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平素お世話になっております。
雑駁な質問にさまざま親身になってご回答いただき感謝しております。

さて、歴史小説を読んでおりまして、ある戦国武将が「外交の使者を斬ってはならない」と宣うシーンに出くわしました。

ふとした疑問なのですが、国際法の無い時代に、戦国大名の皆さんはいかなる理由で外交の使者を斬らないようにしていたのでしょうか?

ふつうに考えて、「あっ!つい逆上して斬っちゃった(はぁと)」みたいな事があってもよさそうなものですが……

博学な皆さまのご卓見をお聞かせいただきたく思います。

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A 回答 (20件中1~10件)

戦国大名というのは、武官であると共に政治家でもありました。

だから、政治家らしく「使者を斬ることで政治的にメリットがある」なら斬りますが、そうでないならのべつまくなしに斬るだなんてことはしないものですよ。あえて斬るのは、斬ることによって家臣団に戦うことは不退転であるとアピールする意図があったり、それで家臣団の士気が上がったりするからです。
他の方も指摘していますが、使者を斬るということは、外交ルートそのものを絶つという意味があり、一般的にそういうのは政治家としてはデメリットが多いです。例えば、上杉謙信はご存じのとおり武田信玄や北条氏康と激しく戦ったわけですが、武田信玄が今川義元の討死で南進策に変わると休戦し、北条氏康との間では関東制圧が無理と判断すると休戦のうえ氏康の息子を上杉景虎として養子に迎えました。
今、敵対していたからといってずっと敵対するとは限らず、また今同盟しているからといってそれを永遠だと信じるほどお人好しでもないのです。

今でも、コッカイの政治家さんたちはやれ選挙協力だ野党集結だとかいって離合集散をくり返していますでしょ。それと同じなんですよ。選挙って、合戦と同じじゃないですか。殺し合いではないというだけであって。

戦国大名の間では人質みたいなのは結構重要だったのです。例えば城攻めをしたとき、これ以上持ちこたえるのが難しいという場合はよく開城交渉がされました。多くの場合、条件は「城を明け渡す代わりに城兵の命は助ける」というものです。備中高松城の戦いのように城主が切腹するなんてのはむしろまれで、多くは城主も含めて命を助けるというケースが多いです。特にすごく重要な城でもないなら、オセロみたいにお互いが取り合うことも珍しくないですからね(例:長篠城や高天神城)。
で、そういう場合、城兵としてはいちばん怖いのは城門を開けたら「ウソだよ~ん」とかいって攻め込んできたり、あるいは城を明け渡して帰るところを後ろから襲われることです。だから、攻める側から城兵側に人質を出すのが決まりでした。多くの場合、人質は適当なところで解放されたようです。こういう場合も、もし人質を殺してしまったら次の戦いのときに「お前らは人質を殺すから、全員ぶっ殺してやる」となったらデメリットのほうが多いですよね。
戦国時代初期の朝倉宗滴さんが語ったといわれる記録が現代に残されていますが、それには「武士ってのは犬だとか畜生だとかいわれても勝つのが重要なんだよ」とか「占いで日が悪いからとかいう理由で出陣しないとかやるんじゃねえよ。勝つか負けるかは神意で決まるんじゃねえんだよ」なんて言葉が残っていて、そういう話が残っているということは逆にいえば「そういう勝ち方って武士的にカッコよくねえよな」とか「今日は日が悪いから出陣はやめよう」なんてことがよくあったってことですよね。

