柔軟に働き方を選ぶ時代に必要なこと >>

出女について質問があります。

大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか?
理由がよくわかりません。

人質生活とはいえ、将軍と契りを結んだ大名の家族なら、それなりの待遇を受けていたんじゃないんですか?それとも、奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか?

例え逃亡が成功しても、後にバレますし、それが武家諸法度違反だったら、信用を失った旦那や一族の没落すら容易にイメージできます。ただ会いたい、で決行できるほど気軽な行為ではないと思います。(というか、参勤交代で一年間我慢すれば、また会えますよね?)無事国に帰れてもまた強制送還されそうですし。。としたら、帰りたい、でしょうか。彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか?

歴史は全く詳しくないので、穴ぼこだらけの理論だったらすみません。よろしくお願いします。

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A 回答 (5件)

momokakikinkan さん、こんにちわ。




前述したように江戸時代の初期の頃は大名の家族は江戸ではなく、領地に住んでいました。だから、しっかりとした幕藩体制を確立するために参勤交代と人質としての家族の江戸での居住を推し進めたのです。それまではいつどの大名が反乱を起こすかもしれないので、関所での確認項目としてのそういう言葉が残っているのでしょう。もちろん、大名と領地との隔離を行うことによって、反乱をたくらまないようにするためという理由も成り立ちます。
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この回答へのお礼

江戸時代260年を一括りで考えちゃいけませんね。そういうことでしたか。どうもありがとうございました。

お礼日時:2013/12/01 12:17

momokakikinkan さん、こんばんわ。



大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか?
理由がよくわかりません。
人質生活とはいえ、将軍と契りを結んだ大名の家族なら、それなりの待遇を受けていたんじゃないんですか?それとも、奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか?


不安定だった江戸初期を除いて大名家の家族は江戸に住んでいました。江戸時代も天下泰平な安定期になると、大名の正室と家族は江戸の藩邸(上屋敷)に住みます。だから、自分たちの屋敷の中で生活しているので、必ずしもストレスがたまることはないと思います。また、田舎である所領に比べ、江戸の方が興味深いことが多く、そのため、所領に行くことを嫌がった大名もいたほどです。
大名家の姫君がほかの大名に嫁ぐと、その藩の上屋敷に住みます。つまり、大名の家族は側室の子供でない限り、江戸に住んでいるのです。だから、世子である嫡子以外所領などは行ったこともないという人が多いのです。
幕末になると、規制が多いにゆるんでしまいましたが、幕府の大名統制の方法として効果がありました。


彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか?

明治維新以降になると思います。しかし、前述のごとく、所領に行ったこともないので、田舎暮らしをするようだと嫌っていたらしいです。

この回答への補足

つまり、出女なんてまず現れないのに、言葉で"入鉄砲と出女に気を付けろ"的な言い方が今まで残って、教科書にも載っちゃってる感じなのでしょうか?

補足日時:2013/11/30 10:48
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/30 10:45

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E4%B9%85% …

文久の改革

1862年
参勤交代の緩和 - それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留期間も100日とした。また人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなった。これは幕府制度確立以来の根本制度の変革であり、幕府権力の低下も意味し、国内外に大いに反響を呼んだ[3]。

1863 家茂上洛
1864 家茂再上洛(このあと、将軍は江戸にいなくなる)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9% …

「元治元年(1864年)7月14日、禁門の変に際し、三条実美らをともない、兵を率い京都に向かう。7月21日、禁門の変の敗北を知り、山口に引き返す。」
※ つまり、文久の改革以前であれば、江戸で人質であったはずの、嗣子も藩主といっしょに「山口」にいたということになります。

