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軍師官兵衛で織田信長軍が寺院の兵と戦っていますが、寺院が武装することは殺生を禁じた仏教教義に違反すると思います。当時の人々はこのことをどう思っていたのでしょうか。

A 回答 (7件)

>当時の人々はこのことをどう思っていたのでしょうか。


別に不思議とも思っていなかったでしょう。

冗談はさておき
まず、信長がなぜ叡山を焼打ちしたのか、ということをお考え願います。
当時延暦寺は、寺院としてよりも一大政治集団化していました。
信長は決して仏教そのものを敵視したのではなく、仏教を隠れ蓑とした政治勢力と看做しただけです。
同じことは大阪や越前の一向宗に対しても行っています。
同様の発想は、古くは桓武天皇の平安遷都の動機にもうかがえます。
平安京を作った時には、寺院を洛中に建てさせませんでした。
現在の京都がお寺の町になっているのは、以降の話です。
徳川幕府も寺院を宗派ごとに系列化させて、寺社奉行の配下に組み込み、宗教集団としての特権は一切認めませんでした。
有名なのが沢庵和尚が関係した紫衣事件です。
朝廷が幕府に断りもなく、僧侶に最高位の紫色の衣を下賜したことに対して、朝廷及び寺院を厳しく処分しました。
寺院といのは、中世ヨーロッパのカトリック教会にも見られるように、政治勢力化していく性格を併せもっています。

では、比叡山側の仏教寺院としての理屈は何かということになるかと思います。
おそらく、ご質問の主旨はこの辺かと思います。
仏教は、四天王にみられるように、仏法の守護神として、武装した「天」「王」と呼ばれる眷属を持っています。
毘沙門天は鎧を着ています。不動明王も剣を持っています。
比叡山が平安時代から僧兵という集団を養ったのもこれが根拠となっています。
信長の時代になると、僧兵のみならず野伏と呼ばれる山賊紛いの武装集団も加わるようになりました。
僧侶以外の人間を山にいれることについては、雑用係の寺男を多数雇っていましたから、その延長線上の問題として辻褄は合せました。
その連中が妻帯しようが飲酒しようが肉食しようが見て見ぬふりです。
悪貨が良貨を駆逐する、と言われるように、全山堕落していきました。
このような状態の大寺院に対して一般庶民も敬虔な仏教信仰など期待はしていなかったでしょう。
むしろ村々にいた親切な和尚さんの方を大切にしていたでしょう。
仏教はそこで脈々と生きていたでしょう。
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当時は、武装せねば、すべてが奪われる時代です。


村対村のケンカで殺し合いや奴隷狩りになる時代です。
寺院の荘園も、スキ有れば、村の武力で奪われる時代です。

なお、延暦寺が信長に焼かれたのは、信長に敵対したからである。敵対したら殺される。信長に税や兵を出せば、寺社も村も守られる。ただ、それだけである。政教分離がどうたらは、明らかな作家の暴走、筆の滑りであって、本気にしてはいけない。
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このような事は世界的に珍しいのです。

大概、キリスト教もイスラム教も宗教と政治が結びついています。はっきり言いますが「政治と宗教は結びついてはいけないのです。宗教の自由を暴力で支配してはいけないのです。」織田信長が行った延暦寺の戦いは世界稀にみる聖戦でしょう。こういう事はあとから歴史をみて気づくもので日本しか知らない当時の人にとって良いも悪いもわからないと思います。
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寺院が武装するケースは、古くは奈良の興福寺、比叡山の延暦寺などが有名です。


これらの集団は、入門してすぐの若い僧侶を武装化して僧兵集団をつくりました。
この集団で朝廷に圧力をかけ、領地問題や他宗との論争などで自分に有利になる
結果を作り上げてきました。


江戸時代以前は人間の9割が農民でした。
農業生産性が低く、それだけの人間が農作業をしなければ食べていけませんでした。
農民の子供は6歳前後から仕事のテツぢあしをし、12歳で大人と同じ仕事をします。
今のように学校などはありません。ですから、寺院が武装することについて考える
余地は無かったでしょう。また、寺院も朝廷や大名に圧力をかけることは多かった
ように思いますが、農民に直接圧力をかけけることは少なかったように思います。

