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 ソシュールの《言語記号の恣意性》については まだ或る程度の《定説性》が残っていますが これが ただの神話であることを次のように証明します。当否・成否を問います。


 まづ先にその例証となる言語現象をかかげます。

  / nVgV /という形態素を取り上げます。( V は母音のことです。アイウエオなどが入ります)。これは 子音の / n / や / g / が同じというようにシニフィアン(≒音素)が同じなら その意味すなわちシニフィエ(≒意味)も同じだという語例になります。
 すなわり この / nVgV /という語の形態においては いづれの場合も《障害や邪魔の除去》という意味を帯びて 共通であるという例です。

 (1) / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ

  すなわち 《 nagi=薙ぎ》は 伐り払うべきものが障害・邪魔と見なされている。
  《 nagi=凪ぎ》は 波風が同じくそう見なされている。
  《 nagi=和ぎ》は 心の動揺などがそう見なされている。
  そうして その障害ないし邪魔と見做されたものを 除去する。またはそれらが除去される・消滅する というシニフィエとなっている。


  ちなみにここで例証の中身を示すならば ソシュール(ないし丸山圭三郎)の仮説では ここで言えば子音の / n / や / g / は それとしての意味はまったく無く 恣意的に / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎといった語として成ったと言っています。

  / nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ といった語例において 子音の n や g といったシニフィアンと 語義の《薙ぎ・凪ぎ・和ぎ》とのあいだに 何ら自然でかつ論理的なきづなは無いという説なのです。


 (2) 《投げる nage-ru 》と《流す naga-su ・流れる naga-reru 》と《長い naga-i 》の三語は すでに互いに同じ語根から発生していると説かれています。けれども ここでも  / nVgV / というシニフィアンには いづれの語でも同じシニフィエ(≒意味)が見られます。《障害の除去・邪魔の消滅》というシニフィエが共通です。ソシュールの説では そんなことはあり得ないというものです。

  nage-ru  投げる  (障害なく 延びて行かせる)
  naga-su  流す   (障害を避けて 延びて行かせる)
  naga-reru 流れる  (障害を避けて 延びて行く) 
  naga-i   長い   (障害なく延びた状態にある)


 さらに語例を伸ばします。
 (3) 《和ぎ nagi 》関連で 母音の交替をも加えて この / nVgV / なる音素には 共通の意義素が潜んでいるという語例です。

  nago-ya-ka 和やか    (障害が消滅した状態)
  nago-mu   和む     (障害が消滅していく)
  nagu-sa-mu 慰む     (障害を除去させる)
  negi 祈ぎ・労ぎ・禰宜   (障害の消滅を希求)
  nega-u   願う      (障害の消滅を希求)

   *

 どうでしょう。言語記号の恣意性なる仮説によれば こんな現象はあり得ないことになります。
 
 ちなみにその仮説によれば 例外なる事態は 次のようだと言います。

 オノマトペつまり擬音語や擬態語では 音素(シニフィアン)と意義素(シニフィエ)とのあいだにつながり(きづな)があると言います。

 郭公は その / k / の音素を鳴き声に合わせてどの言語でもというほどに同じ音素から成る語として持たれているようです。
 
 日本語で 光がピカッとかがやくという様態に合わせて ひかり・光るという語が得られています。

 あるいは例外としては いわゆる派生語の場合が挙げられます。これは 同じひとつの語根から派生するのであるからには 当然だと考えられます。

 つまり

  nagi 和ぎ
  nago-ya-ka 和やか   
  nago-mu   和む

 これらは じつは派生語として / nVgV / なるシニフィアンに同じ共通のシニフィエがあっても 恣意性の説の反証にはなりません。という考察は すでに成されています。
 (ナグサメ=慰めも 派生語であるかも知れませんね)。






 例外を別とすれば じんるいが言語を獲得したのは その語彙の全体を――その時点で―― 一気に得たのだと言います。個々の語は互いにその語としての差異によってのみ 関係しあいつつ 使い分けされているというものです。(語としてというのは 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》とが一体となったそれぞれの語としてです)。

 あとで造語される語を別として 或る時点で語彙の全体を ひとつの体系として 得ることになったのだと説いています。

 そうであるにせよ無いにせよ 《シニフィアン(音韻)∽シニフィエ(意義)》として成る語には その関係性(つまり ∽ として示したそのつながり方)が 自然で論理的なきづなを持つと例証によれば考えられます。


 さらにくわしい議論をおぎなわなければならないのですが こういった問題が ソシュール≒丸山圭三郎の理論にはあると言ってよいと考えます。


 * おぎなうべき議論の一端として:

   音素・・・・=・・・・意義素
   _______________
  / n /  = 同定相・否定相
  / g /  = 反出相;反定相・疑問相・変化相

 といった仮説を前提としています。
 いま

  / n /=否定相 + / g / =変化相(変化ゆえ 過程相・移行相)

 といった複合によって

  / nVgV /なる音韻(シニフィアン)
    =《障害の除去・邪魔の消滅》なる意義(シニフィエ)

 といったじっさいの語例が作られているという見方を 例証(反証)として提出しました。



 ただしここで 否定相の子音 / n / が 薙ぎにおいてはなぜ《伐採すべき草や木》を内容とする《障害・邪魔》として認定したか? それは 分かりません。恣意的に決められたとしか言いようがありません。

 つまり 凪ぎや和ぎにおいてはそれぞれ《波風》や《心の不安》を 何故ほかにも数ある障害や邪魔の中からえらんだのか? それは 分かりません。



 

 * すでに問うたことがあります。けれども ジョウシキが間違っているなら 何度でも問うべきかと考えます。
 【Q:《言語記号の恣意性》は 神話である。】
 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5664705.html

A 回答 (15件中1~10件)

「お礼」への書き込みをありがとうございます。



> ☆ なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。
⇒つまり、こういう理解でよろしいでしょうか。「言語構造内のいろいろな場面に恣意性が認められるが、ここでの議論では狭義の恣意性、即ち、ソシュールの記号理論でいう第一の恣意性・シニフィアンとシニフィエの相互関係と、第二の恣意性・意味価値の相関関係のみを扱うものとする」という解釈です。もしそうでしたら、部分的ですが納得できます。

> 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって具体的にはchien なる概念が/(シアンという発音記号)/という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
⇒フランス語圏では[ʃj~?]という音を聞きいて脳内にその聴覚映像を結んだら人は「犬」を了解するが、それは[ʃj~?]という音と「犬」とが直結しているからではありませんよね。それは単に、フランス語での語義に関する社会的慣習に過ぎません。その証拠に、例えばアメリカでは人の名前だと思うかも知れないし、日本では赤塚不二夫の漫画に出てくるズッコケ表現だと思うかも知れません!
 ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。

> これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値がその体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
> 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
⇒意味価値の相関関係は常に蠢いていますね。これは任意のどの言語でも当てはまります。もし、変動も何もなく安定しているような言語があるとすれば、それはすでに話し手のいなくなった「死語」でしかあり得ません。このような意味価値の相関関係の変動ぶりは、その言語における2つの異なった時期の共時態を比べてみれば一目瞭然です。そして、その間の通時態を時系列に沿って追ってみれば、その経過のほども分かります。
 ところで、その意味価値内の相関関係の変動は、何によって引き起こされるでしょうか。一方には「言語構造のひずみ」という誘因があり、他方には「そのひずみを何らかの方法で是正したい」という使用者側の動因があります。そして、その運動の遂行を決定づけるのは後者すなわち人間の側(の動因)であり、まさにそこに件の恣意性が関わってくる…と、こういう仕儀ですよね。

> ☆ 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? つまりここでの反論は《第一の恣意性》が事実ではないと示して反駁するものです。これだけで反証は成し得たと考えています。
⇒さあ、それだけで反証を成し得たとするには無理があると思いますよ。前にも言及したとおり、どの言語内にもシニフィアンとシニフィエとの間に何らかの有縁性があることはソシュール自身も認めています:「(発話の際)能記の選択は必ずしも常に恣意的ということでなく、時に有縁的である」、「特に、擬音語と間投詞においてそのことが言える」、と。ただし、それに続いて「擬音語と間投詞は決して言語体系の組織的要素ではない」し、「我々の説を脅かすものではない」とも断言しています。つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。

> ☆ 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。
⇒「丸山理論が孫ではなく、本人だ」というのはある種詭弁のようにも聞こえますが、まあそれはそれとして、それならなお、「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」というタイトルとの間に少なからぬ齟齬があると思いますよ。
 なお、時々僭越にも辛辣なことを申しますが、決してbragelonne様を非難するためではありません。むしろ逆に、bragelonne様の学究心にはいつもながら敬服申しあげています。これは一重に、共同して真理への肉迫をしたいとの願望からに他なりません。どうかこの件、ご了解賜わりますように。

> ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
⇒いやいや、「音素(子音)がそのままで意義素をおびており、そのことが語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している」場合があることを示したところで、「第一の恣意性は、中身が事実に反すると明らかになった」などとは言えないと思いますよ。
 例えば、フランス語圏以外の地域で、[ʃj~?]と同じ聴覚映像か、少なくともそれとの有縁性を持つ聴覚映像で「犬」を想起せしめる状況(人間に共通する普遍性)がなければ、この語に関するシニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性を示したことにはならないでしょう。例えば、『鶏の泣き声のシニフィアンが多くの言語で[k]音を含む」というように、「地球上の人間の大多数が」[ʃj~?]と聞いて「犬」を想起するという事例に類する有縁性を突きつけない限り恣意性説は崩せないと思います。

> おそらくきちんとした語例を三つほど示して《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば――言語記号の恣意性なる理論は全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。
⇒bragelonne様がよく研究されていることは敬服するところですが、今回の提示材料は通時語彙論・意味論であって、それはいわば文献学の範疇であるのに対し、ソシュールのそれは言語体系の構造論でしょう。つまり、philologyでlinguistics 批判をしようという、お門違いを犯していることになります。ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。

> ・ / nVk(g)V / なる語例
> ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
> ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照
> の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
⇒シニフィアンとシニフィエとの相関関係、必然的有縁性は、多かれ少なかれどの言語にも見られますが、その有縁性の強さには差があり、フランス語などの屈折語ではそれが比較的弱く、日本語のような膠着語系はそれより強い傾向にあります。アフリカのスワヒリ語はそれが最も強い言語の1つで、例えば「のっしのっし」や「しゃなりしゃなり」等に当る「歩き方を形容する表現」が数十通りもあって、それを聞くだけで何歳くらいの人がどんな風に歩いているのか、もちろん男女の区別も含めて、分かるのだそうです。
 ソシュールは、このような言語を(シニフィアンとシニフィエとの有縁性に関して)「文法的な言語」と呼んでいます。「シニフィアンとシニフィエとの相関関係が、文法の範疇に入り込んでいる」という意味でしょう。ことほどさように、単独の言語に見る限りこのような有縁性は必ず見出されますが、他方非同系言語間では、("kennel"と「犬[ケン]寝る」のような!)ダジャレ的な偶然の一致を除いて、まず見出されません。
 bragelonne様の最初の質問文や補足の中の例は、相対的に「文法的な言語」からの例であって、したがってその研究のタイトルを再考するとすれば、「ソシュール『言語学原論』が手を抜いていたシニフィアンとシニフィエとの有縁性に関する考察」と題するにいいものであると思います。しつこくてすみませんが、決して「言語記号の恣意性」の原理を覆せるようなものではないでしょう。この筋からアプローチする限り、それはアリが象の足に噛みつくのにも似て、「原理」は微動だにしないでしょう。

