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 《神》という言葉は 《方便》である。

 《神》という漢字  《かみ》という日本語・その発音 みな方便だ。

 《補助線》である。《神》を知る上で引いた補助線でしかない。

 補助線は 神本体ではない。

 
 タトエであり 仮りの表現であり シルシである。

 
 方便として用いているに過ぎない。




 これを問います。どうでしょう。

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A 回答 (14件中1~10件)

> 《神》という言葉は 《方便》である。


⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。

(1)その昔(ある意味では、現代も)、人間は弱い存在でした。天変地異・生老病死・内憂外患など、常に危険に翻弄されて、どう考え、判断し、対応したらよいか…。何かに頼りたくなったであろうことは容易に推量できます。
(2)神はそのような状況の中から要請されたことでしょう。キリスト教のような、いわゆる一神教にとっては、神は「絶対者」です。信徒らは、「すべてを神に仮託」していました。
(3)ただし、そういう絶対的存在者としての神といえども、人間のすることに直接手を下すことはしない(実は、「できない」)。ですから、悲惨なことが起こって、神に泣きついても、神は何もしない(実は、「できない」)。せがんでも、せいぜい「それはあなた(人間)自身の問題です。自分でよく考えて対応するように」とか言うのが関の山…。
(4)一方、哲学者が「神の存在を想定する」ことがあります。それは、人間に分からないこと、人間の智恵を越えることを司る者として「全能神」を想定するような場合です。つまり、哲学者にとっての神は、人智を越えるものを統括する、統覚者的存在です。
(5)キリスト教徒が「絶対性」を神に仮託するように、哲学者は「人智を越えること」を神に仮託する。何のためか。1つには、人間が持てる知力を尽しても分からないことがあっても、それを等閑視することのないようにするためである。あるいはその探求や模索を厭い、不可知論などに陥ってしまうようなことを阻止するためである。すなわち、「(神への)一時預かり」という措置を講じるためである、と考えます。
(6)ゆえに、神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います。私は特に宗教を奉じている篤信者でも何でもありませんが、上に述べたような神(的絶対者)には、こよなく親しみを覚える者です。
(7)ですから私は、特定宗教の入信の誘いなどにはまったく関心がありませんが、仏典であれ聖書であれコーランであれ、その「教えそのもの」には大いに関心・興味を抱く者でもあります。その教えを考えることはまさに「哲学する」ことでもあると感じています。
(8)(「絶対性」を神に仮託する)第2の理由は、地球上の生命全体の生殺与奪の力を持ってしまった人間が、独断で「人間帝国」を造ったり、相互の対立抗争の果てに、自分自身を含む地球生命全体を滅ぼしてしまうことが起こらないようにするための方策の1つである、と考えます。
(9)繰り返しますが、神とは、「人智の及ばないことを統覚し、それを司る絶対的存在者」のことを呼ぶ別名でしょう。ですから、当然ながら、フォイエルバッハも言うように、「神とは、まさしく人間自身、人間の自己写像」に過ぎません。
(10)ところが我々人間は、知識を増やすことに汲々として、肝心な「智恵」を育むことに意を用いない傾向があると思います。アインシュタインは言ったそうです。「無限なものに2つある。宇宙の広がりと人類の愚かさだが、前者については確信がない」、と。これすなわち、「人類の愚かさについては確信がある」ということではないでしょうか。こういう愚かさから逃れようと願うならば、真摯に学んで「本当の智恵」を求めることにこそ腐心すべきではないでしょうか。
(11)かつて外国の新聞で読んだ記事によると、人間は99.7%の確率で自滅する、とのことです。「中途半端に頭がよくなる」と、破壊する能力が創造の能力を上回って、地球もろともダメにしてしまう、というのです。数値の信憑性は定かではありませんが、その内容、言わんとすることは、「さもありなん」ですね。つまり人間は、ほとんど「自殺に近い形で滅亡する」可能性が高いということであり、それも「中途半端に頭がよくなった」ことが原因になる、ということでしょう。
(12)とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。そのためにこそ、「こういう問題を考えましょう!」。そのためにこそ、「哲学しましょう!」。