だからよく映画やドラマなんかじゃ合戦の後に死屍累々となっていますが、私はたぶんあれはウソなんじゃないかと思っています。だいたい人口が現代よりはるかに少ないあの時代にあんなに殺し合いをしてたらあっという間に人がいなくなってしまいます。それに普段は百姓であることが多い足軽なんかは、戦場で死んだら単なる死に損です。戦場で成り上がろうと思ってるフリーの武士なんかはやる気満々でしょうけど、足軽なんかは「死んでまで頑張る気はさらさらない」のです。だから足軽兵が多かった織田軍は弱かったのです。状況が不利だとなるとみんな逃げちゃう。どうも、みんな逃げちゃうくせに他に行くところがないからしばらくたつと「また雇ってください」って戻ってくるみたいです・笑。で、織田軍も人がいないと困るから結局そういう奴でも雇わざるをえなくて、だからそういう奴らでも真面目に戦えるように槍を長くしたり、飛び道具である鉄砲を積極的に取り入れたりしたのです。刀と槍なら槍、槍と鉄砲なら鉄砲を選ぶでしょ。

父から直接聞いた話なんですけどね。学生運動が華やかなりし頃、学生のデモ隊と警察の機動隊が衝突したってことがしばしばあったわけです。これって合戦ですよね。で、当時は田舎から動員されたおじさんのお巡りさんなんかがいたわけです。デモ隊は学生が中心だから若い。それで、衝突したところでは押したり引いたりしたのですが、そういうとき、相手側の一角を崩すためにお巡りさんを引っ張ったそうです。で、おじさんのお巡りさんがいるところだとおじさんは若い人には力で勝てないからそういうところが狙われる。
田舎からヘルプにきたおじさんお巡りさんは哀れデモ隊に引っ張られて引きずり込まれる訳ですね。おじさんお巡りさんはやっぱり興奮してるデモ隊に引きずられるから怖いので「助けてくれェ!」っていうらしんです。で、デモ隊としても田舎のおとっつあんを半殺しにしてもたいした意味はないんですね。万が一度が過ぎて死んじゃったら大変だし。だから、引きずり込んだおじさんお巡りさんはみんなでどんどん後ろの方に送ってっちゃうんだそうです。で、適当なところでポイッと捨てられる。おじさんはその流れに抵抗せずにいれば大けがもしなくて済むわけです。
だから昔の合戦というのもそういうものだったと思いますよ。たいして名のあるお侍さんでなければ、おじさんなんか放っておけ、足軽なんていくら首をとっても金になんないんだから蹴散らせばよい、てなもんだったと思います。
実際、「雑兵物語」には足軽の誰かがペットとして飼っていたネズミが逃げて騒ぎになって、それが大騒ぎになったら敵襲と勘違いして全軍総崩れになった、なんて話が残っています。なんか大騒ぎしてるぞ、何事?え、敵襲?敵襲らしいぞ。やべえ、戦う準備してないよ、あっ、隣の陣が逃げ始めた。やばいぞ、俺たちも逃げ遅れたら大変だ、ここは逃げよう、ってなもんだったと思います。
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この回答へのお礼

朝倉宗滴さんのご高名は存じています。(主に信長の野望で……
そうでしたか。そんなこと仰っていましたか。
非常に勉強になります。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 05:40

「使者を斬る」行為は、「交渉の余地は全くない」「徹底的に戦う」という意思表示。



どちらかが全滅するまで戦う、というならまだしも。
戦が終った後のことも考えましょうよ。
武器を持たない使者を斬ったとあっては、深い遺恨が残りますよ。
うっかり負けたときは 今度は自分が容赦なく斬られるでしょうし、
仮に勝ったとしても 服従させた相手国の人間が素直に言うことを聞くでしょうか。

戦だって相手国にとっては弔い合戦ということになるし、凄惨なものになりますよ。
勝つにしても 自国にも無駄に多大な損害がでてしまいます。
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この回答へのお礼

>戦が終った後のことも考えましょうよ。

来世、戦国大名に生まれ変わったら考えておくようにします。

お礼日時:2014/01/06 23:56

 戦いにせよ何にせよ、外交は互いの存在を知っているから摩擦がおき、連絡、コミュニケーションが必要になる。


(地球の反対側にいる奴とはいさかいもなければ、コミュニケーション自体もない。)

 だから外交吏はかならず元へ帰さないと、相手の意思や気持ちがつかめない。悪くすると相手の動きがつかめなくて、奇襲されるかもしれない。(日本の開国時に揉めたのもそこいらへん。)