 以上、碩学のbragelonne様に失礼とは思いましたが、偽らざる感想を述べさせて頂きました。ただし、本件に関してのみの感想でして、他のテーマについては常々敬服申しあげておりますこと、前述のとおりです。

この回答への補足

 ★ 有縁性 
 ☆ とは 派生語の問題だと理解しています。
 確認していませんが もしそうだとすれば なかい702さんの側に誤解があります。

 派生語の問題で 音素と意義素の基礎理論の部分を例証しているわけではないからです。
 それは まさに《音素=意義素》なる原義をめぐる基礎理論を示したのち そこから《派生する現象》についての語例です。原義を例証し得ます。

 スワヒリ語の話なども この派生語の次元での問題です。それは 言語ごとに それこそ社会的な暗黙の取り決めとして出来上がり成り立って来る現象として そうとすれば恣意性のもとに 起こっているはずです。

 言語記号の恣意性を打ち消す理論とは 別の問題です。《第二の恣意性》のことなのでしょうが 問題はそのとき 初源の段階で 《音素=意義素》を理論として前提しているかどうかで 話が違って来ます。

補足日時:2014/03/15 08:51
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ・・・つまり、「第一の恣意性」と矛盾する現象は僅かにあるけれども、それは「言語構造論にとっては周辺的なこと」であるとして、深入りしなかっただけなのです。ということは、有縁性の例をいくら集めてみせても、それだけで「言語記号の恣意性」を否定することはできないでしょう。
 ☆ これは 次の主題とその探究で済んでいるという立ち場にすでに立っています。

 ☆☆(No.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
  ★(回答No.12) ⇒《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》場合があることは、確かにそのとおりだと思います。
 ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 すなわち
 ☆☆(同上) ~~~~~~~~~~~~~~~
 これまでにおいて

  ・ / nVk(g)V / なる語例
  ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
  ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照

 の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ この説明に じっさい確かに次の《シニフィアン(子音なる音素)とそれがおびるシニフィエ(意義素)とのあいだに 自然的かつ論理的なきづながある》という説明を添えれば済む。こう考えます。

 ☆☆(No.1お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~
 (い) なぜ / n / が同定相であるか?

 この子音は 舌先を上の歯茎のところにおいたあと放すという調音の仕方としては / t / に似ています。ところが / t / は舌先を素早く突き放すのに対して / n / はいささかねちっこくくっつけたあとで放します。ここが子音という音素そのものが 同定相という意義素を帯びるという自然で論理的なきづなが見られるところです。 / t / は 不定指示相もしくは隔定相・放出相というべき意義素を帯びるようです。ta/da 誰; tu つ(完了相)。

 (う) / k / ないし / g / は 反出相;反定相です。

  息の音の / h / が順出相;順定相です。その息の音の流れを のどの奥に緊張点をもってさえぎるのが  / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。

  ha は(中心主題格)
  ka か(疑問法); ga が(関係主題格)
  ha-ka 果敢〔‐る(測る・図る)・‐無し・‐取る・‐が行く〕(主題内容の変化・移行・過程の相)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

      *



 ★ ということで、[ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である…と、こういうことになりますよね。
 ☆ けれども その初源の語の生成については まだ分からないという断わり書きをも添えねばならないでしょうね。

 分かっているかぎりでは この chien の語源〔だけですが〕は 次のようです。《尖った歯》という意味の語として成り立ったと言っています。それだけでも 
 ★ [ʃj~?]というシニフィアンと、「犬」というシニフィエとの対応関係は、一重に、フランス語における「恣意的な約束」である
 ☆ だけだとは限らない。こう見なければウソです。

 ▲(OnlineEtymologyDictionary:canine ) ~~~~
 http://www.etymonline.com/index.php?term=canine& …

 canine (n.) "pointed tooth," late 14c.,
 
 from Latin caninus "of the dog," genitive of canis "dog"
 (source of Italian cane, French chien),

 from PIE root *kwon- "dog"
 (cf. Greek  kyon,
 Old English hund, Old High German hunt,
 Old Irish cu, Welsh ci,
 Sanskrit svan-, Avestan spa,
 Russian sobaka (apparently from an Iranian source, e.g. Median spaka),
 Armenian shun,
 Lithuanian šuo).
 
 The noun meaning "dog" is first recorded 1869.
 ~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ いまでは漢語は 走狗の《狗 gou / こおーお / 》が犬を表わしますが その昔 われわれは 犬 / ケン / という漢語を受け容れています。現代では 犬 quan / チュエーン / といった発音で残っています。
 これなら / k - n - /というシニフィアンとして ラテンの canis と相似形を成しているぢゃないですか。――というのは 愛嬌の話に過ぎませんが。

 《恣意性に基礎を置く人間の側の言語をめぐるウゴキ これを伴ないつつ出来上がった社会的な約束ごと》であるだけにとどまると言うのは 話が早すぎます。


      *

 ★ ・・・ですから、今回のbragelonne様の議論は、実態的には「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」くらいの論題に過ぎないと思います。もし、この内容を「ソシュールの《言語記号の恣意性》は神話である」という論題で、例えば「日本言語学会」で発表するようなことがあれば、失礼ながら、一笑に付されることでしょう。
 ☆ 《「通時語彙論に見る恣意性の原理の破れ」》について 《 / n, t, h, k,・・・/ なる子音としての音素が その調音の仕方という自然の事象において一定の意味内容を帯び その内容をそのまま論理的にみちびいたかたちで 意義素となっている》ことをも示しました。

 息の音 / h / は 順出・順定の相を意義素として持つ。息をするのは 自然でごくふつうなのだから 順出・順定の相を帯びる です。その息の音をさえぎる / k / は 反出;反定相・思考相・疑問相・変化移行過程相などだと言っています。

 《一笑に付される》と見通されるその前に もういちど この事実をよく見てみてください。日本語というひとつの言語で成り立ったなら これを例外とするわけには行かないでしょう。


 ▲ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性) ~~~~~~~~~
 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまりシーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち 《シーニュの担っている概念 x とそれを表現する聴覚映像 y との間にはいささかも自然的かつ論理的絆がないという事実》は 真実ではありません。《原理の破れ》を例証しました。

お礼日時:2014/03/15 07:14

 「お礼」と「補足」、ありがとうございました。

ですが、もうこれ以上の詳細に立ち入らないこととします。すでに十分なやり取りがありましたし、Q&Aとしての本来の趣旨からはいささか外れてきたような観もありますので、ここでは多くを語りません。

(1)今回のbragelonne様の所説は、「通時言語学―語源に見る音韻と意味のつながり」としては大いに賛同・評価しております。
(2)言語の共時態は、それに該当する時の前後と関係なく、それ自身で体系的構造をなしています。そして、その中の骨格の1つとして「恣意性」も組み込まれている格好なので、それが欠けるような状況になったら、もはや言語としての用を成さないでしょう。それくらい重要な中核(原理)です。
(3)bragelonne様の所説をいかに精緻化したり類例を積み重ねてみても、「恣意性」の原理は微動だにしません。わずかに、末端部分のそのまた一部に欠落が見つかったくらいの謂いでしょう。
(4)かねてよりのbragelonne様の主張を別のことに例えれば、「窓一枚が破損していることを取り上げて、ゆえにこれは家ではない」と言うようなものではないでしょうか。ですから、それは「恣意性の原理」にとっては痛くもかゆくもないようなちょっかい、という感じじゃないかと思います。

 以上が、bragelonne様のご質問に対する、私の、はじめからの、そして、最終的な回答です。
なお、僭越ながら、お勧めします。
(1)名指しで批判する場合は、少なくともその本人の著作に基づいて行うべきです。
(2)私の回答が信憑性に欠けると判断なさるのは甘んじて受けますが、それなら、(自信がおありのようなので)学会誌にでも投稿されて批評を仰いでみてはいかがですか? ソシュール批判では取り上げてもらえなくとも、「語源に見る音韻と意義素の有縁性」というような表題でなら、かなり面白いと思います。
(3)このサイトでは本来想定されていないような「対話」ができたということで、それなりに楽しませていただきました。ただ、望むらくは、もっと弁証法(正反合)やperspectivism(見解の擦り合わせ・接合)などがあればよかったですね。でないと、一方的な意見や知識の披瀝に陥ってしまいますからね。

 それでは、ご幸運を。不一

この回答への補足

 二点 おぎないます。


 《音素=意義素》なる基礎理論は 子音それぞれの《調音の仕方》に鍵があります。そういう自然の事象です。そこから 意義素の内容を 《論理的に》みちびいています。





 もう一点です。たとえば

  『恣意性の神話――記号論を新たに構想する』勁草書房,1999年

 なる著書のある

  菅野盾樹
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E9%87%8E% …

 がいます。方向は わたしと同じです。手紙を送り返信を読んだときから めちゃくちゃな学者だと分かりました。中身は 何もありません。

  ブログ:http://d.hatena.ne.jp/namdoog/

 も あります。めちゃくちゃという評価をする理由を述べることもしません。


 


 なかい702さんは めちゃくちゃではありませんが けっきょく中途半端な哲学の徒なのですね。

補足日時:2014/03/16 00:09
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~
 (2)言語の共時態は、それに該当する時の前後と関係なく、それ自身で体系的構造をなしています。そして、その中の骨格の1つとして「恣意性」も組み込まれている格好なので、それが欠けるような状況になったら、もはや言語としての用を成さないでしょう。それくらい重要な中核(原理)です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すでに通時と共時とに分ける考え方は 意味をなさないということを遠回しに述べましたが この考えは 全面的にマチガイであると考えます。

 いわばフランス語の chien という語がそのままで通用する一定の期間としての時代だけを 言わばそれ自身で完結したひとつの別世界として捉え そこにおいて成り立つ《言語学原理》を明らかにした。と言っているのと変わりありません。



 あとの(1)(3)(4)のご指摘は これまでの説明における事実を見て見ぬ振りをしています。体のいい作文です。

 その理由を ひとつだけ示しましょう。

 ☆☆ (No.1およびNo.12お礼欄) ~~~~~~~~~~~~
 (う) / k / ないし / g / は 反出相;反定相です。

  息の音の / h / が順出相;順定相です。その息の音の流れを のどの奥に緊張点をもってさえぎるのが  / k / でありこれが 反出相;反定相をになうようです。

  ha は(中心主題格)
  ka か(疑問法); ga が(関係主題格)
  ha-ka 果敢〔‐る(測る・図る)・‐無し・‐取る・‐が行く〕(主題内容の変化・移行・過程の相)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 語源の事例は 《音素=意義素》なる仮説を例証するためのものであり この基礎としての仮説については これまで一度も触れておられない。





 復唱しておきます。

 ★ (1) ・・・「通時言語学―語源に見る音韻と意味のつながり」
 ☆ は 基礎理論を例証している部分のことです。《音素=意義素》なる基礎理論から 考え方としてはすべて出発しています。

