大人になっても苦手な食べ物、ありますか?

アプリオリということについてお尋ねします。カントが使っているような意味を含みますが、一般に人間が生得的に持っている-という意味としてここで取り上げておきます。
アプリオリという言い方がなぜ必要なのかということを考えてみました。それは、主体が世界(事物)を客体として眺めるからだと思います。この時、主体の認識が客観的であることを保証するものを求めようとすると、どうしても無限遡航を生じさせてしまいます。
 そうさせまいと思えば、デカルトのように神の保証を頼むか、カントのようにアプリオリな認識機能を想定するしかないように思います。デカルトの行った神の存在証明は間違っているので、結局アプリオリな認識機能を想定するしかないと思います。

 また、科学の(実証主義的な)考え方においても、やはり、対象となる世界の事物は客観的なものと想定されているように思われます。そして、ある仮説が妥当であることを示すために実証(確認)作業を繰り返すわけですが、その際に、妥当だと判断する際の拠り所となるのは、最終的には実証者の確信に置かれるのではないかと思います(例えば、計測器具の数値を読み込む際の判断する場合や、実験データを組み合わせて何かを判断する場合など)。
 その確信の拠り所となるのは、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないと思うのです。あるいは、アプリオリに備わっている合理性にその根拠を求めるべきなのかも知れません。この考え方でよろしいでしょうか?

 もう一つ、認識の際に前提とされている主観-客観関係を取り払ってしまった時、アプリオリということはどういうふうにとらえるべきなのでしょうか。世界内存在という存在態勢は、根本的な認識態勢でもあるはずです。この時、世界内存在という態勢そのものが人間にアプリオリなものなので、認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げることにもはや意味がなくなっているように思うのでしょうが、いかかでしょうか?言い換えると、認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている(存在させている)ものが世界内存在という態勢なのだと考えてよいのでしょうか?

 

A 回答 (8件)

feedersさんの2件の「と考えてよいのでしょうか?」に対して、答え得る者ではないし、前提とされている事に同意しかねるのですが、若干のコメントを。



まず、確認しておくべきだと思うのですが、feedersさんの考えて居られる「アプリオリ」は、「一般に人間が生得的に持っている」という意だとの事ですが、一般的な意味は、例えば大辞林では、
a prioriとは、近代では「先天的」の意。1)生物学・心理学などで,ある機能が生得的に与えられていること。また哲学,2)特にカントの認識論では,認識・概念などが後天的な経験に依存せず,それに論理的に先立つものとして与えられていること。
この大辞林の説明から「アプリオリな認識」という表現が可能になりますが、そこに言う「認識」とは、アプリオリな判断群、あるいは、或るアプリオリな判断から生成される判断群を指すでしょう。拡張して「アプリオリに正しい」と言う事も出来ますが、その意味はアプリオリな判断群のみから正しさを示す事が出来る、という事でしょう。すなわち a priori とは、まずは「或る判断」または「或る概念」に対して言うのですね。
では、feedersさんの言われている「アプリオリな認識機能」「アプリオリに備わっている認識機能」は、どう解すればいいのでしょうか。「人は認識機能を生得的に持っている」という意味は、生理的な能力(目で見、音を聞き、声を発する)を生得的に持っている、ではないですよね。大辞林の1)の意味ではないでしょう。「カントのようにアプリオリな認識機能を想定する」あるいは「カントの言うアプリオリは果たして論拠を維持できるのでしょうか」と続けて居られるのですから、2)の「論理的に先立つ」に接続されないと訳が分らん事になりますね。「認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げる」「認識能力だけをアプリオリなものとして成り立たせている」という表現もどういう意味なのでしょうか。
その表現に近いのはカントでは、時間・空間は感性のアプリオリな形式である、でしょうか。それを、カントが何らかの考えのために「想定した」と言うのは、第3者的判断としてはあるとしても、本人としては「論証」している事ですよね。任意に「想定」した訳ではない。範疇群にしても、任意に設定した訳ではない。本人としては認識の機序を探求しているに過ぎない。

