【無料配信♪】Renta !全タテコミ作品第1話

諸法無我の意味を知りたいのですが。
仏教用語の説明は仏教用語を使ってするのでよくわかりません。

なので諸法無我を幼稚園児でもわかるくらい簡単にして教えてください。

A 回答 (3件)

諸法無我の意味ですね。



サンスクリット語では、
サルヴァ(一切の、すべての、諸々(もろもろ)の)・ダルマ(法・存在の意味)・アン(無い)・アートマン(我・究極の個体原理、実体などの意味)
と言いまして、
これを中国語にすると、
《諸法無我》になります。

意味ですが、
すべての現象的存在には、その存在を存在たらしめているような実体はない、
くらいの意味です。

例えば、「わたし」という存在に当てはめて考えますと、
「わたし」は、心と体で出来上がっている。
心は、一瞬、一瞬、変わっているので、そこに心の同一性を認めることはできない。とても、こころは、常住で不変のアートマンと呼べない。
では、体はどうだ。
体は、原子や分子の集まりである。わたしの体を構成するもの、物質も入れ替わっている。そうした物質の離合集散したものがわたしの体だ。すると、わたしの体もアートマンではありえない。
心も体もアートマンではないのだから、その集合体であるわたしにアートマンはない。
このように仏教では考えます。

では、車はどうだ?
車は、車輪やハンドル、エンジンなどなどの構成部品からできている。
その構成する部品のどこをさがしても、その車を車たらしめている《車性》のようなものはない。
であるから、車には、車を車たらしめている《車性》とでも言うべきもの、実体、アートマンはない。

そして、これは、人や車にだけあてはまるのではなく、すべての存在についてあてはまる。
つまり、
「諸法(あらゆる現象的存在)は無我(実体を有していない)である」
となります。

こうした考え方以外にも色々な論証はあるのですけれども、
これがもっとも代表的なものの一つです。

他にもあるのですけれども、仏教の専門用語を使わないと、ちょっと説明は難しいので。

Wikipediaにも、諸法無我の説明記事がありますので、よろしかったら、ご覧になってください。

諸法無我
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95% …
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この回答へのお礼

わかりました!!
それ自分について考えたことがあります。
全てのことをそれと同様だということですね

ありがとうございました

お礼日時:2014/04/20 20:47

「普遍的なものにはわがままが入る余地はない」くらいの解釈はどうでしょうか。

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この回答へのお礼

いいと思います。ただもう少し説明が欲しいです

お礼日時:2014/04/20 20:25

幼稚園児に諸法無我を解らせるのは酷い事です



諸法無我とは この世には 神は存在しないと言う意味です

サンタクロースも居ない事も 諸法無我には含まれています
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この回答へのお礼

まあ、ようするに専門用語を使わず説明して欲しいということです。

仏教用語を調べると、また別の仏教用語を使って説明されるのでいつまでたってもわからないのです

お礼日時:2014/04/20 19:59

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Q「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。

「諸行無常」と「諸法無我」の違いを教えてください。
自分なりに調べてみたのですが「諸行無常」と「諸法無我」の意味や違いが理解できません。できれば具体例をまじえながら説明していただければ幸いです。宜しくお願いします。

Aベストアンサー

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるものにあまりこだわりを持つな、地上のものに執着を持つな、ということ。

・諸法無我

これも諸行無常と同じく、地上のものに執着を持つなという教えですが、これは、空間論です。
時間論で、「一切のものが変転していく」ことをとらえているとすれば、こちらは、「一切のものは実在ではない。すべてのものは夢幻の世界である」
という空間の教え、思想です。

この両者いずれも、この世的、3次元的な視点ではなく、あの世からこの世を見たときの視点です。なので、特に後者の思想は、悟りを得ないと解りにくいと思えます。
たとえていえば、この世は舞台劇であり、実在する建物と思っているのははりぼての舞台セット。
出演者はそれぞれの役柄を演じているが、舞台を降りたら(あの世に戻ったら)本来の自分に戻る。
だから、自分が舞台上の役で持っている地位や財産にあまり執着して生きるな、ということですね。
さらにいえば、舞台を降りたら(死んだら)すべてが無になるというのは誤りであり、役者の顔を脱ぎ去った、本来の自分が生きている「死後の世界」に戻っていくので、舞台上のことに執着するなということでもあります。

ちなみに、もうひとつ「涅槃寂静」があり、この3つを三宝印といって、仏教の教えの基本とされています。

・涅槃寂静

時間・空間、そのすべてにおいて、固定的なものは何もない、恒常なるものは何も無い。そのなかで、現にここに存在し、修行をしている私は、いったい何であろうか?という問いを追求し、そして永遠の実相なるものをつかみとってゆく、そこに涅槃寂静の境地が開けてくる・・・。

