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関ヶ原で西軍に味方し唯一と言って良いほどお咎め無しの大名家が島津家です。
宇喜多秀家も島津を頼り死罪を免れ、佐竹も島津の口ぞえで出羽秋田への改易で済みました

しかし家康は関ヶ原で勝った立場です
島津を処分しようとすれば出来たはずですが何故しなかったのでしょう?
確かに元々は東軍加担でしたが伏見城攻略を巡って家康と対立し西軍に付き
戦場で取り残された時起死回生の中央突破で反転し退却しました。
もしや家康はビビったのでしょうか?


関ヶ原後に島津家を処分しなかったばっかりに約260年後
幕府は島津に倒されてしまうんですね(笑)

A 回答 (9件)

azuki-7 さん、こんばんわ。




本当は関ヶ原後に島津家を処分したかったでしょう。しかし、関ヶ原で義弘が連れていた兵力は1500です。ところが、薩摩本国には義弘の兄義久が健在です。その兵力は少なくとも3万はあったと言われています。ここで薩摩を攻撃することはとてもリスクが高いことだと言えます。そこで、義弘が謝罪の使者を出してきたのを機に交渉に手を変えます。しかし、なかなか義弘は本領安堵の条件がない限り、上洛しなかったのです。その間に義弘は井伊直政に仲介を依頼します。かつては家康の要請で伏見城の守備に就こうとして妨害されたので、やむなく西軍に付いたということを述べたのです。そのあと2年間も交渉は続いたのですが、結局、慶長7年(1602)家康が折れる形で起請文を書き、本領が安堵されました。義弘の息子の忠恒(家久)が上洛して謝罪し、これで島津家は徳川幕府の統制下に入るのです。

結局、この交渉が長引いたために家康は征夷大将軍宣下が遅れたのです。


詳細は下記のURLを参照してください。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:26

義弘は家康から援軍要請を受けて1,000の軍勢を率い、家康の家臣である鳥居元忠が籠城する伏見城の援軍に馳せ参じた。

しかし元忠が家康から義弘に援軍要請したことを聞いていないとして入城を拒否したため、当初の意志を翻して西軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5% …
薩摩沖で幕府が国家運営で行っていた明との貿易船2隻が襲われ沈められると言う凶事が起きてしまう。この事件の黒幕は島津家とされており、もし武力で島津家を潰せば旧臣や敗残兵が海賊集団を結成し、貿易による経済的基盤の脅威になると言ういわば徳川家に対する脅しを賭けたとされる。こうした事態から家康は態度を軟化せざるを得ず、島津討伐軍に撤退を命令した。そして、慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。すなわち、「義弘の行動は個人行動であり、当主の義久および一族は承認していないから島津家そのものに処分はしない」また、義弘の処遇も「わし(家康)と義久は仲がいいので義弘の咎めは無しとする」
以上、wikipedia

秀吉もなぜ、北条の様に潰さなかったのか?外交上手だったのでしょう。
島津は琉球や諸外国とも上手くやりましたから。
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この回答へのお礼

ありかとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:25

滅ぼすより利用する方が賢い方法です。


西軍に荷担した島津軍の兵力は僅か3千。その必死の逃走劇が家康を震え上がらせました。
この時の島津軍は当時の藩主の弟が率いていたもの。藩主は弟からの要請を無視して,援軍を送りませんでした。逃走劇が家康軍の本陣突破を目指して行われましたが,関ヶ原合戦の大勢が決するまでは,島津軍も大勢傍観の姿勢でした。
3千の軍があれほどの脅威を及ぼすとすれば,30万と云われた島津の全軍を倒すためには,相当な損害も蒙ります。九州には豊臣びいきの日和見大名も多く,実際に開戦となれば何が起きるか分かりません。
家康は薩摩に三川(木曽川・長良川・揖斐川)合流してしばしば洪水を起こす濃尾地方の治水工事を命じました。
工事は難航し,度々洪水にも遭って薩摩の出費と人的犠牲は,計り知れないものだったと云います。薩摩の犠牲の上で,今日の豊かな濃尾平野があるわけです。一石三鳥の効果がありました。
闘うばかりが武将ではありません。闘わずして従わせることこそ武人の心得でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:25

正確な記録は残されていませんので、推測の域は出ませんが。



高度な政治的判断ではないでしょうか?