以上、ご回答まで。

この回答への補足

 No.8のねわーねすさんも 対抗する見解を寄せてくれました。それと同じように拮抗する見解を寄せてもらいました。
 こちらを BA としました。

補足日時:2014/01/29 17:06
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この回答へのお礼

 そうですね。まづは ご回答をありがとうございます。

 これは すでに全体としてひとつのまとまりを持った論文ですので わたしからの応答としては わたし自身が 神もしくは信仰ならびに〔信仰の偽造物としての〕宗教にかんして考えるときの発想や 基礎的な前提となる視点・視座をしるして 互いのさらにこれからの問い求めへのあらたな出発点とします。



 § 1 日本語における《かみ》をとらえる。

 大野晋(古語辞典等)によりますと 日本語の《かみ(神)》は文献〔あるいは民俗学等々〕で分かる限りでは 次のような意味を持ったと言います。

 ○ かみの原義 ~~~~~~~
  1. カミは唯一の存在ではなく 多数存在している。
  2. カミは何か具体的な姿・形を持っているものではない。
  3. カミは漂動・彷徨し ときに来臨して カミガカリ(神憑り)する。
  4. カミは それぞれの場所や物・事柄を領有し 支配する働きを持っていた。〔産土神・山つ霊・海つ霊。またそれぞれの――石ならや磐座(いはくら) 木なら神籬(ひもろき)といった――依り代がある〕
  5. カミは――雷神・猛獣・妖怪・山などのように――超人的な威力を持つ恐ろしい存在である。

  6. カミはいろいろと人格化して現われる。〔明つ神・現人神〕
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この(6)の《神の顕現 ないし 人格神》は (3)の《神憑り》――つまりアニミズム=《ヨリ(依り憑く)》なる原始心性の神がかりを一段高いところから人為的に演じて神のことばを得ようとするシャーマニズム――を採り入れたものと考えます。ですから ほんとは《見えない》〔(2)〕のが 原義だとも受け留められます。


 カミがまったく姿を現わさないかと言えば 例外の事例があります。ヒトコトヌシ(一言主)のカミが 現実の姿になったところを 雄略ワカタケルは葛城山で見たし 話もしたと言います。一言主の神は こう名乗ったそうです。

  《あ(吾)は悪事(まがごと)も一言 善事(よごと)も一言
   言離(ことさか・言い放つ)の神 葛城の一言主の大神ぞ》
                      (古事記)

 いろんな説があるかと思いますが たとえば――日本語の世界だけではありますが――《神鳴り=雷》 これなどは 自然の感覚で《おそれ》ならおそれ(怖れ・畏れ)を 原始心性そのままに表わしているのではないか。とは思います。つまり 神の――人間の心にとっても・そのコトバとしての――起源としてです。





 § 2 信仰をもともなった歴史知性の誕生ならびに宗教の興り

 はじめに図式をかかげます。


 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム
 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り。《世界‐内‐存在》
 +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 
     社会力学上(政治的に) 寄せる。


 スーパー歴史知性とは 《依らしむべし 知らしむべからず》なる見地をしばしば生みます。

 
 ヨリ→イリ→ヨセの順序を歴史的に想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。これが 宗教の始まりだと考えます。

 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性の要素を備えているでしょうから(つまり アニマル・スピリットをむやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科学的な――心性として いわゆる信仰(非思考)をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。

 ところがこの時空間を知った・すなわちおのれは時間的存在であると知った・また 人間は死すべき存在であると知った歴史知性 この言ってみれば潜在的にはすでに近代人の理性を持ち合わせたヒトから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。

 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(ムラの)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 穀物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。

 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰やムラムラの生活を束ねる宗教であり政治です。

 古事記には こうあります。

   その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメの
   ミコトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。
  

 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。

 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。


 § 3 信仰とは わが心なる《非思考の庭》が成ること

 これも図式で示します。


 ○ 信仰とは 《非知》の領域である ~~~~~~~~~~~

   経験
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)