そして、これらの思想は、無我、空の悟りに通じていくものです。

沈黙の仏陀/大川隆法/幸福の科学出版
悟りの挑戦(下)/大川隆法/幸福の科学出版

を参考にしていうと

・諸行無常

これは別に悟りを得てなくても、誰もが理解しやすいと思えます。
頑張って一戸建てを建てたり、マンションを買っても時間の流れとともに朽ちてゆき、いずれ建て直ししないとダメになります。
美しく咲いた花でも、しばらくすれば枯れて散る。
70年代に、日本中のアイドルで笑顔の可愛い女性タレントも、今では中年太りのおばさんという方もいる。
これは時間論です。
そして、いまあるもの...続きを読む

Q仏教:「空」と「諸法無我」の違いを教えて下さい。

気になって眠れません・・・

般若心経で説かれている「空」
法華経で説かれている三法,四法印の内の「諸法無我」

両者に違いはあるのでしょうか?
それとも同じものなのでしょうか?

まだ法華経以外の経を学んでおりませんし
法華経自体も学んで日が浅い私の勝手な安易な解釈ですが

空・・・・・・この世は一つである
諸法無我・・・この世のものは繋がっている(関係し合っている)

両者は逆説の関係ではありますが同じでいいのです・・・・・ね?

経は違えどもともと同一人物にによって説かれたものですから
同じであって当たり前だと思うのですが

どちらも真理であり真理で無いですよね?
まず悟り真理というのを言語化でしている時点で

「空」も「諸法無我」も悟りから得た真理を人々に伝えるために言語化した表現、「方便」なのでしょうか?

結局は自ら考え自ら納得できるかが問題なのでしょうが・・・

Aベストアンサー

同じでしょう。
この世の全ては、縁起により成り立つもので、本質は無に限りなく近い。だから絶え間なく変化するし(諸行無常)、それらに執着することは、苦しみを生むのです(一切皆苦、四苦八苦)。


ご明察の通り、言語表現には限界があります(釈尊自身がそうおっしゃっていますし、だからこそ釈尊は説法時に、言葉を慎重にお選びになりました。)
人から人への伝聞は、個人の理解力の差により、限界があるのです。
「その人のレベルでしか理解できない」と誰かが言っていました。

ようは、長い道のりということです。
悟りを開くものは、あと数千年現れないそうですし。(迷信?)
仏の道を絶え間なく精進すれば、今は理解できないことも、いつか理解できる日が訪れましょう。

駄文失礼。合掌。

Q煩悩ってどういう意味ですか?

煩悩(ぼんのう)ってどういう意味ですか?
辞書で調べても難しくて理解できません。
具体的に、わかりやすく教えてください。よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
 
  煩悩とは、わずらわしく、悩みになることだ、ということになります。しかし、そんなに煩わしく悩む、困ったことなのかというと、日常の用法では、ちょっとニュアンスが違います。ここは、仏教のお坊様に出てもらって、具体的な使い方の説明をしましょう。
 
  仏教では、覚りを開くため、修行する人が、元々「坊様」だった訳です。従って、元の仏教の「戒め」では、修行者は、例えば女性となれなれしく口をきいてはならないとか、女性の姿もまともに見てはならないなどとなっていました。女性の美しさなどは、「迷い」の元だというのです。
 
  しかし、坊様がすべてそうではないでしょうが、すけべな坊様もいる訳で、道で通りがかりの、和服の美人を見て、ほわ、と口を開けて見とれ、なんちゅう、綺麗なべっぴんさんや、いや目の毒じゃ、これも「煩悩、煩悩」などと云いながら、女性の後ろ姿を見送ったりします。別に和服でなく、洋装でも構わないのです。また、坊様も、そんな女を見るとすぐ見とれるような人は珍しいでしょうが、やはり、坊様も男ですから、美人と道ですれ違うと、ふと、心が動くこともあるのです。
 
  あるいは、仏教では、イスラム教と同様、精神の安定や、日常の心の状態を興奮させたり、おかしくする飲み物などは禁じています。例えば、麻薬などは無論駄目ですし、煙草やお酒も駄目なはずです。しかし、日本の坊様は、何時頃からか、「般若湯(はんにゃとう)」と称して、酒を店で買って飲んでいたりします。坊様が、良い酒を味わいながら飲みつつ、何という味わい、この酔い心地、さすがに銘酒は違う。極楽じゃ。しかし、考えてみれば、これも「煩悩、煩悩……仏様よ、お許しあれ、南無阿弥陀仏、いやもう一杯、何ともうまい」などと云っていると、どこが、煩い、悩みの煩悩か分からないでしょう。
 
  また仏教では、生き物のいのちを大切にせよと教え、殺生を禁じ、従って、動物の肉は無論、鳥の肉も、魚も食べてはならないことになっているのですが、それも何のことかです。酒のさかなに、コイのあらいを食べつつ、いい気分になって来て、坊様が、いや、浮き世もまた楽しいぞよ、酒はうまいし、ねえちゃんは綺麗だ……などと歌っていると、「生臭坊主」ということになるのですが、以上は極端に戯画化しているので、日本では、昔から、坊様が、妻帯し、子供がおり、酒は飲み、魚も食べ、それで別に社会から糾弾などされていません。
 
