楽天の田中将大=悪ですか?

理由は、

楽天=Rakutenとなります。

Rを取ると、Akuten=悪天になります。つまりは、神の反対の、悪魔?だということになります。

そう考えると、東北東部に311人工大津波が発生したのは、神の裁き・・・?

また、楽=Rakuです。
R取ると、
Aku=悪になります。

楽=悪なんですか?

この世は、どんどん、便利な世の中にしようとされて、皆頑張って労働しています。

便利さ=悪だとも言えるかもしれません。

個人的には、「世の中はどんどん悪化していっている」ようにも、思えます。
代表例が、自然災害であり、TVで全く最近報道されないし、砂漠化ヤヴァイんじゃないの?って思います。

さてはて。
楽=悪なのでしょうか?それならば、苦=正義なのでしょうか?

Rakuなので、Ku。
楽の中に、苦があります。人生~楽ありゃ、苦もあるさ~・・・。

楽の数字は不明ですが、苦はわかります。9です。
そういえば、私の誕生日は、996666となります。
6と9は逆です。
つまり、楽な世の中になろうとしている=現在進行系で、6・・・を目指しています。

でも、本当は、苦の世の中=幸せであり、逆の過去の方です。

未来は絶望的であり、過去はまだ明るい未来が見えて、幸せなんじゃないかなぁ?と思います。

結局のところ、タイムマシンか何かで、過去へ戻れれば良いのですがね。。。

ちなみに、個人的にはまーくんファンです。

まーくん=Markun・・・。。。キーボードだと、も→の。物になりますね?・・・謎。

~~~~~~~~~~~~~
ヤンキース、田中獲得に関心 米紙「入札なら59億円」
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 米紙ニューヨーク・ポスト(電子版)は10日、大リーグのヤンキースが今オフに楽天の田中将大投手(24)の獲得に乗り出すだろうと報じた。

 同紙によると、ヤンキースはゼネラルマネジャー補佐を日本に派遣し、田中を視察させていたとした上で、ポスティングシステム(入札制度)となれば、6千万ドル(約58億8千万円)の入札額を予測。レッドソックス、レンジャーズ、ドジャースも関心を示している。

 田中に対するスカウトの評価として、「投球術を心得ている。制球が良く、ダルビッシュより上。闘争心があり、(ヤンキースの)黒田のようだ」との談話を掲載した。(時事)

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A 回答 (2件)

 真理



       真理

   真理

           真理


 Rを取ったら悪になったから、だから田中将大は悪だ、とは言えません。
 なぜならば田中将大はR付きの世界の人だから。

 敢えて言うとすれば、田中将大は楽悪だ、となるかと思います。

 此の世は表裏一体ですから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
また、頭オカシイ病でした。

お礼日時:2013/10/13 19:25

>Rを取ると、Akuten=悪天になります。


いや、なりません。
Rを取る必要はどこにもありませんし、akutenという文字列にしたってもとのRakutenから一文字とったらたんなるアルファベットの集合にすぎず、並び順や語感に意味を求めること自体ナンセンスです。
どうしても意味を持たせたいのだとしても「悪天」ではなく「灰汁点」だったり「開く店」だったりでもいいことになりますし。

>つまりは、神の反対の、悪魔?だということになります。
ぜんぜん「つまり」になりません。
「悪天」という単語の意味は相対的です。神も悪魔も絶対的なもののはず。

言葉遊びなら笑点のほうがおもしろいですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
また、頭オカシイ病でした。

ちなみに、言葉に別の意味があるのでは?と思ってしまいます。

まぁ、漢字なら、あるのかな?

上と、下とか。でも、左右は謎。漢字知識豊富な人もいるのかな???

お礼日時:2013/10/13 19:26

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Q楽=悪ですか?

楽=Rakuになる。
R+Aku=楽=悪になる。

