです。

とすると、紫式部は一体何冊の原本を書いたのでしょうか?

1. 一冊だけ書い原書を「回し読み」 をした? この場合、あっという間にボロボロになると思うのですが ・・

2. 本人が数冊書いた?

3. 本人が書いたのは一冊だけで、原書として誰にも読ませずに保管。 そのため、回し読みさせる前に原本を基に数人の手により全く同じ内容のコピー (写本) を取らせ、それを複数の人に同時に読ませた?

「源氏物語」 以外にも枕草子、古事記、日本書紀などなど、印刷技術が無い時代はどうやって複数の人に読ませていたのでしょうか?

Aベストアンサー

>その中で、紫式部本人が書いた原本は現存していないと説明がありました。

「紫式部本人が書いた原本」は、ハナッから存在してない可能性もあります。以下によると「紫式部が書いたのは通説であり、証拠が無く、別の複数の人が書いたと言う説もある」らしいので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

仮に、紫式部本人が書いた原本が見付かったとしても、それに「これが原本」と書いてある訳じゃないし、本人の筆跡かどうかを確かめる術がありません。

荒唐無稽な仮説ですが、もしかすると「○○の写本」として伝わっているのが、実は原本だった、なんて可能性もあります。紫式部本人が、原書を誰かに見せた際に、自分が書いたのを隠そうとして「○○が書き写したんだけど、面白いよ」みたいに言った可能性もありますから。

当時の感覚で言えば、源氏物語は「エロ本」だった訳で、書いた本人が堂々と「私が書いた」と公言するでしょうか?本に作者の本名を書くでしょうか?(まぁ、「紫式部」そのものがペンネームみたいなもので、本名ではないのですが)

1.
初期の文学系の同人誌(同人雑誌)の中には、ノートなどに手書きされて作家仲間で回し読みし、それを読んだ作家が空いているページに作品を書き足して次に回す、などと言う事が行われていた物があります。

同じ様な事が源氏物語でも行われたかも知れません。

2.
「全巻を一人で書いたのも疑わしいほどの量がある」のに、作者本人が「書き写しとは言え、同じ物をもう1回書く気になる」とは思えません。

普通は「誰かに書き写させる」でしょうね。

3.
証拠はありませんが、誰かに書き写させた後、原本を保管しておいた可能性が高いですね。原本は紛失するとアウトですから。

写本が1組あれば、それを元に、写本の写本、写本の写本の写本、写本の写本の写本の写本と、どんどん増やしていくのは可能です。

元が1組でも、1回写本して2組にすれば、2組を同時に書き写して4組に、4組を同時に書き写して8組に、8組を同時に書き写して16組にと、爆発的に増えて行きます。

>その中で、紫式部本人が書いた原本は現存していないと説明がありました。

「紫式部本人が書いた原本」は、ハナッから存在してない可能性もあります。以下によると「紫式部が書いたのは通説であり、証拠が無く、別の複数の人が書いたと言う説もある」らしいので。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E

仮に、紫式部本人が書いた原本が見付かったとしても、それに「これが原本」と書いてある訳じゃないし、本人の筆跡かどうかを確かめる術がありません。

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Q清朝、高官の妻なら紫禁城にいる夫を訪ねることができますか?

 清朝、高官の妻なら紫禁城にいる夫を訪ねることができますか?
 ご存じのかた、どうか御教示くださいm(_ _)m

Aベストアンサー

ご質問の件については知らないないのですが、手掛かりになればと思い投稿しました。

愛新覚羅溥傑の奥さんの愛新覚羅浩という人が書いた料理本に、宮廷のしきたりについて書いていたように思います。うろおぼえですみません。

Q勝つために高い代償を払うことを意味する代名詞となった会戦名について

勝つには勝ったけれど、その代り味方の損害も大きくついてしまった有名な会戦の名前があったような気がします。

今日、勝利は得たけれど払った代償も大きかったとき、比喩としてこの会戦名が使われていたと思います。

どなたかこの会戦名、ご存じの方、いらっしゃいましたらご教示ください。

Aベストアンサー

「勝つために高い代償を払うことを意味する代名詞」
代名詞になったというなら、これはおそらく『ピュロスの勝利』ではないでしょうか。
紀元前280年に、エピロスの王ピュロスはローマに攻め込みました。
「ヘラクレイアの戦い」で戦術的には勝利を得たのですが、自軍の損害が大きく、戦果は少ないものでした。
翌279年「アスクルムの戦い」でも同様に、勝利はしたが損害は甚大でした。
そのことから、得るものが少なく労ばかり多い勝利を『ピュロスの勝利』といいます。


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