  大酒を飲み、酔っぱらって、寺の本堂で乱交パーティを開くような坊様は、それは別に坊様でなくとも、普通の人でも社会から糾弾されます。
 
  仏教の坊様にとっては、女性と触れたり、メイクラヴすること、酒を飲んだり魚を食べたりすることは、仏教の教えに反することで、こういう「欲望」を、修行の妨げになる「煩悩」と呼ぶのですが、煩悩というのは、多くの坊様の日常生活から云うと、自然なことのようです。
 
  もう一つ、坊様ではありませんが、一般に、「子煩悩」という言葉があります。これは、別に、子供が煩わしく悩みの種で、何かの邪魔になるのかと云えば、そうではなく、子供が可愛く、何時も子供のことを考え、細かいことにも、子どものためにと、あれこれ気も身も使う親のことを、こう呼びます。別に、子どもが、何かの「妨げ」になっているのではないのです。親にしてみれば、ふと、思うと、「ああ、おれは、何と子どものことばかり思っているのか。これも煩悩か」などとなります。
 
  「煩悩」というのは、仏教の教えとか、人間の生き方はいかにあるか、などということの前では、何か安楽な、気持ちよい、楽しい方にばかり気が向くようで、困ったことだという考えもある他方、「自然な欲求」「自然な望みのおもむく方向」であって、煩悩だが、しかし、これもまた良しなどというものです。
 
  これは、仏教の教義として、煩悩に迷う人の姿こそ、すなわち、仏の姿に他ならないという考えもあるのです。
 
  煙草をやめないと、肺ガン確実と云われていて、それでも吸いたいという人の場合、煩悩とは云いません。また、大学受験中なのに、異性のことに意識が向いて勉強に集中できない高校生も、それを煩悩とは云いません。(ただし、高校生の親が、寺の住職だったりして、子どもに、そんな煩悩は振り払え、と説教するかも知れません)。
 
  煩悩というのは、本来の仏教の教えでは、たいへん厳しい、覚りの道にあって、克服せねばならない誘惑や欲望だったのですが、「煩悩すなわち仏」というような考えは、人間は自然に振るまい、自然に生きるのがやはり一番であるという考え方でしょう。
 
  肺ガン寸前の喫煙者や、受験勉強に必死な高校生にとっては、喫煙や、恋愛は、自然のままを楽しもうなどということではないのです。
 
  人間は、欲望が強すぎると、色々不都合なことが起こることが、或る程度分かっているともいえます。分からない人、自制がきかない人は、酒に溺れて身を滅ぼすとか、守銭奴になって、世人の顰蹙を買うなどとなり、そういう人自身は、煩悩も何もないでしょう。しかし、そういう人を横目で見ていると、酒を飲み、恋愛をし、ギャンブルで小銭を失い、自堕落な生活を少々しても、歯止めがかかっていて、ああ、これが煩悩というものか……で片が付きます。
 
  「わかっちゃいるけどやめられない」というのは、確か古い歌の言葉ですが、そういう心境の「分かっている」のが、煩悩だと分かっているということで、度を超さなければ、やめる必要もない訳です。本格的な修行をしている坊様にとっては、厳しいことでまた別ですが、普通には、煩悩はまた楽しいことなのです。本来しない方がよい、というのをするのは何とも楽しいことなのでしょう。
 
  世界中の文化がそうだとは分かりませんが、日本は、煩悩を楽しむ文化です。
 

 
  煩悩は、仏教の用語で、元々、かなり難しい思想的意味を持っていましたし、煩悩とは何かというので、色々な議論もありました。
 
  しかし、それはともかく、具体的な例の話で、日常語での「煩悩」の使い方というか、意味を考えてみましょう。
  「煩悩」は、「煩」と「悩」から出来ています。「煩」は、「わずらわしい」という意味で、「わずらわしい」と入れて変換すると、「煩わしい」と出てきます。また「悩」は、「なやみ」のことで、「なやみ」と入れて変換すると、「悩み」と出てきます。
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Q人間は考える葦である とは?

