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キリスト教に対する素朴な疑問です。

福音派は別ですが、
キリスト教では、
なぜ、
 イエスの言葉が記されている『福音書』と、
 パウロの書簡が、
同等の権威を有している、とされるのでしょうか?

───新約聖書の文書は、どれも等しく、同じように、権威あるものとされている───


キリスト教徒でもキリスト者でもない私には、
これがどうしても理解できません。

なぜ、なのでしょう?

教えてください。
よろしくお願いします(ペコリ)。

伝統的教義の観点からではなく、
「わたしはカクカク・シカジカと考えます」
という、ご自由な回答も大歓迎です。

よろしくお願いします(ペコリ)。

A 回答 (6件)

この質問はとても良い質問なので何とか力を振り絞って答えてみましょう。


ただわかってもらうのは大変難しいです。

ちなみに私はクリスチャンであり、キリスト教を信じる前に、史実的な面でキリスト教を徹底的に調べた
経験のあるものです。そして、大学では理工学を専攻し、現在企業で研究開発の職にあるものです。

まず、キリスト教の本質は「どのような道徳規範に基づいて行動せよ」という通常の宗教とは異なります。キリスト教のもっとも大きな本質は「イエスキリストとは何者であるか?」ということなのです。
誤解を恐れずに言えば、
「イエスキリストは受肉した神であった」ということを信じられるかどうかがクリスチャンとその他の人を分けているのです。どんなに道徳的な人生を歩んでも、このことを信じていない人はクリスチャンでは有りません。

イエスの言葉は人が道徳規範を語ったものではないのです。神が地上に降りてきて、人間に「悔い改めなさい。私があなたたちの罪を引き受ける。私に倣うものとなりなさい。私こそは神の子であり、救いは私を通してしか得られないのです。」と語っているものなのです。

新約聖書を注意深く読んでみてください。驚くべきことにイエスは自分のことをはっきりと「神」と語っている箇所が何か所もあります。
イエスが語る道徳観というのは人間の良心に照らして特別ではありません。それは確かに恐るべきスタンダ
ードの高さですが、すべては「私は神である。だから一切の罪を犯さない。あなたたちも私に倣うものとなりなさい」というメッセージが込められているものなのです。
そして、イエスは、その道徳観以上に、大切なことを口にしています。それは自分こそが旧約聖書に預言されたメシアであり、また神の子であるということです。

誤解するといけないので言っておきますが、当時のコンテクストでは「神の子=神」です。神から生まれしものは神であり、当時自分を神の子ということは自分を神ということと同じで大きな罪でした。

ここで大きな問題が生じます。イエス自身も旧約聖書はすべて正しいと言明しているし、その中には神は一人しかいないということが繰り返し書かれています。それなのに自分は神だといったのです。

イエスの死後残された弟子たちはそのことに疑いは持ちませんでしたが、イエスと天の神の関係、また、イエスが地上に来た理由、またその死の意味を深く考えるようになりました。
そして、イエスの教えとも矛盾せず、その死の理由を旧約聖書の預言や記述と矛盾なく説明できる教義を、初期のキリスト教会のリーダーたちの中にはぐくんでいったのです。その中には当然イエスの弟子たちが中心でしたが、中にはパウロのように恐ろしくユダヤ教、旧約聖書に精通したスペシャリストも入っていたのです。ですから、パウロ書簡は新約聖書でボリュームが大きいですが、それはパウロ一人の意見ではありません。むしろ、パウロは自らが受けた啓示とイエスの死の意味を一人では自信が持てなくて、ペテロをわざわざ訪ね、確認しに行っているのです。その中でイエスの弟子たちとペテロはお互いの考えの正しさを再確認し、一般の人にわかりやすい形で教義として布教していくことになるのです。

長くなりましたが答えを言います。キリスト教で大切なのは、「イエスが何者であり、なぜこの世に来たか」であり、イエスの言行録だけだとそれをわかりやすい形で一般のひとにわからせるのが難しいのです。クリスチャンは、それをわかりやすい形で説明したパウロやペテロ、ヨハネの書簡集を聖典として認め、またそれをイエスの死後神の啓示によって書かれたものと信じているのです。また、イエスは存命中に自分の死後、神の啓示(聖霊)が使徒たちに下ることを予告していたので、そこからも使徒の権威が認められているのです。パウロは弟子ではありませんが、「使徒」として初代教会に認められていました。

こんな感じです。わかってもらえたでしょうか?

