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源平藤橘と言えば格式の高い4家を表します

源平は言うまでもなく天皇の末裔であり平清盛や源頼朝を輩出した武士の名門
藤原氏も摂関政治を独占し隆盛を極めた家柄です
しかし橘家はどうしたのでしょう?

橘諸兄や奈良麻呂と言うあたりの名前は歴史でも出てきますが
決してその後出世して名門の家系になったとは聞きません
格式高い4家の一角をなす家柄にもかかわらずです。

橘家に何があったのでしょうか?

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A 回答 (3件)

>格式高い4家の一角をなす家柄にもかかわらず



その通りで、一時は「藤原一族よりも、繁栄」していました。

>橘家に何があったのでしょうか?

政敵である藤原一族の陰謀で、「地方役人として飛ばされた」のです。
飛ばされた橘一族は、土着。都に残った一族は「下級とまでは言わないまでも、中級公家」として生き残ります。
もう、藤原家に対抗する力はありませんね。
唯一記録に残るのは、土着した一族ですかね。
楠木正成は、橘一族の末裔だと伝わっています。
親鸞上人・橘逸勢・和泉式部・清少納も、橘一族の流れをくむ様です。
歴史は、勝者が作ります。
日本書紀は、藤原一族の物語。^^;
本当の事は、誰にも分かりません・・・。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/01/25 07:29

私も、ANo.1 さんに同感。



橘氏を除く源平藤は裾野が広い。

だから、第一人者の家が絶えても一族からのし上ってくる者がそのうちに出てきます。例えば源(頼朝)家→足利家など。個々の家として見ると栄枯盛衰があっても、氏族としては権威・利権を保ってるように見えます。

源平と言えば清和源氏と桓武平氏に代表されますが、他の天皇の子孫からも源氏・平氏が多数出ており、地方に出て土着しています。たまたま清和源氏と桓武平氏から武家の棟梁が生まれただけのこと。もし、源頼朝や平清盛の先祖が武家の棟梁としてのし上がれなくても、他の系統の源平藤から武家の棟梁が出たでしょうね。

藤原氏は信じられないほどの子たくさんの一族で、系図を見ていると眩暈がします。鎌倉以降は摂関家だけでも5家。公家の過半数が藤原氏。
その摂関家は藤原北家の嫡流で公家社会の頂点を独占する特権的身分ですが、藤原氏の権力は鎌足から道長へとストレートに世襲していた訳ではなく、初期には南家・式家が優勢だった時期もありました。もし藤原4兄弟がいなくて武智麻呂(南家)だけだったら、武智麻呂の子孫の没落?後、皇室の姻族・摂関家の地位は他氏族の手に渡っていたのかもしれませんね。

一方の橘氏ですが、初代橘諸兄は失脚、二代目奈良麻呂も謀反。最初から躓いており、これではちょっと‥
躓くのが4代目とかだったら、諸兄や奈良麻呂の兄弟の子孫が増えていて、その中から名家橘氏の復興を果たす傑物が出たかもしれませんね。

蛇足ですが、没落?してからの橘氏は、結構子孫が増えていたりもしてます。

ついでに。
源平橘藤というのは、天皇制が確立した奈良・平安以後に皇室から枝分かれした氏族ということでの「格式」で、源平藤橘そのものに特権的身分などの意味合いはありません。なお、藤原氏ですが、当時から不比等の天智天皇ご落胤説が囁かれていました。

源氏の長者(総本家)は足利氏に簒奪されるまでは公家の久我家など村上源氏の一族であり、源頼朝の先祖が代々源氏の総本家を継承していた訳ではありません。平清盛も同様。たまたま源頼朝や平清盛の先祖が武家の棟梁としてのし上っただけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/01/25 07:29

源平と比較すれば、「再生産されなかった」この差だと。



飛鳥時代末、県犬養三千代が元明天皇から「橘宿禰(たちばなのすくね)」の氏姓を賜った[2]ことに始まる。その子・葛城王が橘諸兄へ改名した後、諸兄の子孫は橘氏を称した。

WIKIPEDIAより引用。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E6%B0%8F
いろんな源氏が、発生した

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B0%8F
いろんな平氏が、発生した

人数の補給が足りなければ、勝てん
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/01/25 07:28

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Q織田信長は平氏?源氏?藤原氏?橘氏?忌部氏?

