『機械とは手の延長である』という比喩を用いた、哲学者を探しています。
また、その比喩が用いられている、作品(?)を探しています。

この2つを教えて下さい。

A 回答 (2件)

カントだったと思います。


出典の方は、判断力批判だったでしょうか。自信ないです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
でも、違ったみたいです。
回答してくれたのに、ごめんなさい。

お礼日時:2001/06/12 20:37

「湯川秀樹」博士の『目に見えないもの』のにあると思います。



参考URLはamazonでの『目に見えないもの』の紹介です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4061580 …
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。
でも、違ったみたいです。
回答してくれたのに、ごめんなさい。

お礼日時:2001/06/12 20:37

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Q実践哲学者とは?また実践哲学者になるにはどうすればいいですか?

いろいろな考えがあると思いますが、ご指導頂きたいです!

Aベストアンサー

こんばんわ。

良く考えて、その考えに基づいて行動し、自分の考え/行動を広める

・・・ってコトじゃないでしょうか?

Q哲学・哲学者は社会でどのような位置にいるのか、また、どのような位置にいるべきか?

哲学・哲学者は社会でどのような位置にいるのでしょうか、また、どのような位置にいるべきなのでしょうか?

Aベストアンサー

哲学・哲学者は昔からミネルバの森に住む梟の存在ですからね。
それは昔も今も変わらないんじゃないかな。
客観的に時代を見つめ、時代の行き先が見えなくなったときに森から出て来てほーほーと啼くんですね。
現代のような迷妄の時代には多くの梟がでて啼いているのでしょう。

Q哲学の考察-その1:哲学における検証とは

 
科学や工学では理論を実験、観察を通して検証する。
科学や工学ではこれが当たり前であり、必須のプロセスである。

では哲学においてはどーか。
哲学では真理の検証はなされるのか、
哲学では真理の検証は可能か、
哲学では真理の検証はどのよーになされるか、
哲学における真理の検証は独立した考察対象なのか、
 

 

Aベストアンサー

科学も、必ずしも実験による検証を必須としません。
天体や進化など、実験のしようのないものも多いからです。
理論の正しさは;
1.その理論自身の中に、矛盾がないこと。
2.その理論が、知りえる限りの現実を説明すること。
が基本です。
たとえば物理学でも、超弦理論は、まだ実証できないですが、
他の理論では量子的無限発散に悩まされていたのを解決
すると同時に、プランク定数という基本的定数のみから、
あらゆる物理定数を導くという奇跡を起こしたがゆえに、
今では理論物理の中核に据えられています。

そもそも、この世界に「物理学」や「生物学」、「数学」といった
分離された情報がある訳ではなく、人の能力の限界により、
分けて扱わざるを得ないからで、実際には1つの存在であり、
人の側においても、“もの事を深く理解する”というただ1つの
行為に過ぎないのです。
検証でも実験でもなく、「それによってこの現実がよく分かる」
が肝心なのです。

Q哲学の考察-その2:哲学における方法論とは

 
建築や土木では様々な工法が考えられ、実際に試されている。
工法は建築や土木における言わば方法論であり、最も重要な技術であり、生命線である。

では哲学においてはどーか。
哲学における方法論とは何か、
哲学に方法論は確立されていると言えるか、
どのよーな哲学の方法論があるか、
哲学において方法論は独立した考察対象なのか、
未来の哲学に新たな方法論が出現すると言えるか。
 

Aベストアンサー

「哲学における方法論」は、まさにプログラミングです!
良い例は、万能ではありませんけど、オブジェクト指向です。「オブジェクト指向 哲学」でも検索してみてください。

自分が考えていることをプログラミングして、実行して実際に確かめることで、自分が考え尽くせていなかったことに気付ける場合もが在ります。コンピュータの厳密性に耐えられることが、大切です。
また、自分が考えていることの全てを常に把握し続けることが要らないようになることもが、プログラミングすることの良さです。プログラムを変更した部分だけの影響を確かめることも出来ます。

「哲学において方法論は独立した考察対象なのか」については、プログラミングでは自己出力やインタプリタやメタプログラミングなどが当てはまると思います。面白いです。

ということで、プログラミングという既に確立している哲学の方法論が在ると私は思っています。お薦めです。

Q宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?

宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?

