なぜ人は歴史を勉強するのでしょうか?
例えば、国語であれば、読み書きのリテラシーなど
社会に対応するための基本的教養意外の観点でお答え頂ければありがたいと思います。

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A 回答 (11件中11~11件)

学者の方だったら、色々な考えをお持ちだと思いますが・・・


素人として考えると、昔のことを知る事で、同じ失敗を繰り返さないようにするとか、
今の自分がどうゆう歴史の流れの末に生まれてきたのか等など・・・
昔のことを知らないと、今のことも、またこれからどうすれば良いかも判りませんよねー

と私は個人的に思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます、私もこれからの未来を真剣に考えていきたいと思います。

お礼日時:2001/05/31 10:36

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Q長崎県にカトリック教会が多い理由を教えて頂けませんか

表題の件に関して,Internet 上で調べてみようとしましたが,はっきりしません.Wikipedia の「キリスト教」によると,徳川時代「…多くの信徒や聖職者が逮捕・殺害された.長崎の一部等でわずかに残った信徒は隠れキリシタンとして…」という記述があるのですが,一部に残った信徒が他の県ではなく長崎県であったというのは,単なる偶然なのでしょうか.それとも,それが長崎県であったのは何か地理的,歴史的要因によるものなのでしょうか.例えば,長崎は鎖国が始まって以後,海外との唯一の窓口であったとか….この辺りの事情を教えて頂けないでしょうか….宜しくお願い致します.

Aベストアンサー

残念ながら長崎が鎖国中に海外との唯一の窓口であったことは全く関係しません。出島に来るのはプロテスタントのオランダ人で出島外に出ることは許されず、キリスト教関連の物も厳密に入荷チェックされていました。
それでは何故長崎に幕末、明治初期まで隠れキリシタンが残っていたのかというと、他の地方と布教のされかたで大きな違いがあったからです。他のキリシタン大名が大名だけがキリシタンになったのに対し、大村氏、有馬氏は領民全員をキリシタンに強制改宗させてしまったためです。
キリシタン摘発のための手段が五人組ですが、五人組全員がキリシタンだと摘発どころか逆に励ましあい、集落全体で信仰維持のための組織を作って、幕末の宣教師再来まで信仰を伝えることになりました。他の地方では五人組全員がキリシタンということはないので、摘発されるか、自分の心の内でひっそり信仰を守っていても次の代への信仰の伝承がうまくいかず自然消滅してしまいました。
ただし、有馬氏領内のキリシタンは島原の乱で全滅、大村氏領内のキリシタンも役人の目に付き易い場所は摘発されてしまったので、幕末、明治初期まで残ったのは、陸の孤島、絶海の孤島のような場所ばかりです。

残念ながら長崎が鎖国中に海外との唯一の窓口であったことは全く関係しません。出島に来るのはプロテスタントのオランダ人で出島外に出ることは許されず、キリスト教関連の物も厳密に入荷チェックされていました。
それでは何故長崎に幕末、明治初期まで隠れキリシタンが残っていたのかというと、他の地方と布教のされかたで大きな違いがあったからです。他のキリシタン大名が大名だけがキリシタンになったのに対し、大村氏、有馬氏は領民全員をキリシタンに強制改宗させてしまったためです。
キリシタン摘発の...続きを読む

Q「偽官」について教えて頂けませんか。

「偽官」について教えて頂けませんか。
詩人の王維について「偽官に授けられ、それを恥として云々」という解説がありました。
おおよその見当はつくのですが、辞書にも載っておらず、はっきりしません。
ご存知の方、どういう制度だったのか教えて頂けませんか。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

辞書にない場合は背景を探らねばなりません。
Wikipedia王維…既読ならばskip pls.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD
[偽官]の語は出ていませんが、略伝の項に安史の乱との絡みの記述があります。
[偽官]は中国語の辞書にもありません、一般名詞としての「偽りの役人」の用法と思います。
さすれば一体王維の場合の[偽官]とは何か。

まとまった記事が見つからないので出典が気になりますが、孫引き覚悟で数点のサイトの記述から抜粋統合して訳しておきます。
唐代の人 姓:王 名:維 字:摩詰。李白=詩仙、杜甫=詩聖、王維=詩佛、三人は鼎(かなえ:辞書を見て)の脚と言われる。取り分け王維は画も音楽も優れていたという。 科挙進士及第後"給事中"の要職にまで出世したが、折悪しく安史の乱に巻き込まれ捕らわれる。安史の乱の張本人安禄山が宰相楊国忠(楊貴妃の従兄)と対立し立場が危うくなり、反乱を起こしたものです。副都洛陽に続き都長安を陥落せしめる。時の皇帝は玄宗皇帝。