 ★ (3) ・・・「恣意性」の原理は微動だにしません。
 ☆ どころか 《シニフィアンとシニフィエとのあいだに 自然的かつ論理的なきづな》があると証明したからには 言語記号の恣意性――《第一の恣意性》――は ぜんぶくづれました。


 いま述べたところについて
 ★ 〔末尾の〕(3) ・・・ただ、望むらくは、もっと弁証法(正反合)やperspectivism(見解の擦り合わせ・接合)などがあればよかったですね。
 



 ★ (自信がおありのようなので)学会誌にでも投稿されて批評を仰いでみてはいかがですか? 
 ☆ もう三十年前から いくらかの学者に書簡を送ったりして問うています。あたまの固いことをいやというほど味わいました。地道にあゆむことしか念頭にありません。



 降参と見ました。無条件でしょうか。

お礼日時:2014/03/15 23:47

雑談だよ。


あなたのがみがみの剣幕がすごくて、このカテゴリーは一時清潔な状態を保ったが、最近、また質問の方が荒れ出したね。
頑張らないで、コレはこれで成り行きに任せたらどうだい。
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この回答へのお礼

 分かった。

 ご投稿をありがとうございます。

お礼日時:2014/03/15 07:15

再々度の書き込みをありがとうございました。



> ★ ソシュールの言う「恣意性」とは、「直接的な規定や関係によらず、その場に応じた自由な解釈や採用」というような意味を含意していると思います。ゆえに、例えば上記の日本語音韻論の、特にその(2)(5)なども、彼の提示する言語の「恣意性の原理」の一部に含まれることだと考えます。
> ☆ だとしても 言語記号の恣意性の説については 関係しないと考えます。そして ここではその取り扱いとしては シニフィアンを単純に音素のこととして 議論をしている。形態素の話は ほとんどせずに しかも子音としての音素に絞って 話しをしています。
⇒「音素とは何か」という定義の問題からして、30とおりもの定義があるそうですよ。それでも、音素が恣意性とは関係しないとおおせですか?

> ア行の子音 / ' / とカ行の子音 / k / とが互いに差異を持ち区別されるということ。
> という意味は タ行の中で タとチとツとのあいだで実際の音声として子音が違っていても みな同じタ行であるという了解があり これをひとつの指針としている。
> つまりは タ・チ・ツや ハ・ヒ・フやそれぞれのあいだの子音の差異については あたかも恣意性がはたらいているようであるが そうとは見ず そうではなく 同じ音素だと見なすということ。
⇒はい、そのとおりだと思います。前便でも明らかになったように。

> ★ ・・・ シンタックスですよね。つまりそこから切り出した「赤」なる語は、発話者の指定した「政治的イデオロギーとしての左翼」(だけ)を背負っている、それしか運んでいないじゃないですか。・・・
> ☆ ですから そういった語例としての意味も《赤》なる語には 全体の語彙体系のなかで しっかりと――もうそこでは具体的な文脈は抽象して――捉えられ付与されることになっている。という見方ですが。
> (このことは そのあとで ていねいに説明していただいていました)。
> シンタックスは 関係して来ません。
⇒ですからそれは、tagmemicsやtaxonomyの範疇であって、「静態学」でしょう。語源学や語義論としては「なるほど」ですけれども、それ(だけ)をもって、言語活動の「動態学」である『言語学言論』について「ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である」との批判論はちと無謀じゃないですか? さらに言わせていただけば、「孫引き」ならぬ「孫学習」(だけ)で本家批判は、失礼ながら、迫力ありませんよ。

> ☆ ちょうどきょう 回答No.10の補足欄に カガ・カゲ(光・影など)の語にちなむ / k(g)-k(g)-r(l)- / なる子音複合について 初源の 《音素 = 意義素》なる仮説から 語の生成や派生へと展開する語誌にかんして 日本語と印欧語との対照をしています。
> 有縁性が強い・弱いにかかわらず 《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》という――恣意性説を批判し それが成り立たないと証明するところの――理論を 証明が成立したと言えるほどには 明らかにしていると考えます。
⇒《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》場合があることは、確かにそのとおりだと思います。

しかし、ここで、もう1つ勘違いなさっておられると思われることがあります。聴覚映像において有縁性が強い(=恣意性が弱い、もしくは無い)という場合、それは「多言語間において、しかも系統の異なる言語間において同じ音韻的連関が見られる」ことを意味します。例を最初の質問文から取らせていただきますと、「/ nagi / なぎ =薙ぎ・凪ぎ・和ぎ nago-ya-ka 和やか (障害が消滅した状態)  nago-mu 和む (障害が消滅していく)  nagu-sa-mu 慰む (障害を除去させる) …」と同じような、少なくとよく似た聴覚映像と意味とが、例えば、英語でも中国語でも、あるいはイヌイット語やグワラニ語でも見出される」というようなことを検出できた場合にはじめて言えることです。そういう証拠を数百~数千例ほど提示できたら、そのときこそ本当に、「言語記号の恣意性に関する批判論」を打ちあげることができるでしょうね。

この回答への補足

 音素 / m / の世界 と題しておぎないます。

 § 1. / m / :認定相 と捉える。

 • ma 目
 • ma-i > me 目
 • mi-ru 見る

 § 2. / m / :認定相⇒意志相 あるいは逆に 推定相

 • ‐mu む: 行か‐む:行こう(行くつもりだ):意志相 // 行か‐む:行こう(行くであろう):推定相

 ○ 主観が認定した相について おのれの意志を示す場合と 主観のみであるゆえに推定となる場合と。

 § 3.ma-gasin / ma-gazine

 ○ アラビア語 khazana "to store up."《 たくわえる》の被動完了相の活用形(過去分詞のごとき)
 ここに / m / が活躍している。
 つまり《たくわえられた〔もの・ところ〕》⇒《倉庫・百貨店・雑誌》という語義。
 ・ http://www.etymonline.com/index.php?term=magazin …

 この《被動完了相》を《認定相》の / m / が示すかたちか?

 § 4.dog-ma および syste-ma

 
 ○ このギリシャ語でも / m / が《被動完了相》を示す。
 ・ dokeo:考える " to think, suppose, expect. imagine "
 ・ dog-ma:考えられた〔もの〕
 ・ http://www.etymonline.com/index.php?term=dogma&a …

 ・ syste-m; syste-ma
 ・ syn-histanai:共に-立たせる; 仕組む
 ・ syn-histe-ma:共に立たせられた〔もの〕;仕組まれた〔もの〕
 ・ http://www.etymonline.com/index.php?term=system& …

 § 5. Muhammad (§3と同じ趣旨)

 • hamada: たたえる。ほめる
 • mu-hammad: たたえられた。ほめられるべき
 ・ http://en.wikipedia.org/wiki/Muhammad_(name)#Ety …

 ・ Mu-barak / Barak / Baruch
 • barak:ことほぐ。祝福する
 • mu-barak: 祝福された

 § 6. 韓国語における  / m /

 《被動》でも《完了相》でもないが 言わば動名詞を一般的につくる。

 ・ sara-m =人
  < sal-da:生きる・暮らす

 ・ 받침 bad-chi-m 支え・下敷き・台・パッチム
  < bad-chi-da パッチダ:支える

 ・ 반가움 bangau-m うれしさ
  < bangap-da パンガップタ :うれしい

 § 7. mirror(鏡)は miru(見る)もの?

 •ma 目
 •ma-i > me 目
 •mi-ru 見る
 •mo-ru 守る
 •ma-gu 覓ぐ・求ぐ(もとめる・捜す・尋ねる)

 これらに対して
 •mirar (ラテン語) 見る
 •mirage まぼろし・蜃気楼
 •mirror 鏡
 •miracle ( miraculum )奇蹟
 •ad-mire  賛嘆する(見られるべきで讃えられるべきものと見る)

 § 8. 《身》 の話

 認定したものが 《身》だったという話。

 • mö :身(=も・む)⇒
  ・ mo:蛻(身(も)‐抜け) /
   ・ mu:骸(身(む)‐くろ(≒殻))
  ・ → mö-i > mi ⇒ 身(み)

 • mö-ku > muku :身‐く( k が変化移行の相)⇒向く
 
 • mokomoko; mukumuku もこもこ;むくむこ
 • mogomogo もごもご

 § 9. サンスクリットにおける / m /

 ・ dhar-ma ダルマ

 ○ 「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhR) からつくられた名詞であり
 本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」などを示す。
 http://www.etymonline.com/index.php?term=dharma& …

 ・ kar-ma カルマ

 ○ 動詞の「クリ」(kR)(おこなう)の現在分詞である「カルマット」(karmat)より転じカルマンとなった名詞で、「行為」を意味する。いわゆる業(ごう)。
 http://www.etymonline.com/index.php?term=karma&a …

 § 10. 日本語における  / m /

 認定相で形容詞を派生させる / m /

 ・ 浅い→x
 ・ 深い→○ 深める・深まる 
 ・ 低い x
 ・ 高い ○ 高める・高まる
 ・ 熱い x (ただし cf. あたためる・あたたまる)
 ・ 冷たい x
 ・ 寒い x
 ・ 暑い x
 ・ 楽しい ○ たのしむ
 ・ うれしい x
 ・ かなしい ○ かなしむ
 ・ つらい x
 ・ はかない ○ はかなむ
 ・ よわい ○ 弱める・よわまる
 ・ つよい ○ つよまる・つよめる
 ・ とうとい △ とうとぶ 
  (ただし / m / ∽/ b /  ∵ さむい=さぶい;さびしい=さみしい)

 § 11.•はら(腹)-む=孕む!?

 • もと(元・本)-む⇒ 求める?
 • つと〔に〕(夙に)⇒ 努める・勤める (朝早くから仕事をおこなうの意)
 • かた(形)⇒ かためる(固める)

 § 12. なま(生)

 •な:名
 > な‐る:成る
 > な‐す:成す

 > な‐ま:生
 ◦ なまなま-し:生々し
 ◦ なま-る:訛る
 ◦ なま-め-く:艶めく ◾なまめか-し:艶めかし
 ◦ なま-け:怠け

 

 尻切れトンボですが。

補足日時:2014/03/14 07:44
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ ⇒「音素とは何か」という定義の問題からして、30とおりもの定義があるそうですよ。それでも、音素が恣意性とは関係しないとおおせですか?
 ☆ なるほど。なかい702さんは 大局的に・言語学の王道をあるく視点をとうとび 議論をしておられるようですが やはりいまの議論というのは 論点がしぼられています。

 たとえば次の理論について それは成り立たないという議論をしています。

 まづその重要性が次のように指摘されています。
 ▲ (丸山圭三郎:言語記号の恣意性) ~~~~~~~~~
 さて ソシュールの記号理論における最も重要なテーゼは 言語記号のもつ恣意性 arbitrarité という特性をめぐるものであろう。これは・・・ ソシュール理論のすべてに関わりをもつ記号学的基本原理である。
  (丸山:ソシュールの思想 I 1981 第3章 言語記号の恣意性 p.143 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの議論は 次のふたつの意味の恣意性の内 第一のそれについて批判しています。

 ▲ (同上) ~~~~~~~~~~~~~~
 ソシュールが述べた恣意性は 実は次の二つの意味を持っているのだが そのいずれもが言語内の問題であることを忘れてはなるまい。

 第一の恣意性は 記号(シーニュ)内部のシニフィアンとシニフィエの関係において見い出されるものである。つまり シーニュの担っている概念 x と それを表現する聴覚映像 y との間には いささかも自然的かつ論理的絆がないという事実の指摘であって 具体的には chien なる概念が / (シアン という発音記号) / という音のイメージで表現されねばならないという自然な内在的絆は存在しないということである。
 ・・・・
 これに対して第二の恣意性は 一言語体系内の記号(シーニュ)同士の横の関係(←→)に見い出されるもので 個々の辞項のもつ価値が その体系内に共存する他の辞項との対立関係からのみ決定されるという恣意性のことである。
 具体的に言えば 英語の mutton の価値がフランス語の mouton の価値とは異なる その異なり方の問題で その言語の形相次第で現実の連続体がいかに非連続化されていくかという その区切り方自体に見られる恣意性にほかならない。
 ・・・ ( pp.144-145 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ じつはさらに
 ▲ (同上) 第一の恣意性の縦の絆は 第二の恣意性によって切り取られたシーニュの結果的産物に過ぎないのである。( p.145 )
 ☆ と言って 第二の恣意性を重要視しているようなのですが それにしても 《結果的産物》としての第一の恣意性が成り立っていないということが明らかになれば どうなるでしょうか? 
 