 
  ○ (非知なる非経験の場(神)⇒非思考の庭)~~~~~

  非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
 _______________________

  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
 ________________________

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2014/01/27 13:35

 「お礼」への丁寧な書き込みをありがとうございます。



 ご説明全体をじっくり読ませていただきました。民俗学や日本の古典に弱い私には初耳のことばかりですが、興味深く拝読しました。
 専門分野こそ違っても、共通する何かがありますよね。それは、常に「哲学する」というスタンスであり、アプローチの方法が異なるだけで、同じ「人間学」への探求である、と言えるのではないでしょうか。その意味で、お互いの考えに通底するもの、共感できる発想と精神のようなものを感じることができました。

 質問者と回答者の立場が逆転した観がありますが、いい意味で情報交換の場が持てたことに感謝します。ご返信とご教示をくださり、ありがとうございました。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。



 あらためて力点を再度かかげます。


  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教



 このように《非思考と思考 / 信じると考える / 信仰と宗教》 このふたつを峻別することが大事ではないかと思っています。




 勝手に質問者が出しゃばりました。それも 日本の民俗に例を採った思考にかぎっています。



 ★★(回答No.10) (6)ゆえに、神を想定することは、最も人間らしい知的営為の1つであり、古今東西の人々の英知であるとも思います。
 ☆ この認識が 互いの接点であるのではないか。そうして わたしの場合は 思考に非ずのナゾの領域へと片向いており どちらかと言うと なかい702さんは フォイエルバッハのごとく人智のはたらきをつよく見る方向を向いておられる。


 まだまだ如何様にもというほど 世界は広く深いと思いますので 問い求めをすすめて行けるものと思います。



 この主題については ひとまづお開きとしましょうか。

お礼日時:2014/01/29 14:08

>神というコトバが うんちするのかい。



「快便」とおおせなのであって、「うんち」とは言っていないぞ。

神は、方便ではなくて 快適で便利だ とおおせである。

それにしても、暉彦は出臍やらウンチが好きだな。うんこたれとかで検索すると排泄物を扱う暉彦にぴったりの哲学的サイトがあるから、会員になって堪能してみたらいい。
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 前便で、舌足らずの部分がありました(特に、最後の(12)に大事な言葉を入れるのを失念していました)ので、補筆の上再送いたします。



> 《神》という言葉は 《方便》である。
⇒確かに、そのとおりでしょうね。その内容、というか、経緯・背景・目的・当為などを、例によって箇条書きしながら考えてみたいと思います。(類似の質問への回答として書いたことと一部重複しますので)すでにどこかのスレで読んだことのあることも含まれるかも知れませんが、その節は悪しからず。

(12)とはいえ、一縷の望みはあります。「自滅の確率が100%ではない」ということです。我々は、残る0.3%にこそ頭を使うべきだと思います。そのためにこそ、「こういう問題を考えましょう!」。そのためにこそ、「哲学しましょう!」。そして、「“本当に頭がよい”とはどういうことかを模索しましょう!」。

 以上、追伸まで。
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この回答へのお礼

 訂正された部分について 了解しました。


 だいたい No.10お礼欄での書き込みで いまのところお応えしえたかなと思います。

お礼日時:2014/01/27 13:36

池袋駅で毎朝のように神に会うので聞いてみたら、いつも快便だそうだぞ。

方便ぢゃない!
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この回答へのお礼

 神というコトバが うんちするのかい。

お礼日時:2014/01/27 09:24

2. 梵我一如の思想


http://user.numazu-ct.ac.jp/~nozawa/b/bonga.htm

「AをBとウパースする」

~~~~~~~~~~~~~~

なんとかはブラフマンである。
アートマンはブラフマンである。

神は古代の王である。

もしかして、AはBとウパースしていただけ?

ウパースだけど、

有は無とウパース可能なのか?
勝利は敗北とウパースできるのか?
生は死とウパースできるのか?

同一視の論理に対抗するだろう差異すらウパースできるのか?
神は人間とウパースする?
ありとあらゆる反対概念を結びつけて、敵対者の価値を転倒させることが可能になるのでは。
だから呪術なのかもしれませんが。

さらには
イエスをキリストとウパースする。
ゴータマをブッダとウパースする。

とか。