ふと頭をよぎったのですが、、
「人間は考える葦である」とはどういう意味なのでしょう? また誰の言葉なのでしょう? 簡単な質問ですみません。 よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去しました。
  
  残された膨大なメモを元に、パスカルが計画していた著作に似たものを編集することも考えられたのですが、とても、それは無理なので、断片集として、計画のまとまりや、内容の関連性などから、おおまかに断片メモを整理してまとめて、一冊の本に編集したのが、『パンセー』です。当然、パスカルの死後出版されましたし、内容は、緩やかなつながりで、長短の断片文章が並んでいる構成です。従って、本のなかの文章はパスカルのものですが、本は、パスカルの「著作」とはちょっと云えないでしょう。ほとんどできあがっていて、足りない部分などを、他の文章で補ったりして、計画通りかそれに近い本を作ったのならともかく、当初の計画とは違う、「箴言集」か「随想集」のような本になってしまっていますから。
  
  それはとまれ、「葦」が弱いものの代表として人間の比喩に取り上げられているのは事実ですが、何故「葦」だったのか、という疑問が起こります。例えば、「人間は考える蟻である」とか、「人間は考える蝶である」とか、また「人間は考えるクローヴァーである」とか、幾らでも考えられます。
  
  これは、誰かの説明であったのか、わたしが勝手に考えたのか記憶がはっきりしないのですが(おそらく誰かの説明です)、人間が「葦」であるということの比喩は、ナイルの河畔に生える葦は、強い風が吹くと、弱いために、すぐしなって曲がってします。風に抵抗できない。いや抵抗せずに、しなって敗北するのである。しかし、その他方で、偉大な樫の樹などは、風が吹くと、しなることはせず、抵抗するので風に勝利するが、しかし、繰り返し風が襲って来た時、何時か強い風に倒され、根元から折れてしまうのです。しかし、賢明に自らの分を知る「葦」は、風が吹くとそれに身をまかせてしなり、逆境のなかで、一見屈服したように見えるが、しかし、風がやむと、徐々に身を起こして行き、再びもとのなにごともない姿に戻って微風に揺れているということが、人間への「比喩」の意味だったはずです。
  
  少しの風が吹くとしなり、風の前屈して曲がるが、風が去ると、また元のように立ち上がる。人間とはこのように、自然や運命の暴威に対し無力であるが、それに従順に従い、そして暴威をくぐり抜けて、また元のように、みずからの姿で立ち上がる。自然界のなかでたいへん弱く、簡単に風にしなるが、柔軟性があり、運命にも暴威にも屈しない。そして何よりも、「考えることができる」すなわち「精神を持つ」ことで、ただ、自然の力、暴威として、力を無自覚に揮う風に較べて、遙かに賢明で、優れた存在である。……このような意味の比喩ではなかったかと思います。
  
  この葦の比喩は、パスカルという人がどういう人だったかを知ると、パスカル自身のことのようにも思えて来ます。パスカルは、四十に満たないで亡くなっています。彼は、少年の頃から神童と言われたのですが、病弱で、一生、病気や身体の苦痛とたたかいながら、思索し実験し、研究し、晩年は、修道院に入って信仰生活を送ることを決意して、自分自身でも、そのことについて、悩み考えつつ、世を去りました。パスカルは、自分に襲いかかる不条理な病や、身体の不調などと、「たたかう」というより、それを受けて耐え、病の苦しみのなかで思索や研究を続け、「精神」において、自然が与えた病の暴威などを、乗り越えて生涯を送った人だとも云えるのです。
  
  暖めた流動食でないと、喉を通らないというようなこともしばしばあったということは、解説書などには必ず記されているはずです。弱々しい「葦」のように、襲って来る風に身をまかせつつ、思索した精神、それがパスカルなのでしょう。パスカルは「人間とは、運命に従順であるが、しかし、精神で、運命に抵抗し、不屈の意志で、思索することで、運命や自然の暴威を乗り越える自由の存在なのだ」という意味で、この言葉を記したのではないかとも、思えるのです。
  

 
  「人間は考える葦である」というのは、フランスの17世紀の思想家・数学者であったブレーズ・パスカルの手稿にあった言葉の翻訳です。普通、『パンセー Pensee(思索)』という著作のなかの言葉だとされますが、『パンセー』はパスカルの著作ではありません。パスカルは、もっと系統的に、人間、世界、神の秩序や矛盾などを考察した、体系的な浩瀚な著作を著すことを計画していて、そのメモを多数書いたのですが、構想が難しかったのか、または若くしてなくなった為か、計画した著作を完成させずに死去し...続きを読む

Q仏性とはどういうもの?

よろしくお願いします。
ちょくちょく“仏性”というのを耳にしたり目にします。法話とかで「誰でも仏の子で、仏性を持っている」というふうに使われていると思うんですが、これって具体的にいうとどういうものなんでしょうか。
それから、みんな仏性があるんなら、殺人をするような悪人の仏性はどうなってるんでしょうか。あと、動物とか植物にもある、というのも聞いたおぼえがありますが、そういうことはどうなってるんでしょうか。
哲学しかカテゴリーが思いつかなかってのでここに投稿しましたが、できればあんまり難しくない回答をお願いします。