楽天企業、マクドナルド=MAKUドナルド。M+悪ドナルド。
これはコジツケですが。

楽=悪ですか?悪が、楽に含まれてしまいます。

つまり・・・「あいつ・・・楽してばかりいやがる。働け。」となるってことです。

ニートは、労働意欲がないから、「悪」・・・?ってことです。

働かざるもの食うべからずは、嘘らしいですが、そんな感じです。

楽してばかりいると、悪いってことです。
つまり、働かないのは、悪ってことです。

どうなのでしょうか?

Aベストアンサー

人に迷惑かけてないのなら
楽したいですね

Q場合によっては、理性的=都合の良い人、損ですか??  理性的=大人、感情的=子供の筈が……………………。

以下は、私の友人S氏が述べていたこう述べていた事柄ですが。
如何なものなのでしょうか??

本来はこうですよね。

一般的に、
「理性的=精神的に大人」、
「感情的=子供(精神的に幼い)」
とされていますが。

実態としてですが、彼は場合によっては矢張り一概に言えない、その通りであるとは限らないように思うそうです。
私も一理ありそうに思えなくもないですが。

何故ならですが。

最近の彼は、物事をやたら深く追求したせいもあってか、渦に巻かれて抜け出せませんとの事です。ノイローゼなんですかね?
死にたいぐらいイライラする時もあるみたいで。


前記したオーソドックスなものとは対照的に、こんな場合ありませんかね??普通に。明らかにです。

感情的、すぐに泣く = 理性的な相手から我儘を聞き入れて貰える、仕方無い子だと黙認され、許容されているから、もう誰からも「子供」だなんて言われたりしない、うまく理性的な人を利用する。
だから大人びた賢さ(要領の良さ)を持つと言う事になる。

理性的、冷静で大人びている = すぐ泣いたりするような相手に振り回される、うまく利用されざるを得なくなるから、都合の良い人間となる。
だから「単純」、「子供」だなんて謗られたりする。
突拍子もなく感情的になった時は、すぐさま「子供」、「幼稚」、「まだまだだな。」
等と言われて諭されてしまう。

でも何だかんだ言って、

感情的=愚かで子供、
理性的=冷静で大人、賢い
ですか??
そうとも限らないかと思いますし、物事には側面がありますね。

感情的=要領が良い、理性と知恵は子供並だが、違う意味で要領が良い、

理性的、我慢強い=都合の良い人間なので損をしやすい、単純、ある意味子供、我慢強いってだけの面では大人
なんですか??
皮肉なもので頭に来ませんかと思います。
と言いますか、どちらが寧ろ得なんでしょうか??この俗世では感情的で大胆な方が良いのですか??


私は特に大した経験ありませんが、ドラマや漫画のシチュエーションには飽き飽きしますね。

理性的で冷静=扱いやすい、
感情的ですぐに泣く=ずるい
を補足しておきます。

俺が何に腹を立てているか、もう御解りでしょうかね?

確かに扱い難いのも子供だから、子供が得するのは当然かと思いますが。

本来、
理性的=大人、
感情的=子供
の筈が、
まるで、そう、

「感情的=子供」、
「理性的=子供の玩具」

みたいではないでしょうかと。
如何??


彼(友人S氏)は、以前、他所の掲示板にこのような事を書き込んだ時に、「貴方は深く拘って追求すると言うどころか、幼稚ですよ。」
とか言われて、半分怒ったようにこう言っていました。

「ふう。これらは世に書かされて書いたようなものなのに、俺が何に腹を立てて書いたか、まだ御解りでないのか。鈍い奴は多いし、心豊かでない奴も多いな。チャラチャラしてるからだろう。テレビやバラエティ雑誌ばかりでなく、俺みたいにもっと本を読めやって話だ。人間成長には読書、特に世界の文学や、心理学からだと思うぞ。」
等等。


では回答を御待ちしております。
ああやって深く考え出すと、まるで矛盾だらけで答えが出ず、渦に巻かれて当分抜け出せなくなると、彼も迷っているようですので。

以下は、私の友人S氏が述べていたこう述べていた事柄ですが。
如何なものなのでしょうか??

本来はこうですよね。

一般的に、
「理性的=精神的に大人」、
「感情的=子供(精神的に幼い)」
とされていますが。

実態としてですが、彼は場合によっては矢張り一概に言えない、その通りであるとは限らないように思うそうです。
私も一理ありそうに思えなくもないですが。

何故ならですが。

最近の彼は、物事をやたら深く追求したせいもあってか、渦に巻かれて抜け出せませんとの事です...続きを読む