『尾張の織田家は元々は藤原氏、橘氏に連なるものであり、熱田神宮とも深いつながりがあったようです。
尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、津島港を押さえていたため、尾張守護の斯波氏や尾張守護代の織田本家もうかつに手を出せない立場にあったようです。

尾張における海運の発祥は、日本武尊が東国遠征から帰ったあと婚姻すると約束した美夜受比売の兄、建稲種命。
この人が尾張水軍を率いてた人で、尾張氏。
藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
この美夜受比売がのちに日本武尊から預かった剣こそ、通称、「草薙の剣」と呼ばれる「天叢雲剣」です。
そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

という内容を読み聞きしたのですが、本当に織田氏は藤原氏=熱田神宮に関係する家系なのでしょうか?
(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

Aベストアンサー

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

 また藤原だったから攻めなかったというのも、後世の後付の域を出ない内容でしょう。今目の前にいる肉親ですら平気に争っていた時代に、そんな大昔の氏族つながりがどれほど意味があったでしょう。

「氏神というものは複数存在するものなのでしょうか」
氏神が本来の“氏の祖神、祖先を祀った神社、あるいは神”という意味ではなく、郷土の産土神や有力神を氏族の守護神としたものという意味で使われているのであれば、複数存在してもおかしくはないでしょう。それ以前に藤原氏であれば氏神社は奈良の春日神社ですが、藤原といっても鎌足や不比等の流れを汲むものではなく、ステータスとして名乗っていた藤原であれば、そほど意識はしないでしょうね。

 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。
 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当で...続きを読む

Q老荘思想とはどんな思想ですか

老荘思想とはどんな思想ですか

バカでもわかるようにやわらかくお教えください。
例え話なんかも助かります。

Aベストアンサー

老荘思想とは、老子や荘子という人物によって創始された思想です。老子と荘子は別に知り合いでも何でもありませんが、考え方がほぼ同じなので両者の思想をひとまとめにして老荘思想と呼ばれています。蛇足ですが、荘子とされる人物は複数(少なくとも3人)おり、老子も含めそれぞれ生まれた時代が異なります。

孔子の儒教が「人はこう生きねばならぬ」「物事はこうでなくてはならぬ」というガチガチに固められた道徳体系であるのに対し、老荘思想は「物事の善し悪しなんて考え方次第なんだから、気楽にあるがままでいいんだよ」という自由奔放さが特徴です。

自然を崇拝し、無私無我を理想とし、自然にあるがままにいるのを善しとします。
世の中に絶対的なものや、絶対的な価値観など存在せず、すべては相対的であると考えます。

たとえば・・・
・長生きすることは良いことだとされていますが、長生きするということはそれだけたくさんつらい思いや恥ずかしい思いをすることでもあるので、必ずしも良いというわけではない。
・ある人が60歳で死んでしまったとする。60年という寿命は春に生まれ秋に死んでしまう虫に比べればとても長いが、800年生きた仙人から比べればとても短い。その仙人の寿命だって、1万年生きる亀に比べればとても短い。長い短いなんて何と比べるかによって変わるもので、長い短いを決める絶対的な尺度なんかない。
・美人は多くの人に好かれるので良いとされる。でも、美人は悪党にも好かれてしまうし、妬みを買うこともある。神様への生贄にされたり暴君へ献上されたりすることもある。美人であるということが良いこととは限らない。
・大きいけど脆いヒョウタンがあった。大きいからたくさん水が入るが、脆いのでたくさん水を入れると自重で割れてしまう。なので水を入れるためのヒョウタンなのに使い物にならないと捨てられた。でも、そんなヒョウタンでもたくさん集めてつなげて水に浮かせば筏の材料になる。役に立つ立たない、有用か無用かは使い方次第だ。
・仁や義は美徳とされているけど、ヤクザも仁義を大事にしている。戦争になれば仁や義を名分に虐殺が行われたりする。世の中の悪行の多くが仁義を名分に行われていることを考えると、仁や義も絶対的に良いものというわけではない。
・あるところに染物を生業にしている一族がいた。一族は染めた布を冷たい川の水に晒しているので、アカギレやシモヤケの薬を愛用していた。一族の一人は領主である武将に献上し、武将はその薬を大量生産して兵に配った。おかげで武将の軍勢は冬の寒さにも耐えて敵を圧倒し、勝利することができた。薬を献上したものは褒美をもらって豊かになったが、ほかの一族はそれまでどおりの生活を続けた。同じ薬でも使い方次第で成功することもできる。
・知識人は知識をたくさんため込むけど、その知識の多さゆえに常識にとらわれて何もできなくなってしまう。知識は大事だけど知識に閉じこもるのではなく、知識を超えなければ意味はない。
・本には知識がたくさん詰め込んである。でも何かをするコツとか経験とか、文字にできないものこそ本当に大事なのであって、どれだけ文章を読んでも言外の知を読み取れなければ結局何も学べない。だが、知識人は本をたくさん読んで知識をたくさんもって、何もできないのに知った風な気分になって尊大な態度をとる。読書人の読書知らず・・・

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Q現在でも源(みなもと)さんは居ますか?