Aベストアンサー

 「あんまり難しくない回答」ということなので、なるべくわかりやすく「仏性」について説明できればと思います。あらかじめ言っておきますが、わたくしは特定の宗教・宗派に属するものでも、信仰を持つものではなく、宗教や仏教に関心を持って、ごそごそと学んでいるものに過ぎません。神社やお寺は大切にしたいと思いますし、人びとが信仰しているものには、それなりの敬意を払おうとも考えています。
 さて、「仏性」とは、Fine21さんが指摘しているように、「仏になれる可能性」である、と定義するのが、もっとも支持を得られるものだと思われます。わたくしは、また別の視角から説明したいと思います。
 「仏性」とは、「生命」と言い換えてもいいでしょう。ただしその「生命」は、自然科学が定義する生命現象とは異なり、「なんらかの意味を持った生命」、と言えるものだと思います。
 なんらかの意味を持った生命とは、自己の生命以外の生命にかかわりをもって、そのむすびつきのなかで存在している、ということです。自己の生命は、他者とかかわることでさまざまな意味を生じ、他者の生命は、自己とかかわることでまたさまざまな意味を生じる。このかかわりが無限に拡がっていくなかで、自己の生命は意味を持つのです。
 仏教では、人間だけではなく、動物や植物にまで「仏性」が備わっている、と考えます。あらゆる生命現象には「仏性」が備わっていると考えるのです。そうした生命は、人間や人間以外の生命とのかかわりのなかで、やはり意味を持って存在しているのです。遠い海で泳いでいる小さな一匹の魚でさえ、そのむすびつきの糸をたぐっていけば、地球に住んでいるすべての人にたどりつくのです。
 「殺人をするような悪人」の生命にも、なんらかの意味があるのです。たとえ殺人者ではあっても、やはりほかのすべての生命とのむすびつきのなかで、その生命は意味を持って存在しているのです。
 殺人という行為をすることは、その意味を見出すことができなかったとも解釈できるし、あるいは、殺人をすることそれ自体になんらかの意味があったとも解釈できるのです。この後者の解釈が自己展開していくことで、殺人を合理化する考えも生まれてきます。仏教もまた宗教であり、宗教には日常生活とは異なる視点での危険な考え方が必ずどこかに潜んでいます。
 「殺人をするような悪人の仏性」という問題は、たとえば日本の親鸞(1173-1262)の「悪人正機」の説に、たいへんおもしろく興味深い考え方が示されています。
 生命は、いま生きているこの世界だけではなく、生命として生まれる以前も、生命としての活動を終えた以後にも、意味を持って存在し続ける、と考えられます。
 生まれ出た生命は、かたちを得て自己以外のすべてのかたちある生命とのかかわりの世界のなかで活動し、「死」という大きな衝撃を自己以外の生命に与えて一旦そのかたちある生命としての活動を終えます。しかし、その「死」によって、そして「死」の以後も、自己の以外の生命活動に意味を与え続け、その自己以外の生命からまたあらたな生命がふたたび生まれてきます。そのあらたに生まれた生命にとって、自分の誕生以前に生命活動を終えた生命は、生まれ出る以前の生命として意味を持つ存在なのです。
 気が遠くなるような生命の循環と連鎖のなかで、意味のある生命としての「仏性」は、永遠に存在を続けるのです。
 「仏になる」とは、死んで死後の世界で成仏する、といったことではなく、生きているときにも他の生命に意味を与えること、死んだのちにも、他の生命に意味を与え続けること、そういった生命のむすびつきのなかでの「与える」ことを言うのではないかと思われます。
 以上のような意味の連鎖こそ、「仏性」というものの姿ではないか、と思われます。以上の説明を、具体的な生活のなかであてはめてみれば、またこれまでとは異なった見方・考え方で、世界を見ることが可能になるのではないでしょうか。
 わかりやすく説明できたかどうか自信がありませんが、とりあえずご参考までに。身近なところから具体的に上記の考え方をあてはめてなぞっていけば、あるいはご理解いただけるのではないかと思います。

 「あんまり難しくない回答」ということなので、なるべくわかりやすく「仏性」について説明できればと思います。あらかじめ言っておきますが、わたくしは特定の宗教・宗派に属するものでも、信仰を持つものではなく、宗教や仏教に関心を持って、ごそごそと学んでいるものに過ぎません。神社やお寺は大切にしたいと思いますし、人びとが信仰しているものには、それなりの敬意を払おうとも考えています。
 さて、「仏性」とは、Fine21さんが指摘しているように、「仏になれる可能性」である、と定義するのが、も...続きを読む

Qウシャニパッド哲学 ~梵我一如について~

ウシャニパッド哲学、梵我一如のことを学校の倫理の授業で習って、
テストに出すって言われたんですけど、いまいちうまく理解する事ができません。
わかりやすく教えていただければ、とてもありがたいのですが・・・。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態を解脱というのです。さて、
問2.梵我一如ということが判ると何がおこりますか。

yamanoyu2858さんの示してくださったURLもお読みください。
いかがですか?