※ 妻子を江戸に人質にしておくことは、「効力」があったと推測されます。

1864 長州征討

1868 鳥羽伏見の戦い
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/30 10:39

江戸三百年の歴史がひとまとめというか団子になっておられるようです。


>大名の人質となった妻子はどうして江戸から逃げたかったのですか?
江戸時代に入ってから大名同志が人質をとったことはありません。
あくまでも、徳川家=幕府対諸大名です。
家康が関ヶ原で勝った直後に人質として受け入れた妻女はあります。
戦国時代の名残です。
有名なのが前田利家の妻であったまつの行動が有名です。
これも、まつ自らが江戸へ乗り込んで、前田家への政治的攻略を阻止したものです。

1596年 伊予宇和島藩主藤堂高虎が弟正高を江戸に住まわせ、秀忠に近侍させた(江戸証人の初め)
1600年 前田まつが江戸へ移住する。
1604年 肥後人吉藩主相良長毎が老母を証人として江戸に住まわせた。(西国大名の江戸証人の初め)
1607年 幕府が諸大名に江戸証人を置くことを命じる。
(大阪にはまだ淀君、秀頼が健在で、これに対する牽制です)
1624年 島津家久が妻子を江戸に住まわせる。
この後、諸大名が妻子を江戸に住まわせるようになる。

以上の経緯のように、奥方様が江戸住まいとなったのと、人質としての江戸証人とは若干異なります。
この頃に奥方様が国へ帰りたいと言っても、旦那さんである殿様が許さなかったでしょう。

江戸証人=謀反の意志がないことを示すための証人

以降の時代には、奥方様になるような女性は江戸生まれ江戸育ちの人が多くなりました。
見たこともない、遠い地方の領国などなんの魅力もなかったでしょう。
1868年 江戸城明け渡しと同時に大名が領国へ帰ることとなりパニックになったのは奥方様たちでした。
1869年 華族制度が定められて、旧大名は東京に在住することを命じられたときに最も喜んだのが奥方様たちでした。

>奥の院みたいなところにぎゅうぎゅう詰め飼い殺しでストレス溜まりまくりですか?
寺社詣で、などと称して頻繁に屋敷外へ遊びに行きました。
歌舞音曲を楽しむためには、その心得のあるお女中を雇って楽しんでいました。
お殿様や御家老に頼めば、専門の人達を屋敷に呼び入れることも出来ました。
大名家の奥方様やお姫様同士の交流もありました。
江戸城の大奥のように閉じ込められていた訳ではありません。
そもそも、生まれたときからそういうものだと教育されれば、別に不自由も不満も感じません。

>彼女達は目の黒いうちに故郷に帰ることは許されないのでしょうか?
皆さん江戸生まれ江戸育ちです。
帰る故郷は江戸市内の実家です。
冠婚葬祭、節句など必要な行事があれば戻れました。
稀にお殿様の領国からお嫁入りする人もいました。
こういう人の場合には帰ってみたいと思われた人もいたでしょう。

時代小説ななどで、入り鉄砲に出女と言われているのは、
幕府に対して謀反を企てる大名が事前に奥方様を国へ返すことを阻止する為だった、言われていますが、そんな無駄なことを考える大名はいませんでした。
江戸時代は、何でも前例主義でしたから、家康時代の考え方が、何の反省もなく形式上受け継がれていただけです。
これでは、小説になりませんから、作者が面白可笑しく尾ひれを付けて創作しただけの話です。
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この回答へのお礼

詳しいご回答ありがとうございました。まず、奥さんの地元=旦那(大名)の領地と思って質問しましたが、大名によっては国替えもありますし、よく考えればおかしい話でした。江戸生まれ江戸育ちで外出OKなら、それなりに暮らしていけそうですね。

お礼日時:2013/11/14 18:52

想定ではなく、実績から政策は採用されます。



関ヶ原の戦いの段階で

「石田はまず会津征伐に従軍していた諸大名の妻子を人質に取る作戦を発動した。しかし、加藤清正や黒田如水の妻子が逃亡、さらに細川忠興の正室である細川ガラシャが、人質に取られることを拒否し、細川邸に火を掛け自害[25]するなど失敗に終わった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6% …
ここより引用