~~~~~~~~~~~~~~

生死即涅槃とか一即多とか、もう全部ウパースで
発想が古代の呪術とか瞑想と変わらないのではないか、と思いました。

ウパースだけど、

方便ウパーヤと関係があるのかはわかりません。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ウパースだけど、 / 方便ウパーヤと関係があるのかはわかりません。
 ☆ この方便という意味の場合は ウパース=近づく という用法から 近づく方法・手立て→方便を言うとあります。

 ウパースには いろんな意味があるようですね。《同一視する》は 《 regard A as B 》といった意味なのでしょうか。




 
 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 生死即涅槃とか一即多とか、もう全部ウパースで
 発想が古代の呪術とか瞑想と変わらないのではないか、と思いました。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは これでは おもしろくないですよ。
 つまり
 ▼ (2. 梵我一如の思想) 同一視の論理」は呪術の論理で、たとえば、獲物の足跡に傷をつける猟師のまじないがある。足跡を獲物の足と同一視して、それに傷をつければ獲物は遠くへ逃げられないと考える。
 ☆ これだけだったら おもしろくないですよ。これは くだらない。
 
 しかるべきものを 梵我一如のごとく 同一視するのでなければ。と思うのですが そういう思想はないのでしょうか。


 

お礼日時:2014/01/26 22:06

bragelonneさん、こんにちは。



>《神》という言葉は 《方便》である。

そうではなく、かつ、そうであったのでしょう。恐らく、「祈り、願う」対象=こころの作り出したもの=に名称をつけたものが、「そのもの」に転化し、同一視されたものだと思います。

この場合、名称=対象という関係を結びます。仏教でいう「真言」はことばです。

信じるという行為が、必然として、自分以外の場所に信じる対象を求めるからでしょう。
偶像は禁じられてもつくられる。それに向かい手を合わせる。実際に作られなくても、それがあるとされる方向を拝む。その行為や祈りの言葉が向けられる対象が「かみ」や「神」と呼ばれる。そういう機構です。

目に見えず、触れられもせず、ただ「ある」と信じ、信じ続けるために「名称」を必要とします。それが日本語では「神=かみ」であるという「音」によって言い表せる対象として広く定着してきたのだと思います。もちろん具体的暴力や示威行為が権威という鎧を纏って、上から下へと命じられた場合が多いでしょうが。

したがって、

>方便として用いているに過ぎない。

のだけれども、それが全てである、それ以外はない、そういう理解をしています。

もちろん人により、「神」「かみ」ということばの他にその実体をもとめようとし、かつその実体について、ことばを主に崇める人たちに対して、「お前たちは何も分かっていない」と云い募るのが自分の「宗教」活動であると思う人もいるでしょう。
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この回答へのお礼

 ねわーねすさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。


 簡潔にお応えできると考えます。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 したがって、

  >方便として用いているに過ぎない。

 のだけれども、それが全てである、それ以外はない、そういう理解をしています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち

 ○ 神は 神という言葉=文字=音韻としてのシルシであるが これは 何か別の・すなわち神本体といった存在のための《方便》でも何でもない。

 つまり 神は そういう記号でありシルシとして使われているのみだ。それ以外に何もない。


 こういうご見解ですよね?



 ということは いわゆる無神論としての神論であり信仰である。こう捉えます。


 こうです。:

   神本体は有るか無いか? 
   ――分からない。人間には 分かるか分からないかが分からない。

   それでも 神という言葉が用いられ シルシでありときに方便である。

   シルシに過ぎない――つまりその背後には もう何も本体などはない――と見る向きは 《無い神》を受け留めている。有る神を信じないというかたちで 信じている(受け留めている)。

   方便でもあると見る向きは そのまま背後に本体が有ると思っている。そういうかたちで 受け留めている。そういう役目を 神という言葉は その人たち――すなわち有神論者たち――には になっている。


 はっきりしたと思いますが どうでしょう?

