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794年に平安遷都するまで日本は何度と無く都が変わっていました
しかし平安遷都後は東京に首都が移るまで1200年近く遷都はありませんでした(清盛の福原遷都は都移しではありませんので)

コロコロと都が変わっていた奈良時代(長岡京まで)と
都が定まった平安時代(平安京以降)では前後で何が変わったのでしょうか?

A 回答 (9件)

   僕はド素人なのでたぶん外れでしょうが、奈良時代はXに居住して「あめのしたしろしめしし」みたいな限定句によって天皇が叙述されています。



    言い換えれば天皇が亡くなる度に遷都が行なわれたようで、死霊があるので前の天皇の住居を焼き、新しい場所に移すという宗教的な何かがあったのではないかと思います。この風習は北米の先住民などに見られます。

    奈良時代にだんだん漢文化が浸透し、天皇の居所だけでなく、政府機関、それらの雇用人口の需要を満たす商店街、都市計画もシナ式になるに連れて、そう簡単には動けなくなり、京都には1、000年前後動かないことになる。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/16 11:11

京都が大好きだったからかもしれませんw



実際に東京遷都でもめた理由は、端的に言えばこの通りでしょう。

しかし平安京に長くとどまった理由のうち、大きな物は予算の問題でしょう。

古代道路が平安時代初頭から衰退し始めているとされる点から考えても、京の収入に大きな変化が現れていると判ります。

荘園制が崩れていくに従って、予算は減っていきましたから、ここいら辺りも遷都をしなかった(出来なかった?または出て行けなかった)理由ではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/16 11:11

都のインフラを作る費用が、どんどん上がっていったけど、朝廷の支配力・経済力が、それに追いつかなくなってしまったからだと思います。



長岡京までは、都と言っても、ごく簡単な作り。
歴史の教科書には、壮麗な建築物が想像図として掲載されていますが、
私は、もっと簡素なものでなかったかと思います。

その一方で、まだ、荘園制は始まっておらず、朝廷から地方(と言っても近畿+α)への直接的な力は強く、経済力も強かったわけです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/16 11:11

古来大和朝廷は天皇が変わる度に新しい宮殿を作って都をそこに移していました。

ところが天智天皇が大化の改新を行なった後、白村江で大敗した結果、外敵の侵略に備えなければならないという必要性に駆られ、中国の律令制度を取り入れて国家としての体裁を整え、これによって軍備を拡充して独立を保持しようとしたのです。その一環が首都を中国のように大規模な都市計画を行なって固定化しようとしたのです。これでまず最初に始められたのが天武天皇の命による藤原京だったのですが地の利に難ありということで平城京へその建設が変更され、これが固定された首都の最初の都市になりました。これは嘗てのように宮殿だけが造営されるのではなく、都市計画を伴った町作りであったために、嘗てのように簡単に移ることはできなくなりました。しかし、大仏建立による水銀公害が平城京をむしばんだために遷都せざるを得なくなり、70年あまりの後に平安京へ都が移ったのです。平安京もいきなりここに場所が定められたのではなく、長岡京が当初はその予定地だったのですが、地下に大きな水源があって不適当な場所だったために今の京都市に場所替えになったのです。平安京は四方が山に囲まれ、唯一南西に向って淀川の川筋だけが開いて居るという要害の地であることが選定の理由でした。当時は新羅と唐の連合軍が本当に攻めて来ると真剣に危惧していたのですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/16 11:10

早良親王などの怨霊を恐れて遷都を繰り返した


桓武天皇でしたが、平安京遷都でようやく効果があがった。
という説に賛成ですね。
http://www7.ocn.ne.jp/~step1/heiankyo.html
http://yomimonoweb.jp/sekiyuji/p23_4.html

比叡山延暦寺など当時中国から最新の科学技術が
とりいれられたのも一因だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E6%9A%A6% …
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/16 11:10

むさくるしい東男が、こちらがみやこでござんす。

たって京都の綺麗どころに袖にされたでしょう。
江戸は300年女ひでりでした。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/16 11:10

ざっくり2つ。


都の成長に合わせて、ヤドカリ的に遷都。
政治勢力の刷新、みそぎで遷都。

平安京以降は、藤原勢力で安定。
十分大きい都を移す必要も無い。

鎌倉以降は幕府が政治の中心で、都は何処でもいいから動かさない。

東京遷都は王政復興の大号令だから。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2014/03/16 11:10