さてここからです!
捕らわれた王維は安禄山により[偽官]に就けられるが、このことを後世の多くの人が彼の道徳上の汚点と言う。例えば後世の朱熹の評は「王維は開元(年号)の時代に詩で名を成した、緑山の乱に遭い、賊の手に在って死ぬことが出来なかった、事件が治まったのち幸いにして罰を受けることもなかった。その人は既に話すこともない、とはいえ言葉(詞)は聴く者の魂が洗われるようだし、また文章の調子の衰えも少ない...としているが、呉師道や王世貞などによる評では、褒めつつも非難めいた文言を付してもいる。他の宋・元・明の学者たちも類似のことを言っているが、所詮は無責任な評論に過ぎない。

実際はどうだったか!
王維によると;安禄山が洛陽・長安に入ると、大臣達は籠に閉じ込められた猿、自分のような小役人は主を亡くした犬のようで、恐ろしくて耐え難かった。病気と称して薬を飲んで見せたり、逃亡の準備をしてみたり、その結果賊軍の警戒を強めてしまった。捕まって以来十日以上も食事は抜き、大小便はおしこめられた部屋の中、外の守衛は刀・槍・棍棒を持ち、粽のように巻かれて安禄山のもとへ連れて行かれる。
安禄山は王維に対して職位に就くべく迫る。王維は仏教徒であったので死を恐れはしなかったが、まことに残酷な安禄山は数十名の人々と王維の配下を集め、王維に言う「お前がこの職を受けなければ、毎日一人を殺す。お前が応えず、または自殺などするならば、彼ら全員をお前と共に陪葬する」と。この脅迫の結果王維は偽りの職を受けざるを得なかった。

事件が治まった後、王維は処分されなかったばかりでなく、不思議なことに再々官位が上がる。至徳二年十月大唐の軍が洛陽を回復し投降した300人超の[偽官]を都長安で裁くことになる。2か月後“漢奸条例”が交付され[偽官]達が処分を受ける。王維は最軽微の罰“流放”となるが、結局は粛宗の了解により太子中允の職に就く。この理由は1.忠心を示す詩2.王維の兄弟王jin4[糸+晋]が自分の官位を下げることで王維救済の嘆願をした3.当時の宰相崔圓伸が援助した、ことによる。

ざっと以上が経緯のようです。念のため中国語ですが代表的な材料を挙げておきます。
 http://tieba.baidu.com/f?kz=467319874

要点:
・王維にまつわる話の[偽官]は、国語辞典にのるような特定の意味・用法でなく一般名詞。300人以上も居たということは、王維一人に帰結する性質のものではない。
・[偽官]という制度はない。むしろこの事件後“漢奸条例”が制定され、この時の300人超はこの法で裁かれたが、この法が[偽官]をのみ対象とするか否か不明(私は調べていませんので)。
・[偽官]の読みは、私は単純素直に ぎかん とします。

*少々横道に入りましたがおおむね全体像が見えると思います、ご参考まで。

辞書にない場合は背景を探らねばなりません。
Wikipedia王維…既読ならばskip pls.
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E7%B6%AD
[偽官]の語は出ていませんが、略伝の項に安史の乱との絡みの記述があります。
[偽官]は中国語の辞書にもありません、一般名詞としての「偽りの役人」の用法と思います。
さすれば一体王維の場合の[偽官]とは何か。

まとまった記事が見つからないので出典が気になりますが、孫引き覚悟で数点のサイトの記述から抜粋統合して訳しておきます。
唐代の人 姓:王 名:維 字...続きを読む

Q天孫の降臨について詳しく教えて頂けませんか??

最近伊勢の神宮などの事を調べているのですが
どなた様か「天孫降臨」のお話を詳しく教えて頂けませんか??