逃げたかったというよりは、反乱に至る危険性を下げるための政策として「妻子の人質」政策が取られた。

生々しい政治の世界で「○○かもしれないしぃ」というのは考慮されない。
実際に、人質にしようとしたら逃げられて、反対勢力になった。という関ヶ原の戦いの経験値はでかい。
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この回答へのお礼

そうだったんですね。ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2013/11/14 18:41

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ウィキペディアには『大名の家族の女性が江戸より出て行かないように』と書かれてありましたが(人質?)、大名家族以外の女性も取り締まり対象だったのでは…?

そもそも、女性が出るとどのような不都合があって、取り締まるようになったのでしょうか?

初歩的な質問でスミマセン。

Aベストアンサー

取扱いについては回答者No2さんがご説明になれておられる通りです。

>女性が出るとどのような不都合があって、取り締まるようになったのでしょうか?
取り締まるようになったのは、若干歴史的経緯があります。
戦国時代に、忠誠を誓う、あるいは誓わせるために、証人という、所謂人質を出させました。
当時は情勢が流動的ですから、いつ何時同盟関係が崩れかねません。
同盟関係が崩れれば邪魔だと言ってバッサリやられかねないものでした。
この為に、二三男や兄弟、父親などがその任に就きました。
情というよりも、お前は親を見捨てるのか、子を見捨てる気かという論法です。

徳川家への証人として1596年に藤堂高虎が弟を江戸へ住まわせたのが、江戸証人の初めとされています。
女性としては、関ヶ原の戦いの直前に、自ら江戸へ乗り込んで前田家と家康の間を取り持ち、更に戦後、前田家取り潰しを防ぐために奔走したまつという女性がいました。
江戸時代に入ってからは相良長毎が老母を証人として江戸に住まわせたのが初めとされています。
1607年大阪にいた秀吉の息子を牽制するために、諸大名に証人の提出をもとめました。

大阪の陣も終わり幕府の体制も整い始めたころ、
1624年に島津家久が妻子を江戸へ移住させたのが、妻子を江戸住まいさせた初めとされています。
それ以降各大名も妻子を江戸に住まわせるようになりました。
このように妻女は人質というよりも、私は江戸で家族ともども一生懸命に働きますという意思表示の意味を持っていました。

何事も前例第一主義の江戸時代ですから、以降明治維新まで大名の正妻は江戸で暮らすという習慣が出来上がりました。
このような経緯から、正妻や娘が敢えて国元へ戻るというのは、お前は良からぬことを企んでいるのではないのかという嫌疑を受けてしまいます。
逆に幕府としては、相手の藩を取り潰す絶好の口実となります。
その為に江戸から出て行く女性をセッセと調べました。
そういう意味では不都合というより粗捜しの意味合いの方が強かったのでしょう。

中には、おっかない正妻が江戸から出られないのをいいことに、江戸で見つけたお妾さんを連れて帰ったお殿様もいたようです
手形(現代のパスポート)さえあれば自由に出かけることができましたから、大店の女将さんやお嬢さんは気楽にお伊勢参りや京見物に出かけていました。
酒田の豪商の女将さんの道中日記は今では貴重な民俗学の史料になっています。
東海道の人の往来が賑やかなことに幕末日本へやってきた外国人が目を丸くしています。

取扱いについては回答者No2さんがご説明になれておられる通りです。

>女性が出るとどのような不都合があって、取り締まるようになったのでしょうか?
取り締まるようになったのは、若干歴史的経緯があります。
戦国時代に、忠誠を誓う、あるいは誓わせるために、証人という、所謂人質を出させました。
当時は情勢が流動的ですから、いつ何時同盟関係が崩れかねません。
同盟関係が崩れれば邪魔だと言ってバッサリやられかねないものでした。
この為に、二三男や兄弟、父親などがその任に就きました。
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