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以仁王の令旨
「諸国源氏ならびに軍兵らに下す、平清盛ならびにその従類すべからく追討すべき事」


雌伏のときを過ごしていた諸国源氏はこの以仁王の令旨を大義名分として平家打倒の兵を挙げましたが、そもそも当時の朝廷の最高権力者は後白河法皇のはずです
法皇の「院宣」ならばわかりますが、なぜ源氏の諸侯は以仁王の「令旨」に従ったのでしょう?

A 回答 (2件)

この辺のごたごたは、当事者同士の恨みつらみが重なっていて真に判り難いです。



清盛と後白河は当初はお互いに利用しあっていたのが、所詮政治家同志、ごたごたやって、清盛がついに治承3年(1179年)11月、後白河法皇を幽閉、関白・松殿基房を追放するという強硬手段に出ました。このドサクサに以仁王も長年知行してきた城興寺領を没収されて、頭にきて治承4年(1180年)4月に清盛をやっつけろと令旨なるもを出したということです。
平氏をやっつけることが出来そうな武装集団は源氏だけでした。
清盛は清盛で、治承4年六月に京の都から逃げ出して福原(神戸)へ行ったものの、誰もついてこないので半年で諦めて11月に京へ帰り、後白河を元通りにしました。
ということで、後白河法皇がずうと口出しができる状態が続いていた訳ではありません。

源平合戦とは言っても実態は関東平氏と伊勢平氏の大喧嘩です。
頼朝は、大喧嘩するほどの手勢を持っていませんでした。
北条氏も千葉氏も三浦氏もみんな平家一門です。
「令旨」などというお墨付きを持った頼朝が、伊豆で負けてすたこら安房へ逃げて、ようよう下総にたどり着いたところで、関東平氏の大御所だった千葉の常胤爺さんが加勢したのを見て、清盛に冷や飯を食わされていた関東一円の平氏がおれもおれもと集まって大軍団になったということです。
常胤も初めから京まで行くつもりで加勢した訳ではないようで、上総、下総、安房で起きていた身内のごたごたを片付けようとしただけだったようです。
源氏の白旗を旗印にしたのは、薩長軍があやしげな錦の御旗なるものをかついだのと一緒です。

鎌倉幕府も頼朝が死んだあと二人だけが後を継いだだけで、女房の実家の北条氏がその後ずーとやっていました。、征夷大将軍は京からお飾り用に迎えておいて、実権は北条氏が執権という形で握っていました。最後に源氏の末裔の新田義貞が乗り込んできたということです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2013/10/17 13:42

当時の朝廷の最高権力者は,後白河法皇ではなく,高倉上皇です。


この時後白河法皇は,平氏によって幽閉されていました。
院宣など出せるはずがありません。

おっと,回答済みでしたね。

参考URL:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7754642.html
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この回答へのお礼

また状況が変わったので質問しました
ありがとうございます

お礼日時:2013/10/17 13:42

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