痔になりやすい生活習慣とは?

平氏は平清盛を中心に一族が強い結束で結ばれてた感があります
目立った身内同士の争いもありません(もちろん出世競争とかはあったでしょうが)

それに比べて源氏は身内同士で骨肉の争いをしています
(義経が義仲を討ったり 頼朝が義経・範頼を討ったりと)


この違いは何でしょうか?

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A 回答 (7件)

平氏は勢力基盤が西国で、瀬戸内海を中心とした海洋貿易経済で豊かになっています。

貿易こそが豊かさの源泉だと知っていたから、中国と交易しようと頑張ります。貿易には土地が要りません。物を生み出す人こそ大事だという考え方になります。だから殺し合いはバカバカしい。

一方で源氏は勢力基盤が東国で、農業による自給自足経済です。先祖と自分が切り開いた農地に一所懸命になります。貿易しないから、土地を奪われれば食っていけません。土地の相続争いが激化し身内争いが激しくなります。なにより鎌倉幕府が土地相続争いを治めるために求められた土地所有権の確定裁判所そのもので、行政府というより司法府としての仕事がメインです。農業と狩猟で足腰が鍛えられているから、船乗り平氏より殺し合いに長けています。
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ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:25

平氏の権力基盤は朝廷にあり、そこを清盛が掌握している限り、大きな対立に至らなかったといえるでしょう。

もっとも権力のよりどころをめぐって清盛と嫡男重盛はきわどい関係になりかけていましたが。
義経と義仲の争い、頼朝による義経らの追討は、朝廷という権力基盤をめぐっての争いといえるでしょう。
両者の違いは、「清盛以降」という時期を限定するならば、伊勢平氏が中央権力を保持していたのに対して、河内源氏は中央権力にそれぞれが近づこうとしていたことにあると言えます。

さかのぼるのであれば、もともと伊勢平氏は、清盛の祖父正盛の時代に中央で台頭した武士であるのに対して、河内源氏は義朝のひいひいじいさんぐらいから中央権力に近づいて、子孫それぞれが勢力を築いて嫡流をめぐって争っていた歴史があります。いろんな家に分かれて昔から争っていた河内源氏に対して、伊勢平氏は家が分かれて構想するほどの歴史がないとも言えるでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:25

平氏内での1番争いがすでに決着をつけていたから。




他の回答者の将門時代などの指摘を否定されているようですが、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E7%82%BA% …

為義と同時期に勢力のあった河内源氏の一族
源義国…従五位下加賀介。義家の三男。新田氏・足利氏の祖。義重・義康の父
源義信…従四位下左兵衛佐。義親の長男
源経国…義忠の長男
源義高…従四位下左兵衛権佐。義忠の次男
源義光…従五位下刑部少輔。義家の三弟
源義時…左兵衛尉。義家の六男。河内源氏本拠地の石川荘を相続

つまり、京都での基盤を持つ受領階級レベルの勢力を確保している。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%AD%A3% …

正盛時代

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89% …
頼朝挙兵段階で、強大な勢力を誇った千葉氏ですら、郡司という、国衙官僚レベルになっている。

正盛の段階で、受領階級になっていた、残っていたのが伊勢平氏だけだったのに対して、源氏は複数の系統が受領階級に残っていた。

受領階級で武力を持った者同士の闘争と考えれば

平氏
源氏1
源氏2
源氏3
源氏4

というような勢力間の相互闘争となり、平氏VS平氏 という構図は生まれないことになる。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:25

清盛以前は別にして思うのは、まず平家一門はなんだかんだ言いながら幸せな家庭でともに育っていたため、都を追われるまでは、それほど大きな確執は生まれなかったからだと思います。


とは言え、清盛と重盛が亡くなったことで、嫡流と言っても維盛以下の小松の公達は、官位が高い割に実力が無く、一族から疎まれるようになり、都落ちに際しても、自分たちは同行したものの、妻子は都に残すなど、優柔不断な対応に批判が出て、主流から大きく外れてしまいました。
また、清盛の弟の中で、頼盛は母親が現役!?だったために他の弟たちより高位に置かれたことで、池殿の公達は、それ以前から一族の中で浮いていたのが、清盛の死によってそれが顕在化し、結局、都落ちにも加わらず、源氏に投降しました。
都落ち以降は、それら以外の平家は、危機的状況の中で、一族の結束は高まったものと思われます。

一方、源氏の場合は、頼朝の兄弟にしても、全く別々に、それぞれ苦労して育ったため、お互いへの愛情は非常に薄かったと思われます。まして、木曽義仲から見ると、頼朝は親の敵の息子ですし、新宮十郎などは、頼朝から見てあまりにも遠い血筋ですから、十郎が期待するほど重く見てはもらえず、確執の原因となりました。
ということで、頼朝にとっては実の弟よりも、妻の一族である北条一族のほうが信頼が置けましたし、しかも北条から見ると、自分を信頼しているのは頼朝だけでしたから、範頼、義経はもとより、自身の孫である頼家さえも、邪魔な存在でした。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:25