 もし使者を斬って、こちらも同じことをされた場合どうする。例えば、負けが込んでやめようとするときに、相手が受けつけてくれないということが起こりうる。(だから外交上は仲介者をたてる。<アメリカーモロッコーイラン>だったかな。)

 戦時でも、兵器開発では相手の反撃手段との兼ね合いで考える。
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この回答へのお礼

なるほど。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 23:56

法律や規則が無くてもその地域で通用する目に見えない決まりってありますからね。


例えば法律で決まってなくても親戚の葬式で笑ったりしないと思います。

ちなみにその文化は中国でも存在していて(というか多分中国由来)、外交の使者は君主の言葉を伝達しているだけで使者が放つ言葉や命令はその使者の言葉では無いみたいな思想なんでしょうね。
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この回答へのお礼

権謀術数うずまく戦国時代でも一定の仁義はあったわけですね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 23:55

「外交の使者を斬ってはならない」とまで頑然としたものは無かったのではないでしょうか。


実際相手との手切れを決定し、ある種の遺恨などがあるのならば切ったでしょう。
或いは鼻や耳を削ぎ落として返事とすることもあったようです。

また使いには第三者として僧侶等も用いる場合がありましたので
この場合はその限りでは無かったかと思われます。

使者との対面の折、主君が使いの者を斬ろうとした場合にそれを諌める近臣が存在したかに
よっても変わったでしょうね。
己が置かれている立場上、断固として斬らねばならない状況もまたあったでしょう。
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この回答へのお礼

なるほど。坊主殺せば七代祟る的なアレなんでしょうかね。
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 05:39

「外交の使者を斬ってはならない」ということは、


裏を返せば使者を切り捨てる武将や場合があったということでは?
常に斬らないことが通例であれば逆にこの台詞はでないと思います。
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この回答へのお礼

そう来るかwww

コロンブスの卵的発想をありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 05:38

 鎌倉時代の元寇で、時の鎌倉幕府が相手からの使者を斬ったことは知られています。

国際法のない時代といっても、現在の国際法に関する発想をそのまま過去の史実に適用して考えることは妥当ともいえません。何となれば、その前提が異なりもしますから。
 確かに戦国大名をはじめ、それに準ずる組織集団例えば雑賀衆や本願寺あるいは興福寺といった強固な経済基盤と組織を有する集団とそれら戦国大名が同盟関係を結ぶとの現実もあります。
 一つの強固な組織によって日本全国を地域的そして階層的にも統治されていた時代とは異なり、権力の所在が分散もしていますので、安直に交渉相手との窓口を閉ざしてしまうことは切実な死活問題ともなりかねません。
 確かに信長も使者を斬るとの行為に及んだ場合もありますが、それは信長が新たな秩序の創出を意図していたからであって、その頂点に君臨するのは「国王としての信長自身」であることを明確に意識もし、それと同時に無意味な争いは避け、やむを得ず武力を以て対峙するとのケースに限られています。
 相手との交渉窓口を閉ざすことで生じるデメリットはあってもメリットは少ないとの話になりもします。「問答無用」との姿勢で臨んで自滅の道を開いた事例は幾らでもありますよね、それだけで相手に口実を与えてもしまいますから。
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この回答へのお礼

おはようございます。
丁寧な考察をありがとうございます。

お礼日時:2014/01/06 05:37

自分の妄想ですけど、今よりその時代外交が重要だったのかなあ。

この回答への補足

私に聞かれても困る!(笑い)

補足日時:2014/01/06 05:36
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writerman75さん、こんばんわ。




古代中国では本当は使者を殺さないのが、軍礼だったようです。日本の戦国時代も中国の書物によってこの軍礼が理解されていたと思います。
しかし、中には相手の意見を拒否するために使者を反して口上させるより、わざと使者を切ったほうが強烈に印象付けることが出来るので、そっちを選ぶ場合もありました。

もちろん、使者自身は命がけでした。
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この回答へのお礼

なるほど。文化伝播論的に読み解けるわけですね。
大変勉強になりました。ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/05 19:34

卑怯者と笑われないため、面子の問題だと思われます。

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この回答へのお礼

斬ると笑われてしまうんですね。
戦国武将というのも辛い稼業なんだなあと思いました。(笑い)
ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2014/01/05 19:33

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Q何で日本は戦国時代に植民地にされなかったんですか?