回答お待ちしております。

Aベストアンサー

 詳しく書いた場合には、非常に長くなります。
 長過ぎて入力するのが面倒な事と、このサイトの回答欄には4000字までしか入力する事が出来ないために、なかなか回答がつかない様ですね。
 文字数制限がありますので、詳しく記述する事は出来ませんが、神道では天照大御神(アマテラスオオミカミ)が最高神とされています。
 アマテラスには、2柱の弟神がいて、その末弟が素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。
 又、スサノオの孫の孫のそのまた孫に大国主命(オオクニヌシノミコト)がいます。
 スサノオに
「大きな国の主となれ」
と言われたオオクニヌシは、その言葉に従って、苦労して葦原中国(アシハラノナカツクニ:神道における人間界の様なもの)を平定し、国作りを行いました。
 ところがある時、高天原(タカマガハラ:神道における天界の様なもの)を治めているアマテラスが
「葦原中国は我が息子の天の忍穂耳命(アメノオシホミミノミコト)が治めるべきである」
と言い出しました。
 そこで、国津神(くにつかみ:葦原中国出身の神の総称、これに対し、高天原出身の神は天津神と呼ばれる)達を服従させるための使者として、天菩比命(アメノホヒノミコト)や天若日子命(アメノワカヒコノミコト)が次々に、国津神の代表であるオオクニヌシの所に派遣されました。
 ところが、アメノホヒノミコトはオオクニヌシに媚び諂い、アメノワカヒコはオオクニヌシの娘と結婚してしまい、両名とも使命の遂行を放棄してしまいます。
 そこで、3番目の使者として、建御雷神(タケミカヅチノカミ)が派遣されました。
 タケミカヅチは自らの強さを見せつけながら、オオクニヌシに対して、
「アマテラス様は、この国は我が子が治めるべきだと申されているが、お前はどうするのか?」
と尋ねました。
 オオクニヌシは
「自分だけで決める訳には行かないので、私の息子達に聞いて下さい」
と答えたため、タケミカヅチがオオクニヌシの息子達に尋ねると、その中の事代主神(コトシロヌシノカミ)はあっさり服従しましたが、建御名方神(タケミナカタノカミ)は力比べを挑んで来ました。
 タケミカヅチはタケミナカタをあっさりと返り討ちにしてみせ、逆らったタケミナカタを殺そうとしたた処で、タケミナカタが命乞いをして、タケミカヅチに服従を誓いました。
 こうして、オオクニヌシの息子達を服従させたタケミカヅチが、再びオオクニヌシに尋ねたので、オオクニヌシは
「この国は御命じの通り差し上げ、私は隠居します」
と答え、地上はアマテラスの子が納める事になりました。