平将門の乱の発端は、親爺の遺産をめぐる、息子と伯父の遺産相続争いです。


保元の乱では清盛と忠正が敵味方になってます。
頼朝が下総の国府で再度平家討伐の軍を挙げときに参集したのは関東平氏です。
当時、源氏の子孫は関東平野の北側の甲府や足利だの新田だのにチラホラいただけです。
参集した関東平氏の総大将だった千葉常胤は國香の弟良文の子孫です。
清盛は國香の子孫です。
清盛が関東平氏を粗末に扱ったために、あの野郎!ということになりました。
源平合戦というのは、内実は伊勢平氏と関東平氏の争いです。
頼朝は御神輿のてっぺんの鳳凰みたいなものです。
平家が西へ逃げたのも東へはこれなかったからです。
上手く関東勢と手を結んで逃げ込んでいたら、日本史もだいぶ変わっていたでしょう。

頼朝の庇護者であり女房の実家でもあった北条氏も平氏です。
初期の鎌倉幕府の重臣はほとんどが平氏です。
これを次々に潰して幕府の実権を握ったのが北条氏です。
平氏発祥の地の上総、下総では年中身内のゴタゴタはやっていました。
京都から遠かったのでマイナーなだけです。

どうも平氏一門には花がないですね~
義経記は芝居の種になっても平家物語は舞台で絵になる話しがないせいですかね~。

この回答への補足

すみません将門じゃなくて清盛以降の話です

補足日時:2014/02/27 13:12
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:26

 ちょっと待ってください。

それは清盛が太政大臣となり、事実上の権力者となったからできたんじゃないですか。彼は保元の乱で負けた平忠正、長盛、忠綱、正綱、通正らを処刑してますよ。
 それに平将門は平国香を討ったじゃないですか。それから北条時政の北条氏は平氏ですよ。平貞盛の後裔なんですよ。

この回答への補足

あ すみません将門時代じゃなくて清盛以降の話です

補足日時:2014/02/27 13:12
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:26

全部はわかりませんが一部だけ。



頼朝が義経を討ったのは、手に負えなく、邪魔であったのでしょう。
壇ノ浦の戦いで、義経は大勝利し平家を滅ぼしましたが、それではダメなのです。
逃げてた平家側の天皇家の所持する三種の神器を持って帰ることが頼朝にとっての最重要課題で、平家打倒などどうでもよいことなのです。平家打倒はあとからでもできるし、三種の神器がないと源氏側の天皇測位に正当性を主張できないのです。

義経はそこのところがわからず、平家を追い詰め滅亡させますが、その際に三種の神器は天皇家の身投げとともに海に沈んで回収できませんでした。

その上に壇ノ浦帰還後、勝手に相手側朝廷から官位をもらうなど、支離滅裂な行動を取ります。
それでいて、数々の戦いに勝利し続けた大将軍で人気は抜群にあった(推定)ので、邪魔でしょうがなかったと思います。

平家の時代はおそらくですが、まだまだ武士の世の中になりきってなく公家気分まじりだったようなので、無用な争いは避けていたのでしょう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/02/28 18:26

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------------------------------------------------
・嵯峨天皇(桓武天皇の子)は、皇太子と数人の皇子以外の沢山の御子達全員に、一律に「源」の姓を授けて臣籍降下させた。これが源氏のはじまり。
・また、嵯峨天皇は自分の兄弟の子(つまり甥たち)、またはその子たちをも臣籍降下させ、彼らにはまとめて「平」の姓を与えた。彼らはみんな桓武天皇の孫やひ孫ですから、桓武の作った「平安京」にちなんだ姓とした。
------------------------------------------------
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------------------------------------------------
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------------------------------------------------
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------------------------------------------------
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------------------------------------------------
参考
http://kazeoto.com/heike-007.html
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1344086703
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1313588118

