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 日本語を勉強中の中国人です。日本の方はなぜいつも他人の目に映る自分のことがとても気にして行動するのでしょうか。他人は他人で、他人にどう思われるのかまったく他人の自由で自分とどんな関係があるのでしょうか。日本の考え方をちゃんと理解したいと思います。

 また、質問文に不自然な表現がありましたら、それも教えていただければ幸いです。よろしくお願いいたします。

A 回答 (12件中1~10件)

以下のとおりお答えします。



>日本人はなぜ他人の目に映る自分のことが気にしますか
> 日本語を勉強中の中国人です。日本の方はなぜいつも他人の目に映る自分のことがとても気にして行動するのでしょうか。他人は他人で、他人にどう思われるのかまったく他人の自由で自分とどんな関係があるのでしょうか。日本の考え方をちゃんと理解したいと思います。

〔質問文添削(このままで十分と思いますが、あえて加筆すれば…)〕⇒ 日本語を勉強中の中国人です。日本の方はいつも他人の目に映る自分のことをとても気にして行動するようですが、それはなぜなのでしょうか。他人は他人で、他人がどう考えようとまったくその人の自由で、自分とは何の関係もないのではありませんか。日本人の考え方をちゃんと理解したいと思います。

〔質問への回答〕⇒ 日本人の「集団主義」が大いに関係していると思います。確かに、日本人は常に周囲の人と同化しようとする性向がありますね。これは、昔から協同で農作業をやってきたことによって、長い間に自然に無意識裡に醸成されてきた日本のDNAのようなものではないかと考えます。それで、集団から逸脱したりすると、みんなでその人を「村八分」にしたわけですね。意識下に、そういう「恐怖感」を我々は抱いているのかも知れません。

 豪華客船タイタニック号が座礁して沈没したとき、甲板の船員は最終的に乗客を海に飛び込ませなければならなくなりました。そのとき、各国に人に彼が何と言って海に飛び込む決意を促したか、というのが小話になっているそうですね。
アメリカ人には:「保険がかかっていますよ!」
イタリア人には:「飛び込んではダメですよ!」
ドイツ人には:「船長が飛び込めと言ってますよ!」
日本人には:「みんなが飛び込んでますよ!」

アメリカ人の実践・実利主義、イタリア人の超個人主義、ドイツ人の権威追従性、そして、日本人の集団主義的な国民性がよく捉えられているではありませんか!?

 以上、ご回答まで。
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>日本の考え方をちゃんと理解したいと思います。


日本人についてだけを考えるのではなく、中国の人達と比べてた方が理解し易いと思います。
少し遠回りになりますが、次の違いについて考えて下さい。

中国では家族、親族などの血縁を非常に大切なものと考えていませんか。

中国では、婚姻後の御夫婦の苗字は独身時代と同じように別々ではありませんか?
日本では習慣上も法律上も夫婦のどちらかの苗字を使います(夫婦同姓)
(近年、夫婦別姓化ということで議論はされています)

日本には、100年や200年続いている商店や会社が沢山あることを御存知ですか?
中国には、華僑と呼ばれる方々がおられますが、この方々の継承の仕方と日本の継承の仕方が違うことを御存知ですか。
日本の場合、経営者が「○○衛門」「△△兵衛」などと、代々同じ名前であっても、血縁関係が無い場合が多いことを御存知ですか?(名前を継ぐといいます)
現在では、苗字の異なるが人が継承している場合もあります。
(ただし、大手の株式会社とは別の、中小の会社や商店での事例です)

華僑の場合には、血縁、いわゆる一族の何方かが継承されていませんか。
全く血縁関係のない方が継承した場合には、一族の方々は気持ちの上でどのようにお感じになられますか?

以上でお判りのように、日本では、血縁の継承よりも組織の継承を重要視する習慣があります。
この考え方の延長線上に「組織の和」というものが大変に重要視されます。
和を重要視すると、結局、突出した人や、和の総意に異議を唱える人は排除されます。
(これが、良いのか悪いのかという議論とは別です)
排除されない為には、常に他の構成員の意向を確認しておくことが欠かせません。
これが習慣となって、質問者様には他人の目を気にしていると感じられたのかと思います。

