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こんにちは。
日本の伝統神社というのものがあります。
最近は受験の神頼みや、年末のお参りだけになるなど
多少風化していますがまだまだ頼りにされているようです。
起源をさかのぼっていくと日本の神社の役割は
どうだったんですか?
自由民権運動の時期にはみんなが集合したり、
お祭りといえば神社で必ず行われたりしていたんですか?
石原氏は天皇陛下を神道と結び付けるべきだといいます。
神道と神社と天皇陛下は結びつき、それが国体となっていたのですか(?-?)
いろいろ知りたいです。よろしくお願いします。

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A 回答 (3件)

昔は人が集まる場所といえば神社の境内か寺しかなかったですからね。

田畑は命の糧だから大勢集まって荒らしたら困るしね。べつに理由があって神社や寺に集まったわけじゃない。目印にもなり便利だったから。

明治時代、それまでの徳川幕府が神道を軽んじて寺を優遇した結果、日本の神道はおよそ5つくらいしかなくなってしまった。それでも生き残るべく幕府になんとか認めてもらい勢力を保ち続けました。徳川の影響が緩んできた時期には民間の神道系宗教家や国学者も増えていきました。
薩長は尊皇を謳って倒幕の戦争を起こしました。しかし攘夷は名ばかりで、全面開国を目論んでいたのは史実でも明らかな通りです。日本人は攘夷という言葉の意味も教育されないので矛盾を感じませんが、攘夷とは外国を打ち払う事です。なのに明治では開国、これはとんでもない公約違反。要するに長州人は昔も今も公約など政権を握れば忘れてしまうお国柄なんですね。

ともあれ明治ではそれを誤魔化すために殊更に天皇中心、徳川に対抗して神道中心の国家を造りました。しかし元々神道も自分達の国政のために使っただけなので本当に神道国家にしようなどと考えてはいません。だから神道を三つに分け、伊勢神道、皇室神道と神社神道に統合してしまったわけです。さらに合祀令で神社の数を減らしました。
靖国神社は政府軍が如何に天皇制護持、神道維持のために戦ったかをアピールするためだけのものです。
石原はバカだから国家神道で天皇と神道が一体になると思っているんでしょうが、神道が別になっているので無理です。
やがて軍部が強くなると、この靖国神社を中心にした国家神道を形成します。

明治時代には教育も神道に任せようとしました。しかし江戸末期から明治時代まで神官の位こそ吉田神道が半ば独占的に行なってきましたが、神道には教義は無く各神社で勝手に教えを説いてきただけです。なので一致した教育などできるわけも無く、江戸時代の恨みを晴らすべく仏教攻撃と他の神道攻撃まで始まったために政府は教育を取り上げて教義をなくしました。そのために教義を持つ神道が国の手を離れました。出雲大社教、御嶽教、金光教、天理教などがその仲間です。やがて出雲大社教などは神社本庁とよりを戻したり統括下に入ったりしましたが、今でも別の神道も幾つも存在します。つまり神社本庁が日本を代表する神道であるというのは間違いです。

この国家神道は戦後解体されましたが、日本が神道国家であることは維持し、信教の自由から神社本庁の設立も許可されました。明治時代に日本の国教を神道に定めたことは解体されてはいません。
また信教の自由は明治政府により発令されていて、後に軍部が締め付けただけの事です。GHQが解体したのはその部分だけです。

ところが昭和25年に神社本庁は国家神道復古の運動を高めてきています。折りしも政府が米国の要求に従ってプルトニウム生産工場となるべく原子力開発を始めたのも昭和25年頃です。そのため国家神道復古を支援する代わりに原子力開発支持に神社本庁が動いたのです。そのため神社本庁は原発反対派の宮司を讒言により排除するという暴挙を行なっています。

江戸時代以前には主要な神社は一般人は入れませんでした。伊勢神宮だって江戸中-後期に至るまで神橋を渡ることは出来ません。
普通の神社では玉垣鳥居の前で拝礼するだけです。つまり今象式と言われている参拝方法など存在すらしなかったんです。あれは神社本庁が定めたんです。その手本が明治時代の作法の元になった両部神道と言うだけで、両部神道から生まれた訳ではありません。