 つまり ここでの反論は 《第一の恣意性》が 事実ではないと示して反駁するものです。

 これだけで 反証は成し得たと考えています。

          *

 ★ さらに言わせていただけば、「孫引き」ならぬ「孫学習」(だけ)で本家批判は、失礼ながら、迫力ありませんよ。
 ☆ これは 趣旨説明欄において ちらっと丸山に触れているだけですが 実際問題としては 丸山理論に対する批判である。こうはっきり申し述べておくべきだったことでもあります。丸山理論が 孫ではなく 本人だという意味です。

 ほかには うまく説明している理論はないはずです。丸山理論にいわば吸収されると言ってよいと思います。むろん《張本人》であるソシュールにしても きちんと明らかに説明しているとは思えません。なにしろ公表してはいないのですから。


          *

 ★ ⇒《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》場合があることは、確かにそのとおりだと思います。
 ☆ すなわち この反証によって 《第一の恣意性》は 中身が事実に反すると明らかになったと考えています。

         *



 ★ しかし、ここで、もう1つ勘違いなさっておられると思われることがあります。聴覚映像において有縁性が強い(=恣意性が弱い、もしくは無い)という場合、それは「多言語間において、しかも系統の異なる言語間において同じ音韻的連関が見られる」ことを意味します。
 ☆ さて ここでは《第二の恣意性》についてさらに詳しく見てまいります。

 ▲(丸山:承前) ~~~~~~~~~~~~
  ラングは一つの自立的体系であって その辞項の価値は 言語外現実の中に潜在する価値が反映しているのではない。その区切り方の尺度は あくまでもその言語社会で恣意的に定められたものであり 自然法則にはのっとっていないのである。ソシュールはこの第二の恣意性を《価値 valeur 》の概念とともに導入している。( p.145 )
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわち それぞれの言わば民族言語ごとに 《辞項(それぞれの語)》の価値が異なると言っているのだと受け取ります。
 ただし わたしの受け取り方の中身は 《価値》のあり方が言語ごとに異なっているけれども その初源の語の原義――つまり 《音素(子音)=意義素》――を 仮説として同じくしているという見方に立つものです。
 (ここでは むしろ 第一の恣意性から出発して 各言語内において価値の展開の仕方を異にする。という恰好であるように見ます)。

 すなわち 英語の mutton もフランス語の mouton もそれぞれ《羊》について表わそうとしている語(辞項)なわけですが 片や その肉のことであり 片や ふつうに生きている羊のことを示すという価値形成の違いが現われている。

 別様に言いかえるなら こうです。次のような変遷を経ているというのは 価値のあり方が 言語ごとに異なっているという事態だと考えられます。

  kaga/ kirakira (光・輝き)
    > kagirohi (陽炎)
    > kaga-mi(影見=鏡)
    > kage (影・蔭)
           

  *ghel- "to shine, glitter"
    > glitter・glisten・・・
    > glass (ガラス)
    > gold (金・金色)
    > yellow (黄色)
    > Зелёный( zelyonuy ズィリョーヌイ):緑 green


 ですから
 ★ 同じような、少なくとよく似た聴覚映像と意味とが、例えば、英語でも中国語でも、あるいはイヌイット語やグワラニ語でも見出される」というようなことを検出できた場合にはじめて言えることです。
 ☆ というのは 微妙に議論ないし批判の問題としては 違って来ていると受け留めざるを得ないわけなのです。

 カガ・カゲと *ghel- との比較対照が コジツケでデタラメに終わるかも知れないと言ったのは ぎゃくにたとえそうであっても 言語ごとに原義――《音素=意義素》――の展開が違って来るであろうから その違いの問題であって その議論をもって 展開する前の初源の段階における仮説が どうこう影響を受けるとは見る必要がない。こう言おうとしています。

 つまりは早い話が おそらくきちんとした語例を三つほど示して 《音素=意義素》なる理論が例証できれば――つまりは ひとつの言語内だけでそう証明できれば―― 言語記号の恣意性なる理論は 全滅である。こう見ざるを得ないと考えます。

 例外とすることが出来ない例証=反証であれば それで 事足ります。

 これまでにおいて

  ・ / nVk(g)V / なる語例
  ・ / h /=順出相;順定相と/ k /=反出相;反定相との対照
  ・ 完了相の助動詞で ツ(/ t(d) /)とヌ(/ n /)との対照

 の三つについて説明し得たと考えるものです。どうでしょう。

お礼日時:2014/03/14 00:09

再度、「お礼」への書き込みをありがとうございました。


例によってそれを引用させていただきつつ、⇒のあとにお答えいたします。

> 音韻である / h / が異種の音韻を引き連れている〔次の(え)〕と見るのではなく そうではなく 単純に 三つの異種の子音の行から 適当にえらんで勝手にひとつの行に持ち寄って来た。と見るものです。
>   (え)は[ha], ひ[çi], ふ[φu], へ[he], ほ[ho]
>   (お)/ ha /, / hi /, / hu /, / he /, / ho /
⇒日本語音韻論ではこの(え)(お)の組をもって標準的解釈としているようですね。つまり、こうです。
(1)「は行」各列の頭音には、大別して[h]・[ç]・[φ]の3種がある。
(2)それらを束ねる音素は/h/とし、環境によって上記3種の[h]・[ç]・[φ]が実現される。
(3)3種の音声[h]・[ç]・[φ]は、きれいな「相補分布」をなす。すなわち、[i]の前では[ç]、[u]の前では[φ]、その他の環境では[h]となる。
(4)したがって、これら3種の音声[h]・[ç]・[φ]はそれぞれ喉音・軟口蓋音・両唇音と異なるが、無声摩擦音という点で共通している。
(5)ゆえに、「は行」各音を識別する要素(弁別特徴)は、「無声摩擦音+その生起する環境」ということになる。

> (お)の音韻の具体的な音声は (え)のようになるということですが これは ほとんど同じことだともまづは考えられます。ですが・つまり この(え)と(お)との間にはほとんど差異はないと言ってよいほどだと思いますが おそらく違いは (お)の捉え方だと いちいち必要以上に 音韻と音声との差について触れたり・同じことですが断わり書きを書いたりする必要はないと考えられるからです。
> つまりそれは 言語記号の恣意性という主題について議論するときに この(お)の視点を採ったほうが 便利だと思われるからです。きわめて事務的な処理なのですが (え)の見方に潜む場合の《恣意性》は 言語記号のそれとは はっきり別だからです。
⇒「恣意的」(arbitraire)なる語は、狭義には、ないし当面する問題に限定すれば、確かに「相関的・有縁的」(relatif)の対立語として採ることができますが、広義では、「規定的」(legal)などへの対立語として「非規定的・非正当的」(immotivé)といったニュアンスを含めた意味になり得ます。ソシュールの念頭にはそれがあったと考えられます。
 ということは、ソシュールの言う「恣意性」とは、「直接的な規定や関係によらず、その場に応じた自由な解釈や採用」というような意味を含意していると思います。ゆえに、例えば上記の日本語音韻論の、特にその(2)(5)なども、彼の提示する言語の「恣意性の原理」の一部に含まれることだと考えます。すなわち、この場合の「恣意性」を別の仕方で例えてみれば、「オートマ(ノークラッチ)車の差動装置」のようなもので、「関連するけれども直接的ではない、一種の緩衝装置」のようなものだと言えるでしょう。さらに一般的な術語で言うなら、「非直結・間接対応・作為的解釈・抽象作用…」などと表現できるかも知れません。

> ★ ・・・まず、「シンタグムから取り出した語はパラダイムの中にあるそれと同じ」、ではないと思います。「あいつは赤だ」という発話が、色彩の話でないことは明らかです。
> ☆ ですから この語例としての《赤》を語として取り出したときには やはりそこから取り出した文(シンタグムないし文脈)は もう関係しなくなるのではないのですか?
⇒“「あいつは赤だ」という「発話」”から取り出すわけでしょう? シンタックスですよね。つまりそこから切り出した「赤」なる語は、発話者の指定した「政治的イデオロギーとしての左翼」(だけ)を背負っている、それしか運んでいないじゃないですか。発話者が辞書項目の中からそれを選別して取り出し、線状に縫って表出したとき、つまり、発話したときが意味限定の分かれ目ですね。

> その関係した語義をも むしろパラダイムのほうでの語の意味の多様性として 問題にするようになる。つまりは 赤なる語は もともとは 色の名かもしくは朝日ののぼるときのその色を表わしたかだということのほうが――シンタグムの問題よりも―― 重要になる。そのあと 多義性を持つというふうにです。
> 文脈によって別の意味になるということを パラダイムとしても扱っているはずです。と思うんですがねぇ。
⇒そうですね。辞書項目としてあるときは「弁別特徴のマーカー」だけを背負っているわけですね。例えば、こんな風に。
赤:血や夕焼けなどに共通する色、3原色の1つ、交通信号の「止まれ」、社会主義や左翼などの俗称…
おっしゃるようにこれらが、「文脈によって」それぞれ別々の意味になるわけですね。ということは、発話にかかるまでは「このどれでもなく、どれでもある」わけですね。いや、「どれでもある得る」わけですね。さらには、ごくまれにでしょうが、辞書にないような意味を指定することだってなくはないでしょう。なぜなら、辞書は、「これまでにかくかくしかじかの意味で使われた」ということを示す、いわば、統計にすぎないものですから。
そして、上記との関連に言及しますと、これらの場面でもまた、くだんの「恣意性」が関わってくるのだと思います。

> ☆ ひとつには 言語記号の恣意性なる仮説 これ一本にしぼっています。そして それについてのソシュールの理論は 批判の対象とするにはあいまいであるとすれば やはり丸山圭三郎のその仮説を 取り上げるという恰好になります。
⇒了解いたしました。私も学生時代に丸山圭三郎や池上嘉彦の著作とか「盗聴」を通じて多大の影響を受けた記憶があります。その意味では幾分、共通点があるかも知れませんね。