・平安時代のはじめ、桓武天皇の頃までは、その都度いちいち名前を考えていた。
橘、高階、清原、在原など(主に、先祖の天皇の通称に因んで)。清原氏は「飛鳥浄御原のみかど」つまり天武天皇の子孫
------------------------------------------------
・嵯峨天皇(桓武天皇の子)は、皇太子と数人の皇子以外の沢山の御子達全員に、一律に「源」の姓を授けて臣籍降下させた。これが源氏のはじまり。
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http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm
によれば、それなりに分家などは存続していったみたいですね。まあ栄えたとまでは言えないでしょうが。
なお、頼盛は鹿ケ谷事件への関与も取りざたされていたり、助命嘆願の件など、かなり平氏一族でありながらむしろ「反・清盛」の活動をしていた形跡があり、またくだんの光盛の妻は、のちの鎌倉幕府創業の功臣のひとり大江広元の一族であったりします。
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ここ
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/011/01105.htm
によれば、それなりに分家などは存続していったみたいですね。まあ栄えたとまでは言えないでしょうが。
なお、頼盛は鹿ケ谷事件への関与も取りざたされていたり、助命嘆願の件など、かなり平氏一族でありながらむしろ「反・清盛」の活動をしていた形跡があり、またくだんの光盛の妻は、のちの鎌倉幕府創業の功臣のひとり大江広元の一族であったりします。
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Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
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(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
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皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
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大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
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    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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    典侍・坊城伸子
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仁孝天皇
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側室 権典侍・観行院 藤原経子《和宮 親子内親王の生母》…父:橋本実久
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光格天皇
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女院・東京極院 藤原婧子【仁孝天皇の生母】…父:勧修寺経逸
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とりあえずちょっと遡って、正妃(皇后およびそれに準じた立場の人)と子供を生んだ側室を列挙してみました。

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今上天皇
皇后・正田美智子…父:日清製粉社長 正田英三郎
側室なし

昭和天皇
皇后・良子女王(香淳皇后)【今上天皇の生母】…父:久邇宮 邦彦王
側室なし

大正天皇
皇后・九条節子(貞明皇后)【昭和天皇の生母】…父:従一位大勲位公爵 九条道孝
側室なし

明治天皇
皇后・一条美子(昭憲皇太后)…父:左大臣従一位 一条忠香
側室 権典侍・葉室光子…父:権大納言 葉室長順
    典侍・橋本夏子…父:橋本實麗
    権典侍・柳原愛子【大正天皇の生母】…父:権大納言 柳原愛光
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%81%E5%A4%B7%E5%A4%A7%E5%B0%86%E8%BB%8D
これを端的にお子さんに説明するのは難しいかもしれません。
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ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q源氏と平氏

清和源氏と桓武平氏は2大軍事勢力ですが、平清盛と源頼朝に至る源平合戦までの経緯と両者が滅んでも傍流は戦国時代まで続きました。その盛衰を見て両者で何が違っていたのでしょうか。

源平合戦までは源氏の武勇伝が多く、平氏の武勇伝は少ないのです。名前だけ挙げると、源氏の頼信、頼義、義家、義綱、為義、為朝、義朝、義仲、義経、頼朝。平氏の将門、貞盛、忠盛、清盛。

源平合戦の後では平氏の数が圧倒的に多いのです。源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。

しかし、その後に大名になった平氏が少ないのです。源氏は足利、新田、佐竹、今川、武田、大内、土岐、斯波と大名になり、平氏の北条、千葉、三浦、伊藤、桑名はいずれも滅んでいます。不思議だなあと思っています。

Aベストアンサー

平氏の系統の歴史が巷間ではあまり知られていないために出てきた疑問かと思います。
ご質問の中に
「源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。」
とありますが、これも源氏が勢力を拡大した時期と平氏が拡大した時期にズレがあったことから結果としてご指摘のようなことになりました。

源氏も平氏も都の人からみれば新興勢力です。
源氏や平氏が版図を広げることができたのは、京や奈良の人達が見向きもしなかった東国です。
古い国名は常陸以北の地域は陸奥でオシマイです。
日本海側も精々越後、出羽までです。
歴代の朝廷は、この辺境の地で常陸、上総、上野の最高責任者は皇族出身者が着任するように定めていました。
朝廷の北辺の地を守護する重要な拠点と考えていました。
つまり、常陸守、上総守、上野守は全て皇族出身者でした。
藤原氏出身であろうとも守の補佐役の介が最高の官職であり官位でした。
吉良義央が上野介を名乗りとしたのも、信長が上総介を名乗りとしたのもこの為です。

東国へ最初に進出したのが桓武天皇の系譜である桓武平氏です。
高望王という人が初代でした。
高望王以前に源の苗字をもらって皇族から臣籍に降下した人は沢山いましたが、みんな都から離れませんでした。
高望王だけが、サッサと都を離れて上総に下向して定住しました。
関東周辺の国には当然都から派遣された国司がいましたが、格が違います。
高望王の子供や孫はそれぞれ関東一帯に分散して住み着きました。
当時の関東平野の南部は現在の江戸川や中川、荒川、隅田川、多摩川の大型河川の河口部分に当たり東西の移動は極めて難しい地帯でした。(橋などありません)
日本武尊も、現在の三浦半島から浦賀水道を横切って房総の地へ渡っています。
国の名前に上総下総などの上下や越前越後という前後を付ける場合都に近い方を上または前としました。
即ち西国から房総の地を経て常陸や陸奥へ行くには東京湾を横切るのが簡便でした。
同じことが後世の東海道の熱田、桑名の間で起きています。(七里の渡し)
伊勢湾の奥は木曽川、長良川、揖斐川、などの河口部分で東西の移動が困難でした。(橋などありません)

