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1975年(昭和50年)の読売巨人軍について質問です。


戦後の長いプロ野球史を見れば常に優秀な成績を残している読売巨人軍、中には1960年代~70年代にかけては9年連続でセリーグ優勝を果たす等、長く日本のプロ野球界のエース的存在です。

負け越した年度も数えるほどしかありません。


しかし1975年(昭和50年)だけ、あの読売巨人軍が唯一、何と!最下位でシーズンを終えているではありませんか!


成績は47勝76敗7分


優勝した広島には27ゲーム差、5位の大洋にさえ5.5ゲーム差、全球団に負け越し、と文句無しの最下位に終わっています。


前年は2位、翌年は優勝しています。


1975年当時の巨人軍監督はあのミスターこと名将長嶋茂雄です。


にも関わらず1975年は唯一文句無しの最下位に終わっています。


1975年の巨人軍に、あの巨人軍に一体何が起きたのでしょうか?


巨人軍の1975年の敗因は一体何だったのでしょうか?


当時のプロ野球をご存知の方は是非とも教えて下さい。

A 回答 (6件)

最大の要因は、川上の勇退と同時にヘッドコーチ格の牧野茂が退団したことです。


牧野が残っていれば、新米監督の長嶋だとしてもそこそこの成績は残せたと思いますが、長嶋は監督やコーチのの修行もないまま、名参謀を喪ってしまったのです。

後は、王の不調、長嶋のいない巨人打線を率いなければならなかったこと、巨人の力が落ちてきていたこと(1973年は最終戦で阪神に勝ってやっと逆転優勝、1974年は中日が優勝)などもあります。

追加として、鳴り物入りで獲得したジョン損が初年度は大ハズレだったこと
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
牧野茂は選手に大きな影響があるコーチだったんですね。

お礼日時:2013/11/13 17:03

 皆さんは長島の引退を要因に挙げられている様ですが、長島と同時に引退したV9戦士達が他にもいました。

正捕手の森とショートの黒江です。
 センターラインの要でもある正捕手を欠き、打線でもオープン戦の最終段階で王選手が肉離れで離脱し、4番不在の形でレギュラーシーズンに突入する形でした。内野の要と四番打者が不在ではどうしようもありません。もっとひどい事例は阪神の4番打者田淵に対し、田淵シフトなる珍奇な発想の守備体形を強いたことで、平凡なライトフライを何とスリーベースにしてしまったとの屈辱的な逸話も残っています。「タブ・ラン」が実際に起こらないだけ良かったのかもしれませんが。
 けれども長嶋監督がこの75年に残した最大の財産は先発投手としての新浦を左のエースとして一本立ちさせてことです。ノーコンで出れば打たれましたが、ストレートの速さに長島は注目したのでしょう。他には先発候補の投手がいなかったこともあります。
 そして翌76年。この博奕は吉と出ました。サードを守っていたデーブ・ジョンソンを本職のセカンドに移し、サードにはレフトだった高田をコンバートするなどの前代未聞の方法で内野陣を一新し、外野には問題児だった張本をトレードで獲得し、投手陣整備としてクライド・ライト、加藤初、浅野などを獲得する形で補強し前年の最下位からのリベンジを果たす形でした。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
長嶋の引退と同時期に主力が何人も抜けていたんですね。
それでも1975年の薄い選手層から新浦投手が頭角を表し、守備陣も一新出来たのが後々良い結果を生んだシーズンでもあったのですね。

お礼日時:2013/11/13 17:10

【投手陣】


・川上時代は投手が育たなかった。(例.高橋一三、倉田など)
 しかもエース堀内も下り坂で、投壊という言葉がぴったりだった。
・まだ若い新浦が打たれても頑固に使い続けた。
・当時流行の対角線投法にはまっていたために、簡単に狙い撃ちされた。
 (翌年の杉下ピッチングコーチが対角線投法をやめさせた)
・純然たる正捕手がいなかったためリードがお粗末。吉田、矢沢ともにダメ。