> 余分かも知れませんが ひとこと触れるとしますと 或るひとつの言語について この恣意性説が成り立たないと証明できるなら その一言語を 恣意性説の例外として ほかの諸言語ではまだ成り立つのだ・・・といった話にはならない。ということだと考えます。
> 例外とした言語で くづれたなら ほかの言語で成り立っていると見える見えないに関係なく 言語の問題として 恣意性説は 成り立ちません。もし成り立つと言い張るのなら 一つの言語(いま 日本語ですが)は ほかの緒言語とは 人間の言葉として カテゴリが別だと言ったことになります。ゆえに。
⇒ソシュールはまた、「有縁的なものが1つもないという言語、存在しない」、と言っており、あるのはその程度差であるとしています。そして、有縁性が強い(=恣意性が弱い)場合を「相対的恣意性」と呼び、反対に有縁性が弱い(=恣意性が強い)場合を「絶対的恣意性」と呼んでいます。ラテン語とフランス語、ドイツ語と英語を対比させて、有縁性が比較的強い言語としてそれぞれの前者(ラテン語とドイツ語)を挙げ、それが比較的弱い言語としてそれぞれの後者(フランス語と英語)を示しています。

ということで、以上述べたような趣旨から、もし、bragelonne様のご質問のタイトル「ソシュールの《言語記号の恣意性》は 神話である」の中の「神話」が、「根拠なしで一般に信じられている事柄」というような意味を意図されているなら、正直少し大げさかなと感じました。それで、前便の末尾でご提案した「ソシュール言語学の○○」、というようなタイトルのほうがより自然かなと思います。

以上、再々伸まで。

この回答への補足

 ひとこと おぎないます。

 しょうじきに言わなければならないとすれば ソシュールの功績は 例の e がひっくり返った文字で表わされるあいまいなア――ええっと シュワと言いましたか―― を予想し 果たして そういう音韻が見つかったこと にあると思います。

 線条性は ひとが言葉をしゃべるときには 時間がかかると言っているのだと受け取ったままになっています。
 
 ですから ソシュール言語学の真骨頂うんぬんと言われても じつはピンと来ていません。

 赤裸々な心のままにです。

補足日時:2014/03/13 16:58
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 触れるべきと思われるところについて反応してまいります。

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ソシュールの言う「恣意性」とは、「直接的な規定や関係によらず、その場に応じた自由な解釈や採用」というような意味を含意していると思います。ゆえに、例えば上記の日本語音韻論の、特にその(2)(5)なども、彼の提示する言語の「恣意性の原理」の一部に含まれることだと考えます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だとしても 言語記号の恣意性の説については 関係しないと考えます。そして ここではその取り扱いとしては シニフィアンを単純に音素のこととして 議論をしている。形態素の話は ほとんどせずに しかも子音としての音素に絞って 話しをしています。

 もし (2)(5)などの・それとしての恣意性の原理について 触れるとすれば 次のようにもう一項目を用意します。
 
 (6) ~~~~~~~~~~~~~~
 日本語にかんするかぎり――歴史的に初めからとは見ていないのですが―― サンスクリットの音韻表に倣ってつくったたとえば五十音図をひとつの指針としている。その意味は ア行・カ行・・・というようなまとまりどうしのあいだで子音の区別を持つということ。

 すなわち ア行の子音 / ' / とカ行の子音 / k / とが互いに差異を持ち区別されるということ。
 という意味は タ行の中で タとチとツとのあいだで実際の音声として子音が違っていても みな同じタ行であるという了解があり これをひとつの指針としている。

 つまりは タ・チ・ツや ハ・ヒ・フやそれぞれのあいだの子音の差異については あたかも恣意性がはたらいているようであるが そうとは見ず そうではなく 同じ音素だと見なすということ。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ したがって いまの主題の問い求めについて 関係しない。こう考えます。

 なにしろ通時的かつ共時的にごういんに / h, F, f, p, (> w, ', b ) /なる子音群を ひとつの音素 / h / と見なしてさえいます。


      *


 ★ ・・・ シンタックスですよね。つまりそこから切り出した「赤」なる語は、発話者の指定した「政治的イデオロギーとしての左翼」(だけ)を背負っている、それしか運んでいないじゃないですか。・・・
 ☆ ですから そういった語例としての意味も《赤》なる語には 全体の語彙体系のなかで しっかりと――もうそこでは具体的な文脈は抽象して――捉えられ付与されることになっている。という見方ですが。
 (このことは そのあとで ていねいに説明していただいていました)。
 
 シンタックスは 関係して来ません。



       *

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ⇒ソシュールはまた、「有縁的なものが1つもないという言語、存在しない」、と言っており、あるのはその程度差であるとしています。そして、有縁性が強い(=恣意性が弱い)場合を「相対的恣意性」と呼び、反対に有縁性が弱い(=恣意性が強い)場合を「絶対的恣意性」と呼んでいます。ラテン語とフランス語、ドイツ語と英語を対比させて、有縁性が比較的強い言語としてそれぞれの前者(ラテン語とドイツ語)を挙げ、それが比較的弱い言語としてそれぞれの後者(フランス語と英語)を示しています。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ちょうどきょう 回答No.10の補足欄に カガ・カゲ(光・影など)の語にちなむ / k(g)-k(g)-r(l)- / なる子音複合について 初源の 《音素 = 意義素》なる仮説から 語の生成や派生へと展開する語誌にかんして 日本語と印欧語との対照をしています。

 有縁性が強い・弱いにかかわらず 《音素(子音)が そのままで意義素をおびており そのことが 語の生成にもつながりを持ったかたちで影響している》という――恣意性説を批判し それが成り立たないと証明するところの――理論を 証明が成立したと言えるほどには 明らかにしていると考えます。

 どうぞよろしくお願いします。

お礼日時:2014/03/13 16:51

こちらであちらの問いかけに答えます。



こんにちは。

猫は「ひかり」を知らないと思いますよ。光に照らされている明るい現象や状態は認識できるでしょうけれども、そこに「ひかり」があるとは認識しない、考えない、思いも付かない。しかし、《闇》や《闇》という現象は知っているかもしれないです。それはありえると思います。ただし、《ひかり》の欠如した状態が《闇》であるとは考えません、思いも付きません。ただ、《闇》という現象や状態を知っているだけだけではないでしょうか。

───たとえ、猫が「部屋が暗くなったから、よし明かりをつけよう」と考えてスイッチを押して室内の明かりをつけたとしても、それはそのスイッチを押せば部屋が明るくなることを知っているだけのことです。これは「ひかり」を知っているとは言わない───

人間だって、つい百年ほどまえまで、電子は知らなかった。そのような存在を思いつきもしなかった。しかし、電気的な現象は知っていた。猫が「ひかり」を知らなくても不思議はありません。

ところで、
《かげ》は、ほんとうに「輝く」が語源なんですか?
日本語は、基本的に動詞が名詞化するときに語幹は変化しませんよ。
その連用形の「かがやき」ならばともかく、《かが》は少し無理があるのでは?
かぐや姫がいますし、輝くことを意味する「かぐ」という動詞が存在した???
おそらく、「かぐ」という下二段動詞がかつてあったに違いない!!

この回答への補足

 この欄をお借りして 筆のおもむくままになのですが 探究をすすめるためにと思うことをつづります。

 カガ・カゲなる《光り・輝き》を表わす語からのお話です。

 ・ glitter
 ・ gleam
 ・ glister
 ・ glint
 ・ glisten
 ・ glass
 ・ Chloe (Grk Khloe 'young green shoot')∽ yellow
 ・ gold
( 次のページから拾ったものです。 OnlineEtymologyDivtionary http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_f …

 みな 《 shine 》の意味を帯びています。ガラスもです。クローエなる女性名やそれと同根だという黄色( yellow )・金色( gold )については あとで詳しく見てみます。 
 



 昨夜ふとこの英語では  / g-l- / という子音の複合で《光りや輝き》を表わす語がいくらかあるということが思い浮かびました。

 カガ・カゲだって カギ‐ロヒとすれば / r / の子音がくっつきます。わ(我)> わ‐レ> われ‐ラ=親愛称相。あるいは な(名)> な‐ル(成る)=自然生成相。
 また / r /∽/ l / であることは ラテン sol ∽ ギリシャ helios ∽ サンスクリット surya。英語 title ∽ 仏語 titre など。


 つまり 日本語では 子音だけで表わせば / k-k(g)-r- / が 《光》関係の語をつくります。それに 擬態語としてなら キラキラ つまり / k-r-/ という子音としての語根があり得ます。
 そして 印欧語での再構形は *ghel- "to shine, glitter" であるらしい。


 つまり乱暴に言ってしまうなら

  キラキラ kirakira ∽ 英語 glitter・gleam・glister・glint・glisten・glass

 であるとさえ見られます。違いは / k-r(l) / のあいだの母音が消えていることと あとほかに添加物があって派生していることだけだとさえ見られます。


 

 では yellow / gold は どうか?

 ▲(onlineED: gold )
 http://www.etymonline.com/index.php?term=gold&al …

 Old English gold,
 from Proto-Germanic *gulth-
  (cf. Old Saxon, Old Frisian, Old High German gold,
  German Gold,
  Middle Dutch gout,
  Dutch goud,
  Old Norse gull,
  Danish guld,
  Gothic gulþ),

 from PIE root *ghel- "yellow, green," possibly ultimately "bright"
 (cf. Old Church Slavonic zlato,
  Russian zoloto,
  Sanskrit hiranyam,
  Old Persian daraniya-,
  Avestan zaranya- "gold;"

 ▼(ibid. : yellow )~~~~~~~~~~~~~~~
 http://www.etymonline.com/index.php?term=yellow& …

 Old English geolu, geolwe,
 from Proto-Germanic *gelwaz
  (cf. Old Saxon, Old High German gelo,
  Middle Dutch ghele,
  Dutch geel,
  Middle High German gel,
  German gelb,
  Old Norse gulr,
  Swedish gul "yellow"),

 from PIE *ghel- "yellow, green"
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆  / g / が なくなって半母音のイ( y- )になっているのは 英語の特徴。日本語では 語頭では起こらないけれど 例はある。書く> kaki-tari > kaita 書いた;嗅ぐ> kagi-tari > kaida 嗅いだ。

 この《金 gold / 黄色 yellow 》の語の行方を ロシア語で追ってみたい。

 ロシア語 ~~~~~~~~~~~~~~~
  Золото( zoloto ゾーラタ):金 gold
   * / k(g)-r(l)- / の母音は保たれている。
   * / k(g) /なる子音が / z / へと訛っている。
    ゴ> ギョ> ヂョ> ゾ。

  Жёлтый( zyoltuy ジョールトゥィ):黄色 yellow
   * / k(g) /なる子音が 今度は / zy / に変化す
    ることで 金=ゾーラタとの違いを出している。

  Зелёный( zelyonuy ズィリョーヌイ):緑 green



  ○ ちなみにあらためてインドイラン関係を確認しておきます。

  Sanskrit    hiranyam,
  Old Persian  daraniya-,
  Avestan     zaranya-  "gold;"
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
   