私は寧ろ黙って城を明け渡した長宗我部家や毛利家の方が不思議です。

この時代は既に豊臣政権化での安寧の時代を経験し、秀吉による国替えも行われ、大名と家臣の世代交代も進み、戦国時代の様な戦を行える状況ではなかったのかもしれません。

其の中、徳川家は朝鮮征伐にも出征せず、関ヶ原でも主力部隊は幸か不幸か温存されました。

ですので既に牙を抜かれた大名から恩賞の為の領土は取れている為、其の中たまたま抵抗した島津家だけの為に遠征費用を掛けて征伐を行う事を必要とする程に、他の大名も『言う事を聞かない世の中』では無かったと言う理由ではないでしょうか。

遠征する場合、徳川家だけで行うのは不可能です、背後を突かれかねません。

其の為に伊達家を始め、遠征軍を組めば今度は新たな恩賞を用意しなければなりません。

56万9千石余(文禄検地)だけの収入で遠征費用から恩賞までを考えると、腰が引けたのでしょう。

それに見逃しても、他の大名から苦情も来る様な時代では無くなっていた。

ここいら辺りが肝ではないでしょうか?


幕末は例え薩摩が無くとも、私は変わらなかったと思います。

薩長土肥に家康から国を貰った山之内家が入っていますし、西国大名が幅を利かせたのは長崎が近く、情報が潤沢に入ってきたからでしょう。

逆に東北諸藩は情報の遅れのせいで、完全に時代に取り残された状態でしたから。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:25

関ヶ原の戦いの過程で、大規模な軍事動員を行い、反家康派を排除し、豊臣政権の実権を掌握することに成功したのです。

その上で、中央政局にさして影響力を持たない島津家を、もう一度大規模動員を行ってわざわざ処分する必要がなかったのでしょう。中心となってかり出されるであろう九州の大名もそれぞれ関ヶ原前後で十分な軍事行動を起こしていますし、これ以上の戦闘には消極的だったかと。高度な政治的判断によるもので、関ヶ原の活躍はそれほど影響していないでしょう。
ちなみに島津豊久の知行は徳川家に一時的に没収されています。

関ヶ原で毛利家を処分したばっかりに約260年後
幕府は毛利に倒されてしまうんですね
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:26

質問文の結末は裏を返せば260年間も成功したという事。



飛車・角を潰すより利用した方がお得なわけです。

皆殺し戦争は封建領主(金持ち個人)同士の戦いと違います。領主vs異端とかは戦う意味が異なる。殺すための戦争です。保導連盟事件などは貧乏人の革命戦争みたいなものです。中国韓国北朝鮮は封建時代がなく武装領主(武家)もいません。現代日本人はまさに歴史のない朝鮮人の姿です。
領主階級は貧乏人とは違う。領主階級の仲間は領主階級なのです。領主vs領主は自費戦争だから西洋でも身代金ゲームです。公務員のような馬鹿な政策をしません。全部自腹だから。自腹の人の方が合理的に勇戦します。それが侍です。日本人を知らない日本人ほど日本人面する日本認知症時代です。
国際戦争が利益を求めない、戦争犯罪とか、ワケわからないものになったは日本人のせいなのです。ナチスではなく、日本の天皇がインチキ裁判を受け入れてアメリカの無差別爆撃に対して勲章をやったからワケわからなくなるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:26

関ヶ原当時の島津家は先代龍伯(義久)と現当主維新(義弘)とその子恒久(後の家久)


それぞれの違った思惑と派閥があり、さらに九州征伐から朝鮮出兵による国内疲弊が顕著だったと記憶しています。
ですから島津家を取り潰すにはさしたる苦労は無かったろうとは思いますが
だからといって関ヶ原戦後の論功行賞も定まらず、遠国の薩摩に徳川家の兵又は周辺諸侯を
派遣(恐らくこちらが有力か)しても得る物が少ないと踏んだのかもしれません。
島津家の抵抗もなまじのものではないでしょうし。

その後の交渉にかけた時間も考えると関ヶ原で天下の趨勢がほぼ決まったにも拘わらず
更なる軍事行動は庶民を不安にさせ、諸侯の経済的負担も懸念されたでしょう。
論功行賞の後には国替えなどで諸大名は領国経営にかかりきりになりますし。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:27

島津を倒すとなれば、秀忠ではその重責を負えず、家康自らが出征する必要があったのではないでしょうか。


しかし、家康も人生50年の当時とすれば高齢といえる60歳近くになっており、日本列島最南端の鹿児島までの遠征となれば、自分の体力に自信がなかったのではないでしょうか?
家康自身もダメ、秀忠もダメとなれば、島津征伐失敗の可能性が高まり、せっかくの関ヶ原での勝利が無駄になることを恐れ、島津征伐を諦めたのだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:27

島津家は関ヶ原にそれほどの大軍を送っておらず、総大将も当主の家久ではなく弟の義弘でした。


関ヶ原の戦い後、家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令しましたが、江戸からも大阪からも遠く離れた薩摩での戦いの長期化を恐れた家康が井伊直政や近衛前久の仲介もあり、不本意ながら島津家を安堵しました。

江戸幕府を倒した中心は、確かに関ヶ原で西軍についた長州(毛利家)と薩摩(島津家)ですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/24 18:27

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