大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

すいません、もう一つ。

幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

私はまるで歴史ド素人なので恥ずかしい質問ですが、宜しくお願いします。

Aベストアンサー

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地支配が容易になる、という目論見でした。この方法は成功しました。ザヴィエルらは、日本においても布教を行うべく1549年に来日し、布教を始めました。

ザヴィエルらが日本へ来て知ったのは、ほかのアジア諸国の人民に比べて日本の人民は教養が高く、さらに戦が強いことでした。

1467年に始まった応仁の乱以後、日本国内は乱れに乱れ、内乱時代(戦国時代)でした。戦国の時代は、武器の発達が進みます。さらに武士たちの武闘能力も向上し、剣術や砲術の力が向上します。戦国時代の日本は、世界で最強の軍事大国だったという学者もいます。

そうした事情を知ったザヴィエルらキリスト教関係者が、本国の王へ「日本を植民地にするのは非常に困難です」といった報告をしたものと思われます。

織田信長はキリスト教を公認しましたが、豊臣秀吉はキリスト教を禁止し、キリスト教関係者を国外追放しました。イスパニア王フェリペ二世の日本征服の野望を知ったからです。

徳川政権もキリスト教を禁止しました。その上、鎖国しました。西洋人は日本を征服するチャンスを失ったのです。


>幕末の黒船来航の時は外圧に負けて開港させられ、不平等条約まで結ばされましたが、他のアジア諸国のように植民地にまではされなかったのはなぜなんですか?

日本も植民地にされ、列強によって分割される危険がありました。それを避けられたのは、

(1)人民の教養が高かったから。西洋の外交官は、江戸の町の本屋の店頭で、女や子供が立ち読みするのを見て、日本は植民地にすることはできないとあきらめました。多くの人が文章を読めたのです。(日本よりも西洋の方が文盲率が高かった。)

(1)武士階級が支配していたからです。清(中国)は科挙に合格した文官が支配する国でした。西洋列強の手が隣国に及んできても危険を感じませんでした。しかし日本の支配層は武官(武士)ですから、清が英国との戦争で負けて香港を割譲したことを知り、さっそく日本もやばいぞと危機感を抱きました。武士の仕事は戦争ですから、国の危機には敏感なのです。

(2)徳川幕府の外交が巧みだったからです。大政奉還と王政復古の直後の慶応3年12月16日(1868年1月10日)、15代将軍徳川慶喜が大坂城に6カ国の公使を招いて接見し、「朝廷は王政復古を宣言したが、朝廷側に内部事情があり、依然として徳川幕府が主権者である」と説明し、政権承認の確認を求め、さらに内政不干渉を約束させました。欧米諸国の目にも、この段階では、三職をトップとする新政府の実力は甚だ脆弱であり、国際社会の承認に値する政権とは見えなかったはずです。しかし徳川慶喜が各国に内政不干渉の約束を取り付けた結果、その後の内戦(戊辰戦争)では外国の介入を招きませんでした。慶喜の側近に国際法を理解していた人材が豊富だったからこその成果と言えます。徳川幕府の大手柄と思います。

>大航海時代(日本では戦国乱世の時代あたりですよね?)、何で日本はポルトガルやスペインあたりの植民地にされずに済んだのですか?