例えば、「幽霊」に就いて論じる時、「幽霊」という言葉があり、それが何らかの意味を持ったものである事は、前提でしょう。幽霊の存在は勿論前提にはされません。しかし、「認識」に関して論ずるに当っては、認識と呼び得る事が在るのは前提でしょう。論ずるというの事は認識を提示する事でもあるのですから、「認識」の先在性は否定出来ない。一般的に言って、何等の前提もない所では、何も論ずる事は出来ないのですからネ。「認識」の成立する論理的前提を探求する事を、「認識能力だけをアプリオリなものとして取り上げること」とは呼べないですね。

20世紀初頭、まだ新カント学派が健在であった頃は認識論は盛んであった訳ですが、その流れが存在論的転換をし、ハイデッガーなどが大きな顔をする時代があった。主観ー客観図式を廃却することとその転換はリンクするとして、ハイデッガーは存在に関するおしゃべりから、認識の成立を語れるレベルまでになっていたのでしょうか。それは知りませんが、存在から語るなら、存在関係の語彙が「範疇」となっている訳でしょう。言語分析こそが哲学として残る道だとする分析派は、言語関係又は論理学的公理を「範疇」としている訳だ。と、私は思います。

後一つ、一連のご質問で、一旦自然科学は保留し、人文系に限定するかのご意見でしたが、戻っていますね。方法論に無自覚な「科学信奉者」が「対象となる世界の事物は客観的なものと想定」している、という認定には同感ですが、その人たちにとっては、「主体の認識が客観的であることを保証」は要らない。私の疑問は、むしろ、feedersさん自身が何等か客観的な保証を求めているのか?という点です。如何。
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この回答へのお礼

--回答ありがとうございました。アプリオリということと認識ということについてはおっしゃるとおりだと思います。ご指摘ありがとうございました。
 私は存在論の方により強く興味を引かれるたちで、認識論の方は勉強し始めて日が浅いのです。というか、認識の問題になると後回しにすることが多かったのですが、最近、やっと認識の問題も勉強してみようと思うようになったのです。ですから、言葉の定義や使い方にもいい加減なところがあるはずです。もっと厳密に考えることができるようになるにはしばらく時間がかかりそうです。
もっと勉強して研鑽を積んでから質問をしたいところですが、学びの途中でわからなくなることがあるので、不十分な知識を顧みずついつい質問をしてしまうわけです。
一つ気になることがあります。
-ハイデッガーは存在に関するおしゃべりから、認識の成立を語れるレベルまでになっていたのでしょうか。-ということですが、「カントと形而上学の問題」を読む限りでは、私の理解力では(理解力のレベルは低そうだという気がしますが、私なりの理解では)Yesとお答えしたいように思います。認識の成立に対して存在論的に根拠づけを行っているように思えます。

-存在から語るなら、存在関係の語彙が「範疇」となっている訳でしょう。言語分析こそが哲学として残る道だとする分析派は、言語関係又は論理学的公理を「範疇」としている訳だ。と、私は思います。-ということですが、カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?どのような存在の仕方をしているのでしょうか?
 ハイデッガーによれば主体は空間の中にいます。世界内存在が主体の基本的な存在(実存)態勢です。ということは、世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇は、ハイデッガーにとっては意味のないものであるはずです。彼にとって、範疇とは実存論的なものです。sorgeという言葉で表されます。
世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇が意味のあるものであるとすれば、世界内存在という態勢のうちの一つの例外的態勢(主観-客観の対立する態勢)においてであると言えるように思います。いかがでしょうか?
 返事が遅れてすみませんでした。

お礼日時:2014/02/19 10:23

返答をいただいたということで、お礼を書かせていただきます。

私のほうとしては、ご質問に関するコメントは、尽きているのに、全くの蛇足であったと思います。feedersさんが「認識論が成立する条件として存在論が必要だ」とお考えになられること、そのことに異議を挟む気はありませんでした。私としては、認識論だろうと存在論だろうと、そういったものが先立つという考え方を否定する方に与しますので、却って気楽に批判的言辞を吐ける立場にいます。ちょっと狡いとも言えますから、これ以上の突っ込みはやめておきます。
また別の観点からコメントをされる方が現れたら良いですね。
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この回答へのお礼

