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昔の日本では神仏は習合されて信仰されていたとかで
お寺には鎮守の社があり
神社には神宮寺があったようですが
すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったのでしょうか。

京都に藤森神社がありますが、神宮寺なんてあったのかな?と疑問に思いました。

A 回答 (5件)

以下、知人に確認しました。



日本では建国以来の伝統的な神社がありましたが、その後神道が勃発しましたね。
現在では神社と神道は同意語で語られることが多いですが、現在でも厳密には神社と神道は別物といえます。

その後仏教が伝来した後、神社と仏教は全国で権力争いが続きました。
しかし、奈良時代以降になって神仏関係は次第に緊密化していき、平安時代には神宮寺が広まったようです。

神仏習合は江戸時代にさらに進められ神社の側にお寺を置き、寺が神社を管理する形態も各地で作られた。
しかしながら、すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったということではなく、地域の時の権力者が主だったところにだけ作ったというのが実態のようです。

しかし、明治元年に神仏分離令が施行。江戸時代の仏教国教が神道国教に転換し、伊勢神宮を頂点とする神道国教化政策が推進されました。
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この回答へのお礼

わざわざ知人の方に聞いてもらってありがとうございました。

>日本では建国以来の伝統的な神社がありましたが、その後神道が勃発しましたね。

伝統的な神社というのは社をつくらない、磐坐や池、沼などを直接ご神体として拝む形式のものでしょうか。

大阪の磐船神社とか奈良の大神神社などがそういう形式の神社ですね。
さずがに後に拝殿は作ったようですが、神殿はないですね。

>現在では神社と神道は同意語で語られることが多いですが、現在でも厳密には神社と神道は別物といえます。

国家神道とか、物部神道、中臣神道などのように神道にもさまざまあるんでしょうかね。

>しかし、奈良時代以降になって神仏関係は次第に緊密化していき、平安時代には神宮寺が広まったようです。

なるほど、神宮寺ができたのは平安時代ごろのことなのですね。

>神仏習合は江戸時代にさらに進められ神社の側にお寺を置き、寺が神社を管理する形態も各地で作られた。

ですね。神宮寺もあれば鎮守の社もあります。

>しかしながら、すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったということではなく、地域の時の権力者が主だったところにだけ作ったというのが実態のようです。

なるほど、そ神宮寺や鎮守の社がある寺社というのは限られていたのですね。

奈良の大神神社や京都の北野天満宮には神宮寺があったようですね。
また伏見稲荷大社は東寺の鎮守の社だとききました。

大変勉強になりました。
ありがとうございました。
知人の方にもよろしくお伝えください。

お礼日時:2013/11/28 18:10

専門書によると、全ての神社に神宮寺があったのではなく、規模の小さな神社では「寺堂」あるいは「本地堂」と呼ばれるものが存在したそうです。

規模が小さいと言っても日光東照宮(本地堂は陽明門の左手)なのです。個人的な意見ですけど社僧の置けないような小さな神社ではなかったと思います。

藤森社に関しては詳細な社伝が判らないのでなんともいえません。伏見稲荷からの遷座や地祇の合祀など結構動いているので判りませんね。
でも境内に「大日如来堂」があることから可能性としてはあってもおかしくは無いと思います。正確なところは直接神社に聞くしかないでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとございます。

いくつか意味がわからない点があるので再度質問させてください。

>専門書によると、全ての神社に神宮寺があったのではなく、規模の小さな神社では「寺堂」あるいは「本地堂」と呼ばれるものが存在したそうです。規模が小さいと言っても日光東照宮(本地堂は陽明門の左手)なのです。

これは「日光東照宮には寺堂、本地堂があった」という意味でしょうか?

>社僧の置けないような小さな神社ではなかったと思います。

社僧の置けないような小さな神社とは日光東照宮をさしているのでしょうか?

おっしゃるとおり藤森神社は伏見稲荷にあったのを移転させられており
またあのあたりには現存しない貞観寺とか極楽寺とかいうお寺があったりしたそうで
よくわからないですね。

神社の方に聞いてみたこともあるのですが、「わからない」とのことでした。
古いことですし、ご存じなくても仕方がないと思います。

昔の文献などに史料が残っているといいのですが。

お礼日時:2013/11/28 17:57

No.1です。



分かりました。知人に連絡をとって確認しますので数日お待ちください。
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この回答へのお礼

親切にありがとうございます。
急ぎではないので、気長に待っています。
もしもわからなくても、全然気になさらないでくださいね!

お礼日時:2013/11/26 19:45

No.1です。



申し訳ありません。ご指摘の
「明治以降、廃仏毀釈、神仏分離令の影響で日本の寺社の姿は大きく変わったと思われます。
明治以前も同じ形態であったのでしょうか。
その神社には神宮寺があったが、壊されたので今はないというようなことはありませんでしょう」
については分かりません。
もしよろしければ、長年勉強している知人に聞いて改めて回答しますが。
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この回答へのお礼

丁寧に再度回答くださりありがとうございます。

またまた言葉足らずであったようで、申し訳ありません。
質問は一般論として、江戸時代までの神仏習合の形態はどうなっていたのか、ということなんです。

全ての神社に神宮寺があったのか。
それとも神宮寺のない神社もあったのか。

全ての寺に鎮守の社があったのか。
それとも鎮守の社のない寺もあったのか。

江戸時代にタイムスリップして確かめることができたらいいのですけどね~。

お勉強されている知人の方が、もし江戸時代以前の寺社についてご存知でしたら
また回答いただけると嬉しいです。

気にかけてくださって本当にありがとうございます。

お礼日時:2013/11/26 17:48

日本の神社の歴史はかなり昔にさかのぼりますね。



私の住む地域の神社も鎮守の森に囲まれています。約406年の歴史です。また同時に遷座されたお寺が隣にあります。この神社と寺は相互に協力関係を保っていますが、市内にはお寺と関係ない独自の神社も多数あります。
やはりその時代、その地域によって神仏習合は違うと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
質問の書き方が悪かった様で申し訳ありません。

仏教が伝来する以前の日本では、当たり前ですが
神仏は習合されていなかったですね。
廃仏派の物部守屋と崇仏派の蘇我馬子が戦って馬子が勝利してから
神仏は習合されるようになったと思います。

その後、ずっと神仏は習合されて信仰されていたと思われますが
明治の廃仏毀釈、神仏分離令で多くの寺が壊されたり、神社と分離させられたと聞いています。

明治の廃仏毀釈、神仏分離令以前の日本の
すべての寺に鎮守の社が、すべての神社に神宮寺があったのかと
疑問に思いました。

>市内にはお寺と関係ない独自の神社も多数あります

これは現在のことですね。
明治以降、廃仏毀釈、神仏分離令の影響で日本の寺社の姿は大きく変わったと思われます。
明治以前も同じ形態であったのでしょうか。
その神社には神宮寺があったが、壊されたので今はないというようなことはありませんでしょうか。

お礼日時:2013/11/26 09:15

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