梵我一如ということを理解したとき、アートマンであるあなたはブラフマンと一体化します。どんなにいろいろなものに生まれ変わったとしてもアートマンであるあなたはブラフマンなのです。あなたはもはやブラフマンであり変化しないもの、輪廻の罠から逃れ出たものになっています。つまり解脱したのです。

前の私の答えと重なりますが、これを納得する必要はありませんよ。古代インド人はこう考えていたということが判れば良いのです。ただ、この考え方は仏教の開祖ガウタマ=シッダールタも前提としていたことですから、仏教の基礎になる考え方です。で、日本にも仏教は伝わり現代まで繋がっていますから、そのつながりの中である種「普通」の「当たり前」の考え方とされていますが、冷静に考えれば奇妙な考え方です。余談の方が長くなってしまいましたが、納得ではなく理解をしていただきたいと思います。

>梵我一如がなぜ解脱を助けるのか? も教えてください。
補足質問がありますのでお答えを導くお手伝いをいたします。
(できるだけご自分で考えてくださいね)
あーっと、「解脱を助ける」のではなく「解脱する」のです。つまり「梵我一如」が判った時にはその人はすでに解脱しているのです。では一緒に考えましょう。

古代インド人が「輪廻」を苦痛だと考えていたことは判りますね。
問1.それはなぜでしょうか。
また、解脱というのは「輪廻」から逃れることというのも判りますね。輪廻から逃れた状態...続きを読む

Q「誠実さ」ってなんでしょうか?

私は(男です)自分がどんな人間になりたいか考えていると
誠実な人になりたい、って思ってきました。
でも、「誠実さ」というのは
人によって考え方がまちまちだと思います。
みなさんが考える誠実さとは、どんなものでしょうか?
宜しくお願いいたします。
私の考える誠実さとは、自分と関わる相手に対して、
それがどんな相手でも、偏見をもたずに、
一人の人間(かけがえのない、その人の人生)として捕らえて
おつき合いする事だと思いました。

Aベストアンサー

おもしろいテーマですね。

実はわたし、
何年も前ですが留学していた先で
欧米の友人らに
「日本人は誠実じゃない、正直でもない」
と言われてとっても驚いたことがあるんです。

私個人は
誠実な人間たらんと心がけてたつもりだし、
日本人の中にも不誠実な人がいるにしても
一般論として
「日本人は不誠実」 という評価を受けるって
何事だろう・・とショックでした。

欧米語(留学していた国も欧州の大国ですが)
では 「誠実」「正直」 という単語は
自分にも他者にも嘘をつかないこともなんだそうです。
日本人は社交辞令・謙遜という形の嘘を
並べ立てるので
誠実じゃないんだそうですよ。

爾来わたしは
日本文化としての謙遜を損なわない程度に
しかし、極力ありのままのことを口にするように
努力しています。

アナタの料理はおいしいね、と言われたら
以前は「たいしたことない、簡単な手抜き料理ばかり」
と答えていましたがいまは
「そうかな? 
ありがとう。喜んでもらえてうれしいわ」と
いうような単なる喜び表現で返すようにしています。

また、できないことはできないと
ちゃんと表明するように努力しています。
ちょっと考えさせて・・みたいなあいまい表現は避けるように努力しています。

私の考える「誠実さ」 とは
意味のない嘘はつかない
いつも事実を表明する
しかし、物柔らかさはそこなわない
相手の気持ちを思いやる行動を誠意からとる
というような感じです。

おもしろいテーマですね。

実はわたし、
何年も前ですが留学していた先で
欧米の友人らに
「日本人は誠実じゃない、正直でもない」
と言われてとっても驚いたことがあるんです。

私個人は
誠実な人間たらんと心がけてたつもりだし、
日本人の中にも不誠実な人がいるにしても
一般論として
「日本人は不誠実」 という評価を受けるって
何事だろう・・とショックでした。

欧米語(留学していた国も欧州の大国ですが)
では 「誠実」「正直」 という単語は
自分にも他者にも嘘をつかないこと...続きを読む

Q客観的?主観的?

良く客観的だとか、主観的だ。なんて使われますが客観的と主観的の意味をだれかわかりやすくおしえていただけないでしょうか??
電子辞書などでひいてもいまいち理解できません。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。ただ、どちらにとっても「事実」と思っているのです。立場によって「事実」は異なります。

「自分はエビちゃんに似ていると思う」(主観的事実)
「でも人からはよくシノラーに似ていると言われる」(客観的事実)
どちらも真実ではありません。BFはエビちゃんに似ていると思っているかも。

つまり、客観は「だれの目にみても」と多数派の意見・事実なので、客観的意見・事実は論理を唱える上では有利で優勢なのです。一方主観は自由に使うこのできる便利なしろものです。主観的意見・事実とは、要は自分勝手な思い込みですが、それは真実でないとは決して言い切れないのです。

以上ご参考までに。

はじめまして。

主観的=自分だけでそう思う態度(主観≠事実)
客観的=だれが見ても、もっともだと思われるような立場で、ものごとを考えるさま(客観≠事実)