歴史的にも、この組織というものに対する意識は、家から始り、村落や武家のような集団、藩と呼ばれる組織、国へと発展拡大してきました。
今回の東北の地震での行動で御覧になられたように、いざとなると、この組織優先の意識が表れて地域ごとに一致団結してことにあたるという行動が極自然に生まれてきます。
中国の一部の方々が教育の成果だと認識されておられるようですが、全く異なります。

多少脇道に逸れてしまいましたが、イメージとして御理解頂けましたでしょうか。

この回答への補足

 申し訳ありませんが、訂正いたします。

×No.9さんのお礼欄
○No.12さんのお礼欄

補足日時:2013/09/29 22:08
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この回答へのお礼

 No.9さんのお礼欄をお借りしてまとめてお礼させていただきます。ご親切に回答してくださった皆様のおっしゃったことはどれもとても参考になりました^^。心から厚くお礼申し上げます。

お礼日時:2013/09/29 22:04

最初に;


“他人の目に映る自分のことがとても気にして行動するのでしょうか。”で、
格助詞の使い方が違いますね。
“気にし”は、“気にする”が終止けいですね。これほ目的語は“自分”ですね。
ここで格助詞の“が”が使用されていますが、“を”でなければならないでしょう。
でも“が”を使用するなら、“行動において、他人の目に映る自分のことがとても気になる”とするのでしょう。
でもそうすると淡雪さんの質問の意味と少し違ってきますね。

やはり個性や独特なことに対する警戒でしょう。
変人とか奇人といわれて、まともに相手にされないことのないように、という配慮ですね。
変わり者、って日本人間ではのけ者、外の者。となるのです。
まぁ今は変わってきているけれど、それでもみんなと一緒、同じ。ということが安易でるが無難なんですね。
相手にしてもらうには。
島国、そして居住や藩で小さく分かれていた歴史から、そこの仲間から除外されると生活がしにくくなるんですね。
昔は仲間内の罰として村八分でいいのがありました。
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こんばんは。




基本「他律的」なんだと、思いますね。
・・・・それだけ「我欲」にとらわれにくい、かもしれない。
「恥」といったことも(いまだに)言われる。

でも、それを「日本の」と言ったら、多分もはやミス・リーディングと思います。
というか、「「そうじゃない日本人」」て、多分、遥か昔から、居るんでは?
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>>◆他人は他人で、他人にどう思われるのかまったく他人の自由で自分とどんな


   関係があるのでしょうか。

他人の眼を気にするのは、中国人も同じだ、と聞いています。
例えば、中国人は、大型の車が好きだ、と言います。
実際、中国では、大きな車を買う人が多いそうです。
それは、「他人の眼を気にするので、小さな車ではかっこ悪い」からだ、と・・・。
日本人は、経済性などから、軽自動車などの小さな車を買う人も多いです。
多分、軽自動車は、車種別では、最も多いんじゃないですかね?
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”日本人はなぜ他人の目に映る自分のことが気にしますか”


    ↑ (添削)
日本人はなぜ他人の目に映る自分のことを気にするのですか。

”日本の方はなぜいつも他人の目に映る自分のことがとても気にして行動するのでしょうか。”
   ↑
狭いところで、同質的な人間が、ひしめき合って
農業をやっていたからです。
自分は他人にどう思われているのか、他人に
不愉快な想いをさせていないだろうか、という
ことをいつも注意して生活するようになった
のです。

”他人は他人で、他人にどう思われるのかまったく他人の自由で
 自分とどんな関係があるのでしょうか。”
     ↑
これは次のように考えて下さい。
欧米キリスト教文化圏では、いつも神が人間を見ている、
として人間を律します。
しかし、日本にはそんな神様はいません。
だから、日本人は、他人の目、その集合体とも
いうべき「世間」を神の代わりにもってきたのです。

欧米では、そんなことをすると神の罰が当たる、と
なりますが、日本では、そんなことをしたら
世間に申し訳ない、となります。

日本には、昔からこのような世間=神 が存在しました
ので、道徳が発達したのです。
魏志倭人伝にあります。
「倭人は盗まず」

これに対して、猿騰という中国人学者は、中国には
良い宗教が無かったので、道徳が育たなかった、と
いうことを指摘しております。
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人にどう思われるのか気にする理由



まず、「人間はひとりでは生きられない」というところから始まります
周囲の人たちの力添えがあって生きていることに感謝します
ですから周囲の人たちが不快に思うことはしません
何が不快なのかは人によって違います
常に自分の行動が周りの人を不快にさせていないかチェックをする必要があります