また、実はイエスは存在しなかったなどというバカな説はお話になりませんよ。
参考URLを示しておきます。私も最初はキリスト教というのは神話か作り話だと思っていましたが
調べれば調べるほど史実に基づくはっきりとした証拠が見つかってくるのです。
今ではれっきとしたクリスチャンです。

参考URL:http://oshiete.goo.ne.jp/qa/1868987.html
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆キリスト教のもっとも大きな本質は「イエスキリストとは何者であるか?」ということなのです。
キリスト教で大切なのは、「イエスが何者であり、なぜこの世に来たか」であり、イエスの言行録だけだとそれをわかりやすい形で一般のひとにわからせるのが難しいのです。
◇なるほど、なるほど。
だから、
パウロの書簡集は、極めて重要であると。
パウロの手紙は、
「イエス・キリストとは何者であるか?」
という問いお答えを、
キリスト教徒、キリスト者がみずから追い求める上で、
極めて重要である。
その手がかりを与えるものである。

この重要さ、大事さといったものは、
福音書とパウロの書簡集では、
本質的に異なるものである。
質や種と言ったものがことなるものであり、
同列に単純に比較することはできないし、
比較は無意味である。
「福音書とパウロの手紙集が等しく権威あるもの」というコトバは、
このことを言い換えているのである・・・。

ご回答をこのように理解してヨロシイでしょうか?


hhitujiさんは、理系出身者なのですね。
わたしと同じ匂いのするヒトなのかも、とニコニコしております。

遅れましたが、
わかりやすく、丁寧なご回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/16 15:11

政治上

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この回答へのお礼

端的で鋭い回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/18 14:30

 No.3です。



 1. パウロが《文字はころし 霊は生かす》(コリント後書3:6)と言ったときそれは 《文字》をモーセの律法の規範性に当てて言ったと思いますが 一般に文字ないし言葉ないしその概念が 聖化され神と見なされることを注意事項としてふくむものと考えます。

 2. つまりは イエスの直接の言葉であったとしても それは《第一次資料》であることに間違いないでしょうが 《神としての権威》にまで吊り上げるなら 《文字》としての・観念としての神になってしまうと捉えます。
 つまりそうなのではなく 言葉による表現は すべて 神という答えをみちびく補助線であると。

 3. イエスの場合は 少し強めに言うとすれば かたちにおいては ユダヤイズムの中から発言しているのでしょうし あるいは旧約聖書にもとづいてやはり発言していると思われます。

 4. カナンの女が 娘を助けてくださいとイエスにたのんだとき
 ▼ (マタイ福音 15:21-28:カナンの女の信仰) ~~~~~~
 24: イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ とあります。ただし このときにも その女の信仰がりっぱだと言って 願いに応じているのですが 一般に発言の基調は 旧約聖書の枠を守るようにして・しかも突拍子もなくあたらしく自身が神の独り子だとまで明らかにする恰好だと思われます。

 5. たぶんその枠組みを――すでに実質的にはイエスによって開かれていたかのごとくに―― パウロは開いた。
 〔イエスはあたらしく《愛》を言ったというとき 《わたしの欲するのは あわれみであって いけにえではない》というかたちでなら すでに旧約聖書でも言われている〕。

 6. イエスが十字架にかかったのは 過ぎ越し祭のときです。神の怒り――それによれば誰もの長子が死んでしまうという――が及ばないように いけにえの羊の血をユダヤ人の家に塗っておいた。怒りが過ぎ越して行ってくれるようにと。
 こういうコトに喩えられるような意味も いけにえとしてのイエスには あると考えられます。(ともかく 物語としては そのように成っています)。

 7. この過ぎ越し祭が のちに復活祭と呼ばれるようになっているのは パウロがイエスの神の差し示しをユダヤの外にも開いたということと並行しているかと考えられます。

 8. けれども イエスが出たのでなければ パウロが何を言ったとしても いささかの問題にもなりません。そういうかたちで イエスとパウロとは その言動において 一体です。

 9. つまりこの見方によれば 資料が第一次か第二次かは 問題にはならないと考えます。言いかえると パウロが出なければ 別のパウロが現われたことでしょう。

 10. ですから
 ◇ パウロの手紙という太陽を中心にして、福音書のイエスの言葉という惑星が回っているように、 / わたしには思えてなりません。
 ☆ とは成らない。イエスが ことのすべてですから 成り得ません。

