出産前後の痔にはご注意!

秀吉が三法師を自分の家来にした手口はどのようなものですか?

秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。
実権は握っていますが名目上は秀吉は三法師の家来です。
秀吉は、いつどうやって名実ともに三法師を秀吉の下に置いたのでしょうか?

家康は大阪の陣に勝つまでは名目上は秀頼の家臣でしたよね?実力は家康の方があったにしても
秀吉は三法師に対して戦を仕掛けたという話は聞いていないので、どういう風に三法師が秀吉の家来になっていったか知りたいです

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A 回答 (6件)

まず質問者様のおっしゃる「秀吉が幼い三法師の後見人になって」というのが誤解なのです。


本当は三法師の後見人になったのは織田信孝です。
そしてもともと秀吉が三法師を積極的に織田家当主に推したとは考えにくいです。
こういうと「清洲会議で秀吉は三法師を当主にしたのではないのか」といわれるでしょう。
ところが秀吉は清洲会議からたった四か月後には織田信孝との対立から、三法師に代り織田信雄を織田家当主に立てています。
三法師が秀吉に刃向かう真似をしたわけではありませんから、これは明らかに秀吉にとって三法師の価値などその程度のものでしかなかったということです。
また清洲会議においても秀吉が三法師を積極的に推挙したという記録は一次資料では確認出来ません。
つまり「秀吉が清洲会議で三法師を立てた」とする通説は「桶狭間奇襲」や「長篠の鉄砲三段撃ち」などのように後世の創作である可能性を考えるべきでしょう。
従って秀吉にしてみれば、自分が天下人になってしまえば三法師は「旧主である信長の直系」という以上の存在ではなく、力関係から三法師が秀吉の下につくのは当然の結果です。
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この回答へのお礼

なるほど!!知らないことばかりでした

三法師を押したのが資料の裏付けが怪しいこととは知りませんでした

ありがとうございます

お礼日時:2014/04/20 20:21

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
豊臣の氏を名乗って全ての者を臣下にしました。

秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。
ここがちょっと違う。信孝が後見人。この信孝が秀吉に敗れて織田の権威が失墜。
次の後見人、信雄も敗れて下克上完了。豊臣政権下に全て吸収される。
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この回答へのお礼

なるほど

ありがとうございました

お礼日時:2014/04/21 19:19

あれだけあった織田家の所領はいつ秀吉に奪われたんでしょうか?



信忠遺領は、後見人としての信孝 信雄に配分されています

1582年段階で、織田家の当主は信忠で織田家直轄領は美濃と尾張が中心となっています。

美濃は信孝
尾張は信雄

信孝を滅ぼした段階で美濃は秀吉の親派に分け与えらています。

例:池田恒興
美濃にて13万石を拝領し大垣城主
※ 大坂あたりは秀吉領土に


秀吉は三法師の家来

主筋とは別の権威を持ってきて有耶無耶にするのはだれもがやること。

戦国末期で言うと、津軽家とかも南部家の家来筋だったのを覆すため中央政権への工作をしています
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E8%BB%BD% …

上記の独立から本領安堵のあたり

西洋史でも
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%94% …

ピピンは王位に就くためローマ教皇の支援を求め、サン=ドニ大修道院長に教皇との面会を求めた。教皇は彼に王権を認める代わりに、ランゴバルド人を打ち破ることを要求した。
以上引用
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この回答へのお礼

なるほど信孝と信雄で所領を分割されたのですね。三法師の所領は無し。
そして二人が仲違い。バラバラに秀吉に負けると
なんとも馬鹿な兄弟ですねー

信長の遺領は無かったんですか?

別な権威で有耶無耶にできるもんなんですね。関係無いと思うんですがね。
よく使われる手なんですね

ありがとうございます

お礼日時:2014/04/20 19:57

subetenoaruji さん、こんばんわ。



天正11年、柴田勝家や織田信孝を滅ぼし、天正12年織田信雄と徳川家康の連合軍と小牧長久手で戦い、和睦しますが、天正18年小田原北条攻めのときに改易してしまいます。
つまり、織田家の有力な一族の力をそぎ落としたのです。おそらく、天正12年の大納言任官あたりだと思います。このあたりで下剋上が完成するのは天正14年ころでしょうか?

