マンガでよめる痔のこと・薬のこと

『般若心経』に出てくる
《観音さま・観自在菩薩》と《舎利子(しゃりし)・シャーリプトラ》はどちらがエラいのでしょうか?

観音さまと、声聞の最高位である《阿羅漢》はどっちがお利口さんか、
すごいのか、エラいのか?

教えてください。
よろしくお願いします(ペコリ)。

皆さんのご意見、お考えを、
教えてください。


参考までに、
http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/eraika. …

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A 回答 (7件)

小見を省みずお話させていただきます。



般若心経に説かれている観音様は、深い般若の智慧の象徴として描かれています。
深い般若の智慧とは、無分別智のことであり、直観の智慧を指しているようです。
シャーリプトラへの呼びかけとは、人の意志への呼びかけであり
それは
直観的に把握された真実が、意志に与えられ伝えられた事を示しているのだと思います。
シャーリプトラという一人の人間における悟りの内容なのでしょう。
般若心経は瞑想の体験の描写とされているようですが
そこには同時にシャーリプトラの内面が描かれているのだと思います。
繰り返される、意志と直観による深まりです。

この事は、仏の智慧に対する解釈として、悟性という意志の働きを重んじるか、或いは直観という意志以前の働きを重んじるかによって分けられてきたように思います。
その辺の事は、増谷文雄氏の「根本仏教と大乗仏教」に載っています。
戒律と理知を重んじる部派仏教と、瞑想による直観的智慧を重んじる大乗仏教の違いなのでしょう。
ご存じとは思いますが・・

ご質問に、カント的解釈を加えるならば、意志(悟性)と直観のいずれが優れているのか
といった事になるものと思います。
一人の人間に備わっている理性の一面を、それぞれに取り上げて優劣を付けられるものでしょうか・・
直観と悟性という、二にして一なるものを比べる事はできない
そんなふうに思います。
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この回答へのお礼

高い見識に基づく回答、
ありがとうございます。

現在の南伝仏教はひとまず棚上げしまして、
ご存知だとは思いますが、
《菩薩・bodhisattva》とは、
本来、
成道以前のゴータマ・ブッダの敬称、尊称です。

仏教草創期の声聞(と言いますか、仏弟子)と、大乗の説く菩薩とは、
異なるものなのか、同じものなのか、
どのように考えていらっしゃるのか、
教えていただけたら、さいわいです。

お礼日時:2013/11/08 01:06

限られた知識に基ずく推測でよろしければお聞きください。



続きのお尋ねに対する答えは
般若心経にシャーリプトラの名が登場している点にあると思われます。
仏弟子の中でも智慧第一といわれたシャーリプトラの悟りは、このようであった(このように訪れた)、というように述べられているわけですが
経典の成立の時期からすれば、あまりにもかけ離れている事には違いない
にもかかわらず、シャーリプトラを登場させる事が最も妥当であるとされたようです。
それはシャーリプトラが、真理を求める求道者の象徴に相応しいと見なされたからでしょう。

般若心経の訳文の冒頭に
「求道者にして聖なる観音は、深遠な智慧の完成を実践していた時・・・」
とあります。
一応は、観音菩薩が求道者であるシャーリプトラに呼びかける形式になっていますが
これは、悟りが受動的に訪れる事を、相対的関係をもって示しているようにも取れます。
悟りという発見が、一人の人間に内在する精神的な働きによって行われた事でもあるように思います。

菩薩とは内在する精神の働き、といってもいいように思います。
また、そのように見た場合
「求道者にして聖なる観音」とは、シャーリプトラ本人であり、声聞の人達であり、真理を求めるすべての人達であると思います。
声聞も菩薩も異なってはいない・・と思います。
(経典を編纂した人の思いは・・遠い過去の求道者への崇敬の念と、変わらぬ心の真実とがあったのかもしれません)

ちなみに
胎蔵曼荼羅は人の心を拡大したものと言われていますが
般若菩薩と観音菩薩は別尊として区別されています(この辺は厳密ですね・・)
般若菩薩は直観の智慧そのものを、観音菩薩は意志と直観による智慧と慈悲救済を象徴しているように思われます。
これらは皆、誰の心の中にも在る(居る)もの・・という解釈もできるのではないでしょうか
菩薩は誰の心の中にもいる
菩薩も悟りも、心中にして近し・・
でしょうか


小さな私が答えられるのは以上です。
すこしでもお役に立てれば幸いです。
ご参考にしてください。
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この回答へのお礼

再回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/09 12:29

>観音さまと、声聞の最高位である《阿羅漢》はどっちがお利口さんか、


すごいのか、エラいのか?
○声聞というのは現代風に言えば学生のことなんですね。学生の最高位といえば例えれば大学4年生ということですね。つまり、《阿羅漢》とは大学4年生ということですね。大学4年生とは言ってもまだ落第の可能性もあるわけですね。落第せずに卒業できる学生が「不還」でもう一回やり直しで卒業確定が「一来」ですね。
大学をめでたく卒業して社会に出て活躍し始めると社会人と呼ばれますがこれが仏教の「菩薩」ですね。
菩薩も新人から古参までいるわけですが菩薩の中でも十分に経験を積み六大神通力の一部を持つようになった菩薩を観自在状態の菩薩と言う意味で観音菩薩と呼ぶことがあります。このような状態でさらに修行や経験を積むと如来と呼ばれるようになります。如来の最高位が大如来ですね。
ということで観音菩薩は菩薩界上段の菩薩のことですね。みな阿羅漢にならないと菩薩にはなれませんから阿羅漢と菩薩は同じような扱いをしますが、書いたように学生と社会人の違いはあるわけです。
阿羅漢は菩薩の卵ですから菩薩心得みたいな存在ですね。だから正・菩薩の方が上ですね。正・菩薩の最上階に観自在菩薩がいるわけですね。これでどちらが利口さんか、すごいのか、エラいのか? はわかるはずですね。
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この回答へのお礼

