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【死ぬ直前の感覚や雰囲気】の想像は、なぜミラクル?

いま、戦争ゲームが流行っているが、全神経を集中すれば、おそろしく、アクロバティックな攻撃「戦闘機・狙撃兵」が可能となる(まさにミタラクル!)。しかし、調子の悪いときは「先読み」ができないので、すぐに殺される。たかが、ゲームだが、「PS3 バトルフィールド1943・蒼の英雄(Birds of steel)」は、何か考えさせられるものが多い。

そこで、以下の思想を持ち出すと、
「【競争】という言葉はあれど、正しくは【(武術や戦術などのスキルを)競いこそすれ(=熟練度の競い合いは良い事)、争う(=領地や命、食糧の奪い合い・殺し合いは)必要はない】」という思想である。

私は巫女的な人間なので、第二次大戦で亡くなった人々の声が、いろんな方向から音やイメージとしてやってくるのを、受信可能な人間です。

何か感じた事を、自由に書いてください。

A 回答 (2件)

こんばんは。




>「死ぬ直前の感覚や雰囲気」

厳密に言えば、「それ」は誰も知らないのでは。


>「「【競争】という言葉はあれど、正しくは【(武術や戦術などのスキルを)競いこそすれ(=熟練度の競い合いは良い事)、争う(=領地や命、食糧の奪い合い・殺し合いは)必要はない】」という思想」

そうですねえ、「騎士道」とか「武士道」とか?
いや、「競う」のも、どうなんですか。
「保証」の問題ですか。
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>【死ぬ直前の感覚や雰囲気】の想像は、なぜミラクル?