天正16年には秀信は元服し、従四位下侍従に任官しますが、この段階で後陽成天皇を聚楽第に行幸の時の列席メンバーに入っていますが、秀吉の主人ではなくなっていますよ。序列はかなり低いところから考えるともうこの時点では下剋上は完成していますね。つまり家臣に転落しているのです。


詳細は下記のURLを参照ください。

織田秀信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …

豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
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この回答へのお礼

なにか気づいたら家臣になってたって感じですね

ありがとうございました

お礼日時:2014/04/20 19:42

subetenoarujiさん、こんにちわ。




秀吉が幼い三法師の後見人になって実権を握ったまではわかります。
実権は握っていますが名目上は秀吉は三法師の家来です。
秀吉は、いつどうやって名実ともに三法師を秀吉の下に置いたのでしょうか
清州会議以降は三法師を担いで名目上の旗頭にしていましたが、小牧長久手の戦い以降織田家の内紛がなくなったので、この段階で旗頭から降ろしたと思います。それは秀吉の官位が織田家の人々の官位を追い越し、実力名実ともに天下の盟主足りえるようになったからです。そして、成長する秀信をいつまでも旗頭にしておくことは内乱のもとになるので、織田家嫡流の名跡だけ継がせたのでしょう。

家康は大阪の陣に勝つまでは名目上は秀頼の家臣でしたよね?実力は家康の方があったにしても
いいえ、1603年に征夷大将軍になったので、名目上も家康のほうが上になりました。

詳細は下記のURLを参照してください。

織田秀信
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0% …
豊臣秀吉
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3% …
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この回答へのお礼

あーなるほど官位が上回ったんですね。

でもそれは対外的なもので
官位が上でも三法師と秀吉が主君と家来な関係なのは同じではないのですか?
官位の上下と主君と家来の関係は別でしょう?

いったい、いつ三法師ははっきり秀吉に臣従したのでしょうか?

三法師は子供なので秀吉に政務はお任せでも織田家の所領は三法師のものでしょう?
秀吉が後見人をしているあいだに織田家の所領は全て秀吉に掠め取られてしまって、三法師が大きくなった時には秀吉を家来にしておくことができなかったのでしょうか?

お礼日時:2014/04/20 18:08

1577年 信忠 従三位に昇叙し、左近衛中将に転任


1578年信長 1月6日正二位

1582年 秀吉 従五位下左近衛少将(『公卿補任』)
1583年 秀吉 従四位下参議
1584年 秀吉 従三位権大納言

1585年 秀吉 従一位関白宣下、内大臣如元

1588年 秀信9歳で岐阜に入って元服し三郎秀信と名乗り、従四位下行侍従に叙位・任官した。

織田弾正家では信長の正二位がこの時代における極官。
実力で官位を取ってこれる実績を作る前に、秀吉のほうが上に行っていた。

対織田家対策としてではなく、家臣団の平和時における序列を明確化、「目に見える形で示す」ために、秀吉は家臣団の官位付を行っていました。

そのため秀頼にも

慶長2年(1597年)9月27日、従三位に叙し、左近衛権中将に任ず。
慶長3年(1598年)4月20日、従二位に叙し、権中納言に任ず(中将から参議を経ずに直接中納言に任ずるのは、羽柴家が摂関家であることを明示している)。
慶長6年(1601年)3月27日、権大納言に任ず。
慶長7年(1602年)1月6日、正二位に叙す。

というような官位につけており、原理的には

(秀吉)>家康>秀頼>秀忠

という序列ができています。
家康が没すれば、 秀頼>秀忠 という序列が成立し、家康のスタンスで考えれば家康後を考えれば、秀頼を排除しなければこの序列が生き続ける危険性が有ります。なので物理的に排除するしか無かった。

秀吉の官位制度は、豊臣家を守るためのものだったが、最後は毒になった。
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この回答へのお礼

なるほど官位が上回ったんですね。
でも官職が上でも秀吉は三法師の家来では?

あれだけあった織田家の所領はいつ秀吉に奪われたんでしょうか?

ありがとうございました

お礼日時:2014/04/20 18:13

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Q織田三法師のその後は?