Aベストアンサー

>どちらが寧ろ得なんでしょうか??この俗世では感情的で大胆な方が良いのですか??

理性的=賢い、冷静、しかし行動しなければ、卑怯、ずる賢い.

感情的=正直、素直、しかし考えなければ、直情、単なるコドモ.

 素朴な感性によるエネルギーをアタマで処理し、その中間の心で対処すれば、素直で賢いと言うことになります。

いずれにせよ、「迷っている」人は、ほっといたほうが良いのではないですか.

Q偶然=必然=運命???

ずっと考えていた事なのですが、頭の中がぐるぐるしてきたので、質問させて頂きます。
まず、タイトルにある3つの言葉の意味(定義)は、以下の通りです。
・偶然・・・何の因果関係もなく予測していない事が起こること
・必然・・・必ずそうなると決まっている事
・運命・・・生まれた時から定まっている、人の運

個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。

1:こういった場合あなたなら、(生死に関わらず)その原因は「偶然・必然・運命」のどれに当てはまると思われますか?お答え頂けるのであれば、なぜ、そう思われますか?
2:「世の中に偶然はない」という言葉を信じますか?
  具体的に、そう思った出来事などはありますか?

私は、「偶然・必然・運命」というのは、言葉やそれぞれの意味は違っても、もしかして同じ事なのかなぁと思い始めています。偶然が世の中になければ、全ての出来事は「必然的」に起こっている事になりますよね?その「必然的」に起こっている事柄の中にいつもいる私達は、それが「運命」なのでしょうか・・・。
この辺りで、頭がぐるぐる状態です(-_-;)

上手く伝えられないのですが、皆様の考えや意見をお教え下さい。私は哲学の専門家でも何でもありませんので、直感的な回答でも構いません。色々な意見を聞きたいです。

ずっと考えていた事なのですが、頭の中がぐるぐるしてきたので、質問させて頂きます。
まず、タイトルにある3つの言葉の意味(定義)は、以下の通りです。
・偶然・・・何の因果関係もなく予測していない事が起こること
・必然・・・必ずそうなると決まっている事
・運命・・・生まれた時から定まっている、人の運

個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。最悪の場合、命を落とされる方も多いのですが、ここで質問です。

1:...続きを読む

Aベストアンサー

 
存在世界の事象・できごとの生起は、どういう法則によって決まっているのか、というのは、存在世界の側で規定されているのだとも言えるのですが、他方、哲学的には、主観がこの「法則」をどのように把握するか、把握のための「概念」の展開によって見え方・捉え方が違って来るのだとも言えます。

詳論できませんが、事象の生起の「法則」についての主観つまり人間の主体精神の側の「概念の発達」によって、世界の事象生起の見え方が違って来るということです。ここで、「偶然」「必然」「運命」というような、法則概念の前提に、「主体の自由意志」という概念が重要な意味を持つのです。

原始人や幼児がそうである、そうであったと考えられるのですが、初期には、主体の自由意志の発動というものは意識されていないのです。世界の事象の生起は、舞台の劇を見ているように勝手に流れているのであって、自分もその劇に登場していても、自分が何かをしようとして、話やできごとが進行するのではないのです。

こういう捉え方は、偶然でも必然でも運命でもないのです。そこに世界が自分も含めてあって、展開しているという状態です。原始偶然とも、原始必然とも、原始運命とも呼べるのです。

ところが、主体が主体的に、何かを希望し意志し、そのように世界の事象や自己に関係ある何かの状態を、希望の方向へ、形へと展開を望んだとき、展開を意志した時、ここから偶然とか必然という「概念」が成立するというか、主体精神に把握されてくるのです。

「必然」という概念は、比較的、後になって把握されてきます。「自由な志向意志」に対する「抵抗」として、「偶然」と「運命」が把握されるのです。

さいころを投げて、特定の目が出るように意志しても、自由に出る目を決めることができないのです。また、狩猟にでかけて今日は大きな獲物が欲しいと思っても、希望や意志の通りにことが運ぶとは限らないのです。有名大学に入学したいと希望しても、意志の思い通りにはなりません。