いろいろとありがとうございました。

お礼日時:2014/03/09 09:40

「お礼」へのお礼が遅くなりましたが、宿題を戴いたようでもあります。

一般的な問いなのでしょうが、敢えて個的な問いと受け止めたコメントを。

>世界を客観的に認識することを可能にする形式や範疇は、ハイデッガーにとっては意味のないものであるはずです。
というお言葉に先立って、
>ハイデッガーによれば主体は空間の中にいます。
と仰るのは、論理的に整合していませんね。「主体が空間の中に居る」という認識は、それがアプリオリな直観形式においてある、と言うカントの主張を論駁した上でなければ、カント批判の言葉として成立たないでしょう。ハイデッガーはあるいはした積もりかもしれませんが、feedersさんはどうなのです。空間認識というヤツを何らかの存在態勢から導出出来るとお考えですか。
ハイデッガーの考えは、例えば和辻哲郎が受けて「風土」を論じていますが、ツンドラのブリザードの中であろうと、灼熱の砂漠地帯であろうと物理法則は変わらず貫徹するという科学観は打ち破ってはいないでしょう。

あるいは、
>カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?
という問いに絡んで、「空間の中にいます」というのなら、それに対しては、
200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。

主観客観図式を、例外的態勢にするのは、それを例外だと呼ぶ事によって為されるのではなく、より汎通的な様式の確立をまってではないか。feedersさんには「世界内存在」という言葉が格別なものとしてあるようですが、素人の私には、特に関興の湧かない、どうとでも解釈の出来る、言ってみただけの言葉に見えます。現代世界を席捲している、近代西洋的思考の枠組みを情緒的な言葉だけで片づける事は出来ないでしょう。---いささか挑発的な物言いになってしまいましたが、素人の戯言とご容赦ください。
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この回答へのお礼

返事がおくれてすみませんでした。空間についてですが--大変申し訳ないことをしました。空間という言葉を使うに当たってあらかじめ言っておかなければならないことがありました。ここで登場させた「空間」は自然科学や実証主義の言う客観的な空間ではなく、またカントの言うような主観的な色彩の濃いものでもありません。世界内存在というときの世界とほぼ同じものと考えて頂いてよろしいかと思います。

--カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?
という問いに絡んで、「空間の中にいます」というのなら、それに対しては、200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。--に対してお答えします。

--例えばデカルトの場合を例に取って説明します。デカルトは肉体のない精神に認識主体が宿っているかのごとき言明を行いました。肉体がないわけだから認識主体はこの世に存在することはできません。ということは、デカルトの認識主体は想像上の認識主観に過ぎないわけで、現実の世界の中で生きている主体にとってそのような認識行為は不可能なことです。
 カントの場合、カントの説のままだと、認識主体がこの世に(世界に)存在できないとまでは言い切れませんが、少なくとも、認識行為が可能であるために、主体が世界に存在できる条件が整っていなければならないと思います。認識行為が可能であるためには、主体が世界の中で行為を行うための条件が存在するはずです。その条件が認識行為を可能にするのではないかと考えます。カントがそのような視野を持っていたようには思えませんが、そのような視野を持つべきだったように思います。
では、自然科学(実証主義)の場合はどうかというと、世界の事物を客観的に見ることが可能だという前提がおかれているわけですが、認識主体が事物を客観的にとらえたかどうかを実証することは不可能です。事物を客観的にとらえたと判断したとき、その判断が正しいことを判断するために、主体の外にさらに認識主体がいなければなりません。それは、不可能です。そのような仕方で人間が生きることはできません。

<カントが「範疇」という言葉を使うとき、認識主体は一体どこに存在しているのでしょうか?>という問いはそのような文脈で提出しました。

-200年前にヨーロッパの一隅で書かれた論考を読み返し、その「範疇」を我々が理解するという事は、その論理は時空を超えている、というべきでしょう。何も永遠に正しいといっているのではない。ドイツ語で書かれたそれを日本語でも理解出来ているとしたらそれは、何処かに存在しているという言い方は不必要ではないか。言い換えれば、「その言葉を使う時、何処かに居なければならない」ということこそを説明されるべきではないか。
--とのことですが、200年前にその論考の著者は確かに生きていたし、それを読む現代人も確かに生きている。両者共にしっかりした存在の基盤を持っていますとお答えしたいと思います。認識行為は生きている(存在している)ということに前提されると思うのです。いかがでしょうか?