織田信長の孫、三法師は、どのような人生を送ったのでしょうか?
素人向けの本には、「三法師が秀吉後見のもと織田家家督に決まった」というところまでしか書いてありません。その後は、秀吉の天下。三法師が生きていて、元服する年頃になったのなら、秀吉を討って天下をとろうとする動きはなかったのでしょうか?

 

Aベストアンサー

秀吉にとって、三法師(後の秀信)は主筋に当たりますが
天下は秀吉のものとなりました。
それに関して秀信は、何ら不満はなかったようです。
秀吉も多少後ろめたさがあったのか、秀信を可愛がって
いたようです。
秀吉亡き後、天下分け目の関が原の合戦が始まりました。
秀信は家康の東軍ではなく、西軍に与しました。
秀吉に恩義を感じていたのだと思います。

攻めたのは、東軍に属した秀吉恩顧の福島正則。
岐阜城は落ちました。家康は城主の秀信に切腹を命じる
つもりでしたが、正則を始めとする秀吉恩顧の大名達の
必死の嘆願で諦めざるを得ませんでした。
後、高野山に上り、そこで病死したようです。

天下を取ろうとする動きについては、信長の次男、三男
にはあったと思います。しかし、いずれも凡庸であり
その器ではありませんでした。
また正確に言えば、信長はまだ天下は取っておりませんでした。
その一歩手前でした。統一したのは秀吉です。
したがって、秀吉が天下を簒奪したことにはならないと
思います。
秀吉は、旧主筋である秀信を大事にしたと思います。

後の世に、家康が旧主筋の秀頼に対する仕打ちとは
対照的でした。

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天下は秀吉のものとなりました。
それに関して秀信は、何ら不満はなかったようです。
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いたようです。
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Qなぜ秀吉は織田家の跡継ぎを殺しても織田家が滅びたわけでもなく織田家を裏切ったわけでもなく政権をとっていたのか?

歴史の本などを見ると本能寺の変以後 山崎の戦、柴田勝家との戦いをえて
秀吉に政権が行きましたが疑問があります。なぜ織田家に跡継ぎ(名目だけのさんぼうし)がいるのに織田政権が続ずにあっさり秀吉の政権に行ったのですか。形だけでも秀吉は織田の家臣なのにさんぼうしが生きてる間もさんぼうしより高い地位にいました。(信孝との戦いはありましたが、彼は織田家の跡継ぎではありません)そりゃあ家臣が主人を裏切って殺したらそうなるかもしれませんが、秀吉はさんぼうしを殺したわけではありません。歴史の本では秀吉VSさんぼうしの戦いもないのにあまりにもあっさりと秀吉に政権が行ったので疑問です。

Aベストアンサー

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
三法師を抱えた事。この2つです。
もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
柴田・滝川の諸将も秀吉の言葉に敢然とつき返していたでしょう。

この時点で秀吉の織田家政権の実権を得ることが出来るのです。

この後、信雄・家康連合を小牧長久手で勝利し、
織田家中、同盟国である徳川も従えた秀吉は完全に信長の後継者に。

この後、世の中の趨勢は織田家よりも秀吉個人に傾く。
その証拠に朝廷が秀吉の存在を認める。
翌年、関白に就任し、長宗我部氏、佐々氏を降伏。
この背景には黒田孝高などの暗躍があったとも思うが。
だからこそ天下人になった秀吉は最大の片腕の黒田の
力を恐れて南に追いやったと言われている。

秀吉の場合は、あだ討ちをしたことと三法師を抱えて
清洲会議を支配した事が何よりの勝因。
出自の問題もあり大衆受けが良かったことが、時の流れを得る結果に。
更に家康と仲が良かった事もその要因。
家中に敵も多かったが仲の良い者も居たこと。前田・丹羽など。

途中から天下人になる流れは秀吉の配下の人間が動いた可能性が
高いと私は推測しているが…
織田家は柴田・滝川が失墜したためにその勢いを失ったことによって
時勢の波に乗れなかったため、秀吉の後塵に帰す事になったと思う。
数歳の三法師を頭首とし場合は、配下が団結しなければ、
上手くまとまらないのは必然。更に世の動きは、戦国時代の早期終結を
願う風潮もあり自然と秀吉に、信長の後継を願う気風があったことも原因だと思う。