このような希望や意志の思い通りにならない世界の事象の生起の法則というか、ありようを体験すると、これを把握・解釈するのに、最初に「偶然」という観念ができるのだとも言えます。入試が成功するかしないかは偶然だと考えるのです。

しかし、意志に抵抗する偶然の事象生起について、そういうことが起こるという事実に意味を見出そうとすると、偶然であるが、それは「意味あることなのだ」とすると、これは「運命」なのだ、ということになります。戦争に勝つも負けるも時の「運」だという把握です。神が偶然のさいころを振って決めているのかも知れないが、それは我々には「運命」であるという把握です。

しかし、事象の起こり方を色々経験し観察もしていると、偶然だと思ったことが、実は、規則性があるということが分かります。例えば、温度や風の具合によって、獲物の収獲に違いが出てくることが分かると、獲物とする動物の行動に、ある規則性があることが分かります。熟練の狩猟者は、こういう規則性を利用して、自己の希望や意志を実現するのです。技術的応用とも言います。

また雨や晴れや暴風などは、偶然に、でたらめに起こったり止んだりすると最初は考えるのですが、そこにまた規則性が発見されます。世界はでたらめに生起しているのではない、という考えが出てきます。起源がよく分からないが、ある「必然」で動いているように思える、という把握をしたとき、「必然」の概念が生まれるのです。

必然は、意志や希望に抵抗することもあるのですが、必然の規則性を利用して、意志や希望を実現することもできるのです。ある季節のある時刻頃には、大風が吹くというのは、必然で、意志では、この風を止めたり、遅らせたりできないとしても、この風を利用して、狩りを有利に行い、獲物を獲得できるというようなことが可能になるのです。

大学の入試は、テストがあって、それである一定の点数を獲得しないと合格できないのです。これは意志に抵抗する必然条件だとも言えます。幾ら祈祷したり、神に祈ったり、「必勝祈願」だとか考えても、必然条件に合わないと、入試には落ちます。

しかし、逆に、試験問題を調べ、その種類の問題を解く練習を繰り返し行い、大学受験塾などで、入試試験問題に対し十分に準備すると、試験で一定の点数を取ることができ、合格できます。点数で合否が決まるという必然法則に対し、意志の技術的応用で、必然があるので、それに準拠して、成功の方法が分かるということになります。

しかし、入試は、合格最低点数があると共に、獲得点数の上位から200人とかを合格にしてゆくという必然システムもあり、ある年度の入試では、獲得点数で合格できたのが、同じ獲得点数の実力なのに、もっと点数を取る受験生がなぜか、入試に加わって、200人の外に押し出されて不合格ということも起こるのです。

入試システムの必然に応じて、可能な準備をして、入試に臨んでも、合格するかどうかは、ときの運、あるいはその年度の偶然によるという事態も生じるのです。

こうして、世界の事象の生起について、「自由意志」への抵抗として、「偶然」と「必然」があり、偶然と必然を技術的に利用して、意志の希望を実現しようとする人間の知恵の展望には、実は、「未来の成り行きの先取りヴィジョン」というものがあるのです。

システムの「必然性」は、未来のヴィジョンを築くのに有効なのです。こうすれば、こうなるという必然法則・因果法則があれば、未来がどうなるか予測できるのです。しかし、偶然という要素が、予測を不完全にします。偶然はさいころを投げるようなことで、結果がわからないのです。

ここで、未来のヴィジョンを前もって展開できるという人間の未来展望能力から、「未来と時間経過の結果」についての、「背後に隠れている構造」を構想した結果の「把握態度・構想態度」という精神の態度が出てくるのです。できごとの生起について、「楽観的」か「悲観的」かというような態度がありえるでしょう。

結局、あらゆる知力、知識を尽くして、未来を予測しようとして予測できないとき、未来に対し、「すでに定まっている」という把握態度を取るか、「定まっていない」という把握態度を取るかです。これは、知識を超越した次元での世界の隠れている構造要素・原理が問題となっているのです。