--主観客観図式を、例外的態勢にするのは、それを例外だと呼ぶ事によって為されるのではなく、より汎通的な様式の確立をまってではないか。feedersさんには「世界内存在」という言葉が格別なものとしてあるようですが、素人の私には、特に関興の湧かない、どうとでも解釈の出来る、言ってみただけの言葉に見えます。現代世界を席捲している、近代西洋的思考の枠組みを情緒的な言葉だけで片づける事は出来ないでしょう。---いささか挑発的な物言いになってしまいましたが、素人の戯言とご容赦ください。
 --ということですが、例外的態勢という言い方はよくなかったかも知れませんね。世界内存在という態勢が取りうる様々な態勢の一つと言うべきかもしれません。もちろん、その時の存在態勢は、想像上のものでしかないと言えます。現実には生きることのできない態勢です。
 言い方を変えてみます。科学者が何かを研究対象とするとき、彼はその対象に対して何らかの関心を持っています。関心を持つと言うことは対象との間に心理的な断絶が存在しないということです。その時、科学者と研究対象とのあいだに主観-客観は存在しません。ということは、
科学者が主観-客観図式で事物をとらえようとするとき、そうした図式を空想の産物として利用しているということになります。
だから、例外的態勢と言うより、空想上の存在態勢だと言う方が的確なのかも知れません。
 以上です。認識論が成立する条件として存在論が必要だと思います。

お礼日時:2014/03/05 14:02

○アプリオリといえばロウソクの火の例えですね。


ロウソクの火はロウソクが溶けてなくなる前に、新しいロウソクに火を移すれば火は永遠に灯ります。
さて、最初の火と新しい火は同じものかと問うのですね。これが火の問答ですが、この火が西洋哲学的にいえばアプリオリになるのですね。
ヘーゲルの絶対精神はロウソクの最初の火元のことを指し、カントのアプリオリは灯り続ける動的な火を指していますね。ロウソクの火は灯り続けていますが明らかにロウソク本体は違っていますね。まあ生まれる前の精神と生まれて肉体感覚を得た人生を経験した精神は明らかに違いますね。その精神がつながっていくわけですからアプリオリは変化するものですね。変化する精神の基礎には変わらない絶対精神(火元)があることはかわりませんね。
生まれて肉体を持つことによって主観やそれに基づく客観が生じますが、肉体がなくなっても、つまり、ロウソク本体がなくなっても精神という火は残っているというのがアプリオリですね。でも最初の火と最後の火は似て非なるものですね。
ヘーゲルやカントの記憶には仏教的精神があったと思いますよ。キリスト教的思想下では絶対精神やアプリオリという考えは理解できないのではないでしょうかね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。おっしゃることは、魂が地上にやってきて、肉体が滅した後、また別の肉体を借りて地上にやってくる、といったふうな話だと思います。
 私の論点は、認識と存在態勢の基盤という意味でのアプリオリです。

お礼日時:2014/02/07 12:38

カントは、アプリオリな認識を自己の中で存在として認識していたのだと思います。


「知覚していた」という言い方が分かりやすいかもしれません。
人は、食べれば味を知覚し、見れば物を知覚しますよね。

内在に知覚しているものを検証することで、生得的に持っているものか
そうでないかや、どういう機能があるのかを調べることが出来ます。

彼の場合は概念を想定することより、ただあるものをあると自覚したら
それが何なのかを調べているだけのように思います。

純粋認識とアプリオリな認識は、自覚上明らかに違いがあるので
それを言い分けるために名前を付けているだけだと思います。

おそらく存在するであろう概念想定ではなく、認知している存在がアプリオリな認識ということです。
一般的には、それを概念として受け止め自己の中に「概念」を想定して作り上げようとする
方向(構造化など)があるでしょうが、自分の認識の中に見出すことが出来れば、あっさりと理解できると思います。

そこに到達するのが、ちょっと難しいところではありますが。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
ーカントは、アプリオリな認識を自己の中で存在として認識していたのだと思います。-とのことですが、同感です。ただ、私の知りたかったことは、主観ー客観関係が取り払われた後も、カントのアプリオリはそのままアプリオリなままなのかということです。