「わたしはAが正しいと思う」(主観的意見)
「でもみんなはBが正しいと言っている」(客観的意見)
どちらも真実ではありません。ただ、お互いの立場でAまたはBが「正しい」という2つの意見に別れるのです。要は「立場」なのです。

「そこに幽霊が見える」(主観的事実)
「そこに幽霊なんて誰にも見えない」(客観的事実)
どちらも真...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Q般若心経の意味が、よく理解できません

こんにちは。よろしくお願いいたします。
般若心経を一日3回ほど唱えております。簡単な意味は理解し唱えておりますが、、よく理解できていません。ネットで調べるのですが、、、。
「色は空であり、空は色であり」、、、実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません。などと、、、。

全体的にはイメージは出来来ているのですが、、、。この世のすべてのものは何もない空であるという意味なのでしょうか?苦しみをなくす修行法もありません。。。というのは、「考えて悩むこともない」といういみでしょうか?

最初は、仕事や人生で悩んだときに唱え始めて、2年ほどなります。
もっと理解したいので、よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いても決して悟ることは不可能ではないかと思います。
傲慢になっていますね。あくまで私が感じた空というものです。

空の説明に入る前に、余計と思われることを書かせてください。

仏教とは、成仏、つまり、仏様に成るということです。
法華経を初め、諸経では、釈尊が、普通の人からすぐに仏に成ったという訳ではなく、数多くの修行やその生まれた人物や人生において修行をし、数々の悟りや、上級の教えや修行に巡り成仏されたとされています。

成仏するということは、私が解釈する限りと実感を通す限りでは、内在する仏性を開花、強めるということだと感じています。

知識や技術等を身につけ、成仏に至るのではなく、自分に秘められた仏性を開き成仏する。
しかし、その開きも徐々にしか開かないものとだと感じています。

ここから、空についての説明です。
人は、感覚を持っています。その感覚には、3つがあると私は感じています。
1つが攻、2つ目が恐怖、3つ目が、禅定なる幸です。

人は、傷つけら時、怒ったり、、憎むことがあります。これが、攻撃なる感覚です。
また、傷つけたれた時に、絶望や、深い悲しみ、苦しみ、恐怖となることがあります。これが恐怖です。

この攻と恐怖では、決しては、救われることはないと私は感じます。
攻の行動をすれば、誰かが傷つき、攻か恐怖を感じます。
恐怖では、自分がどんどん生気を失い、苦しみ喘ぎます。

この攻と恐怖というのは、要は、傷つけたれたこと(感じたこと)に対する反応です。
この感じたことに反応するということは、簡単に変えることは無理かと思います。ただ、それに基づいて行動はしないという「制御・我慢」という行動はできると思いますが。

この傷つけらたこと、上記で()で感じたこと、いろいろな感覚器官を通して感じて、攻・恐怖は発する訳です。


冷静に考えると、感じて、自分の感性が通し、攻・恐怖、哀れみ、哀しみ、救いの念が生じるものです。

空の第一として、攻・恐怖といういった決して救われることの無い感覚を消滅させ、哀れみ、哀しみ、救いといった仏の感性を生じることです。

ここで言う、空とは中道です。つまり、攻でも、恐怖でもない。冷静であり落ち着きがあること「禅定」です。クールとかそういったものではありません。感情はあっても、激情ではない感覚といいましょうか。
感じたことが無い人には理解認識し難いものかと思います。

そうやって物事を禅定になり、見ていくと、なんとなく、色と空というのが分けられてきます。
色とは、目に見えることです。私は、色よりも、「仮(け)」と言う方がしっくりします。
色、つまり、目に見えるものは、因縁によって生じます。
仏性を開いていけば、仏性が徐々が現れるように、
愚行をすれば、どんどん心が荒れ果てていくように
行動(因縁)によって、色が生じきます。

とは、言え、人間が条件に応じて結果生じることを、絶対的な法則として捉えるには限界があります。すべてが法則として存在し、その法則を把握し、その法則に基づいて何でもこうなると言える人はいないでしょう。

なんで、日本に生まれ、貧しい国に生まれる人が存在するのか、それは「運」というしか答えを出せないのが人間です。「運」と答えを出す以外にできないのが人間で、それが上記に書いたすべてのことにおいて法則に基づいてこうなると言えないと書いたことの説明です。

物事を禅定を持って追求し、攻・恐怖、快・不快というものに囚われず、終わることの感情・感覚を逸脱し、捨て、生きる活気に生ずる捉え方をしていくと、この肉体さえも、色であると感じてきます。たぶん、私は、死んでも、空としての存在は残り続けると。

>実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません

と言われるのは、かなりの功徳があり、禅定を持って悟る境地対して言われたことと存じます。
高い功徳を持った人は、仏教の話を聞いて、実感悟り得ることができると思います。私は、対して功徳を持っていなかったので、苦労を重ね、実感悟り得たことが多々あります。