どんな時代でも庶民の世論は意外と絶大的な効果を持っているのかも。

秀吉が織田家中で実権を握れたのは、明智光秀を討ったこと、
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もしもこれが無ければ、清洲会議の主導権も取られる事無く、
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Q三法師を膝に抱えた秀吉を、なぜ誰も責めなかったのか

秀吉の天下取りへの歩みについて関心を持ち、
だいぶ自分なりにスッキリ理解できてきたのですが、
どうしてもモヤモヤしており、教えてください。


本能寺の変→山崎の戦いの後、
信長の後継者と決まった三法師を秀吉が膝に抱えて
織田家臣団に挨拶させたとのことですが、
その非礼無礼な振る舞いについて、
なぜ誰も「 その場で 」咎めなかったのでしょうか。

たとえ三法師が秀吉に懐いていたからといっても、
TPOを考えれば、少なくともこの時点での秀吉では、
反秀吉派に責められる越権行為だと思うのです。

誰も「その場で」非難することなく、三法師にだけでなく
この時点での秀吉にまで一同で挨拶してしまったのは
なぜでしょうか。

このことがどうにも理解できずにモヤモヤしています。


たとえば柴田勝家が「その場で」叱責・追及・断罪していれば、
織田家臣団に囲まれた中で秀吉は非を認めざるを得ず、
最悪切腹とまではいかずとも窮地に立たされたと考えます。


そもそもこのエピソードが作り話であったなら、
スッキリするのですが。


詳しい方がいらっしゃましたら、
教えていただけますと幸いです。
どうぞ宜しくお願い致します。

秀吉の天下取りへの歩みについて関心を持ち、
だいぶ自分なりにスッキリ理解できてきたのですが、
どうしてもモヤモヤしており、教えてください。


本能寺の変→山崎の戦いの後、
信長の後継者と決まった三法師を秀吉が膝に抱えて
織田家臣団に挨拶させたとのことですが、
その非礼無礼な振る舞いについて、
なぜ誰も「 その場で 」咎めなかったのでしょうか。

たとえ三法師が秀吉に懐いていたからといっても、
TPOを考えれば、少なくともこの時点での秀吉では、
反秀吉派に責められる越権行為だと思うのです。

...続きを読む

Aベストアンサー

信孝さんが後で後見人と言っても、形式的なものでしょう。
結果として、もう一人の信雄さんと兄弟仲良く路線が消滅しました。

信孝、信雄、どちらかが先に、三法師を担げば歴史が変わってた可能性があります。
あの時、二人とも会議の席で中座する余裕はなかったはずです。

会議の席上、中座してまで三法師を連れてきた秀吉が巧すぎました。
自分の提案に賛成してもらえるよう根回しまでしていたみたいです。

秀吉は、信長の子供を一人、養子という形で預かってますし、この人は光秀討伐から信長の葬儀まで秀吉と行動をしていますから、形式上の貢献度は信長の血縁者の中ではトップです。
 他の家臣たちは、秀吉が彼を担ぎ出す予想をしていたはず。
 結果として、三法師が盲点になりました。
 形として、秀吉の大幅譲歩の提案ですから、他の家臣たちも秀吉に勝ったと思ったでしょうね。

秀吉は、まだ下っ端の台所奉行の時に、毒見という口実で信長と全く同じ料理を食べていたりと、ずうずうしくて無礼なことをしても、叱られないという稀有な雰囲気の人間です。
 会議の駆け引きでは、他の武将たちは太刀打ちできなかったでしょう。
 

信孝さんが後で後見人と言っても、形式的なものでしょう。
結果として、もう一人の信雄さんと兄弟仲良く路線が消滅しました。

信孝、信雄、どちらかが先に、三法師を担げば歴史が変わってた可能性があります。
あの時、二人とも会議の席で中座する余裕はなかったはずです。

会議の席上、中座してまで三法師を連れてきた秀吉が巧すぎました。
自分の提案に賛成してもらえるよう根回しまでしていたみたいです。

秀吉は、信長の子供を一人、養子という形で預かってますし、この人は光秀討伐から信長の葬儀まで秀吉...続きを読む

Q織田の家督を継いだ三法師から秀吉の下克上(手口)