こんばんは。

声聞四果と菩薩、如来の観点からの回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/07 22:35

古代の仏教でいう悟り・解脱というのは第1の悟り・解


脱になるのだろうけど、

おとぎ話のような物に付いてあれこれというのは、軽い
話としてならいいだろうけど?・・・


観音様というのは一時的半実体の存在だし、、古代既に
菩薩だった存在が未だに如来になれない訳もなく、、一
応、実体の存在なら


ま?菩薩というのは修行僧ではなく、如来として天界と
の一体化を避けているに過ぎない、その段階へと進もう
としない如来の段階達成者(を表現している)、と私は
何度か、私なりに確認し伺っているので、まそうなのか
な?と

> 観音さまと、声聞の最高位である《阿羅漢》はどっちがお利口さんか、
すごいのか、エラいのか?

人は一時的半実体より優位性があるようなので、しかし
阿羅漢という存在の達成が第1の悟り・解脱なら観音様

しかし一時的半実体の存在は、そのように表現されたに
過ぎないので、より実体性という意味でなら阿羅漢とい
う存在になるんでしょうかね?

どちらにしても、どうでもいい事かとも思いますけど?
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この回答へのお礼

こんばんは。


☆しかし一時的半実体の存在は、そのように表現されたに
過ぎないので、より実体性という意味でなら阿羅漢とい
う存在になるんでしょうかね?
◇もしシャーリプトラが阿羅漢であったならば、死ぬと灰身滅智してしまいます。
少なくとも現時点においては、
むしろ、存在性ならば、観音さまの方が上なのでは?
という気もします。


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/07 22:43

ひょっとして、「覚者(覚醒者)としてのスキル」を較べたいのですか?



「覚者としてのスキル」で構わないなら、【それぞれ価値観等のモノサシ(任意性)は無い】と指摘できる(重力の法則等、物理の最新の研究から導き出された「プランク定数」と同類)。つまり「覚者としてのスキル」なら「明確に競技の結果が出るモノ」と同類なのだ(精神性が低いとこれは理解できません)。その上で、誰が一番偉いか?、知りたいのであれば、私見ですが、現在、少なくともこの星で【最高位の金メダリストは、No.1で回答されている人物】です。

ちなみに、彼の名前は「Psychological Technology」の略語で、意味は「認識工学」という【未来の基幹学問】の名前を、わざわざ引用的に使っていると推察できます。/ 詩情的な表現ならば「大賢人」で、有名な物語「ゲド戦記」の主役がふさわしいイメージ。ジブリ映画での「ゲド戦記」は、監督が「シュナの旅」という物語の印象を、監督なりの手法で【ミックスした傑作映画だ】と、私は思います(大賢人がいかなる人物像を持つか興味があれば鑑賞されることを勧める)。

要するに、質問者様は「どっちの神が偉いの?」と、公共サイトであるこの場で質問したら、なんとNo.1さんが、(No.1さんは、己が世界一で歴史上でも最高位の賢者であることを公表する必要性が無いため、私くらいしか知らないが)、一般人の回答者として以下のように回答されたと推察できます。

その回答とは:「どっちか?だって? 任意性のあるモノサシでは、比較のしようがないんだよ。仮に、競技のごとく明白なスキルの結果が出るたぐいのモノサシで、偉い人物を知りたいならば、もっと精神性を高め、唯一正しい物理学と矛盾しない思想性を身につけることをオススメする」以上。

◎もしも詩情的な表現で、状況を表現するなら【ここの質問者さまは、究極至高の生神様(金メダリスト)に対し、どこの誰が金メダルに値するか?を問うたこと】になり、まことに、可笑しい(悪意は無いよ)。ちなみに、私の当該質問に対する回答は、上記に含まれている、とあなたが理解できることを希望します。
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この回答へのお礼

ἐποχή~!!

お礼日時:2013/11/07 22:47

>《観音さま・観自在菩薩》と《舎利子(しゃりし)・シャーリプトラ》はどちらがエラいのでしょうか?


観音様は仏様です。
舎利子は、お釈迦様のお弟子さんです。
舎利弗(しゃりほつ)とも呼ばれる人で、竹林精舎でお釈迦様の弟子になったとされています。
般若心経の文面から云えば、観音様の方がエライということになります。

>観音さまと、声聞の最高位である《阿羅漢》はどっちがお利口さんか、すごいのか、エラいのか?
「声聞」というのは、仏の声を聞いて悟った人のことを指しますが、大乗仏教(北方仏教)では如来になるのは難しいとされていました。
菩薩は如来になる手前の仏様ですが、観音様は如来になる資格があるにも関わらず衆生救済の菩薩業を敢えてなされている仏様とされています。
となると、阿羅漢さんよりも観音様の方がエライと言っても宜しいでしょう。
ただ、どっちがお利口さんとは言えないでしょう。
どっちがすごいのか、ということになると、如来であるにもかかわず菩薩業を敢えてなされている観音様のほうがすごいと言えるかと思います。

