そして冬至の早朝、灯籠に照らされた石畳の小道に沿って、さまざまな供え物をいっぱいに並べた圜丘壇に登り、道士が演奏する古典音楽のなか、天の神と先帝の位牌を敬虔に祭り、天候の順調や豊作、国泰民安を祈った。

http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2007-12/11 …
より引用

中国の皇帝が祀った天の神とは具体的にはどのような神でしょうか。

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A 回答 (3件)

皇帝が祀り、祈りを捧げる神は、天帝以外にはありません。


天帝とは北極星を指します。
秦の始皇帝は、自らを天帝になぞらえ、皇帝と名乗りました。
皇帝が自らを「朕(ちん)」と称し、他の者にその自称を許さなかった逸話は有名です。
北極星こそは、宇宙の創造神、支配者と考えられていたようです。
皇帝は天帝の意志を臣下と民に伝える、天命を負うていたのだと。
この精神は歴代皇帝に受け継がれ、やがて日本の天皇制にも引き継がれました。

この回答への補足

どの回答も参考になりました。
ありがとうございました。
一番先に回答くださった方をベストアンサーとさせていただきました。

補足日時:2014/04/23 09:31
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
天帝、北極星のことなんですか。

>秦の始皇帝は、自らを天帝になぞらえ、皇帝と名乗りました。
皇帝が自らを「朕(ちん)」と称し、他の者にその自称を許さなかった逸話は有名です。

朕という言葉は北極星、天帝に関係のある言葉なんですか?

それにしても冬至で太陽神を拝むのならばわかるのですが、なぜ北極星を拝むのでしょうね?

お礼日時:2014/04/19 13:13

このように新旧の話しをごちゃ混ぜにして、あたかも正論であるかのような説明をされると、私は生理的に気持ち悪くなるのです。

そもそも近代中国は共産国家のはず、文化大革命でもわかるように自ら古い中国を根こそぎ刈り取っておきながら、あたかも春節や冬至が中国伝来の風習だなどということにあきれ返ります。コレでは共産主義の名に致命的な傷をつけるだけ。もっとも近代中国はあまりに酷すぎた文化大革命を否定しながら当の毛沢東や共産主義を否定できない、しかも立ち行かなくなるとロシアのように反革命を起こさず、自分たちの権威だけを温存する似非共産主義でごまかし続けているのが実情。
結果、自分たちの祖先が生み出した文化や習慣も、当時を否定しながら自分たちに都合の良い、解釈に捻じ曲げるという気持ちの悪いものを作り出しているわけです。

中国は皇帝と共に名が変わるので明治以前を古代中国とまとめさせていただきます。というのは明治時代に中華民国が始まって以来、道教そのものが歪められ気持ち悪いものに変質していったからです。

天の神、天帝を祀る事どころか古古代中国の民衆には今のように先祖を祀るなどというはっきりした習慣などありません。葬る事と祀る事は関係ないのです。マツルという祭事は天子にしかできない行事でした。だから政治をマツリゴトというのです。少なくとも周(前1046年頃 - 前256年)の時代まではそんな時代です。

天帝がはっきりとするのは道教の発達以降です。それ以前にもあったと考えて普通なのですが、あまり記録にはないようです。そもそも道教という宗教的な前も仏教徒の軋轢の中で生まれてきたものです。
この成り立ちは同じく仏教との軋轢で神道という名が生まれた日本と同じです。
また天帝は姿のナイ空の神でありますが、これをキリスト教の主と同じにするなどとんでもないずさんな考えでしかありません。天帝の解釈はその後も幾つも増え続け、一つの形を成しません数も一人称から4~5人称にまで増える時期もあります。“目に見えない”という一点だけで例えるならば神狐もまた主の事になってしまいます。

私達は国譲りで大国主の統治から天照の統治(実際はニニギ)に替わったと教わりましたが、これが嘘。
私達は英国の「立憲君主制」を知っています。「女王は君臨すれど統治せず」です。実際にはコレに近いものを現しているのです。つまり目に見えないアマテラスが高天原と葦原中国に君臨し、葦原中国をニニギが統治する関係。やがてこれが更に天皇が君臨し、関白などが統治する関係(未熟なので何度も破られましたけど)。コレに同じく見えない天帝が君臨し、見える天子が統治する関係。といえば想像しやすいでしょうか?