このことについて日蓮正宗の宗派の解釈によりますと、釈尊時代は、正法と言い、今の時代は末法といいます。何が違えば言えば、仏教を聞く者の功徳の高さ・低さです。正法は、功徳が高く、末法は、功徳が低いとされています。功徳が高い=仏様に近いということを意味します。また、機根も同様にして、機根が低い=仏様に遠いということを意味します。

正法の者たちは、その前世及び過去世において功徳を得た者です。ですのえ、仏教にめぐり合えばこそ、その教えが知識ではなく、実感や道理として存在するという実感の元に悟り得ることができるものと思われす。

末法の者は、修行をせずに、功徳が低いく、禅定なる心がなく、攻・恐怖、快・不快、自尊心、卑下、得が好であって、嫌が排除となる感覚が強く、禅定なる心を持って、静かに考え、道理上に実感することは不可能とされています。

さらに、正法の時代に生まれ、(華厳)阿含、方等、般若というように、衆生の功徳に応じて得を積むように説かれています。
般若の教えを悟り得る衆生に対しては、
「実体のあるものは本当はないのであり、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす修行法もありません」のが解ったのだと思います。

以後、蛇足です。
私の読んだ宗派の教書では、
小乗の空を、肉体は色、魂は空というもの。これによって輪廻を解脱できるとされるという考え
大乗の空、般若の空は、物事の攻・恐怖ということの拘り、執着を捨て、禅定を持って、落ち着きを持って、真実・実相を悟るというもの
法華経の空?というか、法華経では、三諦円融(さんたいえんゆう)と考えがあります。「一念三千」、「十界互具」という考えとかなり関係があります。

簡単に言うと、一人の人間(あるいは存在)の中に、仏性、菩薩、縁覚、声聞、天、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄という10の世界があるとあれています。世界という言い方が適切とは思いませんが、界では、伝わりにくいと思うのでそういった表現にしました。

上記に書いたように、仏性を開く修行をしていけば、仏様に近づき、餓鬼、畜生、地獄に落ちるようなことをしていけば、そうのようになるということです。

法華経では、提婆達多という者が出ており、過去において、釈尊(お釈迦様)に法華経を教えた者とされています。それが、釈尊が成仏して、長い時を得て、「事実であれば」今から3000年前に釈尊が仏教を説いた時でも、まだ、成仏しておらず、釈尊の邪魔をしたとされる者です。

話が逸れました。
空を悟り、因縁・徳と業によって色(仮)という目に見える世界、感じる世界が生じる。これは大乗の空と同じです。
法華経では、空も色(仮)としています。
法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)とは、空、仮、中という3つ別れ、
中を成仏、
空は成仏によって悟り得る故に色(仮)として感じる者、
仮とは、空であり、中です。
つまり、
成仏することに、
空を感じ、
空を感じることは仮であり、
仮というのは、成仏の境地
それが、法華経の三諦円融(さんたいえんゆう)という私なりの解釈です。ここは実感してないところなので、解釈に過ぎません。

最後にもう2つ
人生は、悩み考えるものだと思います。悩み考え、それの本当の苦悩から救われる悟りを得た時に、1つ、人間性(仏性)が高まると感じます。
いくら、修行をしても、悩み考え、苦の因を見つけ、それを解消、救われたいと思わない人に、智慧というものは得られないものだと感じます。

仏性を開花、仏様に近づくことよって、
物事の実相、真理を悟り得る智慧
物事を正しく捉え、考える精神的落ち着きの禅定
物事の苦・救の繋がることを踏まえ、苦に繋がることをしない戒
が身につくとされています。

そして、最後の1つ。
私の宗派の教え上に書いているので、もしかしたら、私の宗派や法華経に興味を持たれるかもしれません。
私は、質問者さんの人生に肩代わりは決してできません。あくまで参考意見として述べただけであって、その正誤、幸・不幸、価値、無価値は質問さんが判断することです。誰かを信じることは裏切られる、騙される可能性があるからこそ、「信じる」という言葉を使うものだと私は思います。
自分の人生の責任を持って人の参考にしてください。
私は仏様ではなく、質問者さんを救える人間かも解りませんから。


長い回答で、誤字、脱字もあるかもしれませんが、
質問者の人生やそれ以上の広域において、何か参考や、ためになれば幸いです。
もし、最後までお読み頂いたのなら、ありがとうございます

私は、仏教、日蓮宗系の宗派、日蓮正宗の者です。
経は、法華経、日蓮大聖人様の書文、帰依を三大秘法の久遠元初の仏。
根を三大秘法とし、それなくして、僧侶(お坊)も経も書文も無意味とされる宗派です。

私なりの「回答させて」いただきますが、絶対に正しいということ自信は持てません。

私が少ない期間ですが、修行して感じた「空」というのは、かなり深いものと感じます。感じることは、容易ではなく、体験を通し、感じるものだと思います。だから、感じることなくして、「空」という説明を聞いて...続きを読む


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