お礼日時:2014/02/05 17:41

アプリオリという概念は《幾何学程度の論理を運用できる》理性だと考えます。

ご心配の《無限遡及の否定》もカントのアプリオリの概念に含むものと小生は読みました。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。アプリオリという概念は、認識の基盤というより、人間に生得的に存在する合理性のようなものだとおっしゃるわけですね。それはそうだと思います。

お礼日時:2014/02/05 17:43

論点を前段と中段と後段に三つに分けて論じます。



先ず前段ておっしゃっていることに異論はありません。
デカルトの時代には神が存在することが自明でしたので、その神が世界を創造したならば神が欺くことはあり得ず、思考と存在の一致は神がそれを保証していると考えました。
が、カントの時代は神の存在が疑わしくなっていましたので、神に代わって人間の内なる普遍的な「カテゴリー」の存在が思考と存在の一致を保証しているものと考えました。

次の科学が実験などの手段で仮説を正しいものと判断するのは、根底に知覚があるからで、もし知覚がないとそれが正しいものと判断することは無限遡行に陥りますから、どこかでストップする必要があり、それが知覚で、知覚によって検証されたものは端的に正しいものとされます。
ただし、いくら知覚によって確かめられても、そこに判断が介入することが避けられず、その時代の科学者が共通に持っている「パラダイム(範型)」が、あるいは「通念」が、入ってくることが避けられません。
実験結果は必ずしもニュートラルではないわけです。
だからア・プリオリな認識機能が備わっているからといって、誰しも同じ見解に到達するとは限りません。

最後に、ハイデガーのいう「世界・内・存在」はフッサールのいう「生活世界論」とは少し違っていて、ハイデガーのいう意味のそれはフォン・ユスキルの「環境世界」に近く、生物ならばア・プリオリに備えている「構造」のようなものですが、人間の場合は環境に拘束されることなく、環境を乗り越える生物ですから、人間に「世界・内・存在」がア・プリオリに備わっているかと言われれば、必ずしも備わっていないと思います。
それに歴史的に言って、哲学の中で「世界」の問題が登場するのはフッサールからで、フッサール以前のカントや中世では「世界」、つまりギリシャにあったような「コスモス」としての「世界」は長く失われていました。
それは中世のヨーロッパがキリスト教の世界だったからです。
キリスト教は人間の内面性に閉じこもるあまり、ギリシャにあった「コスモス」としての「世界」を喪失しました。
それが復活してくるのは20世紀のフッサールまで待たねばなりませんでした。
フッサールのいう「世界」とはかれが「経験と判断」でいっている「臆見(ドクサ)」としての前・述語的世界のことです。
フッサールは晩年に近代哲学の主観・客観関係から離脱して、前・述語的世界としての「生活世界論」に至り、人間の自我を否定して、代わりに「間・主観性」というのを主張しました。
つまり、人間の自我は身体の内側にあるのではなく、人間と人間の間にある、関係にあるといいました。
前・述語的世界に受肉している「間・主観性」が枝分かれして各人の身体に「定位」したものが個我といわれるもの、私たちのいう自我なのだ、と。
そしてこの「生活世界」は人間が互いに作りあげているものですから、ア・プリオリではなく、むしろア・ポステリオリです。
たぶん、あなたはハイデガーのいう意味の「世界・内・存在」を人間ならば誰でも備えている、またいつの時代でも備えている構造のようなものと考えておられるようですが、しかし、それは歴史的なものです。
古代ギリシャにあった「コスモス」としての「世界」は私たちのいう「世界」とは違うし、中世には「世界」は失われたし、それが復活するのは20世紀のフッサールからだとしても、ハイデガーのいう「世界・内・存在」とは違うし。
だから「世界・内・存在」を普遍的なア・プリオリとは到底言えません。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。
-前段の議論について-神に代わって人間の内なる普遍的な「カテゴリー」の存在が思考と存在の一致を保証しているものと考えました。-ということですが、これは、「カテゴリー」の存在が現象として現れる存在物を主体が認識することを保証するーという意味でしょうか?