【NHK大河ドラマ・江】を視聴していましたが、本日の清洲会議(織田家の跡目相続会議)のシーンで信長の嫡男・信忠の忘れ形見として三法師(後の秀信)が登場しますが、その後の豊臣秀吉・秀次・秀頼と続く歴史では、織田秀信からの家督奪取?臣下への格下げ(下克上)の経緯や大義名分、権力闘争の有無等が余り記録・記載されていません・・・

そこで、質問ですが・・・
◇織田三法師(秀信)は、いくら幼少とは言え、秀吉の狡猾さ智謀からか、多くの織田家家臣や親族(叔父叔母や従兄弟達)がありながら、徳川の影響も排して、何時ごろ何故に秀吉に権力奪取され、結果的に豊臣の臣下に甘んじたのでしょうか?
興味あるテーマーであり、その経過・経緯、諸将の対応等を簡単にお教え願えませんでしょうか・・・

~関連記事~
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E7%A7%80%E4%BF%A1

Aベストアンサー

織田三法師は、今日「江」に初登場してきたわけですが、早く言えば羽柴秀吉が織田家乗っ取りを計る為に利用された、秀吉にとっては「道具」でしかない存在なわけです。秀吉の真意を悟った「市」は秀吉とは対立関係にあった「柴田勝家」との再婚を「織田家存続」を大義名分に決意し、柴田勝家の正室となるのです。市は自ら「人身御供」の様な形を取り、嫁ぎたくもない柴田の所へ嫁入りするのです。市が「悲劇のヒロイン」扱いされる理由はそこにあります。浅井長政と結託した織田信長は妹である「市」を嫁がせます。織田・浅井連合強化の為の「政略結婚」です。市は一男三女(茶々・初・江・万福丸)を儲けますが、結局、織田と浅井の連合は崩れ、秀吉が浅井と交戦。勝利し市と子供4人を救出し、信長の元に届けます。しかし信長は、その場で浅井家の嫡男「万福丸」を殺害。完全に浅井家を滅亡させてしまいます。市としては、嫡男を失うのは「戦の慣らし」と考えておりましたが、秀吉が「4人は私が立派に育てる」等と余計な事を言ったものだから、その場で殺害されたのには、どうにも納得がいかない。それで「秀吉憎し」になったわけです。ですから、明智を倒し、自らが天下を取ろうとする秀吉の謀略は、どうしても阻止しなければならない。織田家後継は信長の子でなければ、秀吉の思うがままになってしまう、とこう言った経緯があるんです。その事情を知っている茶々も初も「秀吉嫌い」。江だけが何も知らずに育ったわけで、実際、秀吉と会ったと市と姉2人に言った時、怒られてましたよね?この時期から既に、織田三法師は「秀吉に権力奪取」されたも同然だったのです。それを阻止せんとした勝家も秀吉に敗れ去り、秀吉は天下統一への道をひた走ったわけです。

秀吉は「百姓から足軽、足軽から織田家臣の重鎮」にまで昇りつめた「英雄」みたいな感じで扱われていますけれども、実際のところは謀略の限りを尽くし、信長の死後は「織田家乗っ取り」に討って出たわけです。武将としては長けていたかもですが、人間としては如何なものか、と私なんかは思います。信長の死 → 中国大返し → 明智光秀討伐 → その後の秀吉の行動・・・ 全部「信長の後継はわしじゃぁ」と言う事を天下に見せ付ける為の謀議・謀略・策略にすぎないというわけです。

織田三法師は、今日「江」に初登場してきたわけですが、早く言えば羽柴秀吉が織田家乗っ取りを計る為に利用された、秀吉にとっては「道具」でしかない存在なわけです。秀吉の真意を悟った「市」は秀吉とは対立関係にあった「柴田勝家」との再婚を「織田家存続」を大義名分に決意し、柴田勝家の正室となるのです。市は自ら「人身御供」の様な形を取り、嫁ぎたくもない柴田の所へ嫁入りするのです。市が「悲劇のヒロイン」扱いされる理由はそこにあります。浅井長政と結託した織田信長は妹である「市」を嫁がせます...続きを読む

Q戦国時代の「禄高100貫」とは?(大河ドラマ風林火山を見て)

