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中臣鎌足が藤原鎌足となり藤原氏の始祖となりましたが、前々から疑問だったのですがなぜ数ある苗字の中から「藤原」姓が選ばれてそれを与えられたのですか?
与えられた苗字は別に山田でも鈴木でもよかったと思うのですけど、藤原という苗字にはなにか特別な意味があるのでしょうか。藤原が藤の原という意味だとしたら、この藤とは富士山と同義なんでしょうか。わざわざ天智天皇が腹心であった彼に苗字を授けたわけですから、藤原を選んだのにはそれ相応の意味や理由があったと思うのですが。

もう一つ、鎌足以前に藤原の苗字を持っていた人はいたのでしょうか?
いたとしたらその人と鎌足の関係、並びにその人が藤原姓を持っている歴史的理由について聞きたいです。
いなかったとしたら天智天皇は藤原という語をわざわざ新しく作って(造語して)、それを苗字にしろと命じたことになりますから、なおさら何かしらの意味が込められていると思います。

以上、藤原という姓が選ばれた背景について教えてください。

A 回答 (7件)

通説とは違う解説です。



藤原という名前を考えるときに、その名の付いた都を思い出します。
藤原京。ただ、実際は新益京(あらましのみやこ)と言っていて、天皇が住む場所が藤原宮と言ったらしいです。

さて、ここで問題は、この藤原宮は、694年に飛鳥浄御原宮から遷都しています。着工自体は、676年ころから始まっているようだということです。
何が問題かというと、もし、鎌足が藤原姓であるならば、家臣の名前の場所に宮を移すことにした、ということになってしまうということです。
今でも、部下の名前を家に付ける社長って、おかしいですよね。当時は特に言霊が強い影響を与えている時代。名前は非常に重要ですので、これはあり得ないことです。

なので、少なくとも藤原宮が出来上がった後に下賜されたと考えたほうが無難です。
鎌足がなくなったのは、669年と言われていますから、鎌足の時代には藤原姓は名乗っていないはずです。
藤原姓は、おそらく不比等の代でいただいたのでしょう。
不比等という名前自体、比べるものがないということで、ものすごく不遜な名前ですが、一説には史(ふひと)と言う名前があり、日本書紀編纂の中心であったようです。なので、藤原氏を持ち上げて書いてあると考えなければなりません。

藤氏家伝なども当然疑われるべきもので、実際中臣鎌足は、その出自が非常に曖昧です。百済の王子であったという説を披露する歴史家もいます。
彼らが今後日本で力を伸ばすためにも箔を付ける必要があったので、当時の天皇の住まいであった宮の名前をいただいて、こんなに天皇と近いんだ、とアピールしてたと考えるのが妥当でしょう。

歴史は常に権力者によりゆがめられて伝わります。天智が命じたというのは後付けでしょうね。
一般的にはどこにも書いていない、といって一笑に付されるでしょうが、そんなものが証拠として残されているわけがない、というのが常識というものですよね。
権力者の都合の悪いことが表に出てくることなんて、現代社会ですらあり得ないのに、情報化もなにもされてない古代では余計難しいことです。
しかし、人の機微は変わりませんので、今の歴史も当たり前に考えれば、もっと解決することがあるのに、と考える今日この頃です。
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追記です



ちなみにですが
鎌足が藤原姓を賜ったのは病床で死の数日前だったといわれています(中大兄皇子が見舞いに来て鎌足の積年の功績を称えて今後は藤原と名乗るが良い と言ったとか)
なので鎌足自身正式に藤原は名乗っていないとする説が有力です
使い始めたのは長男の不比等からでは無いでしょうか?
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鎌足の時代に源平藤橘の理論は無かったのでは?


実際 源 平 橘の姓は鎌足よりももっと後の時代に下賜された苗字ですし

鎌足以前に藤原姓を名乗った人は居ません
鎌足が藤原氏の始祖なので
現在の藤原さんはみんな鎌足の子孫ですね
多分 地名から取ったか高尚な姓だったので下賜したかどちらかと思います


藤原氏は鎌足の息子の時代に4つに分かれています
北家 南家 式家 京家です
北家は嫡流であの有名な藤原道長につながりやがて近衛家となります
歌人の藤原定家も奥州藤原氏も元をたどれば先祖は鎌足ですね
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地名から、という回答で良いとは思うものの、


源平藤橘とか藤は錦に次ぐとか、それは鎌足(と子孫)が藤原姓を与えられたからであり、それが理由で藤原姓を与えられたかのような、全く正反対の回答が散見されるのはどうかと思う。

ちなみに、藤○とか△藤とかという姓の家も、この藤原姓+地名などに由来する姓、つまり広くは藤原氏の子孫ということになるので、日本には結構な割合で藤原氏の血筋の人がいることになります。
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>なぜ数ある苗字の中から「藤原」姓が選ばれてそれを与えられたのですか?