 
 こうして見てきて 言えることは 

 (あ) / k(g)-k(g)-r(l)- / なる子音複合は 《光り・輝く》の意味を帯びているらしい。

 (い) その原義から 意義も派生し 新しい語も派生する。

 (う) 日本語では 光の明から暗のほうへと 関心が移って行って カゲ(影・陰)という語を生んだ。

 (え) ロシア語では かがやくものとして 《金・金色 / 黄色 / 緑》なる意義とその語とを生んだ。《緑》も新鮮ゆえに かがやくと関係するか。

 (お) 音韻が変化するということ。ゴールドとグラスとイエローとは 特にグラスは意味が飛躍しているかも知れず 同じ語根から出たとは分かりづらい。

 (か) また 言語によっては 子音も変化するが 母音も落ちる。日本語は 割り合いよくその古来の音韻を保っているであろうか。形態素が / CV / というように一母音+一子音から成っていて分かりやすい。

 (き) これだけさもありそうな話として説明しても ひょっとしてこれらの仮説は コジツケでデタラメであるかも分からない。だって 世界は 日本語と印欧語とだけから成るわけではない。

 (く) ということは それほど言語どうしのあいだでは原義をたもつ語からの乖離としての違いがはなはだしいと見られる。同じひとつの言語においても その歴史的な変化は 原義をもはや見失わせるにじゅうぶんな程度に達している部分が多い。

 (け) それにしても 日本語は このように原義を保つということ。つまりは 子音としての音素=意義素 という理論をかなりの程度でいまの言葉においても見せてくれている。

 (こ) kaka / kaga は hi 日(太陽)の光とかかわって出来たか。つまり

   hi : ひと‐ひ(一日)
   hu/heru : 経る(日から日へ時を送る)
   ka : ふつ‐か(二日)
   kö : こ(日)‐よみ(読み=数える)=暦  
   kä : け(日) 氣長久成奴=け長く成りぬ(万葉二・85)
http://infux03.inf.edu.yamaguchi-u.ac.jp/~manyou …

 (さ) つまりは / haha (母)/ ∽ / kaka (嬶)/など。





 見落としや考え違いがあるかも分かりません。ツッコミをどうぞ。

補足日時:2014/03/13 11:12
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この回答へのお礼

 こんばんは。ご回答をありがとうございます。


 ◇ 猫は「ひかり」を知らないと思いますよ。
 ☆ ん? 動物の猫のことですね。


 ◇ 光に照らされている明るい現象や状態は認識できるでしょうけれども、そこに「ひかり」があるとは認識しない、考えない、思いも付かない。
 ☆ えっ? つまり 《「ひかり」がある》と言ってしまえば それは 言葉のことではないのですか?

 人間の言葉である《ひかり》のような意思伝達の手段としてのシルシ これは 鳴き声やら仕種やらとして あるのでしょうか?

 人間が《ひかり》として知覚し認識するその現象を 猫も知覚している。まづ こうですね。そして ほとんどここまでであるということでしょうか。




 ◇ しかし、《闇》や《闇》という現象は知っているかもしれないです。それはありえると思います。
 ☆ いや。まだ ご議論の全体もしくは狙いが 飲み込めません。

 光ないし身の周りがあかるいという現象 これも 闇という現象と同じように 知覚しているはずです。よね。


 ◇ ただし、《ひかり》の欠如した状態が《闇》であるとは考えません、思いも付きません。ただ、《闇》という現象や状態を知っているだけだけではないでしょうか。
 ☆ 太陽からの光とも捉えることなく その光が届かなくなると 闇になるとも捉えることはない。という意味ですね。ただ明るい・暗いといった現象を 知覚しているのだと。

 まだこの議論が 何処行きのバスであるのか。分からない状態ですね。


 ◇ ───たとえ、猫が「部屋が暗くなったから、よし明かりをつけよう」と考えてスイッチを押して室内の明かりをつけたとしても、それはそのスイッチを押せば部屋が明るくなることを知っているだけのことです。これは「ひかり」を知っているとは言わない───
 ☆ そう です よね。といったお応えになりますが。


          *



 ◇ 《かげ》は、ほんとうに「輝く」が語源なんですか?
 ☆ あっ そこ ツッコミが入りますか。何にも調べず確認せずに書き込みましたが。・・・



 ▲ (大野晋 古語辞典:) ~~~~~~~
 ○ かがみ【鏡】
   カガは カゲ(影)の古形。影見の意。

    * kaga > kaga-i > kagä > kage
      《 -i 》は イの折れ。ama > ama-i > ame 雨。

 ○ かがやき【輝き】
   近世前期までカカヤキと清音。
   もとは 清音であるから カガヨヒ・カギロヒ・カグヤヒメとは語根が別。

    * なのだそうです。でも kaka > kaga という変化は
     同じ語根においても あり得るし 成り立つのではないか?

 ○ かがよひ【-】
   カギロヒと同根。
   ・静止したものが きらきらと光ってゆれる。

 ○ かぎろひ【―】
   カガヨヒ・カグツチと同根。揺れて光る意。ヒは 火。
   ・炎 / 陽炎 / あけぼのの光
 
 ○ かぐつち【迦具土・火神】
   カグは カガヨヒのカガと同根。光のちらちらする意。ツは 連体助詞。チは精霊。

 ○ かぐやひめ【かぐや姫】
   カガヨヒ・カギロヒと同根。ヤは状態をいう接尾語。

 ○ かげ【影・陰・蔭】
   古形カガの転。カガヨヒ・カグツチのカガ・カグと同根。光によってできる像。明暗ともにいう。

     * 《明暗ともにいう》が 示唆的。

 ○ かげとも【影面】
   カゲ(光)ツ(連体助詞)オモ(面)の約。
   〈そとも(背面)の対〉 日の光にむかう方。南。/ 山の南


 ○ かげろふ【-】
   カギロヒの転。ちらちらと光るものの意が原義。あるかなきかの はかないものの比喩に多く使う。

 ○ かげろひ【-】
   光がほのめく。かげがうつる。 / ぼんやりと姿がうごく。 / 光がかげる。かげになる。

     * この語も 明暗ともに表わしうるかたちのよう。

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 
 ◇ 《かげ》は、ほんとうに「輝く」が語源なんですか?
 ☆ げんみつには 大野によると 違うみたいですね。すみません。

 こういうズルイ考え方もできます。つまり かかやく(輝く)とは別に かがみ(鏡)のカガや かがよひのカガから カガ‐ヤ(カガの状態)> カガヤ‐ク(カガの状態の過程相)という造語があったかも知れないと。やがて 合流したのだと。すみません。

お礼日時:2014/03/12 19:35

「お礼」への書き込み、ありがとうございます。



> ★ 「言語の構造解明」
> ☆ といった大枠あるいは切り口が 大前提に置かれているのだ。というようなことでしょうか。
⇒はい、そのとおりです。そして、音声や意味の内部問題はひとまず埒外において、言語構造の中核(音素・形態素・構文)に焦点をあてる、というスタンスだっただろう、ということです。

> シニフィエとあるのは シニフィアンの誤植ですが それについて 音声と音素とが どっちがどっちだという議論は どういう意味合いがあるのか? これが よく分かりません。《聴覚像》とか何とか言っていたと思いますが 音声と音素とを いまこの主題(論点)で区別するワケがよく分かりません。
⇒あ、失礼しました(コピーでやるとよくこういうポカをやらかします)。
日本語の、は行音 は[ha], ひ[çi], ふ[φu], へ[he], ほ[ho] に含まれる[h], [ç], [φ] は音声(異音)ですね。一方、/h/ は音素です。このように、音声は自然科学的に捉えられる「音声そのもの」ないし「実態的音声」です。これに対して音素は、環境によって[h], [ç], [φ]のどれにでも「変装」できる、心理的・仮想的な音韻です。そして、そもそもこの「心理的・仮想的に」設定するという措置が、「恣意」的な所業にほかならないことであると考える次第です。

> いまは全体をまだ読んでおらず 読み継いでいくそのつど 反応したことをつづっていますが この B の(3)も(4)も なぜそういう《単純化》がそれほど大事であるのか? これが わたしの中では はっきりしないままです。
⇒ソシュールとしては、とにかく、なるべく簡潔にかつ経済的に「一つの理論体系」を構築したい(そして、続く研究者にもっと精緻化してもらうべくバトンタッチしたい)。単純化はそのための方法論からよってきた手法だったのでしょう。なぜなら、枝葉末節にこだわっていたのではいつまでたっても理論体系はできない、と考えたに違いないからですは。

> ★ シンタグマティックな関係にある場面を想定した上での説明定義でしょう。
> ☆ ということだとしても そのシンタグムから取り出した語は ほとんどパラダイムの中にあるそれと同じことではないのでしょうか? つまりは その統語論じょうの役割りなどを加味した語のあり方は 恣意性を考え検証するときには ほとんど関係ないのではないでしょうか?
⇒いや、関係はあると思いますよ。まず、「シンタグムから取り出した語はパラダイムの中にあるそれと同じ」、ではないと思います。「あいつは赤だ」という発話が、色彩の話でないことは明らかです。つまり語彙は、パラダイムの中すなわち辞書項目にあるときは単に「可能性」のマーカーを持つに過ぎません。それを発話者が「線条に」縫いとってはじめて、すなわち発話をしてはじめて、その語の意味が限定される、ということになりますよね。その意味で、語義論や意味論は「静態的」研究で、音素論や統語論は「動態的」研究であるとも言えるのではないか、とそう思います。

> ☆ 《必然性》ですか? これだと 恣意性をあつかうのには あいまいすぎますね。無関係という必然性があるかもわからないぢゃないですか。つまり 恣意性が成り立つと言っているのかも分からないことになります。
⇒失礼しました。これは術語の選択を誤ったかも知れません。「関連性」とか「連繋性」とでも言うべきだったでしょうか。

> ★ (4)つまり、ソシュール(および、彼の講義録をまとめた彼の弟子たち)の念頭にあったことは、「彼らなりのアプローチ・1つの切り口から」言語学の礎石を築くことであっただろうと思います。
> ☆ これは そうであるとも言えるのでしょうが ううーん いまの主題とは別ですね。
> いまは 《言語記号の恣意性》説が 問題です。
⇒分かります。ただ、私の言いたいのは、既述のようにソシュールは範囲を限定して(ランガージュに関わる部分だけの、しかもその周辺部を削除して)、その中でのみ恣意性を説いたのだ、と考えるべきではないだろうか、ということです。

> ★ (1)冒頭にも述べましたように、bragelonne様の所説それ自体にまったく間違いはなく、実にそのとおりだと思います。
> ☆ えっ。そうなんですか。
⇒はい、そのとおりです。ただし、パラダイム論ないし意味論レベルでの話ですが。

> そういう意味では 恣意性の説は 一箇所がくづれたら ぜんぶくづれるはずですから そのところまでを しっかりと批判し切っておかなければならない。こう考えます。
⇒お言葉ですが、恣意性説は言語の本体全体の持つ属性を言及していると思いますよ。一方、bragelonne様の議論は、お説それ自体は間違いではないと思いますが、言語のごく一部(語義論、または、せいぜい広げて意味論)での問題提起に過ぎませんよね。ということは、正直、反論とか批判と銘打つにはいささかもの足りず、むしろ「ソシュール言語学の周辺」、「ソシュール言語学への補足」、「ソシュール言語学のやり残したこと」などのタイトルのほうがより適切なのではないか、と思います。

以上、再伸まで。(ご気分を害したらお詫びいたします。)
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。