先週の大河ドラマ「風林火山」で、今川家重臣の食客として駿河にいた山本勘助を、家督を継いだ武田晴信が「禄高100貫」で招くという話がありました。

山本勘助については確実な史料はほぼ皆無、全てフィクションと承知していますが、禄高100貫とは江戸時代以降の石高制で表現すると何石くらいに当たるのでしょう?勘助を庇護していた今川家重臣が「お前のような素浪人に武田家が禄高100貫とは信じ難い」と言う所からして「100貫=1,000石 程度」かなと思いますがどんなものでしょう。

Aベストアンサー

室町期の貫高は時代により変り、一概にはいえないのですが、
北条氏康時代の「小田原衆所領役帳」によると、平均七貫に一人の軍役(例えば、284貫の所領の宇津木兵庫助は軍役36人)になっています。
江戸幕府の軍役は50石で一人ですが、戦国時代は20~40石で一人、平均して30石で一人と推定されます。(戦前の陸軍参謀本部)
従い一貫は約4石で、勘助の初任給は400石相当のようでなかなかの高給です。
当時所領500貫(2000石)は重役でした。

Q豊臣秀吉と織田信長の息子達との関係

日本史にあまり詳しくありません。質問よろしくお願い致します。
織田信長が本能寺の変で自殺した後、豊臣秀吉が彼の後継者として諸侯をまとめ天下統一したことは
誰でも知っている話ですが、そもそも織田信長には自分の息子がいますよね?
なぜ信長の息子たちが後を継がず秀吉が後継者になれたのでしょうか。
信長の息子を差し置いて秀吉がしゃしゃりでたら秀吉には後継者を名乗る道理も大義もないと周囲から非難されそうだし、秀吉が信長の息子をリーダーに立てて織田の名の下に天下統一、ということにならなかったのは理由があるのでしょうか?

もう一つ、柴田勝家と秀吉は昔は仲間だったと思うのですが、後々でお互い戦い合うようになったのはどうしてなのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼びました)「山崎の戦い」で光秀軍を撃破しました。

(3)信長の家臣の中で、すばやくただ一人で光秀を討った「第一の軍功功労者」として柴田勝家らに一目置かざるを得ない存在となりました。

(4)その後、6月27日に信長の後継者問題を討議すべく清州城(いわゆる清州会議)で、出席をしたのは柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の4人で、滝川一益は関東地方へ出陣中で欠席した(直前の神流川の戦いでの敗戦を口実に、参加を拒まれたとの説もある)。
その場で勝家は二男信雄が跡目相続をするべきだ、と主張しましたが、秀吉は、長男信忠(二条城で信長と一緒に死亡)の一人息子三法師丸が血筋としては最も正しい、と主張しました。丹羽長秀や池田恒興はそれに賛同をし、軍功功労者第一番という威圧感もあって秀吉は三法師丸の後見役として信孝を指名したことにより、勝家はニガニガしい思いをしながらも、出席者の意見に従うしかなかったのです。

(5)やがて柴田勝家は信長の妹お市の方を押し立てて100ケ日法要を妙心寺で行い、秀吉よりも地位が高いことを見せつけようとしましたが、秀吉も黙ってはおらず、信長と信忠の葬儀が行われていないことに目をつけ、10月15日、秀吉の養子となっていた信長の四男秀勝を喪主として大徳寺で盛大に葬儀を執り行いました。

(6)この頃より秀吉と勝家が一層不仲になったと言われています。

(7)秀吉は勝家への「ゴマすり」の意味も含めて、天下一の美女と言われていたお市の方を勝家に嫁がせましたが、勝家は秀吉の策略を見抜いていました。

(8)12月、越前の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師丸を安土城に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、5万の大軍を率いて山崎宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政の佐和山城に入った。そして柴田勝家の養子・柴田勝豊が守る長浜城を包囲した。元々勝豊は勝家、そして同じく養子であった柴田勝政らと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏。秀吉は長浜城を獲得した。12月16日には美濃に侵攻し、稲葉一鉄らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・斎藤利堯が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師丸を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。

(9)翌年の天正11年2月28日、勝家は前田利長を先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍を率いて出陣した。これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・山路正国が勝家方に寝返るという事件が起こった。さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。はじめは勝家方が優勢であった。

(10)4月20日早朝、勝家の重臣・佐久間盛政は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらに前田利家らの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した(美濃大返し)。