この把握態度と、「意志の能動性の態度位相」というものが交錯すると、未来展望に幾つかのヴァリエーションが出てくるのです。「既定+能動意志」の場合、能動意志を含めてすでに決まっている運命である(積極的運命従属)。「未定+能動意志」の場合は、決まっていない未来を、意志で切り開こう(積極的運命開拓)。「既定+消極意志」では、運命の前、なすすべもない(消極的運命従属)。「未定+消極意志」では、未来は分からないので、なるようになるしかない(意志放棄運命従属)。

>個人として全く落ち度がないのに、巻き込まれて被害者になる事ってありますよね。例えば、天災・事故・戦争などです。

1)「巻き込まれた」という限りは、「偶然に巻き込まれた」のであるが、巻き込まれた事実において、それは「必然」である。ただし、予見でき回避できた場合は、「必然」とは言えないでしょう。回避しようと思ったが、偶然巻き込まれたか、回避の努力も空しく巻き込まれた、という場合、「必然」ではないでしょう。巻き込まれざるを得なかった場合、必然です。

それを、「運命」とするかしないかは、或る意味、意味のない問いとも言え、未来が既定の場合も、未定の場合も,両方とも、そういう運命だという把握は可能なのです。「運命などない」というのは、意志によって運命を切り開けるというヴィジョンです。

従って、この問いの場合、それは「運命」であった、ということになります。人生のあらゆるできごとは、偶然も必然も含めて、運命だと言えるからです。

2)「世のなかに偶然はない」ということはありません。偶然が一杯あります。さいころの例になりますが、さいころを振って出てくる目が、何であるか、神か悪魔か天使が、一々決めているとは考えがたいので、偶然で決まっているとするのが自然でしょう。

ただし、人生のヴィジョンにおいて、人間の意志や知恵や策謀を超えた彼方で、何ものか人知を超えた法則で、人生の運命は決まっているという展望をした場合、「世のなかに偶然はない」ということになります。これは、そういう事実・事態が「ある」というより、人間の側の認識・把握の問題です。

「世のなかに偶然はない」ので、それゆえ、何を試みても無駄だという考えにもなれば、そうであるが故、運命を切り開いて、未来を切り開くのだ、という考えにもなるのです。

「偶然はない」ので、意志しても、定まった運命は変わらないとも感じられれば、「偶然はない」ので、意志すれば必ず道は開かれる、失敗した場合は、努力が足りなかったのだ、と両方出てくるのです。

人生について、偶然、必然、運命というようなことを考えると、先に述べたように、予測・予見できない次元でのありようが問題になってきて、それをどのように見積もり、意志的に展望するかで、偶然、必然、運命というのはぐるぐる回って行くのです。

一切は必然だと展望すると、そのように展望した世界の運命は、何ものかの気まぐれによる偶然に支配されているとも考えられ、更に、そのような何ものかの気まぐれも、また必然で、偶然ではないのだ、という風に、幾らでも、予見できない次元の決定項について、偶然と必然を入れることができるのです。

わたしは、「運命を切り開くことのできる人間」というヴィジョンが好きです。わたし個人は、力尽きて倒れようと、人類は、その運命を切り開き、星々の未来へと到達するであろうと、展望しています。逆に言えば、経験として、わたし自身について、自己の運命を切り開くのは難しいと痛感しているということです。

しかし、どこまでも希望と意志は持ち続けて行きたいと思っているのです。
 

 
存在世界の事象・できごとの生起は、どういう法則によって決まっているのか、というのは、存在世界の側で規定されているのだとも言えるのですが、他方、哲学的には、主観がこの「法則」をどのように把握するか、把握のための「概念」の展開によって見え方・捉え方が違って来るのだとも言えます。

詳論できませんが、事象の生起の「法則」についての主観つまり人間の主体精神の側の「概念の発達」によって、世界の事象生起の見え方が違って来るということです。ここで、「偶然」「必然」「運命」というよう...続きを読む

Qミシェル=ジャン=フランソワ・オズレー

「東アジアの宗教の開祖ビュッデゥ あるいはブッデゥに関する研究」

1817年に出版された小冊子のようですが
これは現在、読めますか?

bouddhismeと最初に呼んだのがフランス人の

ミシェル=ジャン=フランソワ・オズレー
らしいですが、この人物はどのような人だったのでしょうか?

Aベストアンサー