いずれにしても、どなたも我々衆生よりもず~とエライ方々ですから、素人が自分のことは棚に上げて、プロ野球の選手を捕まえて、あいつは上手いとかあいつは下手だとか言っているようなもので、余り当てにはならないでしょう。
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この回答へのお礼

こんばんは。


非常に丁寧で、わかりやすい回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/07 22:46

小泉元総理をエラいと思う人もいる。


昔の哲学者を利口だと思う人もいる。
それぞれの世界観・価値観をモノサシとして、
計られるものだ。
その点、陸上競技やゲームのように、明白に
優劣の決まるものとは異なる。
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Q法華経の教えを簡単に言うと

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

どうぞ簡単に簡潔に教えてください m(_ _)m

Aベストアンサー

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦如来が実践したように、衆生伝道も含まれるのですね。これは菩薩が立てる四弘請願で明らかですね。簡単に言えば己を磨き、衆生を助ける「上求菩提下化衆生」ですね。
鎌倉期以降は「上求菩提下化衆生」が「上求菩提」と「下化衆生」型宗教に分かれてなにやらわからなくなってしまってますが、
1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。
3.学んだ教えを広めましょう。
の3点が本来的な主題ですね。仏教では正しく物事を観る、判断することを「正見」といいますがこれは「正信」つまり、正しい信仰を持つことと同じ意味ですね。
仏教では釈迦如来に帰依することが「正信」ですから、本尊は釈迦如来以外にはないですね。
釈迦如来を役割の違いで阿弥陀仏や大日如来と言い換えているだけですね。表現方法は寛容ですね。ということで仏教においては、弟子やお経は本尊には決してなりませんね。

1.生きとし生けるものは全て仏の心がある
2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう

この2点でしょうか?

○法華経の主眼は、簡単に言えば、「1.生きとし生けるものは全て仏の心がある。」つまり、全てのものに仏生があるので、
三宝に帰依してしっかり修行をして仏性を磨いて今世を生ききれば、必ず来世、来来世あるいは未来世で菩薩になれる。という教えですね。言い換えれば、「2.来世でなく今を正しくきちんと生きましょう。」ですね。だから、2点でほぼ正しいのですが、菩薩への修行には、釈迦...続きを読む

Qぼったくりの永平寺曹洞宗

ひどいと思いませんか?私は先ごろ母の葬儀などを行いました。寺はあの有名な永平寺の系統で大変大きな寺の檀家です。僧侶は4人、戒名は信女です。35日の忌明けまで7日ごとの経にきてもらいました。その費用は90万円請求されました。その他に、初盆の人が寺に集まり初盆の行事がありましたが、家族が順に呼ばれて焼香をするだけで一家族は5分程度で終わりました。タッタの5分ですよ。それで4万円以上のお布施を請求されました。
 葬儀や法要に関する明細書も請求書もなくそれどころか領収書もありません。これってひどすぎると思いませんか?100万円近くの金を払ったのですよ。これは当然ビジネスというべきです。それなら明細書、請求書、領収書をだすべきでしょう。
 このことを永平寺に質問しましたが、10日経っても返事がありません。無視しているのです。
 永平寺の修証義というお経には、貪ってはいけない、欲を出してはいけないなどと書いてあります。それなのになんという強欲な!!
 聞くところでは、永平寺系曹洞宗は一番えげつないそうです。金をぼった繰ります。
 みなさんのご意見をお聞きしたいと思いますのでよろしくお願いします。

ひどいと思いませんか?私は先ごろ母の葬儀などを行いました。寺はあの有名な永平寺の系統で大変大きな寺の檀家です。僧侶は4人、戒名は信女です。35日の忌明けまで7日ごとの経にきてもらいました。その費用は90万円請求されました。その他に、初盆の人が寺に集まり初盆の行事がありましたが、家族が順に呼ばれて焼香をするだけで一家族は5分程度で終わりました。タッタの5分ですよ。それで4万円以上のお布施を請求されました。
 葬儀や法要に関する明細書も請求書もなくそれどころか領収書もありません。これっ...続きを読む

Aベストアンサー

 なにか話がごっちゃになっていますね。
 タイトルだけ見ると曹洞宗大本山永平寺がぼったくりをしたように思われますが,現実に質問者の方が「ぼったくり」」だと思っているお寺は別のお寺ですよね。
 永平寺もそのお寺も別々の宗教法人ですから,あたかも曹洞宗大本山永平寺がぼったくりをしたように勘違いさせるタイトルは好ましくありません。削除要求をされるかも知れません。
 よく,曹洞宗の寺院で,「永平寺系」「總持寺系」と称する寺院がありますが,それらの寺院を,永平寺又は總持寺が統括しているわけではありません。「曹洞宗」という宗教法人が包括しています。
 ですので,永平寺に質問書を出されても,永平寺はそれらの寺院を統括又は包括していませんので,永平寺にとってはお門違いの質問であり,回答がないのも然りです。
 包括している「曹洞宗」としても,教義に関しては,僧侶を監督し,曹洞宗の教義と違うことを弘通すれば指導しますが,寺院の運営に関してまでは口出しできません。法律上,別の宗教法人であるからです。
 
 さて,うちの菩提寺(曹洞宗・永平寺直末)の相場ですと,
 枕経+通夜+葬儀     =30万円
 葬儀脇導師3万円×3名  = 9万円
 葬儀御車料1万円×4名  = 4万円
 葬儀御膳料2万円×4名  = 8万円
 逮夜法要2万円×5回   =10万円
 逮夜法要御車料1万円×5回= 5万円
 逮夜法要御膳料1万円×5回= 5万円
     計         71万円 となります。
 うちの菩提寺では,院号なしの信士又は信女の場合,戒名料はありません。
 