イスパニア(現スペイン)とポルトガルは当時、世界で植民地獲得競争を繰り広げていた。

1539 年には、ポルトガル国王ジョアン三世の要請を受けて、キリスト教イエズス会のF.ザヴィエルらがアジアでの布教を始めた。目的は植民地支配である。最初から武力を行使すると味方に多数の犠牲者が出るので、先ず先兵として宗教者を送り込み、現地の人々の心を支配しておけば、植民地...続きを読む

Qローマ帝国が崩壊した理由。

ローマ帝国が崩壊した政治・経済・宗教上の理由ってなんですか??

教えて下さい。。。

Aベストアンサー

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或いは自然災害や飢餓等で一々首都ローマの皇帝に指示を貰って動いていたら今の日本のお役所仕事よりも状況は悪化します。なので担当者を派遣して急場は彼らが処理して根本的な対処(立法や公的資金の注入。軍の配置等)は事後報告を受けた皇帝が担当することになりました。
しかし皇帝が後継者を残さずに死んだりネロ等の様に住民や元老院に見放された皇帝が出てきたらついムラムラっと支配欲に燃える人も多かったりします。それが上り坂の時代ならば多少は許容されるのですが下り坂で蛮族の侵入が重なったりしたら内乱に乗じられたりする訳です。

経済的には政治的な内容と重なりますが内乱と蛮族の侵入が重なるとどうなると思いますか?
ここでは北アフリカを挙げたいと思います。内乱等で軍隊が指揮官の皇帝即位の為に他のライバルを武力討伐する為に他の地域へ移動すると周辺民族が侵入してきます。彼らは簡単に言うと銀行強盗の群れだったので街や村を略奪して回ります。そうすると住民は暴力を嫌って難民となり他所へ流れて行くことになります。基本的に経済は農作物や鉱山からの収益或いは貿易で成り立ちますし農業はそれらの基本です。そして農地は常に人が手入れしないと荒れる物です。信じられないかもしれませんが当時の北アフリカは砂漠では無く穀倉地帯だったんです。で荒れるに任せて砂漠化しました。これは他の地域では荒地になったり森林になったりして収穫は激減していったのです。
しかも強盗は略奪する物が無ければ支配して搾り取る方法にして居座り続ける事を始めたので二重の意味でダメージになりました。

宗教的には色々ありますが政治的・経済的行き詰りとキリスト教の普及が重なった事が大きいでしょう。ローマ古来の神々は我々を見捨ててしまった。そんな思いに駆られたローマ人の心のスキマにキリスト教は漬け込んだんです。曰く、今の状況は真の神を蔑ろにしたローマ人の所業のツケである。曰く、しかし真の神に帰依すれば救済されるとでも言ったのでしょう。ここで最後の審判で救われると言うのがミソです。来るかどうかも分からない最後があると言って置きながらそんなものは20世紀が終わってもありはしなかったのですからね。まぁこれは今だから言える事ですし当事者はパニックで冷静に考える余地が無かったのですけど。
それからカトリック教会とローマ法王という形で国家内にもう一つの国家を作り上げて寄生されたのも痛かったですね。飢饉で神父やシスターが難民にパンを配る・・・美しい光景ですが何の解決にもなっていません。解決するには行政サイドが動くしか無いのですがガタガタの帝国にはそんな力は残されていなかった。これでは教会に入る人が増えるし帝国に見切りをつける人が増えるのは止め様がありません。


最後に追加ですが戦争のやり方が変ったのも重要です。かつては重装歩兵が主力を担っていたのが騎兵に取って代わりました。単純に考えて甲冑と槍で済んでいたのが追加で馬が加わります。これがクセモノでして俗に牛飲馬食と言う言葉がありますがこれは飲み食い意が激しいのを牛馬に例えた言葉ですが馬を飼うには餌場を順々に回る遊牧生活か金で買って入手するしか方法がありません。しかも手綱や鞍を付けないと乗れませんし牧場や厩舎を作ったり練習の為の馬場も必要です。
これは何故かと言うと大陸の東のモンゴルとかの遊牧民が食い詰めてヨーロッパ方面に移動しました。と書くと穏やかですが戦争しながら原住民を土地から追い出して居座ると言う形で成されました。それでゲルマン人も食い詰めてローマに・・・と言うわけです。なので力関係では負けてるので弱ってるローマで略奪や居座りして新生活を始めよう・・・とそういう次第なんです。