 ここまでが、いわゆる「国譲り」と呼ばれている話です。
 そして、次からが、いわゆる「天孫の降臨」と呼ばれている話になります。

 こうして、葦原中国を譲渡された(侵略した?)高天原は、アメノオシホミミに治めさせようとした処、アメノオシホミミは
「葦原中国に降る準備をしている間に、息子が生まれたので、その子に治めさせるべきでしょう」
と言いました。
 このアメノオシホミミの子供が邇邇芸命(ニニギノミコト)で、「太陽神にして、最高神でもあるアマテラス」の孫にあたる神である事から、「天孫」とも呼ばれます。
 又、初代の神武天皇から続く日本の天皇は、このニニギの子孫だとされています。(ニニギの曾孫が神武天皇)
 命を受けたニニギが高天原から葦原中国に向けて降ろうとしていると、高天原と葦原中国の間の道中の辻である、天八衢(アメノヤチマタ)という処に、鼻長は七咫、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている1柱の神が立って居て、自らが放つ光で高天原から葦原中国までを照していました。
 ニニギ達の一行が怪しんで出立出来ずにいたため、アマテラスと高御産巣日神(タカミムスビノカミ)が、天宇受売命(アメノウズメノミコト)に
「お前はか弱い女だが、誰と顔を合わせても気後れしない気性の持ち主なので、1人で行って、何者なのか尋ねて来る様に」
と命じました。
 命に従ってアメノウズメが尋ねると、その神が
「私は国津神の猿田毘古神(サルタヒコノカミ)で、天つ神の御子が天降ると聞き、先導役を務めたいと思い,お迎えに参上しました」
と答えたため、ニニギは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、アメノウズメ、伊斯許理度売命(イシコリドメノミコト)、玉祖命(タマノオヤノミコト)等の五伴緒(いつとものお)を始めとする多数の神々を従えて、高天原から葦原中国に向けて降って行きました。
 ニニギには更に、八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の尾から取り出された天叢雲剣(アマノムラクモノツルギ)に、天岩戸隠れ騒動の際に使用した宝である、八咫鏡(ヤタノカガミ)と八尺瓊勾玉(ヤサカニノマガタマを加えた三種の神器が与えられると共に、思金神(オモイカネノカミ)、手力男神(タジカラオノカミ)、天石門別神(アメノイワトワケノカミ)の3柱の神も部下に加えられました。
 更に後には、豊宇気毘売神(トヨウケビメノカミ)も高天原から降り、その後、雄略天皇22年7月7日に新たに造られた伊勢神宮の外宮である豊受大神宮に鎮座しました。
 高天原を離れたニニギは、天の浮橋を渡って浮島に立ち、そこから更に竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に降り立ちました。
 そして、
「ここは韓国(からくに)に向かっている地であり、笠沙(かささ)の岬まで立派な道が通じていて、朝日の良く射す国、夕日の良く照る国でもある。
だから、ここはとても良い土地である」
と言い、地底の盤石に太い宮柱を立てた壮大な宮殿をを建てて住む事にしました。
 地上で暮らす様になったニニギは、ある日、笠沙の御埼(薩摩半島の西端にある野間岬)という所で、美しい娘に出会いました。
 ニニギが
「どなたの娘さんですか?」
と尋ねると、娘は
「大山津見神(オオヤマツミノカミ)の娘で、名は神阿多都比売(カムアタツヒメ)、またの名を木の花佐久夜比売(コノハナノサクヤビメ)と申します」
と答えたので、更に
「あなたには姉妹はいますか?」
と尋ねると、娘は
「私の姉に、石長比売(イワナガヒメ)がおります」
と答えました。
 ニニギが
「私はあなたと結婚したいと思うがどうか」
と尋ねると、娘は
「私には答えられません。父のオオヤマツミに聞いて下さい」
と答えました。
 そこで、ニニギはオオヤマツミの許に使者を送った処、オオヤマツミは大変に喜び、イワナガヒメとコノハナノサクヤビメの2人を、両方共に妻にする様に勧めて来ました。
 姉妹が嫁いで来た時に初めてイワナガヒメを目にしたニニギは、イワナガヒメがあまりにも醜い顔をしている事に驚き、妹のコノハナノサクヤビメのみを妻として迎え、姉のイワナガヒメの方は、親元に送り返してしまいました。
 娘を送り返されたオオヤマツミはいたく恥じて、次の様に言いました。
「私が二人の娘を共に差し上げたのは、
イワナガヒメを妻にすれば天津神の御子の命は岩の様に揺るぎなく、永遠のものとなるだろう、
又、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲き乱れる様に繁栄するだろうと、
宇気比(うけい:神前における宣言を伴う占いの一種)をしたからです。
コノハナノサクヤビメのみを妻として、イワナガヒメを返した、天津神の御子の命は、木の花が直ぐに散ってしまう様に、儚いものとなるだろう」
 このため、神であるニニギの子孫である筈の、天皇方の寿命は(人間と同様に)長くないものとなったのです。

というのが、天孫の降臨に関係する話の抜粋です。
 因みに、ニニギと同様に地上に降ったフトダマの子孫は忌部氏(いんべし・いみべし)となり、アメノウズメの子孫は猿女君(さるめのきみ)となり、イシコリドメの子孫は作鏡連(かがみつくりのむらじ)となり、タマノオヤの子孫は玉祖連(たまのおやのむらじ)となった様に、朝廷の祭祀に携わっていた氏族等の中には、天津神の子孫されている一族も少なくないのですが、何故か何れの一族も、人間並みの寿命しかなく、その理由は明確には語られていません。
 特に、使命を放棄して、大国主命側についたアメノホヒ等は、ニニギとは関係が切れている筈なのですが、その子孫とされている出雲国造家の人間の寿命が長くないのは謎です。

【参考URL】
 天孫降臨 - Wikipedia
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E9%99%8D%E8%87%A8