 そうですね。
 まづおことわりしておかねばならないことは わたしは ソシュール言語学をそのものとして学んだことはないということです。

 言語記号の恣意性なる仮説――理論であり原理であるとも言われていました――について どうも感覚として違和感があった。そこから ソシュールおよび丸山を読んだにすぎません。

 いちおう全体を読んだわけですが ショウジキに言えば たとえば共時と通時との区別 こんなことは いちいち言わなくてもよいとさえ――極端に言えば――思いました。その思いのままに放っておいてあります。

 ですから もし言語学プロパーの議論としてなら ソシュールについては あらためてひもとくことから始めねばならない このような状態にあります。ので その点 申し訳ないとも考えます。


       *

 ★ ・・・音素は、環境によって[h], [ç], [φ]のどれにでも「変装」できる、心理的・仮想的な音韻です。そして、そもそもこの「心理的・仮想的に」設定するという措置が、「恣意」的な所業にほかならないことであると考える次第です。
 ☆ これはですね。たぶん いまひとつ別の捉え方があると考えます。

 つまり この場合の恣意性を 別の角度から捉える見方です。すなわち ハ行の子音については 三つの別の音韻〔の行〕から任意にえらんだものを ごういんにひとつの行として集めまとめた。という見方です。

   (あ)ha  hi  hu  he  ho
   (い)ça  çi  çu  çe  ço
   (う)φa  φi  φu  φe  φo

 つまり音韻である / h / が異種の音韻を引き連れている〔次の(え)〕と見るのではなく そうではなく 単純に 三つの異種の子音の行から 適当にえらんで勝手にひとつの行に持ち寄って来た。と見るものです。

   (え)は[ha], ひ[çi], ふ[φu], へ[he], ほ[ho]
   (お)/ ha /, / hi /, / hu /, / he /, / ho /

 (お)の音韻の具体的な音声は (え)のようになるということですが これは ほとんど同じことだともまづは考えられます。ですが・つまり この(え)と(お)との間にはほとんど差異はないと言ってよいほどだと思いますが おそらく違いは (お)の捉え方だと いちいち必要以上に 音韻と音声との差について触れたり・同じことですが断わり書きを書いたりする必要はないと考えられるからです。

 つまりそれは 言語記号の恣意性という主題について議論するときに この(お)の視点を採ったほうが 便利だと思われるからです。きわめて事務的な処理なのですが (え)の見方に潜む場合の《恣意性》は 言語記号のそれとは はっきり別だからです。

      *

 ★ ・・・まず、「シンタグムから取り出した語はパラダイムの中にあるそれと同じ」、ではないと思います。「あいつは赤だ」という発話が、色彩の話でないことは明らかです。
 ☆ ですから この語例としての《赤》を語として取り出したときには やはりそこから取り出した文(シンタグムないし文脈)は もう関係しなくなるのではないのですか?
 
 その関係した語義をも むしろパラダイムのほうでの語の意味の多様性として 問題にするようになる。つまりは 赤なる語は もともとは 色の名かもしくは朝日ののぼるときのその色を表わしたかだということのほうが――シンタグムの問題よりも―― 重要になる。そのあと 多義性を持つというふうにです。
 文脈によって別の意味になるということを パラダイムとしても扱っているはずです。と思うんですがねぇ。

        *

 ★ ・・・「関連性」とか「連繋性」とでも言うべきだったでしょうか。
 ☆ 《つながり(きづな)としての必然性》でしたね。すみません。

        *

 ★ ただ、私の言いたいのは、既述のようにソシュールは範囲を限定して(ランガージュに関わる部分だけの、しかもその周辺部を削除して)、その中でのみ恣意性を説いたのだ、と考えるべきではないだろうか、ということです。
 ☆ 分かりました。そういう言語学の理論形成の道もあるのかと思います。

 ただし 言語記号の恣意性にかんしては ランガージュ・ラング・パロルの区別は それほど重要ではないように思われます。というよりむしろ ぜんぶひっくるめた上であらためて言語について探究するはずだと思うのですが。

  
       *

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ⇒お言葉ですが、恣意性説は言語の本体全体の持つ属性を言及していると思いますよ。一方、bragelonne様の議論は、お説それ自体は間違いではないと思いますが、言語のごく一部(語義論、または、せいぜい広げて意味論)での問題提起に過ぎませんよね。ということは、正直、反論とか批判と銘打つにはいささかもの足りず、むしろ「ソシュール言語学の周辺」、「ソシュール言語学への補足」、「ソシュール言語学のやり残したこと」などのタイトルのほうがより適切なのではないか、と思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ ひとつには 言語記号の恣意性なる仮説 これ一本にしぼっています。そして それについてのソシュールの理論は 批判の対象とするにはあいまいであるとすれば やはり丸山圭三郎のその仮説を 取り上げるという恰好になります。

 あとは すでにおことわりしましたように ソシュール言語学プロパーについての議論は いたしておりません。視野にあるけれども割愛するといったことではなく そうではなく まったく取り上げようとしていません。
 
 ですから もしこのいまの批判が ソシュール言語学の中身には達していないとすれば まづそのことに何も思わないのですし あとは 言語記号の恣意性の説は神話であると証明できたのなら それで満足だという意味です。


       *

 余分かも知れませんが ひとこと触れるとしますと 或るひとつの言語について この恣意性説が成り立たないと証明できるなら その一言語を 恣意性説の例外として ほかの諸言語ではまだ成り立つのだ・・・といった話にはならない。ということだと考えます。

 例外とした言語で くづれたなら ほかの言語で成り立っていると見える見えないに関係なく 言語の問題として 恣意性説は 成り立ちません。もし成り立つと言い張るのなら 一つの言語(いま 日本語ですが)は ほかの緒言語とは 人間の言葉として カテゴリが別だと言ったことになります。ゆえに。

お礼日時:2014/03/12 18:43

以下のとおり、テーマごとに箇条書きしながらお答えします。


bragelonne様のお説は卓見で、至極そのとおりと思います。ただ、ここでは一見ご質問とは直接関係なさそうなことから始めますが、どうぞ悪しからず。

A.はじめに:ソシュールのこと
(1)ソシュールは、言語の構造を解明するために、とりあえず周辺部分は捨象して考えようとしたものと推測されます。
(2)例えば、パロールは切り捨て、ラングのみを直接対象としました。
(3)ラングのうち、音声ー音素ー形態素ー構文ー意味のうちの、中3項に的を絞っていますね。
(4)こうして、集約的に「言語の構造解明」に没頭し、その後の枝葉は後世に託した、と言えるのかも知れません。

B.単純化
(1)シニフィアンとシニフィエとの間には、確かにある種の必然性があると思います。
(2)ただし、言語活動の実態に即して厳密に考えれば、シニフィエは、(最初に邦訳した小林英夫が「能記」としたように)音素ではなく音声に相当するはずですね。それにもかかわらず、これを抽象性の高い音素としたところに、すでにその必然性を捨象して取りかかろうとした姿勢がうかがわれます。
(3)同様に、シニフィエは(同じく「所記」としたように)、「表わされるところのもの」であって、「現物」そのものではありませんね。ここにも、必然性を捨象しようとした意図がうかがわれます。帰納法でなく演繹法を重視した手法で考察を進めたものと思われます。こうして捨象した部分は、研究対象から分離して、それぞれ音声学や意味論に託したようです。
(4)このように単純化したからこそ、ソシュールは言語の原理として「恣意性」と「線条性」を立てることができたのだと思います。(イエスやデカルトのように、古来慧眼ぶりを発揮した人は「単純化の名人」と評されますね。)

C.パラダイムとシンタグム
(1)言語の素材としての要素を大別するとパラダイムとシンタグムに分けられますね。
(2)パラダイムは、例えてみれば箱の中の将棋の駒のようなもので、単なるセット(集合体)です。音声学では各単音の一覧であり、意味論では意義素の辞書的羅列でしょう。
(3)シンタグムは、盤上に組まれた駒組みのようなもので、システム(統合体)を成しています。駒組みの戦形はリニアルに変形しながら対局が進みます。音素や構文素は、それぞれがこのような形に組まれたときの姿であって、箱や辞書の中に並んでいるときの姿ではありませんね。
(4)ソシュールが言語の原理として「恣意性」と「線条性」を掲げるのは、言語的要素が上記(2)のようなパラグマティックな状態にある場合ではなく、(3)のようなシンタグマティックな関係にある場面を想定した上での説明定義でしょう。

D.言語学の礎石
(1)ミクロの素粒子が、マクロな天文学と「ウロボロスの蛇」によって繋がるように、言語の単音たりと極小の一意義素たりとも、言語の大構造と無関係でないことは明らかです。
(2)ということで、ソシュール『言語学原理』は、シニフィアンとシニフィエとの間に必然性があることを(肯定もしないが)否定もしていません。ただ、そういう問題を切り離して、扱わなかっただけだと推測します。
(3)したがって彼としては、本来一体のものを切り離したのですから、「これで完璧」とも考えていないでしょう。それらの問題や細部の吟味は、「後世の研究者に託した」という心境ではないでしょうか。
(4)つまり、ソシュール(および、彼の講義録をまとめた彼の弟子たち)の念頭にあったことは、「彼らなりのアプローチ・1つの切り口から」言語学の礎石を築くことであっただろうと思います。

E.まとめ
(1)冒頭にも述べましたように、bragelonne様の所説それ自体にまったく間違いはなく、実にそのとおりだと思います。
(2)ご指摘のように、特にオノマトペではシニフィアンとシニフィエとの間にかなり強い必然性が感じられますね。(英語の動詞laughなどでさえ、笑い声と関係があるそうです。)
(3)ソシュールらは、例えば、bragelonne様のような問題提起や反論を予想したいたのかも知れませんね。少なくとも、自分らのあとに、そういう議論の沸きあがることを期待していたと思います。
(4)ブルームフィールドは、定義が不可能もしくは曖昧な術語の使用を一切排除して言語体系を記述しようとしました。同様にソシュールは、言語のパラダイムや周辺部分を切り離し捨象して、言語構造を解析し記述しようとしました。こうして彼らは、「学問的発展の1段階における踏み石」になろうとしたのではないかと思われてなりません。

以上、「ソシュール弁護論」のようになってしまったかも知れませんが、私なりの観点よりご回答申しあげます。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ A.はじめに:ソシュールのこと
 ☆ ここは どういう方向を向いた議論であるのか。それが 分かりませんでした。

 ★ 「言語の構造解明」
 ☆ といった大枠あるいは切り口が 大前提に置かれているのだ。というようなことでしょうか。


 ★ B.単純化
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (2)ただし、言語活動の実態に即して厳密に考えれば、シニフィエは、(最初に邦訳した小林英夫が「能記」としたように)音素ではなく音声に相当するはずですね。それにもかかわらず、これを抽象性の高い音素としたところに、すでにその必然性を捨象して取りかかろうとした姿勢がうかがわれます。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 
 ☆ これもおっしゃっているのは 何を目指しているのか。といったことが 分かりかねています。

 シニフィエとあるのは シニフィアンの誤植ですが それについて 音声と音素とが どっちがどっちだという議論は どういう意味合いがあるのか? これが よく分かりません。《聴覚像》とか何とか言っていたと思いますが 音声と音素とを いまこの主題(論点)で区別するワケがよく分かりません。

 いまは全体をまだ読んでおらず 読み継いでいくそのつど 反応したことをつづっていますが この B の(3)も(4)も なぜそういう《単純化》がそれほど大事であるのか? これが わたしの中では はっきりしないままです。



 ★ C.パラダイムとシンタグム
 ★ (4)ソシュールが言語の原理として「恣意性」と「線条性」を掲げるのは、言語的要素が上記(2)のようなパラグマティックな状態にある場合ではなく、(3)のようなシンタグマティックな関係にある場面を想定した上での説明定義でしょう。
 ☆ ここでやっと 狙いがわかりかけました。

 単純に反応しますが ソシュールが言うのは
 ★ シンタグマティックな関係にある場面を想定した上での説明定義でしょう。
 ☆ ということだとしても そのシンタグムから取り出した語は ほとんどパラダイムの中にあるそれと同じことではないのでしょうか? つまりは その統語論じょうの役割りなどを加味した語のあり方は 恣意性を考え検証するときには ほとんど関係ないのではないでしょうか?