江戸時代以前には武家や公家などが特別に許しを得て参拝しただけであり、その参拝の意味は現代の昇殿参拝です。つまり拝殿前での参拝などありません。
江戸時代になり開拓が盛んになると、開拓した地域を守ってもらうために神社を分祀してもらうようになりました。末期には富士講や伊勢講などにより神明神社や富士塚も数多く作られました。また宅配システムにより稲荷社の勧請も増え、江戸には各長屋ごとに稲荷社が祭られるという事になったわけです。
庶民の神社参りが盛んになり、村社レベルがやっとだった一般人の境内内の参拝も大きな神社にまで広がっていきました。
しかしその頃でも神仏習合の時代ですから、神社だろうが寺だろうが手を合わせるだけの参拝だったんですよ。
現代でも昇殿参拝して御覧なさい、格式ある神社なら手水は巫女が手桶に持ってきますし、拝礼だって式の最中に1回かせいぜい二回くらい。『ご一同様、ご一緒に』と言われなきゃ、ただ黙って座っているだけです。これが本当の参拝者の作法なんですよ。

神道初期の神社は神の言葉を下される場所でした。道鏡事件を歴史で習ったでしょうか。このとき問題解決のために宇佐八幡に御神託を受けに行きますね。
元々は巫女は霊媒師的なもので、神の言葉を伝えるのが役目でした。男性の神官は巫女と神に仕えるものです。だから今でも伊勢神宮では祭主(斎宮)が女性ですね。やがて男尊女卑の儒教が日本に広まり、神官が上で巫女は助手になり下がりました。
様々な方法で神の言葉を伝える。これが卜占で、占いの原点です。今のおみくじもそうですね。だからミクジは様々な方面の御神託が書かれているのです。

そして霊媒師のいなくなった神社は祭事のみを司る。一部に占い神事を残しただけで徹底的に神に仕える場となったわけでです。
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国家神道が盛んになるまでは神社や神道が今の天皇家大和朝廷系を頂点とする一つの宗教というような概念ではありませんでした。


多神教ですからそれこそイワシの頭とか鎭守様とか、山の神とか将門だとか、天神様だとかいろいろある(そちらのほうが多い)のが本来だったのです。
生活に結びついた土着の信仰というのが神道の根にある物だと私は考えます。(日本の土着宗教=神道)
分類すれば氏神様、怨霊を鎮める、自然信仰 に大別できるのではないでしょうか。(このうち氏神と怨霊は氏族の争いの歴史の中で表裏の物とも考えることができるでしょう)

また現在の天皇家につながる大和朝廷系列の神社ばかりでなく、他の豪族の系列の神社もあります。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/yuisyo.html


奈良時代から仏教も本地垂迹説を採用して日本の神道の神様を仏の姿を変えた物というような取り込みを行い、両方を混淆両立させる方便を用意しました。
実はインドでも多神教であるヒンズー教に対して似たようなこれを利用する戦略を取っているのです。
http://kousyoublog.jp/?eid=2451

キリスト教も日本ではいろいろある神様のひとつがまた来たというような受け取り方もされていて、「隠れキリシタン」はやはり神道と混淆した不思議な形で明治まで存続していたことがわかっています。
http://www.geocities.jp/noa6171/works-b2001/kaku …

統一教会という新興宗教はキリスト教の一派という建前ですが、布教にあたって多宝塔とか開運グッズとか占いとかを取り入れていました。

神道と仏教が区別されるようになったのは明治からで、それは日本が天皇を中心とした“絶対主義的な中央集権”を行うにあたって「国家神道」を導入したからです。その結果排仏毀釈という運動が行われ、街道に建てられていた野仏までも回収するようなことがあったそうです。
明治以降の中央集権と宗教の国家的な統一は西欧の宗教と国家の関係に学んだと観ることもできるでしょう。

戦争の時代には国家神道以外の神道系宗教団体は弾圧を受けました。
→大本教、人の道教団(PL)、天理教

政治=まつりごと、と言うくらいで、時の為政者が祭りごと=宗教儀式をおこなうのは古代では為政者=権力者の「仕事」と考えられていたようです。これは儒教でもそうですね。音楽や芸術や宗教が一体となって大事な仕事と考えていたようです。

宗教も人間の発明です。
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>起源をさかのぼっていくと日本の神社の役割はどうだったんですか?