-中段の議論について-妥当だと判断する際の拠り所となるのは、結局、人間にアプリオリに備わっている認識機能あるいは知覚機能を想定するしかないという考えで問題ないわけですね。

-後断の議論について-
-ハイデガーのいう「世界・内・存在」はフッサールのいう「生活世界論」とは少し違っていて、ハイデガーのいう意味のそれはフォン・ユスキルの「環境世界」に近く、生物ならばア・プリオリに備えている「構造」のようなものですが、人間の場合は環境に拘束されることなく、環境を乗り越える生物ですから、人間に「世界・内・存在」がア・プリオリに備わっているかと言われれば、必ずしも備わっていないと思います。-についてですが、
 これまで、「世界・内・存在」は「生活世界」と同じものだと考えていました。ハイデッガーが「世界・内・存在」 という存在態勢を考えつくとき、ユスキルの「環境世界」を参考にしたことは知っています。 でも、むしろ、ディルタイやキルケゴールの世界観に近いような気がします。

-人間の場合は環境に拘束されることなく、環境を乗り越える生物だ-とのことですが、「世界・内・存在」が環境の乗り越えに応じて質的に変容を遂げることはあっても、根本的な存在態勢であることには変わりはないと思うのですがいかがでしょうか?(例えば、ハイデッガーは主観-客観の図式でものを見る時も、「世界・内・存在」の一つの特殊形態に過ぎないと言っています)

-お聞きしたかった問題は次のことです。
「コスモス」としての「世界」を喪失した後、主観-客観の図式の中で(神の保証もなく)人間が持つ認識装置(例えばカテゴリー)がアプリオリなものだとするしかないのは当然のこととしても、フッサールのいう「生活世界論」の文脈の中で、カントの言うアプリオリは果たして論拠を維持できるのでしょうか?この点にお答え頂けるとありがたいです。

お礼日時:2014/02/05 15:10

アプリオリについて考える上で、因果律はアプリオリ


である。「先」入的であるには、前後が求められる。
しかし、全ての相互作用が還元される量子相互作用に
おいて、因果関係は可逆的であるとされる。
素粒子間の相互作用を表すファインマン・ダイヤグラム
において、量子相互作用は水平=同時作用であり、前後
関係の置換において等価となっている。
極端な話、「星から発した光が目に届いて輝きを感じる」
という事と、「目から発した光が全宇宙から集まって星
となる」という事は等価なのだ。
(それを時系列化しているのは人の意識の方)

しかし「認識“以前”に前提となるアプリオリな概念」は、
量子論(コペンハーゲン解釈&強い人間原理)的には
「認識を成立させるための相補的環境」となる。
アプリオリの権化である「絶対時間」「絶対空間」は、
相対性理論において、その計量を認識との相対によって
可変なものとなり、量子論において、そこにある実体の
確率性も認識との相対によって(しかもその不完全さ
(階層現象性を表面的に捉える)によって)確定化している
のだ。

そこにアプリオリなものは、量子性(相対性理論における
光速測地線、量子論における量子相互作用)である。
相対性理論の四次元時空の式において、時間項は虚数に
なっており、そのために空間軸と時間軸の等距離点に、
“ゼロの面”ができる(時間軸(時間の流れ=記憶=過去
=超光速)と空間軸(空間の広がり=予測=未来=光速下)の
相補分化に由来)。
それが「ライトコーン」、即ち光子の形成する面であり、
光速以下の領域(未来)と超光速の領域(過去)を分ける
界面原点なのだ。
その認識体(現在=光速)による大ざっぱな認識=階層現象
表面的定性化における非光速性に基づく時空仮説に対する
無の射影が存在=量子なのだ。
『何かあるかも』という謎として派生した環境を「本当は
無いんだけどね」と無へ還元するものとして、量子=存在
はある(アプリオリなる無)。
「アプリオリということについて」の回答画像1
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございました。ただ、私には難しすぎるようです。説明して頂いたことは、観測の結果これこれのことがアプリオリなのだとわかっているということなのでしょうか。その場合、観測作業の正しさの根拠として何かアプリオリなものが存在しなければならないのでしょうか?

お礼日時:2014/02/05 17:38

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