(11)4月24日、勝家は正室・お市の方と共に自害した。秀吉はさらに加賀国と能登国も平定し、それを前田利家に与えた。5月2日(異説あり)には、信長の三男・織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。

(12)こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。表面上は三法師丸を奉りつつ、実質的に織田家中を牛耳ることになり、やがては、関白となって天下統一への路を走ったのです。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

簡単に説明しましょう・・・。

(1)織田信長には、長男信忠(のぶただ)、二男信雄(のぶかつ)、三男信孝(のぶたか)、四男秀勝(ひでかつ)の4人の息子がいました。しかし、秀勝は信長の命により秀吉の養子となっていました。

(2)本能寺の変(天正10年6月2日)で明智光秀が信長と信忠を倒すと、それを知った秀吉は備中高松城の毛利氏と戦っていて釘づけの状態でしたが、早々に毛利氏と和睦を結び、すぐさま京にとって返し(これを「中国の大返し」と呼...続きを読む

Q1kmだけなら4分切って走れて当たり前ですか?

サブ4クラスのランナーの方なら、1kmだけなら4分切って走れて当たり前ですか?

私は、普段のジョギング中に「よし、今なら行けるかも。」と自信のタイミングで全力で1km走ってみますが、良くても4分15秒程度かかります。

私の基本的なスピードが上がらないのは、この辺にあるのではないかと思っています。上限をあげれば、平均が上がるのではないかと…。
もともと足は速い方ではありませんので、私の限界なのかなとも考えていますが、なにかスピードをあげる練習方法などあるでしょうか?
または、そんな1km程度のスピード、サブ4には関係ないものでしょうか?

44才 男
ダイエットのためジョギングを始めて2年、1年半で88から68kgに20kgダウン。

5km=25分
10km=55分
20km=120分で走れます。(恥ずかしいくらい必死にですが…)
先日、初フルマラソン完走できました、4時間22分。

半年前から体重が落ちなくなったので、走る目的をフルマラソン完走に変更しました。今回、完走できましたので、目的をサブ4に変更しようとしています。
長く、分かりにくい文章ですみません。よろしくお願いします。

サブ4クラスのランナーの方なら、1kmだけなら4分切って走れて当たり前ですか?

私は、普段のジョギング中に「よし、今なら行けるかも。」と自信のタイミングで全力で1km走ってみますが、良くても4分15秒程度かかります。

私の基本的なスピードが上がらないのは、この辺にあるのではないかと思っています。上限をあげれば、平均が上がるのではないかと…。
もともと足は速い方ではありませんので、私の限界なのかなとも考えていますが、なにかスピードをあげる練習方法などあるでしょうか?
または、そんな1km程度...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。私は高校、大学と陸上長距離をやっていました。高校駅伝に出場経験もあります。
ウチの主人も陸上選手で10000m29分台の記録を持っています。今40歳ですが、1キロだけなら
3分切ると思います。私は37歳なんですが、1キロだけなら4分は切りますよ。
娘は中2ですが、娘でも3000は9分台です。自慢になりますが小学生の日本記録を持っています。

4分15は少し時間がかかりすぎですね。一般的にはイーブン4分で3000は走れると思います。
私も主人もフルの経験はないのですが、ロードは何度も駅伝で走っていますし、ロードの
練習はトラックと違って起伏のあるコースをいかに体力をロスしないで走るかを心がけました。
具体的には、あの錦帯橋のような太鼓橋を何度も往復するのです。これで登り、下りのペース配分が
自由に出来るようにします。結構辛いのですが、効果はあります。

あとフォームの改善。トラックならつま先着地で蹴りを効かす走法が効果的ですが、意識して
このようなつま先着地で蹴りを効かす走法をすれば、スピードは付きます。ただ、この走法は
フルには向きませんから、あくまで練習でスピードをつけるだけです。

1年半で体重を88キロから20キロ落としたということは、相当身体に負担がかかっています。
リバウンドも心配ですし、今はスピードより持久力を重視すればどうでしょうか?