普通、人間は不快な思いをしたくない
不快な思いをしないためには不快にさせる人に近づかない
または排除する

自分が排除される側の人間にはなりたくない
それには自分が相手にとってどういう存在なのかを認識する必要がある
そして相手を不快にさせる行動を取らないように努力する

他人に迷惑を掛けても平気な中国人には理解するのは難しいかもしれませんね
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確かに日本人は積極的に自分を意見を主張しません。

我侭を言って、他人に迷惑をかけることを恥ずかしいと感じるからです。理由は2つあると思います。

1つは、子供の頃から親や学校の先生に「人に迷惑をかけてはいけない」と教育されてきたからです。これは大昔の日本の農村文化から引き継がれている習慣でしょう。

もう1つは、暮らしが豊かなことです。もし貧困であれば、他人に迷惑をかけても、自分の利益を奪い取る習慣が身についてしまうでしょう。日本の場合は、多少自分が我慢して不利益を被ったとしても、致命的な影響はないため、心理的な余裕が大きいのだと思います。

あと、他人の目を気にするかどうかは、自分の意見を主張するかどうかと必ずしも一致しないと思います。人の目を気にするからこそ、自分の意見を声高に主張する場合もあるでしょう。人になめられたくないとか、自分を大きく見せたいとか。ファッションに気を遣うことや、名誉を欲しがることも他人の目を気にするからこそですし。他人の目を気にすることはどこの国も同じだと思いますが、そのときの対応の仕方が異なるのだと思います。
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中国の方も他人の目を気にすることはないのでしょうか?


例えば中国の方の「面子」というものが日本人にしてみれば「恥意識」に当たるのではないでしょうか。
よく日本人は「恥ずかしい」と口にします。

文化背景、育った社会環境が違うので本当に理解するのは困難でしょうが、
疑問を投げあうことでお互いがわかってくると思うので、こうした質問はとても大事なことだと思います。
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大陸に住む人々は、中国人も含めて「国家」というものに全幅の信頼を置くことはないでしょう。


それは中国の歴史でも見ても、王朝が何度も変わったり支配民族が変わったりしたことがあるからです。
ですから、国家=社会と考えたときに、ころころ変わる社会に全幅の信頼を置くことをしないで、身内とか財産(それも紙幣や土地ではなく金や宝石)に信頼を置く、という考え方が大きいと思います。

これが華僑のように、世界中のどこの場所に出て行っても生活できる活力であると同時に、海外でもチャイナタウンなどをつくって身内で固まる傾向を有している、という風に現れるのでしょう。

そのような視点で日本を見ると、日本は「歴史に現れてから、ほとんど変化の無い国」です。江戸時代から明治時代と社会システムの変革はあるように見えて、民法は江戸時代の土地所有権の考え方をそのまま取り入れていたり、結婚の考え方をそのまま取り入れていたり、しますので時代によって変化するものと、まったくへんかしていないものがあるのです。

そのため日本人は「社会に信頼を置く」ことができます。逆をいえばひとりひとりが「社会に信頼されている」という前提で生活していることになります。

もし「自分が社会に信頼されていなかったらどうしよう」と考えると日本人はとても恐怖を感じるのです。
ですから、華僑のように気軽に自分や身内または財産だけを信頼して、他の社会に出ることは怖いのです。

これが日本人の根底にある考え方で、だからこそ「他人=社会からどのように見られているのか」が重要になるし「社会(子供の仲間社会)からはじき出す行為」がいじめ、になるのです。

また、この考え方を援用すれば、日本語に主語が異常に多いことも理解できると思います。
つまり日本語の主語は「私」ではなく、「他人から見たその人」なのです。
これは同時に日本語から主語を極力排除する力として働きます。

つまり日本人は「個人」として社会に存在してるのではなく、社会に個々が存在していて、社会が無くなれば個々の存在も消えると考えているわけで、だからこそ「孤独が怖い」とか逆に「引きこもり」(社会に参加することが怖いので、個のまま殻に閉じこもる方法)も生まれやすくなるのです。

質問文の訂正
>日本の方は、なぜいつも他人の目に映る自分のこと(を)、とても気にして行動するのでしょうか。他人は他人で、他人にどう思われるのかまったく他人の自由で(すので)、自分とどんな関係があるのでしょうか。日本の考え方をちゃんと理解したいと思います。
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