 曹洞宗では,施食法要が営まれます。新亡施餓鬼と言って,前の施食法要以降に亡くなられた方のある檀家が施主となり,お布施を包むのですが,からお盆の法要と並修するお寺もあれば,彼岸法要と並修するお寺もあり,全く別の日程で営むお寺もあります。
 うちの菩提寺ですと,1霊3万円ですので,質問者の方の菩提寺が1霊5万円ということは,おおむねうちの菩提寺の1.5倍の額と考えれば,71万×1.6=100万超となりますので,質問者の方の菩提寺の相場の額を請求されたのではないでしょうか。
 うちの菩提寺と比較すれば,「高いなぁ」とは思いますが。
 同じ曹洞宗の寺院でも,それぞれの地域性や檀家の状況にもよりますので,1ケ寺をもってして,曹洞宗寺院全部がそうであるかのような誤解はしないでください。
 
 質問者ご自身が,御母様を亡くされ,初めて菩提寺と接されたのではないでしょうか。
 寺院は住職のものではなく,檀家のものです。宗教法人としての代表役員は住職が就いているでしょうが,檀家(その中の総代)が寺院を支えているのです。檀家の多い寺院であればなおさらです。きちんと会計担当の責任役員が居り,お寺に納めたお布施などは,住職の懐に入るのではなく,宗教法人の会計に入り,そこから住職は給料を貰っています。所得税等の源泉徴収もされています。
 お寺から示された額も施食法要のお布施の額も,檀家総代会(寺院護持会)が決めた額であると思われます。
 お布施などは個人のプライベートな支出なので,領収証を貰ったところで,経費で落とせるわけではないので,領収証を求める人が少ないのが実情ですので,求められれば領収証を出すというスタンスの寺院が多いと思います。求めれば領収証を出してくれることが多いようです。特に葬儀に掛かった費用については,遺産分割協議の際に揉めないように,喪主が相続人全員に葬儀費用を示すために領収証を求められる方もいらっしゃると聞いています。
 また,曹洞宗大本山永平寺ですと必ず領収証をくださいます。
 
 それから,お寺が相続税を脱税するということはありえません。法人に相続税が発生することがないからです。お寺が相続税を脱税したのではなく,そのお寺の住職が相続税を脱税したのでしょう。

 曹洞宗寺院及び僧侶全体を貶めようとなさっているようで,悲しくなりました。

 

 なにか話がごっちゃになっていますね。
 タイトルだけ見ると曹洞宗大本山永平寺がぼったくりをしたように思われますが,現実に質問者の方が「ぼったくり」」だと思っているお寺は別のお寺ですよね。
 永平寺もそのお寺も別々の宗教法人ですから,あたかも曹洞宗大本山永平寺がぼったくりをしたように勘違いさせるタイトルは好ましくありません。削除要求をされるかも知れません。
 よく,曹洞宗の寺院で,「永平寺系」「總持寺系」と称する寺院がありますが,それらの寺院を,永平寺又は總持寺が統括して...続きを読む

Q大日如来様とはどんなお方なのですか?

私は浄土真宗ですがご説教の中に大日如来様の話が出て詳しくしりたいと思いました。

もしよければ教えてください。

Aベストアンサー

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一目見た中国真言宗の最高僧が、「遅し!我、汝を待つこと久し!」と叫んだという逸話があります。

 勉学に励んだ空海は真言宗のすぐに最高位に就き、奥義や仏典などを全部日本に持って帰ったために、以後、中国では真言宗は廃れました。数年前、中国に空海像が里帰りしたような記事を見た記憶があります。


 密教では当然、大日如来は宇宙(宇宙を描く曼荼羅)の中心であり、諸仏(如来その他)も大日如来から産まれるものとされています。それ故、諸仏の王とされて王冠を被って描かれたり、彫られたりします。場合によっては装身具も身につけます。

 大本の思想は、帝釈天と戦った阿修羅系の神だそうです。ゾロアスター教のアフラ・マズダ(全生命の根源)・・・ そのものではないようですが、思想的には同系だとのこと。

 一神教は、他宗教信徒に対して「受け入れ」を求めるだけ(拒否すれば死)ですが、仏教のように平和的な宗教では、相手の言い分を認めて受け入れなければなりません。

 有名なところでは、阿修羅は帝釈天と何度となく戦った後、仏教に帰依したことになっています。これなどは、阿修羅を信じる者に、「阿修羅でさえ帰依したんだから、おまえたちも」と言うための方便だったものと思います。

 そう説得するためには、まず阿修羅の存在を認め、次に仏教の中に受け入れなければなりません。

 つまり、平和宗教というのは、いろんな宗教からの影響を受けざるを得ないのです。で、その一つが、大日如来。

 大日如来は、万物の根源であり宇宙そのものですので、かくかくしかじかの容姿であった、こう考えた、というようなことはおそらく伝わっていないものと思います。

 その代わり、というわけではないのでしょうが、金剛界や胎蔵界のそれぞれで、さまざまな仏や菩薩、明王などに変身して人々を教え導くとされています。例えば、不動明王も大日如来の変身姿の一つ(教令輪身)です。

 従って、大日如来そのものを直接知るのではなく、それぞれの仏などの教えや特徴を知って積み上げていくしかないのではないかと思います。
  

 我が家も浄土真宗ですが、浄土真宗の説教に大日如来が出るのは珍しいんじゃないでしょうか。

 というのは、浄土真宗などは仏教の中でも「顕教」と呼ばれる一派に分類されますが、もう一派を「密教」と言います。つまり、別派だからです。

 この密教は、この大日如来(理解の仕方にもよりますが、本来は大宇宙そのものであって物言わぬ仏)から、直接意向を聞いたり、加持祈祷を通じてお願いをしたりしようという仏教を言います。

 空海が中国から持ってきたのが真言宗ですが、空海が渡海した時、空海を一...続きを読む

Q般若心経を唱えてしまった!!