【打撃陣】
・どなたかもおっしゃるとおり、王の極度の不振。
・柴田、高田、土井、末次など主力が高齢で下り坂だった
・淡口、柳田などの打者を育てそこなった。これは左投手が出てきたらすぐおろしていたからだ。

ともに純潔路線に偏りすぎた。
翌年、張本などを獲得し、路線転換が成功したように思います。

監督として無能だったとは思いません。
ただ、世代交代がうまくいかなかったと思います。
翌年はリーグ優勝しましたが、阪急の上田監督がスパイを使って巨人を倒しました。
あの時は頭にきましたねw


なお、長嶋監督は現役時代末期はコーチ兼任でした。
どの程度コーチとしてやったかはわかりませんが
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
森捕手の抜けた穴も大きかったのですか。
戦術にも悪い癖があってそこを見事に突かれて連敗街道を歩んでいた訳ですね。

長嶋が現役末期の頃にコーチ兼任をやっていたのは意外ですね。

お礼日時:2013/11/13 17:07

 前年2位の時に長嶋が引退し、V10を逸した川上監督も引退しました。


巨人軍は衰えたとはいえ、15本塁打、55打点の長嶋と、名監督を失ったわけです。
もちろんV9選手たちも全員往年の力は無くなったわけですね。

 で、1975年には長嶋が監督をし、長年助っ人を大リーグに求めず「国産」で戦ってきた巨人も、長島の穴を何とか埋めようとバリバリの現役大リーガーデーブ・ジョンソンを獲得しました。

 が、彼は当時ジョン損と揶揄されるくらい、全く打てず、前年度の長嶋の成績を上回ることができませんでした。

 私はやはり、監督としての長嶋の実力がなかったことと、V9戦士たちの力が衰えたからだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
1975年の長嶋監督は監督として最初のシーズンでまだあの名将長嶋とまではいかなかったのですね。
長嶋の穴を埋める筈の外国人選手の不振、V9選手の衰えも巨人軍にとって痛かった訳ですね。

お礼日時:2013/11/10 23:18

>1975年当時の巨人軍監督はあのミスターこと名将長嶋茂雄です。



前年引退したばかりでコーチ経験のないまま、監督就任です
最初から名将だったわけではありません。


>巨人軍の1975年の敗因は一体何だったのでしょうか?

ONの二枚看板で他球団を圧倒していましたが

長嶋の引退で、警戒すべきは王選手のみとなったため
他球団のマークが集中したこと、キャンプで怪我をしたため
例年に比べ打撃の調子が上がらなかったこともあり
相手が前年よりは余裕を持って対処できたこと。

V9時代の主力選手の高齢化のためチームの若返りを図りましたが
力の差はいかんともしがたく、他球団の後塵を拝する事になりました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そう言えば長嶋監督は前の年に現役を引退しましたね。忘れてました。

引退した次の年にいきなり監督に上がった訳で名将と言える指導者とまではいかなかったのですね。

長嶋が抜けた穴を上手く埋められなかった、王が他球団から徹底マークされ、更に王は怪我とスランプに陥っていた事、V9選手の衰え、若手選手の未熟さと悪い条件が重なったのが最下位に終わった原因だったのですね。

巨人軍も長嶋監督もよく僅か1年でそれを克服してチームを立て直して翌年優勝出来ましたね。

最初から名将ではなかったとは言いますがそれでもやはり長嶋監督は経緯を辿れば選手としても指導者としても名将に相応しい方ですね。

お礼日時:2013/11/10 23:15

王選手の極度のスランプが一因になっています。

本塁打王の座を守り抜いていましたが、その年だけ田淵(阪神)に奪われています。確か脚の怪我だったように記憶しています。巨人の負けで広島の優勝が決まったような…。

翌年は戦力も調い、張本選手の加入でONに代わる、OHコンビができました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
あの王貞治選手が1975年当時怪我でスランプに陥っていたのも巨人の不調原因だったのですね。

長嶋監督もよく次の年に上手くチームを立て直して優勝出来ましたね。

大したもんです。

お礼日時:2013/11/10 23:06

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