 11. 洗礼者ヨハネは 道をまっすぐにせよと語って イエスに先駆けた。このことの意義は けっこう大きいと見られます。わたし(ヨハネ)は その人(イエス)に仕えるのだとまで言って よい言い回しではないですが露払いとなった。
 それとあたかも同じように ただし事後において 歴史におけるイエスの登場の意味をパウロは 思う存分に語った。
 ▼ (パウロ:ピりピ書 1:21) わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。

 
 12. ◇ ~~~~~~~~~~~
 bragelonneさんの信仰の核心部分は、
 福音書によるものというよりも、
 やっぱ、
 パウロでしょう?
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは 思考としての理解にかんしてのことです。信仰の説明としては パウロないしアウグスティヌスに大いに拠っています。

 13. 共観福音書を読んでも イエスの言ったことについて ピンと来なかった。
 ヨハネの福音を読んで ああ どうもそこには何かあるなと感じた。
 それは パウロの書簡をひもとくまでは 内容もあいまいであった。
 とは言うものの そのパウロを読んで何がしかが分かるようになったというのは アウグスティヌスを読んだからです。
 そして そのような理解の問題とは別に――その勉強の過程で起きたのですが やはり基本的には別箇に―― 信仰のおとづれがあった。
 ――こういう実際を経験して来ています。


 14. ■ パウロは直接イエスに会っていない
 ☆ むろんそうですが ダマスコへの道で 光に遭ったとき 《サウロよ サウロ なぜわたしを迫害するのか》という声を聞いたと言います。それは イエス言行録といった意味での福音書から《権威》を受け継ぐなどということとは まったく別なわけです。《文字はころし 霊は生かす》だと思います。

 15. ですから 《権威》という概念で見ようとすることからして なじまない。と言うべきですかね。
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この回答へのお礼

こんばんは。
回答、ありがとうございます。


bragelonneさんのお考えは、理解できました。

クリスチャンの方のご意見がありましたら、
是非、聞きたいものです。

お礼日時:2013/11/14 16:15

 こんにちは。




 まづ《理解できない》その理由を明らかにされるとよいと思うのですが?



 基本的に言って 福音書とパウロ書簡とは むしろ一体として キリスト・イエスの指し示した神――したがって おのおのにおける信仰――を説明していると思われます。

 強いて言えば イエスの語ったとして引かれている言葉を――イエス自身も説明していますが さらに――説明するかたちで パウロの文章は書かれていると捉えています。

 こまかいところで 疑問が出て来るのかと考えますが――たとえばパウロの書簡には パウロ自身の書いたものではないとうたがわれているものがあります―― どのような点で理解ができないかを明らかにされるとよいと思います。



 異端としてしりぞけられた数々の福音書についても 中身で勝負としてわたしは判断しています。
 パウロ偽書についても 同じくです。
 ユダの福音書でも とりわけ大切なことが書かれているのに 《権威を持たせられていないとは――主観的な判断ですが――見ません。





 キリスト・イエスは 神の真理とめぐみとを指し示したと書かれています(ヨハネ福音冒頭)が そのことについてさらに明らかにしているのが パウロ書簡であると考えます。ですから 聖書は どれもこれも一体であると受け取ります。

 もっとも 世の中のすべての文章も出来事も 神からの手紙であるという見方もあるようには思います。反面教師をもふくめてということでしょうか。

 ということは 経験合理性にもとづく推論としての《解釈》という意味での預言が大事であると見られます。《権威ある》かどうかは そういった判断に拠ると――ナゾを扱うからには言い切れないのですが それでもその解釈としての議論を互いにどこまでも続けて行くということを前提として――捉えればよいと思います。

この回答への補足

補足します。

《パウロ教》は、さすがに、言い過ぎのようです。
なので、
《パウロ宗》ですかね。

福音書とパウロの書簡の関係は、
○華経と△蓮さんのお手紙の関係になぞらえることができるのかもしれないので。

わたしの目には、
△蓮宗系においては、
『○華経』よりも、△蓮さんのお手紙の方が、
パワーを有していて、
尊重されているように映ってしまいます(ポリポリ)。

キリスト教も、
 これと同じなのでは?
という疑いです。

補足日時:2013/11/13 15:53
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この回答へのお礼