天帝は当初全宇宙を支配する存在です。でも創造主ではありませんし、唯一無二の神でもありません。
この世と彼の世の両方に君臨し、むしろ彼の世を統治する存在です。
時代と共に単一から複数になった地増えたり減ったり・・道教が確立してくると最上位の神となります。
でも三尸に人間の動向を探らせるなど閻魔さながらの仕事をします。なので、立ち場的にはむしろギリシャ神話のゼウスをイメージした方がいいのかもしれません。ちなみに三尸が告げ口をするのは天帝のほかに泰山府君とも言われます。

農耕する民族だけでなく繁殖を待つ狩猟民族においてもまた安全面からも陽が延び始める冬至は大切な陽であり、でもだからとて別段先祖供養などしませんよ。
人々に大切な事はいつから温かくなって種を撒けばいいのかということです。そしてその情報を正しく知らせるのが天子様の務めなんです。
いつ撒けばいいのかを知りたければ「今日から何日後」といえばいいわけですよね。つまり「今日が冬至だ。だから冬至から何日目には雪は雨に変わる(雨水)、そして昼と夜が同じくなる(春分)・・」といえばいいわけです。後半は庶民が勝手に数えればいいので「今日が冬至」とだけ言えばいい。だから天子様はマツリを以って庶民に冬至を知らせた・・という事なんです。
冬至は『ゼロ』何もすることがないのだから「数え始め」にふさわしい日取りという事です。
それにただ「本日、冬至」ではウナギ屋の宣伝みたい。だから「天帝に伺った。本日が冬至である」というほうが権威がある。まるで赤壁の孔明みたいなものです。
その天子だけの儀式である冬至祭が皆も祝おうという事になって広まっただけです。

しかし、暦は元々黄河流域だけです。広大な中国では時差があります。そこで各地にあわせた暦が必要になり、この権限を自治体が持つことで民衆を従わせたわけです。
一方で庶民は暦が出来てしまえば冬至を知ってもさほど嬉しくもナイ。だったら温かくなり始め、雪が雨に変わる寸前の方が嬉しい、ということで立春が新年ということになるわけです。

さまざまなイベントなどがここに集まるのはそれからの事です。今だって様々なイベントを日曜日に集めるでしょ。そのほうが忘れませんから。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>このように新旧の話しをごちゃ混ぜにして、あたかも正論であるかのような説明をされると、私は生理的に気持ち悪くなるのです。

新旧の話をごちゃ混ぜにしているというのは、リンク先の文章のことですか?

>そもそも近代中国は共産国家のはず、文化大革命でもわかるように自ら古い中国を根こそぎ刈り取っておきながら、あたかも春節や冬至が中国伝来の風習だなどということにあきれ返ります。

勉強不足ゆえ、よくわからないのですが
共産国家では伝統行事を行ったりはしないのでしょうか。
また冬至節という風習は中国では廃れたということでしょうか。

>天の神、天帝を祀る事どころか古古代中国の民衆には今のように先祖を祀るなどというはっきりした習慣などありません。葬る事と祀る事は関係ないのです。マツルという祭事は天子にしかできない行事でした。だから政治をマツリゴトというのです。少なくとも周(前1046年頃 - 前256年)の時代まではそんな時代です。

広東省や福建省、江西省などに散在する客家は、1600~1700年ほど前、中原の戦乱を避けるために南方へ移住した漢族である。客家には今でも、冬至に天の神を祭るならわしが残っている。各家は門の外にテーブルを設けて、「冬至円」と呼ばれる団子や各種のお供えを並べ、香を焚いてろうそくを点す。こうして敬虔に天の神を祭り、長寿や豊作、家族の幸せを祈るのだ。
http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2007-12/11 … より引用

ああ、あるほど、「客家には今でも、冬至に天の神を祀るならわしが残っている。」と書いてありますね。
回答者様がおっしゃるとおり、天の神を祀るのは皇帝だけに許されていたことだったと聞いたことがあります。
すると、各家に残っている習わしとは天の神を祀るならわしではないということですね?

>天帝がはっきりとするのは道教の発達以降です。それ以前にもあったと考えて普通なのですが、あまり記録にはないようです。そもそも道教という宗教的な前も仏教徒の軋轢の中で生まれてきたものです。
教義面に関しての一応の成立は南北朝初期の寇謙之を遡らないが、宗教としての教団組織と儀礼と神学教理の三要素が完成したといえるのがいつなのかは難しい問題であり、隋から五代にかけて、漠然と唐代を中心にした時期とみられる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%93%E6%95%99# …
より引用。

道鏡の成立は唐代を中心とした時期でしょうか。
それは仏教徒との軋轢の中で生まれてきたと。

>この成り立ちは同じく仏教との軋轢で神道という名が生まれた日本と同じです。

うーん、これはどうとるか、難しいと思います。
一般的には神道が先にあって、仏教は飛鳥時代に日本に入ってきた、それで神道派の物部氏と崇仏派の蘇我氏が対立したものの、神仏は習合されて信仰されるようになったという認識ではないでしょうか。

それとも神道というものはもともとあったが、神道という名前が仏教との軋轢から生まれたという意味でしょうか?