上総から東京湾周辺の地域へ移動するのには専ら船がつかわれました。
最終的には東京湾を取り囲む地域は高望王の子孫である桓武平氏一族の版図となりました。
全員の苗字が平では紛らわしいので、各々の居住地の地名を苗字としました。
ご指摘の千葉氏や三浦氏や北条氏はみんなこのような経緯で苗字となりました。

源氏が東国へ進出してきたのは極めて遅く義家の時代になってからです。
出てきてみたものの、関東南部の一帯は既に平氏一族が押さえていましたので、やむなく北部の下野上野甲斐などの丘陵地帯に住み着きました。
ご指摘のように源氏の領国に山国が多いのはこのためです。
東海道が東西の幹線道路になったのは家康以降です。
それまでは、中山道が京都と坂東を結ぶ幹線道路でした。
逆に平氏は早くから都を離れていて源氏が遅くまで都に留まっていたことも。京都中心の歴史書には源氏系統の人が残されやすかったのではないかと思います。

平氏系の目立った武将や大名が見当たらないのも若干経緯があります。
高望王の子供たちの中で長男の国香の子の貞盛が草深い関東の地を離れて都へ上りました。
その子の維衡が伊勢平氏の始祖となりました。
伊勢平氏の末裔である清盛が栄耀栄華を極めますが、このときに、坂東に残っていた坂東平氏一族を全く顧みませんでした。
これに対する不平不満が坂東平氏一族に蔓延していました。
源氏の嫡子である頼朝が伊豆で一敗地にまみれて安房へ逃れてきました。
頼朝一行はわずかな人数で北上し下総の国府(現在の市川市)にようようたどり着きました。
このとき、坂東平氏の親分株だった千葉常胤が兵を引き連れて駈けつけてきました。
常胤と頼朝の父義朝とは保元の乱を戦った戦友でした
戦友の御曹司が伊勢平氏打倒の志で兵を挙げたというので、放っておくわけにはいかないと駈けつけました。
常胤のジイサンが加勢したというので、坂東平氏の連中が我もわれもと集まってきました。
現在の市川市には頼朝旗揚げの地として白幡神社というのがあります。
後はお馴染の源平合戦です。
ここでお分かりの通り頼朝はあくまでも旗頭で、実態は伊勢平氏と坂東平氏の戦でした。
結果として都にいた伊勢平氏の一族はチリヂリになってしまい再び歴史に登場することはありませんでした。

鎌倉幕府のスタートメンバーも多くが坂東平氏の末裔でした。
この坂東平氏の末裔どうしの政争に勝ち残ったのが北条氏です。
この政争で後世大名となるような坂東平氏は駆逐されてしまいました。
地元の有力豪族程度であれば沢山残りました。
室町時代から戦国時代の関東の有力豪族であった渋谷氏、豊島氏、葛西氏、江戸氏、太田氏などは全て坂東平氏の末裔です。
これもやがて小田原北条氏の配下に組み込まれ、最終的には家康にとって代わられてしまいました。
このような経緯と、源平合戦から関ヶ原までの歴史が西国が主体だったことも坂東平氏の譜系の一族が出てこない遠因でしょう。
特に戦国時代の武将が系譜を云々する際に、武家政権の始祖である頼朝にあやかって源氏を名乗ったことも影響しているのかと思います。

参考
平氏一門とされている氏族は、前記の人以外に以下の苗字のような人がいます。
関東地方の地名が多いことに注意して下さい
東 稲毛 飯倉 海上 小山田 大庭 大須賀 河越 河崎 梶原 金沢 木田見 国分 畠山 秩父 相馬 武石 匝瑳 大堟 馬加 千田 丸子 六郷 柴崎 俣野 長尾 村岡 中村 長野etc  

平氏の系統の歴史が巷間ではあまり知られていないために出てきた疑問かと思います。
ご質問の中に
「源氏の領地は山国が多く、平氏の領地は海国が多いのです。経済的には平氏が恵まれていたのです。」
とありますが、これも源氏が勢力を拡大した時期と平氏が拡大した時期にズレがあったことから結果としてご指摘のようなことになりました。

源氏も平氏も都の人からみれば新興勢力です。
源氏や平氏が版図を広げることができたのは、京や奈良の人達が見向きもしなかった東国です。
古い国名は常陸以北の地域は陸奥...続きを読む


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