 どういう関係があるのか? 次を見てみます。


 ★ D.言語学の礎石
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
 (1)ミクロの素粒子が、マクロな天文学と「ウロボロスの蛇」によって繋がるように、言語の単音たりと極小の一意義素たりとも、言語の大構造と無関係でないことは明らかです。
 (2)ということで、ソシュール『言語学原理』は、シニフィアンとシニフィエとの間に必然性があることを(肯定もしないが)否定もしていません。ただ、そういう問題を切り離して、扱わなかっただけだと推測します。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 《必然性》ですか? これだと 恣意性をあつかうのには あいまいすぎますね。無関係という必然性があるかもわからないぢゃないですか。つまり 恣意性が成り立つと言っているのかも分からないことになります。


 ★ (4)つまり、ソシュール(および、彼の講義録をまとめた彼の弟子たち)の念頭にあったことは、「彼らなりのアプローチ・1つの切り口から」言語学の礎石を築くことであっただろうと思います。
 ☆ これは そうであるとも言えるのでしょうが ううーん いまの主題とは別ですね。
 いまは 《言語記号の恣意性》説が 問題です。



 ★ E.まとめ
 ★ (1)冒頭にも述べましたように、bragelonne様の所説それ自体にまったく間違いはなく、実にそのとおりだと思います。
 ☆ えっ。そうなんですか。


 ★ (3)ソシュールらは、例えば、bragelonne様のような問題提起や反論を予想したいたのかも知れませんね。少なくとも、自分らのあとに、そういう議論の沸きあがることを期待していたと思います。
 ☆ このように指摘されていることについては 思い当たる節があります。

 それは ソシュールがけっきょく著作を公開しなかったことです。アナグラムに没頭していたとかいなかったとか。これは 恣意性の仮説には みづからに不信をおぼえていた。のではないか? とさえ感じさせます。





 そうしますと わたしも趣旨説明欄においても 丸山圭三郎を持ち出していますように この丸山の仮説について 批判をおこなうのが ひとつの筋であるかも知れない。いえ どうも そういう問題になるかと思います。


 そういう意味では 恣意性の説は 一箇所がくづれたら ぜんぶくづれるはずですから そのところまでを しっかりと批判し切っておかなければならない。こう考えます。

お礼日時:2014/03/11 23:07

これで最後にします。


それほど我々は違わないような気がしてきましたので。


>いろんな選択肢がありましょうし またそこからどれをえらぶかは
>まさに恣意性のもとにあります。

>言語ごとにさらにまた このときの選択は 自由勝手だということが 大前提です。

>いろんな選択があってよいのです。
>そういう意味での恣意性は わたしのこの仮説も認めるところです。



はて、つまり我々は同じことを言っている。
つまり、ソシュールと同じことをおっしゃっていますよ。



>音素がそのままで意義素であること
>ここに一定の自然で論理的な法則性がはたらいている

仮に音素が意義素と結びついているとしましょう。
というか、音素すなわち意義素でしょうか。

それ自体は恣意性とは関係がない。

問題はその関係が自然で論理的か、ということですね。

結びつきがいったん固定してしまえば、自然に感じられる。
これは当然です。
Benveniste もそういう趣旨のことを言っていますし。


では論理的か?
残念ながら、証明不可能な前提が多すぎて、説得力が感じられないのです。
*h > *F > p > F > h 〔>  w/φ/b〕
などのことです。


それから、日本語には撥音はさまざまに実現します。
[n] [m] はもちろん、鼻母音を含みます。
これをしも何らかの感覚が隠れているというのであれば、なにをか況んやです。
証拠がない以上、「そう思う」「そう信じる」というだけのことで、主観的かつ宗教的な話ですから。



>ことばを まづは 音声として・音韻として捉えない言語学はないでしょう。

実はそうでもないんですね。
一昔前は確かにその通りでした。


でも手話の研究が進むにつれ、手話は自然言語の一つであることが証明されました。
要するに、シニフィエは音声でなくてもよい、手などの動きでもいいのだということがはっきりしました。

つまり、意味と結びつくのは音声でなくてもいいんです。
言語記号はそれほど恣意的なのです。

ですから、手話の話は決して論点から離れてはいないのです。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ★ 問題はその〔《音素すなわち意義素》なる〕関係が自然で論理的か、ということですね。
 ☆ 調音の仕方による。という自然の在り方を 要素としています。そこからその仕方の特徴を論理的に意義素の内容としています。

  / n / は 舌先が歯茎に接する度合いが たとえば / t / にくらべて 大きい。ゆえに 前者が 同定相で 後者は 不定指示相・隔定相・放出相だという想定です。

 / h / は 息の音そのものなので 順出相;順定相なる意義素を帯び この息の音をのどの奥で切り裂くように力点をおいて発声する / k / は 言わば反逆児であって 反出相;反定相:思考相・疑問相・過程相であるという推論です。

 《自然で 論理的なきづな》です。





 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~
 残念ながら、証明不可能な前提が多すぎて、説得力が感じられないのです。
 *h > *F > p > F > h 〔>  w/φ/b〕
 などのことです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 説明不可能とは こりゃまた どういう風の吹き回しでしょうか。

 be 動詞の同根の語のかたちは 次のようです。
 ▲ (OnlineEtymologyDictionary: be ) ~~~~~~~~~
 http://www.etymonline.com/index.php?term=be&allo …

 be (v.)
 Old English beon, beom, bion "be, exist, come to be, become, happen,"

  from Proto-Germanic *biju- "I am, I will be."

 This "b-root" is from PIE root *bheue- "to be, exist, grow, come into being," and in addition to the words in English it yielded
 ・ German present first and second person singular (bin, bist, from Old High German bim "I am," bist "thou art"),
 ・ Latin perfective tenses of esse (fui "I was," etc.),
 ・ Old Church Slavonic byti "be,"
 ・ Greek phu- "become,"
 ・ Old Irish bi'u "I am,"
 ・ Lithuanian bu'ti "to be,"
 ・ Russian byt' "to be," etc.

 It also is behind Sanskrit bhavah "becoming," bhavati "becomes, happens," bhumih "earth, world."
 ・・・
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ すなわちここから言えることは / h, f, p, b /を互いに仲間としてよいということです。そこでは / h / だけは 蚊帳の外ではありますが 日本語では 史実として 成り立っています。
 

 再構形: *bheue- "to be, exist, grow, come into being,"
 ラテン: fui   "I was,"
 ギリシャ: phu-  "become,"





 ★ 日本語には撥音はさまざまに実現します。
 ☆ すべては 一つひとつの音素=意義素 つまり 子音 から出ていて 変化をしている場合である。というだけのことです。何を問題にしているのかが分かりません。





 ★ ~~~~~~~~~~~~
 でも手話の研究が進むにつれ、手話は自然言語の一つであることが証明されました。
 要するに、シニフィエは音声でなくてもよい、手などの動きでもいいのだということがはっきりしました。
 ~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ これは知りませんでしたが いまにわかに考えてみるかぎりでは ふたつの扱い方があると言わねばならないのではないかと考えます。

 ひとつは いま現在に・片寄ったものであったとしてもジョウシキとなっている扱い方です。それは あくまで音声言語〔および それにもとづく文字言語〕を基礎として成り立つのが 手話言語だというものです。

 つまりは 手話言語は すべて音声=文字の言語に翻訳されて意味があたえられ その意味の体系によって意志疎通がおこなえると見るものです。

 もうひとつは そうではなくもしすでに《自然言語》であったとしたなら その手話言語は いま見たような音声=文字の言語を基礎とする必要がなく 言わば独立して機能するというものです。


 だとしたら 自然言語としての手話言語であったなら それは 音声=文字の言語における言葉とは 別のシルシによって 意志疎通をおこなっている。こう考えられます。《言わば独立して機能する》場合には そうなります。

 だったら いまの《言語記号の恣意性》説の検証には ほとんどかかわらない。こう帰結されましょう。

お礼日時:2014/03/11 22:33

☆ こういう分野(発想法)は なかなか具体化して来ないようです。

むつかしい。
◇教育テレビの科学情報番組で見たのですが、鳥の鳴き声を分析し、人間の言語発生の謎に迫ろうとしている研究者を見ました。

何だったか鳥の種類は忘れましたが、家畜化されたスズメの仲間の鳴き声を調べると、
モテるオスの鳥は、複雑な節回しを数多く有しており、それを規則的に組み合わせている。
これが出来ないと、メスにはもてない。そして、それが行えるオスの子孫が数多く残った。そして、さらに複雑化していった。
おそらく、人間(の祖先に当たる種)もそうだったのであろう。そして、言葉を発する機能・構造を獲得し、言葉が生まれた・・・。

このようなことを言っていたような記憶が・・・。

今、少し検索してみましたが、
「歌う鳥」の脳、人間の言語能力を解明する手がかりに

http://wired.jp/2004/11/02/%E3%80%8C%E6%AD%8C%E3 …

Wikipediaの「言語の起源」の「自己馴致類人猿理論」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%80%E8%AA%9E% …
などに、すこし書いています。

あくまで仮説ですよ、仮説。
鳥を手がかりとして考えると、このように考えられるのではあるまいか。
以前、ご紹介したヨウムのアレックス君のような例もありますし・・・。

http://karapaia.livedoor.biz/archives/52069617.h …

もっとも、鳥とは異なり、
ヒトはオスだけではなく、メスも複雑な音声言語を使いますので、
どこまで鳥の鳴き声の研究が人間に当てはまるのかは、わかりませんが。

頭でっかちで頭がカタそうな印象ですけれど、
理系人にはロマンティストが多いということで(ニコニコ)。
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この回答へのお礼

 ご回答をありがとうございます。


 ヰキぺなどの参考サイトをまだ見ていませんが ひとことかんたんに。

 鳥などの声を研究するというとき それと人間との共通性と差異とには注意をしなければいけないという感覚を 持ちました。

 それは 鳥が求愛の声を発するとき 果たして自己をわたしとして捉えているだろうか? です。

 相手を そのわたしなる自己である存在として捉えているか? 

 もしそれが心許ないとすれば 人間の言葉とは違う部分が大きい。と言わねばならないかも分かりません。

 と ふと思いました。

お礼日時:2014/03/11 18:43

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