日本神道のベースとなっているのは記紀だとおもいます。
記紀を読むと道教や仏教の影響を受けていると思われる記述があります。
そして、日本では神仏習合の信仰スタイルとなっています。
なので、軋轢で生まれたというよりは、道鏡や仏教の影響を受けている、という認識です。私は。

>また天帝は姿のナイ空の神でありますが、これをキリスト教の主と同じにするなどとんでもないずさんな考えでしかありません。天帝の解釈はその後も幾つも増え続け、一つの形を成しません数も一人称から4~5人称にまで増える時期もあります。“目に見えない”という一点だけで例えるならば神狐もまた主の事になってしまいます。

キリスト教(キリストきょう、基督教、ギリシア語: Χριστιανισμός、ラテン語: Religio Christiana、英語: Christianity、スペイン語: Cristianísmo)とは、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA% …
より引用。

それに対し、天帝は一柱とは限らず、全く異なるということですね。

>天帝は当初全宇宙を支配する存在です。でも創造主ではありませんし、唯一無二の神でもありません。
この世と彼の世の両方に君臨し、むしろ彼の世を統治する存在です。

このあたり、大変興味あります。
天帝が彼の世を統治する存在というのは、何か文献などに記されているのでしょうか?

お礼日時:2014/04/20 20:22

>中国の皇帝が祀った天の神とは具体的にはどのような神でしょうか。


この世を司る唯一絶対なるものです
キリスト教徒やユダヤ教徒は「エホバ」とか「ヤハウェ」と呼び、イスラム教徒は「アラー」と呼び、古代中国人は「天」と呼びました。
具体的な姿や形はありません。

中国では、地上を支配する王(帝)は天の命、すなわち天命を受けたものとされました。
この天命が革まることを革命と言います。
王様の出来が悪いので天が見放して、新しい王様に命を下した、という考え方からきた言葉です。

以下蛇足
ご質問の祭事には複数の意味が込められています。
古代の中国では冬至が一年の始まりと考えられていました。
前漢の書物にも
「冬至には陰気極まって陽気を萌し、夏至には陽気極まって陰気萌す」と説明されています。
西欧でも太陽が復活する日として冬至祭りが行われました。

中国では人には魂魄の二つがあると考えました。
日本では魂のみです
この魂魄が分離して魂は空中へ漂い、魄は地中に潜むのが人の死と考えました。
この魂魄を呼び戻して、生者と飲食をともに楽しむことを「孝」と呼び非常に大切にしました。
中国人にとってはこの世が最高で、死後の世界に価値を認めません。
死んでも再びこの世に戻ることを願います。
この魂魄が呼び戻される依代が位牌です。
インド仏教には位牌などというものはありません。
中国に渡ってから、中国人が古代からの魂魄の考え方を取り入れて、仏教の儀式にも位牌を取り入れました。

日本では「孝」はせいぜい親孝行程度ですが、中国では違います
自分を入れて五代前までの祖先の魂魄を呼び戻して飲食を捧げました。
この儀式を継承するために、子を産み孫を育てることが求められました。
祖霊を敬いこの世に呼び戻す儀式を行い、子・孫を生んで養育することがワンセットになって「孝」が完結します。
「孝」を完全に行う人が徳のある人物で天の意に適う人物であると考えられていました。

ご質問の祭事には以上のような意味が含まれています。
天を遥拝するだけではなく、天命が自分から離れないことも併せて祈っています。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>王様の出来が悪いので天が見放して、新しい王様に命を下した、という考え方からきた言葉です。

井沢元彦さんもおっしゃていましたが、政治が悪いから天が見放すのは当たり前と思いますが、天災や疫病の流行まで王様の出来が悪いというのはなかなか厳しい考え方ですね。

魂魄、位牌について教えていただきましてありがとうございます。
大変興味深く拝読しました。

それにしても冬至で太陽神を祀るのならわかりますが、なぜ天帝を祀るんでしょうね?

お礼日時:2014/04/19 13:19

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西暦では1000年頃には既に文芸の神として尊敬を集め、著名な高官や文化人でもお参りする著名人が多かったようです。
なお、災害を避けたい、恨みの元を絶って起きたいというのは、その当事者(本人や関係者とその係累子孫)だけであって、他の人は、ほぼ最初(左遷される前やその後)から才能豊かな人物として、文化的素養、才能をありがたいものとしして崇め、尊敬していたようです。

http://www2u.biglobe.ne.jp/gln/77/7722/772208.htm
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西暦では1000年頃には既に文芸の神として尊敬を集め、著名な高官や文化人でもお参りする著名人が多かったようです。
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