 すなわち どちらの神論・信仰形態も ありであり 互いに同等である。こう考えます。

お礼日時:2014/01/26 16:42

「神」という意味が日本(神道)とキリスト教、イスラム教で


異なっています。
日本の「神」は、一応、我々の祖先ということになっていま
す。
他方、彼らの「神」は「唯一絶対者」というような意味であり
創造主として存在しています。
「神」は宗教を抜きには考えづらいので、何故宗教が必要
も考える必要があります。

人間の社会が発生するとそれぞれの勝手な考えでは社会
が機能せず、規則・法律ができたと考えられます。
しかし、個々人のいろんな考えを全て統制できるような規則・
法律はできるはずはなく、その上位概念である宗教が発生
したと考えられます。
数学でいう「定理」の上の「公理」と同じ概念です。「公理」は
証明不要の約束ごとです。

宗教も、その民族にとっては説明など不要の信心となってい
ます。
「神」も証明不要の存在でありますので、その社会を機能させ
る「方便」と言えなくもありません。
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この回答へのお礼

 だんかい_まえ_M さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。

 ★ 「神」も証明不要の存在でありますので、その社会を機能させる「方便」と言えなくもありません。
 ☆ ひとつの賛成票として受け取りました。


 そうですね。異なった見方考え方もありうるというかたちで お言葉にさからったことをしるしてまいります。

 ★ 宗教も、その民族にとっては説明など不要の信心となっています。
 ☆ この問題ですが わたしの場合には

   ・個人の主観内面における信仰
   ・集団ないし組織にとってのオシエをかかげる宗教

 これらを峻別しています。なぜなら オシエは もともとは信仰から得られたヒラメキをつうじて観想として捉えこれをさらにふつうの思想として言葉に表現したものであり これはけっきょくすでに《考える》ものであるのに わざわざあたかも《信じる》ものだと どういうわけか されている。ここに大きなマチガイを見ます。

 たとえば 《和を以って貴しと為せ 逆らうこと無きを旨とせよ》は オシエです。もっともこれを宗教という人もまれでしょうが 言うならばこの命題と同じように 宗教のオシエは 考えるべき主題であるものをそのまま鵜呑みにして信じるというかたちになっている。これは もってのほかだと考えます。

 なぜなら 和を貴しとするのは ふつうに人生を送り人びととの共生を思い 出来るかたちで助け合い互いに社会生活をいとなむところに生まれているナラワシであって 何も誰か偉い人が言ったから その通りだとなるわけではなく そういうオシエとして広く受け容れられているからとうとぶものでもないわけです。

 要するにこの《みことのり》は 市民らの生活日常の中からそのエートスを取り出して パクッたに過ぎません。

 この事例に見られるように:

 ● 宗教は もともと個人の信仰にもとづき生き暮らしていたところの思想(つまり生活態度)から 倫理規範となるようなものを取り出し これをわざわざオシエとしてかかげるようになった場合の その《ムレタガリ》でしかない。

 と考えます。

 ● 宗教は 信仰という蝉の抜け殻である。

 このシュウキョウがはびこるのは 社会が 一階と二階とのからくりになったからです。お二階さんの統治のために間接的・直接的に利用されている。ただこれだけのものです。



 ★ ~~~~~~~~~~~~
 しかし、個々人のいろんな考えを全て統制できるような規則・
 法律はできるはずはなく、その上位概念である宗教が発生
 したと考えられます。 
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ですから 《上位概念》(ないし げんみつには 次元の違う《非思考の庭》)として《信仰》が持たれている。そこから 道徳のごときオシエが引き出され さらにはそのオシエの思想を一定の(人びとのマジワリとしての)交通法規のごとく法律にも採用した。こうであるはずです。