農民は基本的に無学であり、仏教の難しい教義はわかりません。
そこで、仏教の教義を単純化し、ひとえに阿弥陀如来だけを拝んでいれば、
極楽浄土に行けると教えたのが、浄土宗や浄土真宗です。
これらの教えはわかりやすく、農民に爆発的に流行しました。

これらの武装した僧侶に意義をとなえたのが、生まれながらに大名である
織田信長です。大名の師弟は小さいときから学問をし、物の善悪を自分で
判断する力がありました。特に信長は潔癖症ともいえる性格で、僧侶が
権力や金銭にどん欲であることを嫌いました。
そのため、敵対する六角、浅井氏を助ける延暦寺を攻撃し、叡山の堂宇を
ことごとく焼き尽くし、僧侶だけでなく一般住民も数千人を虐殺しました。
また、農民集団に指示された一向一揆をことごとく弾圧し、伊勢長島では
たてこもった2万人を焼き殺しています。
本願寺が長らく信長と戦えたのは3つの理由があります。
(1)本願寺の立地が城郭として最適であった
(2)武田信玄などの敵対勢力が健在であり、主力を投入できなかった
(3)安芸毛利氏、奇襲雜賀氏が海上から援護した
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平安中期以降、下野した源平をはじめ在地豪族などの武家集団が、原野を開拓し交易路を開くなどで経済を発展させました。


権力の中枢は依然として京の朝廷や貴族に握られていましたが、経済の実態は新興武士勢力が支配することになりました。朝廷からの実権奪取を目論んだのが平将門、源義家、平清盛や源頼朝でした。将門は朝廷軍に敗れ、義家は平氏に敗れ、清盛は実権に近づいたものの貴族化したために武家の失望を買い、関東武家集団を結束させた頼朝が、初めて鎌倉に幕府を成立させました。
しかし、朝廷の権威は根強く、完全な武家社会の確立は江戸期になっても完成しませんでした。
鎌倉幕府の成立に先立って、在地豪族や武家集団間の所領争いは激しく、新興領主達は朝廷の権威を借りて、所領の保持を図りました。そのため、全国に貴族達が利権を持つ荘園が展開されました。荘園は在地豪族が所領の実権を確保するための、名目的な「領地寄進」の結果生まれました。荘園領主は貴族や皇族でしたが、彼らは寄進を受けた領地に社寺を建立して「寺社領」とし、中央権力に頼ってその存続を図りました。鎌倉幕府成立時には、全国の農地の大半が、名目所有者である荘園領主のものとなって居ました。
幕府が荘園を武家のために解放した結果、中央貴族は貧困化の窮地に追い込まれました。幕府成立までは、全国で領地の切り取り、奪い合いの合戦が繰り広げられ、寺社領主も武力を保持して対向することになりました。
弓と槍は武家のもの、薙刀は僧兵のもの、剣術は神道家のものという基本形も、この頃に出来上がりました。
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まぁ武士が寺を守ってくれないし


坊主だけじゃ食っていけないからしょうがない

ぐらいの感覚だったのかと…



だから信長は叡山を焼き討ちしました
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「僧兵や神人が活躍した時代は社会が乱れる一方で、広大な寺領・神領を経営する立場にある寺社は、盗賊のみならず、国府や権門・在地領主らの武装勢力など、さまざまな勢力との紛争を抱えることとなった。

よって境内と荘園の治安維持や他勢力への対抗のため、他の荘園と同様に寺院・神社も武装する事になった。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%A7%E5%85%B5

とあるように、僧兵の存在自体は平安時代にさかのぼります。

寺院の権益を守ることが、仏の教えに沿うことになる。
というような理屈だったのでしょう。

仏教に名を借りた権利集団だということで、
信長による比叡山や長島の焼き討ちがあったことは
歴史の通りです。
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