Aベストアンサー

>>宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?
 一概にそうとは言えないと思います。
 そもそも宗教という言葉、自体が日本においては幕末に造られた言葉です。「宗教」の語源はReligionの訳語であって、日本語の中にもともと存在した言葉ではありません。そのために、明確な基準を持たないことが問題を引き起こしたりもします。カルトと宗教の区別の問題・宗教は「Religion」というラテン語起源の言葉であり、宗教という言葉自体が基本的には西洋的な態度であるという問題・自然を信仰する自然宗教や仏教やキリスト教などの世界宗教やその他の宗教形態の差がはっきりしていない問題・また、宗教と哲学は一体をなしていて不可分であって、ヨーロッパ的な意味での「宗教」や「哲学」という概念を逸脱している宗教がある問題等があります。
 「哲学」であっても、使われ始めたのは明治に入ってからといわれています。しかし、宗教と少し違うことは、「宗教」はもともと日本にあったものを宗教といえるものはなにかと区分していますが、哲学はもともと日本になかった「philosophy」というものが、入ってきたために作られた言葉であるということです。そのため「宗教」という言葉より、「哲学」という言葉のほうが規定がはっきりしているといえるでしょう。

 どうも皆さんは宗教を「盲信」であると解釈しているようですが、確かに日本における「宗教」というくくりの中にそういった「盲信」性がないということはいえませんが、宗教というくくり全てをそうである断定はできないと思います。
 私は仏教徒なので、「宗教」に区分される仏教を例にとって見ると、仏教は「智慧の宗教」とよばれたりします。「信じる」ということについて、確かに大乗仏教において仏道修行者である菩薩を五十二段階に別けたとき最初の十段階を「十信」と呼んで、信心を大切なことを明かしています。しかしここで説かれている「信心」は盲信とは全く違うものです。仏教では、「空」という思想が説かれます。空の思想は『道行般若経』など、小品系般若経典の中に「菩薩の法字(見られる客観)も無く、菩薩(主観)も無い。有心にして無心なり」というように、客観という見られることも、主観という見る心も、自我をもつ存在ではないという立場から示されています。この経の末尾には「諸法(全ての事柄)はことごとく空なり」と説かれています。また『般若心経』には、その空の立場に立って「我執」を離れ、全てを見た場合すべては自由に生かされ活用されると説くのです。ゆうなれば、「空」とは執着を離れた智慧という意味ということです。そういった執着を離れた智慧を得るる基本に「信」があると説きます。それは龍樹が著した『大智度論』において、「仏法の大海は信をもって能入となし、智をもって能度となす。(意訳・仏教という大海を渡るのは、仏の教えを信じるというのが入り口であ り、仏の智慧を得ることをもって完成とするのです。)」といって、仏教に入るにはまず信じることが初めであり、信じることなくしては仏教の真理を得ることが出来ないと説かれています。では、「盲信」という見ることをやめた執着をもって、物事をありのままに観察しようとする「空」という視点が生まれるのでしょうか?体得できるのでしょうか?ですから、「仏教」という宗教に限って言えば信じるということは「盲信」ではなく、「疑い」を乗り越えたところにある真理に対する確信、冷静で客観的な信頼を意味してます。
 つまり、裸の王様の子供の目線が近い間も知れませんね。そういった、サングラスやフィルターを通さない視点を目指すことが哲学であるというのなら仏教は哲学であるかもしれません。もしかしたら、大人たちのようなフィルターを通した視点を知っていながらも、それにごまかされない立場であるといえるかもしれません。
 仏教においてはお釈迦様じたいのくくりからの抜け出しを試みた人もいます。有名なのは一休さんです。一休さんの詩の中に「釈迦といういたずら者が世に出でて世の諸人を迷わせるかな」とよんで、お釈迦様が作った既成の論理である仏教からの、抜け出しを試みています。しかし、それも仏教の執着しないフィルターを通さないという視点の一つです。
 表面的に「宗教」や「哲学」という言葉だけを考えれば、別の言葉があるのですから違うものです。まぁ、私は仏教徒なので他の宗教には詳しくはありませんが、。仏教についてアインシュタインは、「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは『仏教』です。科学的探求は特殊な宗教的感情をひき起こしますが、仏教は愚かな狂信的宗教感情とはまったく違ったものです」といっています。またニーチェは、「仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です」「ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教」「人々を平和でほがらかな世界へと連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせる」しかし、「ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していない」ともいって、哲学者・古典文献学者だあったニーチェにしても、哲学やその他宗教の基盤があったヨーロッパにおいても、仏教を受けるれる体勢が整っていないと評しています。このようなことからも、仏教一つとっても日本語で使われるヨーロッパ的な「宗教」「哲学」というくくりでは、とらえきることができないものですから、
>>宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?
という、問いに関しては一概にそうとは言えない。というのが私の答えです。しかし、宗教の延長に哲学が無いとも言い切れません。少なくともここのカテゴリーの中では「哲学」の中に宗教が含まれていますね。
 長々講釈をたれましたが、支離滅裂な稚文の文意を読み取っていただければ助かります。生意気なことを書きましたが、どうぞご容赦ください。
合掌 南無阿弥陀仏

>>宗教の延長に哲学があると考えて正解ですか?
 一概にそうとは言えないと思います。
 そもそも宗教という言葉、自体が日本においては幕末に造られた言葉です。「宗教」の語源はReligionの訳語であって、日本語の中にもともと存在した言葉ではありません。そのために、明確な基準を持たないことが問題を引き起こしたりもします。カルトと宗教の区別の問題・宗教は「Religion」というラテン語起源の言葉であり、宗教という言葉自体が基本的には西洋的な態度であるという問題・自然を信仰する自然宗教や仏教...続きを読む


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