 ★ 数学でいう「定理」の上の「公理」と同じ概念です。「公理」は 証明不要の約束ごとです。
 ☆ つまり 高い次元の信仰――非思考の庭――において得られた観想(テオーリア)が 《公理》として見なされましょう。《ひとは人を――自分をも他人をも――ころしはしない》というヒラメキなる観想(つまり 公理)から 《なんぢ ころすなかれ》という律法(法律)が得られて来ます。これが 宗教であり自然法でありまた実定法であると考えられます。



 ★ 人間の社会が発生するとそれぞれの勝手な考えでは社会が機能せず、規則・法律ができたと考えられます。
 ☆ これは・つまり 直観なる生きる知恵をわざわざ集団にとってのオシエやキマリとして活用するというのは 一定の単位社会において けっきょく《おれに対して上からマナザシをふりそそぐ者はあるべからず》とその心を決めた人間 言いかえると 《いかなる者の下にも立つまい》という決心を持った人間――これを アマテラス族と言いますが―― この人間が出たところで 社会は 一階と二階との構造的な成り立ちになった。こう捉えます。

 優秀で品行方正だったのですが ひとの言うことを聞かないのが玉にきず そういうアマテラス族は アマアガリを欲しました。あまりにもしつこいので人びとは根気負けして その人たちに第二階をあてがいました。ここで 社会は 二階建てとなりました。《くにゆづり》と言います。

 やがてお二階さんたちは 秩序をおもんじるといった名目で 言わばやはり上から《人びとのマジワリにおける交通法規》を・つまり法律を制定しその決まりにもとづき社会生活をおくるということになりました。
 和を重んじるなら この二階と一階との統治関係には逆らうな。手を出すな。と言って 既得権益を守るかたちで生きることしかしなくなって行きます。



 ★ 「神」は宗教を抜きには考えづらいので、何故宗教が必要も考える必要があります。
 ☆ 一階だけの・平屋建ての社会のときには 一人ひとりの信仰のもとにいとなまれるふつうの共生だったのが 二階建てになると オシエが出来たのです。

 あるいは 平屋建ての世の中の頃には ムラそれぞれにおいて収穫の感謝を神にささげるというマツリが行なわれていた。二階建てになると この各地のマツリを一挙に寄せ束ねて 二階からするマツリゴトの形の中におさめられて行きました。むろん 収穫の初穂を神にささげるマツリが お二階の偉いさんに貢ぐものとして成った。こういう移り変わりのもとに 《神》もあります。

 ムラムラのマツリにおけるそれぞれの神は 統一第二階にましますマツリゴトの神に従属するようになったわけです。これが 共同自治としてのマツリゴトであると同時に 宗教でもある。こういうことではないでしょうか。


 ★ 日本の「神」は、一応、我々の祖先ということになっています。
 ☆ それだけではないでしょう。目に見えない神 これが原義だと考えられます。つまり 神は その意味で どこでも同じだと見ます。どうでしょう。

お礼日時:2014/01/26 15:40

追記。



古代の王が神という話でもいいんですが
もちろん自然現象が神々とかなんでもいいんですが、

インドの方面を調べているうちに
クシャトリヤとバラモンの対立が気になって

もしも、ヴェーダの神々にクシャトリヤがいるとして
この場合、インドラとか?

神々に祭祀をすると

バラモンはクシャトリヤに
支配されていることを認めることになります。

それを認めたくなければ
神々に反逆する思想が出てもおかしくはないような。

バラモンが何を考えたのかは気になります。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~
 もしも、ヴェーダの神々にクシャトリヤがいるとして
 この場合、インドラとか?
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ えっ? どういうことですか?

 神々のひとりに クシャトリヤがいる ですか?
 インドラ神は クシャトリヤのたとえば出身だとか そういう意味ですか? (ぎゃくですかね)。



 ★ ~~~~~~~~~~~~~~
 神々に祭祀をすると

 バラモンはクシャトリヤに
 支配されていることを認めることになります。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ どうなんですかね。

 異なったふたつの見方を出した方が 問い求めには効果があると思うので 確認もせずに言いますが 要するに社会的な権力を握る者としてクシャトリヤ階級がチカラを得て来たところで 神々の体系も それにつれて変わるものは変わって行った。こんな感じのひとつの見方もあり得るのではないかと思って提出します。