源平藤橘が、日本古来の権威ある氏の姓ですよね。
「藤は錦に次ぐ」と、朝廷では考えていたようです。
そこで、天智即位に尽力した鎌足(百済国の亡命王子)への論功行賞ですかね。
中大兄皇子だった頃、鎌足は「全方位外交を目指していた蘇我一族」が目障りでした。
滅亡の危機にあった百済救済の為には、蘇我派を排除する必要がありますからね。
※蘇我一族・蘇我派は、百済救済軍の派兵に反対。
そこで、中大兄皇子に近づいて「天皇をないがしろにしている蘇我一族を討って、天皇に政治を取り戻そう」と囁くのです。
まんまと鎌足の術に落ちた中大兄皇子は、蘇我一族・蘇我派を討ち(大化の改新)政治闘争は終わります。
※朝廷内で敵が居なくなっても、何故か中大兄皇子は直ぐに即位しませんでした。
※即位までに、徹底的に(即位を狙っている)他皇族を暗殺していたのですね。
※この作戦参謀が、鎌足。^^;
※万世一世の天皇は、明治維新以降の話です。
「百済救済軍派遣反対」と主張する勢力が無くなると、中大兄皇子は出兵に全力を傾けます。
※日本書紀には、白村江の戦い前後に鎌足が登場しますが「戦時中は、何故か表舞台から消えて」いますよ。
※百済の地で、戦闘指揮を取っていた?との説もあります。
※結局は、唐・新羅(現在の中国・韓国)連合軍に敗北。日本では、天智天皇の支持が無くなります。
話が逸れましたが、天智天皇即位に(表向き)尽力した(と、勘違いして)鎌足への論功行賞として「日本人と認めた結果」ですね。
「藤は錦に次ぐ」。錦は天皇ですから、最大限の名誉を鎌足に与えた訳です。
原という字は、大地を意味します。つまり、天皇に次ぐ地位を与えた様です。
結果的に、天智系(朝鮮系)天皇は断絶しますがね。
余談ですが・・・。
日本には、教育の自由がありますよね。
告げ口おばさんが支配する国では、教育の自由はありません。
「政府が決めた歴史以外は、全て間違っている歴史」らしいですね。
私自身、この中大兄皇子・鎌足説が正しいか否かは分かりません。^^;
色んな歴史解釈が出来るのが、楽しいですね。
告げ口おばさんが支配する国では「正しい歴史認識をしろ!」と、徹底的に批判されます。(笑)
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>藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)


にちなむとありました。

 かつ四姓と言って(源平藤橘)が高貴な姓として天皇から与えられたようです。
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 ウィキペディアのコピペです。



藤原氏の祖である中臣鎌足(藤原鎌足)は、中大兄皇子(天智天皇)とともに乙巳の変から大化の改新に至る諸改革に携わった。その後死を目前にしたとき、天智天皇からそれまでの功績をたたえられ藤原朝臣姓を与えられたとされる。藤原の名は鎌足の生地・大和国高市郡藤原(のちの藤原京地帯、現 橿原市)にちなむ[1]。通説では、鎌足の子である不比等がその姓を引き継ぎ、以後不比等の流が藤原朝臣と認められたとされる。
他方、この時に与えられた藤原の姓は鎌足一代のものであり、後に改めて鎌足の遺族に藤原朝臣の姓が与えられたとする説[2]もある。この見解は、鎌足の死後中臣氏を率いた右大臣・中臣金が壬申の乱で大友皇子(弘文天皇)方について敗北し処刑されたため、乱とは無関係の鎌足流も一時衰亡の危機を迎えたことを一因とする。乱平定ののち、天武天皇13年(684年)に八色の姓が定められた際には、朝臣を与えられた52氏の中に「藤原」の姓は登場せず、鎌足の嫡男である不比等を含めた鎌足の一族は「中臣連(後に朝臣)」と名乗っていたとする。そして『日本書紀』に鎌足没後最初に「藤原」が登場する翌天武天皇14年(685年)9月以前に、鎌足の遺族に対してあらためて「藤原朝臣」が与えられその範囲が定められた、とするものである。
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