天皇から賜わった姓としては「藤原」さんや、「橘」さんが現在でもわりと多いので有名だと思いますが、「源(みなもと)」さんや「平(たいら)」さんは現存しない姓なのでしょうか?
前者はよく聞く名前なのに、後者はほとんど、というか聞いたことないので不思議に思いました。

また、関連した質問として、上記の「藤原さん」たちは鎌足から脈々と続く藤原さんなのでしょうか?それともほとんど関係ないですか?
やはり藤原さんの中でも、教科書にでてくるような藤原氏の血筋の子孫は1%未満ですか?

Aベストアンサー

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和源氏)→久我家(村上源氏嫡流)
平氏  西洞院家(堂上平氏)
藤原氏 近衛家(摂関家筆頭・藤原氏嫡流)
橘氏  ※平安時代に没落
源氏と藤原氏は、細胞分裂のように数え切れないくらいの家に枝分かれしていること
はご承知のことと思います。源氏の足利・新田・武田・今川、平氏の北条・織田、
藤原氏の九条・西園寺などは有名ですね。明治維新の岩倉具視は村上源氏、三条実美
は西園寺の本家筋にあたります。

ですから、古代より脈々と続くこうした「お家柄」のご子孫たちは、上記の近衛・久我とか
九条・西園寺・岩倉・三条とかの家名を現在も名乗っておられますので、現在
藤原・源・平などを名字としている方々は、明治になってから名字としてそれらを
名乗るように決めた家ということですので、少なくとも「お家柄」の子孫ではない
と見るのが無難でしょう。
(だからといって、絶対に藤原・源・平氏の子孫ではない、とは断言できませんが)

なお、藤原道長とか藤原定家、源頼朝や平清盛などは、上記の家名がまだ無いか、
あっても定着していない時代の人物ですので、そのまま藤原・源・平を名乗っています。
藤原定家の子孫は、のちに冷泉家を名乗ります。

あと、橘さんはちょっと微妙ですね。橘氏は家名が成立する時代より前に没落して
しまっているので、家名を持たないまま橘氏のままで明治を迎え、そのまま名字を
橘にした、という地方の旧家があっても別に不思議ではありません。

私の知人にも源さんがいます。その方の家の近くに源三位頼政に関する伝承地があり、
聞いてみたのですが、「先祖代々ここに住んでいる百姓だが、源頼政の子孫とかの言い
伝えもない」ということでした。

もともと、源平藤橘などの氏(姓)は、明治になって法的には廃止となっています。その
廃止になった時に、公家や武家などのそれなり以上の地位にあった家にはそれぞれ家名
(名字・苗字)がありました。明治以後はその名字が正式な名前となります。例えば
明治維新の時点での総本家は
源氏  徳川家(清和...続きを読む

Qお公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住

お公家さんの末裔は今、どの様な暮らしをされているのでしょうか?東京在住の四条家や京都在住の冷泉家は裕福そうですが、旧五摂家や他の旧公家はどうでしょうか?ご回答よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

私の知人は藤原北家隆家流の堂上家で、ご本家は明治維新後は子爵でしたが、曾祖父の代で傍流になり、祖父が変な修験道に凝って土地を切り売りして没落、父親はそれでも一流企業の役員として悠々自適の生活でしたが、子ども(私の知人ですけど)の代で相続争いで残った資産も散逸し、現在は何とか暮らしているという状況です。

別の知人は堂上華族で、維新の後はうまく資産家のところに婿養子に入り込み、戦前戦中は上手に生き抜いて、この知人の父親の代は徴兵逃れで医者になり、知人の代でも医者や歯医者が多く、比較的裕福に暮らしています。

両方ともご本家ではなく、傍流ですけど、ご本家は神社関係の仕事をしています。

Q源平藤橘・・・・・・

源姓や平姓の武将とかはよく聞きますけど
橘姓の武将はいたのでしょうか.
有名な武将がいたら教えてください.