 「日本の原典! 古事記物語」
  http://homepage1.nifty.com/tosyo/kojiki.html

 古事記現代語訳
  http://musikikai.obunko.com/KOJIKI0-main.html

 『古事記(こじき)』が伝える神話
  http://bell.jp/pancho/travel/izumo/kojiki.htm

 詳しく書いた場合には、非常に長くなります。
 長過ぎて入力するのが面倒な事と、このサイトの回答欄には4000字までしか入力する事が出来ないために、なかなか回答がつかない様ですね。
 文字数制限がありますので、詳しく記述する事は出来ませんが、神道では天照大御神(アマテラスオオミカミ)が最高神とされています。
 アマテラスには、2柱の弟神がいて、その末弟が素戔嗚尊(スサノオノミコト)です。
 又、スサノオの孫の孫のそのまた孫に大国主命(オオクニヌシノミコト)がいます。
 スサノオに
「...続きを読む

Q友達に歴史の問題を出されてまったくわからないので歴史に詳しい方お願いし

友達に歴史の問題を出されてまったくわからないので歴史に詳しい方お願いします。

関ケ原の戦い後、徳川家康は、息子・秀忠の関ケ原遅参の最大要因となった、真田昌幸・信繁(のちの真田幸村)親子を死罪にしようとしたが、昌幸の長男・信幸の舅であった、徳川家家臣・本多忠勝は、信幸と共に昌幸・信繁両名の助命嘆願を行った。

しかし家康や秀忠は、この嘆願に対し、いい返事をしようとはせず、あくまでも昌幸・信繁に死罪を申し渡そうとしたので、忠勝はある方法で家康に迫り、昌幸・信繁親子の減刑を勝ち取った。


問題です

忠勝が家康に迫った方法を答えよ。

Aベストアンサー

 まず、最初にその友達に下のように指摘してあげてください

忠勝が縁戚関係によって”真田家”を残そうとしただけであって、
昌幸・信繁親子の擁護などは行っていない


 巷説で有名な下記の話は、史実ではない可能性が高い。

関ヶ原の戦後処理の際、石田三成ら西軍に荷担した上田の真田昌幸・幸村父子の助命を真田信之と共に家康に願い出る。理由は、忠勝の娘(小松姫)は、真田信之に嫁いでおり、娘婿の父と弟を殺すのに忍びなかったためだろう。
しかし、家康は真田父子には2度も敗退して苦杯をなめているため、頑として聞き入れなかったが、忠勝は、「ならば殿と一戦も辞さぬ」と家康に向かって啖呵を切る

 実際に徳川家に関する正統な歴史文献にしてもそのような記述はない。
真田家に関しては歴史文学の部類の巷説によって認知されている話が体勢であるから、本件もその部類の話を勘違いしている可能性が高い。
 要は、史実でもない話を史実だと思って言いふらしている話(創作話)である。

なお、当時の家康・忠勝の関係からして、このような啖呵を切らずとも我を押し通すことは可能だっただろう。
というのも、松平家そのものは緩やかな豪族同盟の性質であって、家康に大きな権力が存在したわけではない。
 実際に、家康が権現(=神)のように取り扱われるのは後世であって、関ヶ原当時の家臣団は中央集権的なものではない。
つまり、巷説のような話なしに、忠勝は真田一門を擁護しえた可能性は高い。

真田家を惜しんだ可能性はあるにしても、証拠もない話から問題を作る友達に、
「その話の証拠って何?」
とでも逆質問してあげるといいだろう。

実は、史実性のない書物の受け売りだろう

 まず、最初にその友達に下のように指摘してあげてください

忠勝が縁戚関係によって”真田家”を残そうとしただけであって、
昌幸・信繁親子の擁護などは行っていない


 巷説で有名な下記の話は、史実ではない可能性が高い。

関ヶ原の戦後処理の際、石田三成ら西軍に荷担した上田の真田昌幸・幸村父子の助命を真田信之と共に家康に願い出る。理由は、忠勝の娘(小松姫)は、真田信之に嫁いでおり、娘婿の父と弟を殺すのに忍びなかったためだろう。
しかし、家康は真田父子には2度も敗退して苦杯をなめているた...続きを読む

Q歴史に出る言葉なら何でもいいので歴史の言葉を用いて、面白いなぞかけ作れ

歴史に出る言葉なら何でもいいので歴史の言葉を用いて、面白いなぞかけ作れたら教えてほしいのですが…来週月曜日に使いたいので!お願いします´`

Aベストアンサー

えっ、えっ、皆さん、「なぞなぞ」じゃなくて「なぞかけ」ですよ。

というわけで必死に考えてみましたが、

織田信長とかけまして、初心者の一盃口とときます。してその心は、鳴いたのに死んでしまいました。

ああ、こんなもんしか思いつきませんでした。


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