纏まりが無く内容が重複した文章ですがそう私には見受けました。

まず言っておきたいのは、領土(図体)が大きくなりすぎた事を念頭に入れておいて下さい。

政治的には領土が広すぎた為に軍司令官や属州総督を派遣するといったシステムが多かった様です。と言うのも東西だけで言うと最盛期にはスペインのジブラルタル海峡からロシアの黒海沿岸やイラク北部に跨っていました。今でこそ飛行機で何時間といった距離ですが当時は風任せ・人力便りのガレー船と徒歩や馬で街道を進むしか方法が無かった時代です。そんな交通事情では例えば蛮族(周辺住民)の組織的な侵略や略奪。或...続きを読む

Q日本がハルノートをを受け入れ戦争しなかったら?

歴史で”たら、れば”は持ち出す事は駄目なんですが、もし、太平洋戦争に突入しなかったら日本はどうなっていたでしょう? 戦争で余りにも多くの方がなくなりましたが、戦争しなかった方が日本の将来は明るくなる事が期待できたのでしょうか?

Aベストアンサー

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の失業者が
街に溢れ、あちこちで暴動が発生していました。
ルーズベルトは、ニューデールなどの政策を打ちましたが効果は
さっぱりです。
それでどうしても戦争をやる必要があったのです。
戦争は最大の公共事業ですから。その証拠に戦後、米国
経済は見事な復活を遂げています。
その現れがハルノートです。

これは私の偏見ではありません。
米国歴史学の権威チャールズ・A・ビーアド元コロンビア大教授は
公文書を調べて、ルーズベルトが巧妙に日本を戦争に引きづり込んだ
過程を明らかにした本を出版しましたが、これは事実上の発禁処分
にされてしまいました。

31代米国大統領のフーバーが、ルーズベルトを、日本を無理矢理戦争に
引きづり込んだ狂気の男、と評した書見を残しています。
彼は、ルーズベルトは真珠湾を知っていた、とも書き残しています。


米西戦争では、 1898年 2/15 ハバナ湾で、
米国戦艦メイン号が謎の爆発沈没しています。
これで米兵266名が死亡し、スペインの仕業だ、
ということになり戦争が始まっています。

ベトナム戦争では有名なトンキン湾事件が発生しています。
1964年8月、北ベトナムのトンキン湾で北ベトナム軍の
哨戒艇がアメリカ海軍の駆逐艦に2発の魚雷を発射した
とされる事件です。
これをきっかけにアメリカは本格的にベトナム戦争に介入しましたが、
その後、ニューヨークタイムズが、米国のやらせであることを暴露し
真実が明らかにされました。

湾岸戦争 1990年 では
アメリカの駐イラク特命全権大使のエイプリル・グラスピーが
イラクのクエート攻撃に対して
「介入するつもりはない」と発言しており
これを信じたフセインがクエートを侵略しましたが、
米国軍等により撃退されています。
米国は約束の存在を否定していますが、当の大使は、それ以後、公式の場には
一切姿を見せなくなりました。

その他にも怪しいのはいくらでもあります。
以上が、日本が戦争を拒んでも、ダメだったろうと思われる理由です。

戦争をしなかった、という選択肢は
無かったと思われます。
日本が例えハルノートを呑んでも、米国は
必ずや、日本を戦争に引きずり込んだと
思われます。
あのイラク戦争のようにです。
フセインは、米国相手に戦争などしても
勝てる道理がないことぐらい、百も承知していました。
それでも米国に無実の罪を着せられて戦争に
持ち込まれ、処刑されてしまいました。
米国とはああいう国なのです。

当時の米国は、1930年に続く大不況の真っ只中でした。
GDPは1/2に、株価は1/10に落ち、1200万の...続きを読む


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