こんにちは。


☆ まづ《理解できない》その理由を明らかにされるとよいと思うのですが?
◇もし、本当に、福音書にイエスの言葉が記されているのならば、
 イエスの言葉が最も権威があり、そして、重視されるべきものではないか?
という、至って素朴な理由です。

テキスト、資料として考えれば、
 福音書は、イエスの、イエスのオシエの第一次資料、
対して、
 パウロ書簡集は、第二次資料
であり、
資料としての価値、取扱い方も自ずと異なってきます。

もっとも、
第一次資料には、嘘でたらめが書かれており、
第二次資料に書かれていることの方が、歴史的真実に近いということはありますが・・・。

NO1さんが、
 ★イエス自身のことばが語られている。そのことばは権威あるもののようだったーーなどとも書かれている。一方、パウロは直接イエスに会っていない。ましてや、イエスの言行を知らない。
と記すとおり、
おそらく、
パウロは十字架以前のイエスについてあまり知らない・・・。
このことは、史的イエスの実在性を否定する根拠の一つとして挙げられているようです。
───イエス伝説はあった。この伝説の元になった人物はいたかもしれないけれど、福音書に記されるようなイエスという人物は、実際はいなかった。だから、イエスの言行を具体的に記すことができなかった・・・───

このことを、とやかく言うつもりはないのですが・・・。


さらに、
キリスト教と呼ばれるものは、
実は、
 パウロ教ではないの?
という疑いが、
わたしの中にあります。

キリスト教の教義とされるものの多くは、
福音書というよりも、
パウロの書簡に基づいています。
(特に、『ローマ人への手紙』)
パウロの手紙という太陽を中心にして、福音書のイエスの言葉という惑星が回っているように、
わたしには思えてなりません。
もっと意地悪く言うならば、
「パウロの言葉の方が、
福音書で記されているイエスの言葉よりも、
実は、
権威があるのではなかろうか?
であるならば、
主客が顛倒しているのでは?」
という、いたって素朴な疑問です。

難しいことは、何も考えていません。

bragelonneさんの信仰の核心部分は、
福音書によるものというよりも、
やっぱ、
パウロでしょう?


回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/13 15:37

宗派によって違います。


仏教でも、ブッダを至高とする派もあれば、
大日如来や観音様を崇める派もある。
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この回答へのお礼

これは、ご本尊さまのちがいであると・・・。

回答、ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/13 14:59

新約聖書の文書は、どれも等しく、同じように、権威あるものとされている───キリスト教徒でもキリスト者でもない私には、これがどうしても理解できません。

なぜ、なのでしょう?

イエスの言葉が権威があるという立場で考えるとーー
★イエス自身のことばが語られている。そのことばは権威あるもののようだったーーなどとも書かれている。一方、パウロは直接イエスに会っていない。ましてや、イエスの言行を知らない。
★パウロの書いたものは手紙ばかりだ。それに比べ、しっかりと福音書という形で本になっているものに権威があるのは当然だ。
★福音書と使徒言行録は実践編(理論も含む)。しかもそれはイエスの実践。それに対してパウロのものを含め書簡は理論編。理屈よりも、実践が大事。しかも、イエスのもともとのことばは福音書にあり、そこにも理論は当然ある。こう考えると、やはり福音書と使徒言行録には権威があって当然。

パウロの書簡が権威あるという立場で考えるとーー
★そもそも、旧約聖書もろくに学んでいない弟子達とくらべ、パウロらの理論は旧約聖書を踏まえ、キリスト教の根幹を解き明かしている。かろうじてペテロの書簡もあるが、やはり権威はパウロ書簡にある。
★福音書には体系的なものはない。伝記風にまとめた書物。それに対し、パウロ書簡は、論理的にもしっかり書いてあり、こちらに権威があって当然。
★福音書は4冊あると言っても、マタイ・マルコ・ルカは内容が似かよっており、実際は2冊あるようなものである。それに比べ、パウロの書簡の数は十幾つかある。新約聖書で一番の執筆者は、マタイでもマルコでもルカでもない。パウロなのである。パウロ書簡に権威があって当然である。

ちょっとこじつけ気味のところもありますが、どちらの権威が上かなど、これでは言えませんね。どっちにも分があるーーということで、下手にどちらに権威があるなどと言えないから、同じ権威としているのでしょう。
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この回答へのお礼

わかりやすく、丁寧なご回答、
ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/13 14:57

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