般若心経は一般の方が唱えることはお控えください。というのも、般若心経の霊力は亡くなった霊には無条件で大慈大悲を与える功徳があります。これはこの般若心経の言霊(ことたま=言葉そのものが霊力を持っている)が霊にとっては非常に暖かく明るい光明に見えるのでどんな霊も唱えている人のところへ集まってきます。どんな霊もくるので必ずしもいい霊ばかりとは限りません。般若心経は他の真言と合わせて使わないと無防備で非常に危険なのです

単に般若心経を唱えれば質問者さんにはまったく関係のないその辺にいる霊がどんどんやってきてしまいます。あまりいい死に方をせずに成仏しないで浮遊している霊達が「もっと唱えてくれ~」と次から次へとやってくるのです。唱えるのをやめても霊達はまた般若心経を聞きたくてその場にとどまってしまいます。

ですから一般の方が般若心経を唱えるのは本当は怖いことなのです。防御系に強い菩薩の真言を奏上してその後内観という心の内を澄み切った愛情で満たしたうえでかくなる方法にて般若心経を唱えなくては霊にとってはまったく意味がございません。逆に霊を迷わす原因となります。

上のような文章をみて、どうしたらいいかこまっています。
まったくの素人です。般若心経をとなえてしまいました。しかも実家は浄土真宗なのに。。きいているあいだ、なんだか体がぐらぐらしました。
パソコンから、お坊さんがとなえたものも、聞いました。どうしたらいいでしょうか。こわいです。心を落ち着かせるために、写経をしようとおもっていたのですが、やめたほうがいいでしょうか。。アドバイスください。般若心経は邪を払ってくれると聞いたのですが、悪い霊をよびよせないで、安全な唱え方などはないですか。

般若心経は一般の方が唱えることはお控えください。というのも、般若心経の霊力は亡くなった霊には無条件で大慈大悲を与える功徳があります。これはこの般若心経の言霊(ことたま=言葉そのものが霊力を持っている)が霊にとっては非常に暖かく明るい光明に見えるのでどんな霊も唱えている人のところへ集まってきます。どんな霊もくるので必ずしもいい霊ばかりとは限りません。般若心経は他の真言と合わせて使わないと無防備で非常に危険なのです

単に般若心経を唱えれば質問者さんにはまったく関係のないその...続きを読む

Aベストアンサー

悪い霊は、比較的に午前0時を過ぎて般若心教を唱えると出てくるような気がします。朝、太陽が昇ってから唱えるのが一番効果的に思えます。朝時間がなければ、風呂上りの体をきれいにして直ぐにやれば良いです。それから般若心教に宗派は余り関係ありません。仏教でも神道でも気にするような事はないです。仏教、神道、キリスト教等がどうしてできたとかを考えれば根本は同じです。それぞれの宗派に分かれて多少は、教えが違ってきてますが、根本が同じなので気にする必要はないです。

Q釈尊が法を説いた順番

私は仏教徒の家に生まれ、
仏教に興味があるのですが、
釈尊の説いた法は莫大な量であるようです。

そこでお伺いしたいです。

(1)釈尊は華厳、阿含、方等、般若、法華、涅槃の順番で
経を説いたと教えられましたが、
それは真実なのでしょうか。
論拠、反証も大歓迎。

(2)特に法華経は釈尊の最晩年に説かれた経で、
法華経以後には涅槃経しかとかれなかったと教わりましたが、
それは正しいのでしょうか。
論拠、反証も大歓迎。

(3)日蓮は念仏宗を激しく批判していると聞いたのですが、
日蓮の依経と法然の依経は、それぞれなんなのでしょうか。
また、それぞれの依経はどちらが後に説かれたものなのでしょうか。
それぞれの論拠、大歓迎。

以上、(1)~(3)で少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。

Aベストアンサー

>>鋭い知性と深い教養を感じました。
そんなにほめても何も出ませんよ(笑)

>>私の生来の信仰では、
>>念仏無間と教えられました。
どうやら日蓮系の方のようですね。私は某日蓮系新興宗教の方々に折伏なるものを何度か経験したことがあり、しっかりと日蓮教学を学ぶ必要があると感じ日蓮聖人についてもずいぶん学ばせていただきました。
学んでみると日蓮聖人自身は非常に優れた宗教家であり、私は浄土真宗を信仰していますが法然上人や親鸞聖人とはまた違ったパワフルな魅力の持ち主であるとおもっています。