あと珍しい(というか源平藤橘以外の)姓を持つ武将を教えてください.
それと毛利が大江姓だったという記憶は正しいでしょうか.


質問がごちゃごちゃしていて申し訳ありませんが
教えてください.

Aベストアンサー

戦国時代の頃には家系を捏造する事が多く、源姓や平姓だと称しても実際にどうかはわからない武将が殆どです。
ですから下に挙げる例も「今に残る家系の上で」という事で事実かどうかは解らないものもありますが。

> 橘姓の武将はいたのでしょうか
楠正成の楠家は橘姓です。
ですからその末裔は橘姓なのですが「有名な武将がいたら」となると思い浮かびません。
 (織田信長家臣の楠正虎は正成の裔と称し、朝廷へ祖正成の赦免を願い出ています。
  有名な武将ではないですけどね。)


> 毛利が大江姓だったという記憶は正しいでしょうか
これも事実がどうかは別にして、家系図では大江姓です。
他にも幾つかの家に広がっていますが「有名な武将」では思い浮かびません。


> 源平藤橘以外の)姓を持つ武将
これも同じ条件ですが「有名な武将」となると・・・
菅原姓
 前田利家
大内姓
 陶晴賢
くらいですかな?

他にも、例えば戦国ゲームなどに登場する武将達の中にも多く登場するのですが(例えば安東・秋月・一柳など)有名となると少ないですね。

戦国時代の頃には家系を捏造する事が多く、源姓や平姓だと称しても実際にどうかはわからない武将が殆どです。
ですから下に挙げる例も「今に残る家系の上で」という事で事実かどうかは解らないものもありますが。

> 橘姓の武将はいたのでしょうか
楠正成の楠家は橘姓です。
ですからその末裔は橘姓なのですが「有名な武将がいたら」となると思い浮かびません。
 (織田信長家臣の楠正虎は正成の裔と称し、朝廷へ祖正成の赦免を願い出ています。
  有名な武将ではないですけどね。)


> 毛利が大江...続きを読む

Q徳川御三家と藤原五摂家はどちらが格上?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BE%A1%E4%B8%89%E5%AE%B6http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%82%E5%AE%B6

徳川御三家とは、尾張・紀州・水戸の徳川家の事です。
藤原五摂家とは、近衛・九条・二条・一条・鷹司です。

現代では、大名も摂関もありませんが、これらの家系の子孫はまだいると
思いますが、序列関係はどうなってるんでしょうか?

Aベストアンサー

五摂家はいずれも公爵(最高位)になっています。
一方、御三家はいずれも侯爵(2位)です。

働き(歴史に名を残す偉業)や過去の年収などもありましょう。

水戸斉昭を例に取れば従三位中納言ですが、正一位大納言を贈られます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E6%96%89%E6%98%AD

正一位を例に取ると江戸時代は徳川家に軍配が上がります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E4%B8%80%E4%BD%8D

明治になると過去の「働き」を讃えるようになります。

Q自分が在日かどうか調べる方法

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証明)を取れば両親のこともわかるのですか?
母親の祖母が在日で帰化していた場合、その事はどの世代まで表記されるのでしょう?

ちなみに私は両親の戸籍から分籍(転籍)しており、本籍は東京ですが、出身および両親の本籍は大阪です。


在日か調べたい→戸籍を取れ、という解答はよく見るのですが、
具体的な方法が見つからず困っています。


また在日がどうのという質問に非難が集中している様子を見ることがありますが、
まぁ私のアイデンティティを明確化させたいだけですので、今回はご容赦ください。
日本生まれの日本育ち、ここ数世代の直系は全員日本人の日本人!と、
日本生まれの日本立ち、でも曾祖母は朝鮮人だから87.5%はチョッパリニダ!では、
やはりちょっと心持ちが変わるので、はっきりさせたいのです…。

今年で21才になりますが、自分の起源がどこにあるのかわかりません。

今まで運転免許を取ったり、引っ越ししたり、分籍をしましたが、特に苦労したことはありませんでした。
それに親からも在日外国人の家系である、というような事を言われたことはありません。

しかし確実に、ここ数世代のうちに、外国人が混じってはいない、という確証がありません。


ということで自分が在日外国人の流れをくんでいるか調べたいです。
この場合、どのような手段を取ればいいのでしょうか?