⇒質問者様の意図から外れるかも知れませんが、自由に書かせていただきます。長文です。

 人間の脳には一生に一度しか働かないところがあるという。大脳の側面にある小さな間隙(解剖学上は外側溝という)に面したところである。「シルビウス裂」という名称で呼ばれている。で、一生に一度というのがいつかというと、それが何と事もあろうに人生の最後の一瞬、つまり死を迎えるときなのである。完全に死んでから生き返った人はいないので定かではないが、生から死へ渡って行くその間に、人間はえも言われぬ恍惚境を体験するものらしい。死の途中まで行って生き返った人たち、つまり九死に一生を得て奇跡的に黄泉の国の戸口から戻った人たちの話を要約すると、ほぼすべてに大同小異共通することであるという。その臨死体験における恍惚境の存在が、くだんのシルビウス裂の作用によるものであると推測される、というわけである。
 その次第は、例えばこうである。「暗闇の中に一筋の光明が見えるのでそれを目指して進んで行くと、急にパッと視界が開けて一面に美しい花の咲き乱れる場所に出る。花園の彼方には小川が流れており、その彼岸には先に逝った親類縁者がいてこちらを見ている。彼らの和やかな表情や周囲ののどかな雰囲気に誘われて彼岸へ向かって進みかけると、お前はまだここに来てはいけない、帰れ帰れ、と手で合図するではないか。それで仕方なく戻ってきたのだが、そのときの自分としては先へ進みたかった。なぜなら、そうすることが気持ちよかったから。それはそれは快適で、のどかで、うっとりするような状況であった…。云々」
 さて、ここで少なからず疑問が湧いてくる。このようなことが起こるのは神の意思なのであろうか。と言ってまずければ、自然の摂理に適っていることなのであろうか。あらゆる生物の営みに遍在する合目的性というものが、ここにも宿っているのであろうか。いるとすればその実体は何で、またいかなるメカニズムによって動かされるのであろうか。…と、縷々疑問を述べたあとで、いささか飛躍するのだが、ここで独断的に結論を先に述べてしまおう。生から死への旅路の途中にこのような桃源郷が存在し、そばし恍惚の境地を体験させるのは、まさしく神の意思そのものなのである。彼の被造物に細心の注意をもって施した『最終仕上げ細工』なのである。したがってそれは自然の摂理に充分適っており、明快な合目的性を持っているに違いないし、そのメカニズムも、ごく自然な成り行きの上に乗っているものと考えられる。
 では、神の目的とは何か。推測するに、死者が恍惚を体験する桃源郷は、実は死者を『完全な死』へいざなうための道標なのである。具体的に言えば、冷酷な表現だが「迷わず死んでもらう」ための腐心作なのである。「汝、ためらうなかれいざ逝かん。いさぎよいのが昔から、神の情けを買うものを。ためらうなかれいざ逝かん!」と桃源郷の入口には書いてある。シルビウス裂の作用によって恍惚境を演出する舞台―桃源郷―は、この世とあの世との接合点にあって、そこで死者があらゆる煩悩を捨て、この世とのしがらみを払拭し、魂の浄化をするところなのである。神が被造物にシルビウス裂の細工を施したことの目的はすなわち、死者が亡者にならないよう、彼に『全き死』を与えることだったのである。シルビウス裂は神の最高傑作と言わなければならないのかも知れない。
 ところでこのような神の御業による恩恵(見方によっては罠)は、ひとり人間のみに与えられたものではないらしい。例えば、かつてある小さな島でネズミが異常増殖したことがあった。その結果、その限られた物理的空間の中で何が起こったか。共食い? 否。餓死? 否。ネズミ帝国の出現? 否々。何千何万というネズミの大群が次々と海へ飛び込んで、入水自殺をしたのであった! その光景をビデオテープで繰り返しリプレイしてみて驚いた。大群が列をなして、あたかも厚手の黒いカーペットが水中に滑り込むように沈んでゆく。泳ごうともしない。もちろん他の島を求めて水中に飛び込んだわけではない。いわんや落ちたのでもない。『神の御業による見えざる導き』がネズミたちの脳に仕組まれているとしか考えようがない。
 仮にこのような仕組み―ある種の事態に対応して生物に安らかな自然の死をもたらす仕組み―がなかったら、どのようなことが結果するだろうか。ある種の生物のみが、自然界の些細な異変に触発されて、いとも容易に過剰(もしくは過少)状態になり、共食いはもちろん、たとえ一時期当該生物の「帝国」が現出したとしても、いずれそのことは種の全滅へとつながるであろう。「過ぎたるは及ばざるがごとし」であって、過剰であっても過少であっても結果は同じである。すなわち、個体数の調節ができなくなって、その結果、種の保存が困難になってしまうのである。そのようなときに神は、いわゆる『間引き』などの手を施すのであろう。すなわち、「何割かの個体を逝かせることによって、より上位の、種の手当てをする」のである。上述のネズミの例と人間の場合とではまったく同一ではないかも知れないが、その原理ないし本質部分は共通している、と言えよう。
 それでは、くだんのシルビウス裂はいかなるメカニズムによって作動するのであろうか。もちろん推測の域を出ないが、これはおそらく『コンセントに差し込んだ非常灯』のように、周囲の活動が停止したときにはじめて作動するような仕組みになっているのに違いない。すなわち、シルビウス裂は、一番最後に死ぬか、自家発電ないし蓄電機能を備えているか、のどちらかである。ボクは大脳生理学などに関してはまったく無知なので、ぜひその道の専門家にお尋ねしてみたいところである。
 さて、うっとりするような恍惚境がある一方で、断末魔の苦しみがあるということはどう説明されるのであろうか。重ねて推測するに、断末魔の苦しみはすなわち肉体の苦痛であり、肉体の苦痛はそれを感じる主体すなわち脳が活動を継続していてはじめて苦痛として感知される。要するにその段階では脳は生きている。したがって脳に死因のある場合を除いて、通常は断末魔が先で、それに恍惚境が続くと考えられる。つまり生と死の接合部は二つのスペースに分かれており、生に近い側に断末魔が、死に近い側に恍惚境がある、ということになる。
 では断末魔の存在理由は何か。こりずにまた推測的解釈を施すなら、生の崩壊が始まったばかりの段階では、いろいろな程度に蘇生の可能性がありわけで、そこで神は、肉体的苦痛という形で当人に回復・蘇生を促している、と理解することができよう。「汝、あわてるなかれ。でき得べくんばいざ戻らん。逞しいのが昔から、人の誉れとなるものを。あわてるなかれ、いざ戻らん!」と断末魔境の入口には書いてある。肉体がさいなまれるとき、人は神の心知らずでこの上なく神を憎むが、一方神は当人の闘争心を鼓舞すべく、心を鬼にして「戻れ、戻れ、戻れ!」と叫ぶのである。神が「もはやこれまで。蘇生の可能性なし」と見たときは彼を速やかに恍惚境へといざなう、のである。
 例えば凍死の過程を見ると、始めは激しい肉体的苦痛に襲われるが、それを過ぎると今度は一転睡魔がやってくる。脳死の始まりである。くだんの恍惚境の体験はここでなされる。脳死の進行過程も、おそらくは肉体により近い菱脳に始まり、次いで小脳や中脳・間脳へと移っていくのではないかと推測される。そして最後に、大脳の残りの部分―くだんのシルビウス裂の所在部位が活動を停止するときに、生のすべてが終焉し、死が完了する。シルビウス裂は、つまるところ、魂が肉体から遊離するときの『へそ』であり、『魂の通り道』なのである。
 死期がそう遠くないと予感するボクは、これで幾分か死の恐怖から開放されたような気がする。しかしそれでもなお、ボクは死ぬのが怖い。
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この回答へのお礼

長文の回答、ありがとう。
あなたは「いま自分が生きている」ことが、当たり前のように言いますが「我々が幻覚である」という科学的な事実を知らない。私は元々いなかった。だから、そこへ戻る事=死は、「目が覚める」のと同じこと。あなたも大病を抱えているようだ。貴方に、真実を教えます。あなたが死ねば、この宇宙は相対的に消滅します。観測者がいてこそ、の宇宙の派生があるのです。実は神様などは存在しないことが科学的に証明されています。全知全能とは「絶対無」を意味します。宇宙が先にあるのではなく、「認識(観測)すること」が、実は宇宙の誕生を意味します。宇宙138億年は「常に【いま】という一瞬に折り畳まれて」おり、「自我の認識」と「時空の発生」は同時に起きる。表面的には量子という最小粒子の交換、なだけです。なんでも先入観を持って考えては間違った思考回路を生むだけです。ここで回答されている psytex さん(サイコロジカル・テクノロジー=認識工学)は、20年後は、大賢人と言われてしまう人物なので、彼の「回答履歴」を読んでみて、自分に何かを与えてくれる、と直感する「問答」ならば、ぜひ読んでみてください。ありがとね。身体は大丈夫かい? 入院中? 今日から心配してあげよう。では!^^/

お礼日時:2013/11/05 01:39

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