>>十八願の唯除五逆誹謗正法の句に、念仏宗がどう答えるのか、
疑問に思ってもいます。

 これについては先に少し述べましたが、浄土教側の意見としては「誹謗正法」などしてはいないと考えています。法然上人の立場はあくまで「仏説は全て百点満点」という立場をとります。「大原問答」という法然上人が天台宗、真言宗、南都六宗などの方々とが問答することになったときも、「教えはお釈迦様がお説きになっている以上、どちらが優れているとか優れていないとか決めることはできませんが、自分自身の機根を時代背景や心の中を見つめなおし考慮したとき自分自身は「凡夫」であって、凡夫が誰でも救われるという立場からなら浄土教の教えが最もあっているといえるでしょう。」とお説きになって、仏説はすべてがすばらしいものであって、甲乙付けることはできないとしています。しかし、自分は末法に住む凡夫であるからにはその機根に相応した教えを選択するのがベターであるとします。ですから、問題は経典のほうに存在しているのではなく、自分自身の中にあるとします。これって「誹謗正法」になりますかね?
 また『無量寿経』「唯除五逆誹謗正法」の言葉は、まだ作られていない悪に対してそれを制止させるためのものであるとも考えます。それを「抑止門(おくしもん)」とよびます。 これに対して、『観無量寿経』下品下生には「十悪五逆を犯したものも、仏教を誹謗したものであっても、そのことを改めて心から念仏すれば極楽に往生できる」と説かれています。これは、すでに作られてしまった悪をも救いとるためのものであると考えます。それを「摂取門(せっしゅもん)」と呼びます。仏様の思いはすべての者を救いとるということには違いないが、悪いことをすれば悲しみ、善い行いをすれば喜んでくれるのであれば、仏様が悲しむようなことはしてはならない。ということになりますかね。
 今まだはBの立場です。つぎにAの立場から言えば『無量寿経』の「唯除五逆誹謗正法」の文に関しては、東大の名誉教授である山崎正一氏の説によれば、この文は比較的古い経典には欠けていて、比較的新しい経典に多く書かれているという。したがって、この部分は後世になってから経典が増広や補筆されたときに書き加えられた部分であるようです。このように、阿弥陀仏の凡夫に対する救いに「唯除五逆誹謗正法」という制限を加えたのは後代の人間であって、阿弥陀仏の救いにはもともと制限は存在していないことになります。

>>反面、理屈ではなく、生命感覚として、念仏に魅かれるものも感じます。
 私自身屁理屈な人間なもので理屈を並べましたが、あなたのおっしゃるとおりであるかもしれません。質問者にとってのお題目はそうかもしれませんが、私個人は阿弥陀佛が十八願に定めてくださったお念仏をとなえるからこそ、今を安心して一生懸命生きることができるように思います。理屈ではないんですよね。
 
>>私は自分の信仰を選び取る年齢に来たと感じています。
>>それが自分自身の知性と感情の両面で納得できるのであれば、
>>仏法でもキリスト教でもイスラム教でも構わないのです。
私もそのように思います。その、感覚は忘れないようにしていただきたいなと思います。
また連絡は、メールお教えていただければこちらからメールさせていただきます。

また長々書き連ねまして申し訳ありません。あしからず。
合掌 南無阿弥陀佛

>>鋭い知性と深い教養を感じました。
そんなにほめても何も出ませんよ(笑)

>>私の生来の信仰では、
>>念仏無間と教えられました。
どうやら日蓮系の方のようですね。私は某日蓮系新興宗教の方々に折伏なるものを何度か経験したことがあり、しっかりと日蓮教学を学ぶ必要があると感じ日蓮聖人についてもずいぶん学ばせていただきました。
学んでみると日蓮聖人自身は非常に優れた宗教家であり、私は浄土真宗を信仰していますが法然上人や親鸞聖人とはまた違ったパワフルな魅力の持ち主であるとおも...続きを読む

Q日蓮宗と創価学会の関係

先日初めて日蓮宗の葬儀に参列しました。
日蓮宗にあまり馴染みがなかったので、「教えて!goo」で日蓮宗を
検索したところ、「創価学会」とつながりがあることがわかりました。
具体的にどういう関係なのか教えてください。

あと、日蓮宗って仏教ですよね(違っていたらごめんなさい)
なぜ、仏壇の中に仏様がいらっしゃらないのでしょうか?

Aベストアンサー

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会なんですが、最初は創価教育学会といいまして、
宗教団体ではありませんでした。それが、道徳教育には宗教が必要だという考えもあって
日蓮正宗へ参加します。でもって袂を分かつんですが、日蓮正宗方の言い分は
邪流に走ったから破門なんですが、創価学会方の思いは「散々、貢がせておいて
いらなくなったらポイっかい」というものです。
なので、創価学会は寺院も坊さんもおらず、葬式も友人葬として学会員で行います。
日蓮正宗が学会を池田教といえば創価学会は正宗を日顕宗と呼んだりしています。
悪く言えば、しいたげられても尽くしてきたのに、必要がなくなったら
あっさりとフラれたときの逆恨みとでもいいましょうか、
聖教新聞なんかを見るとあからさまな攻撃記事がありますね。
共通点と言えば、双方とも何か言えば必ず反論してくるところです。

仏壇に仏像がない理由ですが
現在の仏像というのは仏教を広めるために他の宗教の神様が仏に帰依したという
考えのもとできあがったもので、本来、釈迦が説いたものには偶像という概念が
ありませんでした。日蓮大聖人もまた釈迦が説いた仏法への回帰を目指していたため
正統な日蓮系には偶像崇拝はないんですね。