自分の本籍地で戸籍謄本(全部証...続きを読む

Aベストアンサー

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで韓国併合政策により在日朝鮮人はもとより、朝鮮半島にいる朝鮮人まですべて大日本帝国臣民扱いで法律上、外国籍ではなかった(両者とも本籍は半島にある)。
昭和20年の終戦を迎え在日の多くは半島に帰国しましたが、日本に残ったり、また朝鮮から戻ってくる人達もおりました。
明治時代から昭和26年までの間に朝鮮より日本へ渡って来た朝鮮人達は昭和27年にそれまであった日本の国籍を失って正式に外国籍となる。そして、在日朝鮮人の日本国への帰化が始まったのも昭和27年。

古来からの日本人家系なら苗字漢字に制限なく明治時代からの苗字漢字を継続できます。
在日朝鮮人の帰化が昭和27年に始まり、名前の漢字制限(上記)は昭和23年に始まってますから、朝鮮籍、韓国籍から日本に帰化した者は旧字体漢字で帰化するチャンスがなかったんです。

簡単な調べ方としては『住民票』での苗字名前漢字が旧字体で表記されてるなら明治時代からの日本人家系。
新字体ならば、
「戦前の家系状況が分かる戸籍みせて」と役所に言ってみること。
戦前の家系状況が記されていて朝鮮人を思わせる記述がなければ日本人。
戦前の家系状況が分かる戸籍を見せてくれない場合や戦前の戸籍が日本以外にある場合は帰化人だと判断できます。

戸籍取得方法は先に回答されてる方法をやるといいでしょう。

ただ、例え純粋な日本人でなかったとしても質問者さんが日本が大好きで在日の方々のように反日感情を露わにされるのが不快に感じるなら、心はちゃんと日本人ですよ。

…私も可能性はあるかもしれないんで経済的に余裕が出来れば戸籍を追ってみたいです。


以上、参考程度に

・コリア系の帰化人には
『沢=澤・浜=濱・斎、斉=齋、齊・辺=邊、邉・薮=籔、藪・塩=[旧字、パソコンでは出てこない…]など』の旧字体漢字が使用できません。
『渕、蔦 、[旧字体](高)など』も使用できません。
※ただし、在日外国人なら、日本の戸籍規則に縛られないので通名としてなら上記の漢字は使用できます。


朝鮮人の方々が日本に渡って来だしたのは明治43年頃の韓国併合のときから(鎖国解除後の42年までの間はせいぜい年に0~20人程度)。
明治43年から太平洋戦争が終わるまで...続きを読む

Q橘氏と立花氏

橘氏と立花氏はつながりがあるのですか?

橘氏は皇族の出で 橘諸兄や奈良麻呂などがいます
立花氏は戦国時代に立花道雪と義理の息子の宗茂が名乗っています

しかし道雪も元は戸次姓だし宗茂も高橋姓です


この両家は同じ 「たちばな」 なのでしょうか?

Aベストアンサー

いわゆる源平藤橘の「橘」姓と豊後大友氏の庶流である「立花」氏との関連という意味で理解しました。
つながりはありません。まったく別の「たちばな」です。

立花氏は、大友氏の一族が立花山城に居住するようになったことから名乗るようになったといわれています。つまり、地名由来の名字です。
また、大友氏は藤原姓とされており、橘姓とも関係ありません。もちろん大伴姓とも関係ありません。

なお、戸次道雪の戸次氏も筑後高橋氏も橘姓ではありません。

Q天皇家・藤原氏・蘇我氏の出自について

私はよくインターネット等で天智天皇は百済の王子の翹岐王だったとか
蘇我氏は名前が渡来系っぽいから百済人や藤原鎌足は豊璋だとか言っている人を見ます
そこで疑問があります。

まず、いくら王子だからとはいえ日本の属国であった百済の人間が
まして国外追放されて亡命してきた翹岐王や人質としてやって来た豊璋のような人間たちが
頑張ったとしても、朝献をする国の外国人が日本のトップである天皇や
その側近に成れるものなんでしょうか?
名前を隠して入れ替わろうにも周りも馬鹿じゃないんだからバレて入れ替われないでしょうし
普通は周りの人間が大反対してそんな地位にはなれないんじゃないでしょうか?