michel jean francois ozeray Recherches sur Buddou ou Bouddou, instituteur religieux de l’Asie orientale

ttp://books.google.de/books?id=F8AUAAAAQAAJ&pg=PR3&lpg=PR3&dq=michel+jean+francois++ozeray+Recherches+sur+Buddou+ou+Bouddou,+instituteur+religieux+de+l%E2%80%99Asie+orientale&source=bl&ots=GGJh2NAuj-&sig=vvUwoVJgbUiueKcOnGpiGaxFZnc&hl=de&sa=X&ei=_X5yUJisCI3HsgbdzoC4BA&ved=0CEwQ6AEwBw#v=onepage&q=michel%20jean%20francois%20%20ozeray%20Recherches%20sur%20Buddou%20ou%20Bouddou%2C%20instituteur%20religieux%20de%20l%E2%80%99Asie%20orientale&f=false

michel jean francois ozeray Recherches sur Buddou ou Bouddou, instituteur religieux de l’Asie orientale

ttp://books.google.de/books?id=F8AUAAAAQAAJ&pg=PR3&lpg=PR3&dq=michel+jean+francois++ozeray+Recherches+sur+Buddou+ou+Bouddou,+instituteur+religieux+de+l%E2%80%99Asie+orientale&source=bl&ots=GGJh2NAuj-&sig=vvUwoVJgbUiueKcOnGpiGaxFZnc&hl=de&sa=X&ei=_X5yUJisCI3HsgbdzoC4BA&ved=0CEwQ6AEwBw#v=onepage&q=michel%20jean%20francois%20%20ozeray%20Recherches%20sur%20Buddou%20ou%20Bo...続きを読む

Q『存在と時間』、“世界=内=存在”について。

 ちくま学芸文庫版、『存在と時間』上巻、142pについて質問があります。
 『現存在自身において、現存在自身にとって、この存在構成はつもすでにある仕方で知られている。ところがそれを認識しようとすると、あたかもこのような課題のなかで表立ってくる認識が、自分自身をー世界についての認識としてー「心」の世界への関係の範例にすることになる。それゆえに、世界の認識や、あるいは「世界」を呼び「世界」について語る言説が、世界=内=存在の原義的な様態としての役割をひきうけるようになり、世界=内=存在そのものは理解されなくなる。』
 とありますが、「心」の、世界への関係の範例となってしまう認識とは具体的にはどのようなものでしょうか?また、そのような“認識”は「世界=内=存在」といった認識とどのように違うのでしょうか?
 ご回答お待ちしております。
 
 

Aベストアンサー

世界内存在 = 共存在でしたね。それは“気遣い”により既に存在している。これは自分を含めた“みんな”で既に存在することでしたね。
その現存在に対して、言葉によってこの世界構成を語ることは、共存在への “気遣い”が薄れることになり、次に出てくる本来的自己の解釈が、独我論に偏りかねないからではないでしょうか?たとえば自分だけは特別だとか。
心の中の真実なんて、受け取り方ひとつで、独我論にも心身二元論にもなりうるほど、いいかげんなものなのではないでしょうか。

「キミは心の壁が消え去って、みんなと混ざり合って、自分の思い通りになる世界、疑いや心配など無い世界、all or nothing な世界を望んでいたんじゃないの?」

「ち、ちがう・・・そんな世界、ぼくは望んでなんかいない。」
「ぼくの心は通じなかったけど、うまく噛み合わなかっただけだ。」
「みんなの心に壁があったっていい、ぼくはそれでいいんだ。」

「まあまあ、キミがそう思うなら、この世界も捨てたもんじゃないわね。」
「現存在の世界へようこそ。」


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