仏教には大きく浄土系と法華経系があります。
簡単に説明すると(ちゃんと信心がある人には怒られそうですが)
浄土系というのは「南無阿弥陀仏」さえ唱えていれば救われるというものです。
法華経系にはさらに密教系、禅宗系、日蓮系があります。
この中でも、古参、新興ともに団体が多いのが日蓮系でなんですね。
浄土系に対抗して「妙法蓮華経」さえ唱えていれば救われるという
日蓮大聖人の教えに反しているんじゃないかと思われるものから
儒教と迎合したものまで種々雑多なんですね。

創価学会な...続きを読む

Q浄土真宗では、般若心経を唱えていけない理由

母方の宗旨が浄土真宗なのですが、般若心経は唱えてはいけないと聞いています。なぜダメなのでしょうか。

Aベストアンサー

jun95さん、今日は。

私が調べてみた所では、智慧と行に因って煩悩を断ち切ろう、と教え諭す般若心経に対して、浄土真宗の
教えは、一切の計らいを捨てて、阿弥陀如来の力に任せて、其れに因って救われる、という物だそうです。

従いまして、浄土真宗の人間が般若心経を上げる事は、却って、阿弥陀如来の
力を否定する事に為る為、浄土真宗で般若心経を上げる事は無い、との事です。

もう少し深いお話に為りますと、以下のサイトに詳しい説明が為されてい
ましたので、宜しければ、御覧下さい。2001年12月11日掲載分です。

参考URL:http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/

Q「引導を渡す」という言葉について

「引導を渡す」という言葉について、教えていただけますか。
この言葉は、(とどめを刺す)様な意味で使われることはあるのでしょうか。
例えば、
「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」
とかいう使い方をすることがあるでしょうか。
(壊れかけの車を、ごまかしごまかし使っていたのを、もう諦めて、廃車にする)
ような意味では使われるような気がするんですが、
ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか、
教えていただけますか。
なんとも分かりづらい質問で、申し訳ありません。

Aベストアンサー

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(ガーター)を語って、死者を、迷界から浄土へと導くよう試みる儀式のことになります。

これを、「引導を渡す」と言います。「迷界から浄土へ導く」とは何かと言うと、これは、死者に、「死んだ事実」を確実に認識させ、現世への執着を棄て、悟りの仏道へと進むよう説くことだとも言えます。

つまり、「お前は間違いなく死んだ」ということを、死者に宣言する儀式にもなります。民主主義的とか何とか関係なく、端的に「事実」を語り、事実を宣言する儀式だとも言えます。死の不可逆性を悟って、始めて、浄土への道も開かれるからです。

最初に、こういう「引導を渡す」という形の儀式をしたのは、中国黄檗集の祖、黄檗希運で、彼は9世紀頃の人です。

仏教用語から転じて、「最終的な宣告をして、諦めさせる」という意味があるようですが、これは「最終的な宣告をする」にウェイトがあります。引導を渡しても、相手が納得するとか、諦めるとは限らないからです。

仏教なら、「お前は死んだのだ、そのことを知り、成仏せよ」と引導を渡しても、死者が納得せず、この世への未練から、亡霊などになったり、輪廻に落ちるということは、別に珍しいことでもないからです。

他方、「止めを刺す」というのは、殺したはずの相手を、生き返る余地などないように、念を押して、首を突くとか心臓を刺して、死を確実にすることです。ここから転じて、念を入れて、終わらせるという意味になります。

「敵の攻撃に止めを刺した」というのは、単に攻撃を撃退するだけでなく、もう攻撃できないよう、念を入れて撃退・壊滅させることでしょう。またこれで、最後の最後だということで、「日本画のあの分野では、現代ではA氏がとどめを刺した」という風に使います。

>「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」

これは用法としてあると思います。「引導を渡す」というのは、かなり転用されます。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

「引導を渡す」と「とどめを刺す」では、意味が元々違います。しかし、或る場面だと、二つの言い方で、どちらでも使える場合があります。「総務にかけあって、あの車は、おれがとどめを刺してやった」というのは、同僚などに語る場合は使うと思います。

そもそも車に向かい、「お前はすでに死車だ、そのことを知り、迷わず成仏せよ」などというのはおかしい訳です。この場合の「引導を渡す」は、「もう無用の車だと宣言する」ということでしょう。車に擬人的にこう言っているのだとしても、車に同意や納得を求めている訳ではありません。

だから、もう壊れかけ、実は廃車となっているはずの車に、最後の止めを刺して、実質廃車にした、という意味で、「止めを刺した」はありえると思います。

会社か総務の方針かなどで、とっくに廃車(死者)になっている車が、迷って、この世にいるのを、お前はもう廃車だ、この車はもう廃車だ、と宣言することが、「引導を渡す」であり、またそのことは「とどめを刺す」ことにもなるからです。

(もっと偉い人が、車を廃車にしない総務の担当に、廃車にしなさいと、引導を渡す、ということはあります。しかし、担当にとどめを刺すとは言いません。担当に引導を渡し、車にとどめを刺した……というような言い方になるでしょう。無理に例を作ると)。

「引導を渡す」と「止めを刺す」は、元々の意味が違いますから、特定の場面でしか、この二つの表現は成立しません。それも、かなり口語的で、「砕けた表現」の場合に、両方使えると思えます。

だから、この場合は、あれは廃車だと思っている同僚に向かい、軽く言う場合は、「おれが引導を渡した」「おれがとどめを刺した」は使えますが、上司に向かい、「課長、私が、あのぼろ車にとどめを刺しましたよ」というのは、酒の席だとかで冗談めかして言うならともかく、ちょっと使わない方が適切です。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

ここでは、話す相手や場面によりますが、「引導を渡す」は、「止めを刺す」という意味で使えると思います。しかし、この二つの表現は、本来起源が違うので、一般的な使用の慣習などで、判断しなければならないと思います。

口語調で、少し乱暴に言う場合以外は、基本的に、違う表現・言葉だと考えた方がよいと思います。
 

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(...続きを読む

Q家は浄土宗ですが、仏壇の前で般若心経を唱えても差し支えないでしょうか?