 ★☆ バラモンが何を考えたのかは気になります。

お礼日時:2014/01/26 13:35

アドナイ・エロヒーム



主なる神々ですが

アドナイを見るたび、
階級社会をイメージしてしまいます。

私の主人。

これが夫のことなのか、
奴隷を所有する主人なのか

よくわかりませんが。

エロヒームは、エルの複数形なわけで、

ユダヤ教も昔は多神教だったのでしょう。

それで、宗教改革をやって、一神教になった。

人間が平等だった時代から
階級がわかれたときに、

つまり、主人が誕生してから

アドナイ・エロヒームもできたんだと思います。

では、やっぱり古代の王が神々だったんだろうか。
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この回答へのお礼

 かざみどり365さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。



 ★ ~~~~~~~~~~~~
 アドナイを見るたび、
 階級社会をイメージしてしまいます。

 私の主人。
 ~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ううーん。だけではないように思うのですが。

 原文を確認しないで言ってしまいますが マムレの木の蔭に憩っている三人の旅人をアブラハムが迎えたとき やはり《主〔たち〕よ》と呼びかけたりしていませんか?

 お客さんを迎えるときにも 主人の側が相手に向かって《主よ》と呼びかけませんか?

 つまり 階級にかかわる社会秩序としての上下関係のほかにも 敬語としてのアドナイがあるのではと思いました。




 ★ それで、宗教改革をやって、一神教になった。
 ☆ 質問者は 周知のごとく天の邪鬼ですから 回答者を向こうにまわしてさからいますが これは・つまり宗教改革は すでに唯一神をいだくようになっていたところに ほかの民族の神や多神なる神々が入って来て 人びとはそれらを拝んだりするので《改革》をしたのであって 多神教から一神教へと改革したのではないと思います。



 ★ エロヒームは、エルの複数形なわけで
 ☆ あれっ? それはそうですが 《尊厳の複数形》ってご存じないですか?


 ▼ ( Wikip:Nosism ) ~~~~~~~~
 http://en.wikipedia.org/wiki/Nosism

 ( 《 nos (= we )》を次のような場合に実質的に単数であるところの主体・主格形に用いるという)。

 1.The royal "we" or Majestic plural(尊厳を示すため)
 2.The editorial "we"(編集者の立ち場から)
 3.The author's "we" or pluralis modestiae(著者として)
 4.The patronizing "we" (相手との親近感をかもすため)
 5.The non-confrontative "we"(相手と一体であるわれとして)

 ▼ (〃:Royal we) ~~~~~~~~~~~
 http://en.wikipedia.org/wiki/Majestic_plural

 § Non-Western usage

  (聖書での用例)Several prominent epithets of the Bible describe the Jewish God in plural terms: Elohim, Adonai, and El Shaddai.

  Some scholars take these names to represent an early stage in Jewish religion when God was still seen as a council or family of deities
  (ふるくは 神々の一家族もしくはひとつの合議体として神が捉えられたのではないかと言う);

  others note that the present Biblical text always employs grammatically singular verb forms and argue that they represent a majestic plural.
  (ところが 名詞は――エローヒームなら男性複数の‐イームのように――複数形を採っているが その動詞の活用形では 単数であるといった用例から考えるに 複数形は 《尊厳の複数形》として用いられているのではないかと言う)。

 ▼ (〃:Pluralis excellentiae ) ~~~~~
 http://en.wikipedia.org/wiki/Pluralis_excellentiae

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 神は 名詞として複数形であり それを承ける動詞は 単数形である例:

 ▲ (Genesis 1:1) ~~~~~~~~~~~~~~~
  http://www.blueletterbible.org/Bible.cfm?b=Gen&c …
  בְּרֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָֽרֶץ׃

 △ (KJV):In the beginning God created the heaven and the earth.
 △ (新共同訳):初めに、神は天地を創造された。

 ・ God אֱלֹהִים 'elohiym : plural
 ・created בָּרָא bara' : 3. singular

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お礼日時:2014/01/26 13:28

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