フルをどのようなラップで走られたか分かりませんが、後半が著しく落ちるような、持久力不足です。
先ほどの太鼓橋のような所を探し、毎朝3キロ程度欠かさず走っていればかならずタイムも伸びます。

サブ4なんてもうすぐですよ。頑張って下さい。
身長が分かりませんので何とも言えませんが体重は65キロ程度を維持するのが良さそうです。

こんにちは。私は高校、大学と陸上長距離をやっていました。高校駅伝に出場経験もあります。
ウチの主人も陸上選手で10000m29分台の記録を持っています。今40歳ですが、1キロだけなら
3分切ると思います。私は37歳なんですが、1キロだけなら4分は切りますよ。
娘は中2ですが、娘でも3000は9分台です。自慢になりますが小学生の日本記録を持っています。

4分15は少し時間がかかりすぎですね。一般的にはイーブン4分で3000は走れると思います。
私も主人もフルの経験はないのですが、ロードは何度も駅伝で走ってい...続きを読む

Qノートパソコンでブルーレイは見れますか?

2,3年前のノートパソコンでウィンドウズ7ですが、 PowerDVD 9が入っていて、DVD+/-RWドライブです。

このパソコンで、レンタルしたブルーレイーなどは見れるものでしょうか??

Aベストアンサー

そのPCにブルーレイドライブがなければ見ることは出来ません(DVDドライブでは駄目)。
具体的には、対応メディアにBDという表記が必要となります。

Q日本の金、銀は枯れたの?

黄金の国ジパングとか言われた時代もあったくらいに昔は採掘されたてのですか?

それらは今はほぼ枯れたのですか?

今からはイメージ出来ません

Aベストアンサー

金鉱脈がどう生成されるかに付いては色々な意見が有ります。
最近有力な説は次の様なものです。
マントルの高熱で地下深くに閉じ込められた水が高温高圧になり、
それにイオン化した金が溶け出す。
この金イオンを含む高温高圧熱水が地層中の割れ目を通り地上に出る
過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

火山国で地震国である日本には、当然金鉱脈が多く、それも比較的
地表に近い所にあります。見つけ易い所にあるわけです。
これを探して採掘していたのが、戦国時代から江戸時代末までの状況です。
当時の技術で見つけることができ、掘り起こせる範囲の金はほぼ取りつくされて
しまいました。あらゆる大名が自領地を掘ったわけですから。

現在は金鉱脈生成の過程も解明され、地質学的知見も深まり、探索
技術も進歩し、世界的な金鉱脈が日本で続々と発見されています。
一番有名なのは、鹿児島の菱刈鉱山(住友金属鉱山)ですが、
大分県九重、山形県大峠、北海道東部(釧路周辺)にも金鉱脈が
発見されています。
下記URLの【黄金の国ジパングは復活するか】を見てください。
http://www.iforum.jp/okuchika/t5713.html

菱刈鉱山の金品位は世界屈指ですが、他の鉱脈もそれに劣らない
と言われています。

さて、これ程の金鉱脈を持ちながら日本での生産は何故菱刈だけなのか
は次の理由からです。
掘って生産量を挙げても金相場が下がるだけで住友金属鉱山には
投資に合うメリットは無いのだそうです。それで現在の菱刈が枯れたら
次の鉱区を開発する予定だそうです(直接聞いた話)。
金鉱脈発見ラッシュから20年以上も経つのに、菱刈はまだ枯れそうも
ありません。

例外的に、日本政府が金本位制への復帰を宣言し住友金属鉱山から
増産分の金を定額で買う、住友金属鉱山が経営不振に陥り金の増産を
行わざるを得なくなる、等が起れば日本は再び「黄金の国ジパング」
に成るかもしれません。
現在は「赤金(借金)の国ジパング」です。

金鉱脈がどう生成されるかに付いては色々な意見が有ります。
最近有力な説は次の様なものです。
マントルの高熱で地下深くに閉じ込められた水が高温高圧になり、
それにイオン化した金が溶け出す。
この金イオンを含む高温高圧熱水が地層中の割れ目を通り地上に出る
過程で減圧冷却され、金として岩石中に析出し、金鉱脈が生成される。

火山国で地震国である日本には、当然金鉱脈が多く、それも比較的
地表に近い所にあります。見つけ易い所にあるわけです。
これを探して採掘していたのが、戦国時代から江戸時代...続きを読む

Q大阪の陣のとき、豊臣方は負けずにすんだのでは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官であ...続きを読む

Aベストアンサー

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
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