倭が391年以来、海を越えて襲来し、百済や新羅を破って服属させてしまった。 (広開土王碑)
新羅百済は倭を大国と崇めた (隋書81巻東夷倭国)
新羅の4代目国王の昔脱解は日本人 (三国史記 新羅本記)
百済の王が王子を人質として倭国に送る (三国史記 百済本紀)
新羅は倭国に奈勿王の子未斯欣王子を人質に送る。 (三国史記 新羅本紀)

Aベストアンサー

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾取される側の人間でした。
外国人が天皇に成り代わるなんてのは不可能です。

インターネットでそういったトンデモ説をご覧になり、疑問を持たれたとのことですが、みんなが皆、疑いを持つとはかぎりません。高校の日本史ですらまともに勉強してこなかった人や、おもしろければなんでもいい人、思想的に偏っている人など、さまざまな人たちがいます。

そういった、インターネットで見かけただけで、あっさり洗脳されてしまいそうな人もいるのですから、教えて!gooのようにネット検索の上位にヒットする場でこのような質問をされるのは控えていただけないでしょうか。
知らずに一生を終えるであろう人にまで興味を持たれて、トンデモ説が広まってしまいます。
無視が一番です。

『日本後紀』延暦二十三年四月二十七日条の和朝臣家麻呂薨伝に、「蕃人入相府、自此始焉」(渡来系の人として公卿になったのは、家麻呂が最初である)とあります。
桓武天皇の母方のコネで、渡来系氏族からようやく中納言や大納言に昇ることができたわけです。

ましてや律令制以前の世襲的に職掌の継承が行われる時代であれば、渡来人は差別を受けて、高官に昇ることはほぼ無理です。マエツキミ(のちの参議にあたる議政官)クラスでも、秦河勝ら数例しかありません。彼らは、基本的には技術官僚として貴族層に搾...続きを読む

Q安曇族の起源を教えてください。

信州の安曇地方に住み着いた安曇族は福岡の糟屋郡からやってきたといわれていますが、糟屋郡の地名を探してもあずみ、あづみの地名がありません。
どこにいた人たちなのでしょうか?
なにをしていた人たちなのでしょうか?
どうして安曇野に移住したのでしょうか?
現在わかっている範囲で結構ですが、是非知りたいと思い投稿しました。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

>どこにいた人たちなのでしょうか?
ネットで百科@Home(世界大百科事典)によれば、
発祥地とされる「筑前国糟屋郡阿曇郷」は現在の「福岡市東部」のようです。
なお、都市ゆえに市町村合併・行政区画変更・住居表示実施・区画整理などによる町名変更の変遷もあるでしょうから現在町名・字名のみに基づく検索には無理があると思います)

>なにをしていた人たちなのでしょうか?
古代日本を代表する海人族・安曇氏(阿曇氏とも記す)。その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易をし、海部(あまべ)を支配して勢力を誇った有力な豪族。水軍ゆえに、あちこちに移住しその勢力を拡大。
筑前国糟屋郡安曇郷(福岡県)、伯耆国会見郡安曇郷(鳥取県)、美濃国厚見郡厚見郷(岐阜県)、三河国渥美郡渥美郷(愛知県)・・・。いずれも、海人・安曇族の住みついた地とされ、「アヅミは、阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積などと表記され、足跡は瀬戸内海を経由し阿波、淡路、播磨、摂津、河内、近江などに及び、琵琶湖西側には安曇川の地名を残しているようです。

>どうして安曇野に移住したのでしょうか?
既にご存知かもしれませんが、こちらのサイトなどは如何でしょうか?
http://www.valley.ne.jp/~ariakehs/Azumi-zoku/azumi.html
門外漢なので見当違いならm(_"_)m

参考URL:http://www.valley.ne.jp/~ariakehs/Azumi-zoku/azumi.html,http://www.valley.ne.jp/~ariakehs/

>どこにいた人たちなのでしょうか?
ネットで百科@Home(世界大百科事典)によれば、
発祥地とされる「筑前国糟屋郡阿曇郷」は現在の「福岡市東部」のようです。
なお、都市ゆえに市町村合併・行政区画変更・住居表示実施・区画整理などによる町名変更の変遷もあるでしょうから現在町名・字名のみに基づく検索には無理があると思います)

>なにをしていた人たちなのでしょうか?
古代日本を代表する海人族・安曇氏(阿曇氏とも記す)。その本拠地は北九州の志賀島一帯、遠く中国まで交易をし、海部(あ...続きを読む


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