家は浄土宗ですが、仏壇の前で般若心経を唱えても差し支えないでしょうか?

Aベストアンサー

我が家も浄土宗です。
毎朝、父がお仏壇にお経をあげています(おかげで私まで殆どのお経を覚えてしまいました)。
『香偈』→『三宝礼』…と30分くらいあげていますが、『送佛偈』の後で、「南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛、南無阿弥陀佛」と言ってから、「般若心経」が始まります。
なお、私の父は僧侶ではありません。五重相伝を受けて、既に「譽号」を頂いておりますが。
お隣が檀那寺(幼稚園も経営されており、私はその幼稚園を卒園しました)ですが、般若心経を唱えていけないとは聞いたことがありませんし、読経本の中に、般若心経も書かれています。

Qお寺で住職に注意されたのですが

4年ほど前、京都の紅葉で有名なお寺に行った時の事。
お茶を飲みながら庭の紅葉を十分に堪能して帰ろうとした時、どういう流れかは忘れましたが真言の話を同行者とすることになりました。
(おそらく住職の話に出たか、寺の掛け軸にあったか)
で、軽い気持ちで「昔、猿飛佐助のアニメがあって、主人公のサスケが『オン キリキリバサラ ウンハッタ』と唱えて色々な術を使っていたよ」
という話をしました。
また「孔雀王という漫画で『アビラ ウンケン ソワカ』なんても言ってたな」とも。

すると遠くでそれを聞いていたご住職がとんできて
「そういう言葉をみだりに発してはいけない」
という話を15分ほどされました。

そのお寺は紅葉のライトアップなどをしていて、観光地のお金儲けという様相が強かったので、そういう寺の住職が説教するとはよほど重大なあやまちを犯したのかと怖くなってしまいました。

それらの言葉はどんな意味があるのでしょうか。

Aベストアンサー

真言は、正しい時に正しく発音すれば言葉が実体化すると信じられているものです。

で、発音した言葉は正しくは無いのですが、言葉の意味を知らないものがむやみにマントラの類の音を発音するのはよくないと言いたったんじゃないか と。
間違えて発音しちゃって、それが時が合致していたら、その間違えた発音のことが現実化すると信じられているからじゃないかと。


だから、天皇は公の場で、ゆっくり文字を読み上げるんです。
天皇が発する言葉は神が発する言葉とし、「国民の幸福を」のはずが、「国民の不幸を」なんて間違えてしまったら、その通りになってしまう という感じ?



表は観光地化していても、仕事上みんなの幸せを願う呪文を毎日お仕事として唱えてはいるんじゃないかと。



日本人は映画を観て「サノ〇ビッチとか」「アス〇ール」「ファ〇クユー」とかみだりに言いますが、それをもしアメリカ人に言ったら、ただじゃすまされない事態になってしまいます。
そういった禁句を、日本人がみだりに唱えているのを見て、アメリカ人は複雑な気持ちなんじゃないかと。
知らないからみだりに言えるわけで、時があっていたら、床に叩きのめされてしまうでしょう。

これが言葉の力の恐ろしいところ。


良い呪文であっても、厳かな言葉をみだりに使うってのは、価値を認めていないってことになり、、、、
例えば古代バビロニアあたりでは、神の名をみだりに唱えてはならなかったので、エルとかエールって神を代名詞で呼んでいたんですね。
意味は「我が主」。

ユダヤ人もそれにならって、エルと表記していたのですが、大贖罪をするときは大祭司は神を呼び出すために、神の真名を唱えていたらしいです。
7年に一度後継者に神の本当の名前を教えていたのだそうです。

一般人や他の聖職者にどうして教えなかったのかというと、その言葉をみだりに使われないためと、敵に名前を知られると、神が呪術で呪われてしまうから。



日本も昔<諱>というものがあったそうです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

<これはある人物の本名はその人物の霊的な人格と強く結びついたものであり、その名を口にするとその霊的人格を支配することができると考えられたためである。>

遠山の金さんは、遠山金四郎景元が本名で、景元が諱。つまり景元が本人の本質を表した文字なので、親とか上司しか知らなかったってわけです。
敵に知られると、呪術で支配されてしまうと信じられていた。


ってことで、この文化の人たちが信じていることを部外者の人がみだりに使うって、よくないんじゃないかと。
例えば、日本人は子供をみて「かわいいなぁ」と左手でなでたりしても問題ないですが、インドでそれやったら、親は烈火のごとく起こる。
文化の違いで、あっちではとんでもないことになるわけです。

真言は、正しい時に正しく発音すれば言葉が実体化すると信じられているものです。

で、発音した言葉は正しくは無いのですが、言葉の意味を知らないものがむやみにマントラの類の音を発音するのはよくないと言いたったんじゃないか と。
間違えて発音しちゃって、それが時が合致していたら、その間違えた発音のことが現実化すると信じられているからじゃないかと。


だから、天皇は公の場で、ゆっくり文字を読み上げるんです。
天皇が発する言葉は神が発する言葉とし、「国民の幸福を」のはずが、「国民...続きを読む


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