起原まで遡ると話がややこしくなりますが、時代が古いほど祭政一致で重要な役割を担っていました。
古語で政治のことを「まつりごと」といいます。
旱魃や風水害、疫病の蔓延など人智の及ばない災いは神様の怒りとされておそれられました。
怨霊なども信じられていておそれられました。
天神様は今は受験の神様ですが、初めは菅原道真の怨霊を鎮めるために祀られたものです。
神様の怒りをおさめたり、あるいは人々の幸せを祈るのは、政治の重要な仕事の一つでした。

>自由民権運動の時期にはみんなが集合したり、お祭りといえば神社で必ず行われたりしていたんですか?
神社とお寺が分けられたのは明治になってからです。
江戸時代までは、お寺と神社は同じ敷地内にあるのが普通で、場合によってはお坊さんが神社の世話をしていました。
今でも、奈良の東大寺では大仏殿の近くに八幡さまのお社があります。
神社やお寺は、今の公民館や集会場のような役割を担っていて、人々が集まって相談ごとをするのに使われていました。
自由民権運動が行われていた頃には、公会堂や集会所が沢山出来ていましたから、そこでやるか、広いお屋敷を持っている個人のお宅などでやっていたでしょう。
神社やお寺は、政府にもんくをいう政治的な集会に貸し出すのは嫌がったでしょう。

>お祭りといえば神社で必ず行われたりしていたんですか?
神社で行われるイベントをお祭りと呼んでいました。
このイベントは神社の境内だけではなく、街や村中全域で行われました。
今のように、神社抜きのイベントに○○祭りと名付けるようなことはしていませんでした。
神社やお寺の境内は広いので、お芝居などはここで上演されていました。
お芝居だけでは△△祭りとは呼ばれませんでした。

>神道と神社と天皇陛下は結びつき、それが国体となっていたのですか(?-?)
「神道」という言葉はだいぶ後の時代になってから出てきた言葉です。
今は仏教やキリスト教などと区別して話をするときに使われます。
逆に、キリスト教やイスラム教を神道とは言いません。

古事記などの古い歴史書では、天皇陛下のご先祖は神様だったとされています。
言い方を変えると、神様の中の一人が天皇陛下のご先祖になられたとされています。
このご先祖様とされている神様をお祀りしてあるのが、伊勢神宮です。

これは書物の中でだけのことで、実際には、天皇は長い間人間として扱われていました。
江戸時代も平安時代も、誰も、天皇は神様だ、などとは思っていませんでした。
明治時代でも大正時代でも、天皇は国を統治するための一つの機関(仕組み)だとされていました
昭和に入って中国大陸での戦争が長引き軍部が苦しくなってきました。
この時に、軍部が無理やり天皇を現人神(あらひとがみ)として敬えと言いだしました。
天皇を神様扱いしたのは、この昭和の初めから第二次世界大戦が終わるまでのほんの十数年の間だけの話です。

ごく普通に国体と言えば国民体育大会の略ですが。石原氏が言っている「国体」は極めて曖昧模糊とした概念です。
江戸時代には、「くに」という言葉は藩を意味してしていました。
あるいは、古くから伝わる地方の名称である、武蔵とか薩摩、摂津などを「くに」と言っていました。
今でもお年寄りの中には、出身地を聞くときに「おくには何方ですか」と聞かれる方がおられます。
お前は、アメリカ人かロシア人かと聞いている訳ではありません。

天皇陛下や神社と「国体」なるものを結び付けて考えるのは、昭和初期のわずか数十年の間の考え方の遺物です。
年寄りには困ったものです。
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