こんにちは。


平安京を造営し、遷都したのは桓武天皇ですが、鎌倉時代の鴨長明が書いた随筆の『方丈記』に、「大かたこの京のはじめを聞けば、嵯峨の天皇の御時、都とさだまりにけるより後、既に數百歳を經たり。」とあります。長明が桓武天皇の遷都を知らなかったのではなく、嵯峨天皇の時代に起こった薬子の変の結果、平安京が「万代(よろずよ)の宮」に定まったと認識していたとされています。
薬子の変は、退位した平城上皇が平城旧京に移り、そこから国政に関する命令を出し、平安京にある嵯峨天皇の朝廷と、平城京にある平城上皇の朝廷が並び立つ二所朝廷と呼ばれる状況となります。大同五年(810)には平城上皇は平城京への遷都命令を出しますが、嵯峨天皇は拒否します。平城天皇は挙兵するために東国へ向かいますが、途中で阻止され、平城京に帰り、事変は終結します。この経過から、平安京が「万代の宮」に定まったとする認識が広まったとされ、地政学上や経済的な理由もあるでしょうが、平安京が千年の齢を重ねた元であるとする有力な考え方があります。

薬子の変
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AC%E5%AD%90% …

以上、参考まで。
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この回答へのお礼

山部親王(桓武天皇)が平安京へ遷都したのは
弟の早良親王の怨霊から逃れるためで
場所を山城の国葛野郡に定めたのはあの和気清麻呂さんですね

四方を山と川に囲まれ
四天王の庇護によって怨霊から守られるとの謂れからと聞いています

お礼日時:2014/03/14 14:24

こんにちは。

NO8です。お礼をありがとうございました。
さて、平安京を「万代の宮」と言った初めは、嵯峨天皇の詔とされています。大同五年9月6日に平城上皇の平城京への遷都の命令が出され、坂上田村麻呂・藤原冬嗣等が造営使に任命されます。この遷都の命令で「人心騒動」となり、そこで9月10日に嵯峨天皇側は対策をとります。1、三関の閉鎖(三関固関のこと。上皇側が東国へ走り、兵を募集し、挙兵することを阻止するため)。2、乱の首謀者の一人である藤原仲成(藤原種継の子で、薬子の兄)を右兵衛府に拘禁(後に射殺)。3、遷都を拒否し、薬子・仲成を解官・左遷する詔。4、平城・嵯峨両天皇の父である桓武天皇陵への使者の派遣などですが、この内の詔の中に、「先帝(桓武天皇)の万代宮と定(め)賜へる平安京を棄(て)賜ひ停(め)賜てし平城古京に遷さむと奏(し)勧て天下を擾乱。」とあり、ここに「万代宮と定(め)賜へる平安京」と出てきます。平安京遷都に関連する『日本後紀』の記述の中には、平安京を「億載宮(一億年も続く都・宮殿)」とする延暦十四年正月十六日の記事があります。「万代宮」も「億載宮」も意味的には同じですが、「億載宮」の記事は踏歌の中の語句であり、嵯峨天皇の詔の中で使われた「万代宮」とは重みが違います。まして、平城京に遷都するかどうかの瀬戸際ですので、そのインパクトは大きかったものと思われます。
平安京遷都の要因ですが、貴女が仰るように、「早良親王の怨霊」説が有力です。ただ、怨霊だけでなく、自然災害・天皇の近親者の死去などの理由にもよるとされています。「日本後紀」の延暦11年6月の記述に、「皇太子久病。卜之祟道天皇為祟。」とあり、藤原種継暗殺事件及び早良親王の廃太子・親王の自殺から、天皇の近親者の死去、病気が続き、その上長岡京は洪水等の災害に度々見舞われています。延暦11年7月には「雷雨。潦水滂沱(ロウスイボウダ)。式部省南門為之仆(タオレル)」とあって、官庁にも被害が及んでいます。このため、怨霊から逃れるために遷都したと考えられています。また、自然災害・天皇の近親者の死去なども天皇の政治を天が受け入れていない、もしくは間違っている、天皇の徳が薄いとみなし災異を下していると見られ可能性があるために遷都したとも考えられてもいます。さらに、付け加えれば、長岡京の南東は淀川に接し、度々水害に見舞われたことの一因とする考え方もあります。主因は「早良親王の怨霊」であるとしても、その他の原因も関係したのではないでしょうか。
この様に考えていくと、踏歌の中での美辞麗句はともかく、平安京が万代の都と遷都の当初から考えられたのかは不明です。桓武天皇にそのような考えがあった一方、同じ天皇の中には、平城京から長岡京、平安京と移ったように、また都が遷るかもしれないという考えがもう一方にあったとしても不思議ではありません。天皇のみならず、朝臣や庶民が同じように考えたとしてもこれも不思議はありません。この気持ちを吹っ切ったのが薬子の変であり、嵯峨天皇の詔だったのではないでしょうか。

以上、お礼と追記をさせていただきました。参考まで。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/03/16 11:09

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