大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?



回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。

機を見て表に出て戦うのはリスクもありますが、そういう見方もできますね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

古来、攻城戦で最終的に籠城側が勝つ条件は、2つだけです。


1)外から援軍が来て、挟み撃ちにする。
2)攻城側に、戦を続けれない理由が発生し、自主的に退去する。
なぜなら、城方の補給(兵糧、矢玉、戦闘員)が続かなくなるからです。

籠城側が勝ったことで最も有名なのは、第2次上田戦争での真田方ですが、徳川方がもっと日時を掛けることができたらな、敵わなかったことでしょう。

大阪冬の陣も、淀君が大砲に怯えたというキッカケはありますが、その背景には、鉄砲の玉の準備不足で、戦いを継続出来なくなったという事情が有ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鉄砲の弾の準備不足って、ものすごい初歩的なミスですねw

お礼日時:2014/06/30 17:37

私はほぼ絶望的だと思います。


たとえ家康を討ったとしても豊臣方に勝ち目はほとんど無かったでしょう。
関ヶ原の頃ならいざ知らず当時、既に家康は家督を秀忠に譲って10年以上経っています。
実際に大坂の陣の時の総大将は秀忠です。
もちろんこの時点でも家康はただの「隠居した老人」ではなく、大きな影響力がありますので、その家康が討たれれば一時的に徳川方が混乱し、体勢を立て直すために一時撤収する事はあるかもしれませんが、総大将の秀忠が無事である以上、総崩れになる見込みは薄いでしょう。
つまり家康を討っても一時の勝利でしかなく、結局は体勢を立て直した徳川方に敗れる可能性が極めて高いです。

あと大坂方の敗因に淀殿が挙げられる事は多いですが、これも疑問があります。
別に淀殿が賢明だとか、正しかったとか言いたいわけでは無く、大坂方の戦闘を左右する程の影響力を行使したとされる通説はあくまでも豊臣家が滅んだ後のものであり、人物像が歪められた可能性が考えられるからです。
他の人も書かれているように、援軍のあてもなく籠城して狭い場所に押し込められると必然的に士気は低下します。
長期戦になれば兵糧も不足するでしょうし、内部からの裏切り者も出てくる可能性も高いです。
つまり冬の陣において大坂方が和睦したのは、やむを得ない判断であり、淀殿がどのような態度をとったかはあまり関係がないと思われます。
幕府が積極的に淀殿の人物像を歪曲したのか、それとも講談などで真田幸村や後藤又兵衛らを持ち上げる際の都合のよい悪役とされた結果なのかは分かりませんが、個人的に大坂方の敗因とするのは淀殿に対する過大評価だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

しかし、家康を討たれて、そのまま徳川方は戦いを続けたのだろうか。
もし続けたのであれば厳しい戦いになったでしょうが、その時は撤退した可能性も十分あると思います。(別の機会に、秀忠、もしくは家光以降の将軍に滅ぼされた可能性は残りますが)

また、和睦に応じた点についてですが、個人的にはギリギリまで粘ったほしかったですね。長期化すれば豊臣恩顧の大名や反徳川の大名が寝返った可能性もゼロではないんじゃないかと・・
まあ、難しいでしょうけどね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

追加で。



ご質問の回答を見つけました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … (大坂冬の陣、豊臣方の兵糧・兵站はどのくらいまで持つ見込みだったのでしょうか?)

いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、良い情報をありがとうございました。

お礼日時:2014/06/27 13:07

全権を真田幸村に預ければ勝てた可能性は十分にあったと思います。



瞬時に大阪城の弱点を見抜いて真田丸を築いたり、
数千の寄せ集め浪人集団で15万の家康軍に突撃して本陣を蹴散らすほどですから
彼が総大将であったとしたら家康はかなりの苦戦を強いられて、あるいは敗北した可能性も
あったと思います。

ただ、総大将待遇で受け入れられるとも思っていなかったでしょうし、
真田幸村にそもそも家康の命を取る気があったのか、
勝利することを目的として大阪城に入ったのかは分かりませんが。

総指揮官が淀殿だったのが敗因の一つだとは思います。
ただ、そもそも淀殿が真田幸村に召集をかけなければ彼の活躍の場もなかったわけですが。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豊臣方、徳川方の兵糧事情はご存知ですか?
そこさえクリアできていれば、豊臣方が勝っていたかもしれませんね。

大野治長あたりなら、豊臣政権内部の力関係においても総大将が務まったかもしれませんね。

真田幸村は結果的に大活躍したけど、大阪の陣が始まった時点では、なんの実績もない、
みすぼらしい中年男性ですからね。。
(関ヶ原での活躍は、対外的には父親の活躍ということになったみたいですね)
でも、能力的には彼がふさわしかったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/04/22 22:03

籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。


大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。
もし徳川方の要求を受け入れて秀頼が大坂城を退去すればあるいは「一大名」として生き残れた可能性はなくはないかもしれませんが・・・・それでも「脅威」には違いないので何らかの理由で取り潰しをされたでしょう。
関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。
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この回答へのお礼

>籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。

徳川方は誰一人として一番外側の堀の石垣に触れることさえできなかった、とのことなので、
豊臣方の指揮官が通常の人であれば、そのまま徳川方はあきらめて撤退したのではないでしょうか?

>大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。

冬の陣で負けなければ、今後の展開が変わったんじゃないでしょうか。
とりあえず言いくるめて講和、といっても、劣勢の状態で講和するのと、戦いになんとなく
勝った状態で講和するのでは、全然違います。
逆に徳川に条件をつけることもできたんじゃないでしょうか。

>関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。

ここで違うんじゃないかということにもつながる質問です。
冬の陣で負けない可能性が十分にあったんじゃないでしょうか?

お礼日時:2014/04/22 21:43

それは聞いたことがあります。



NHKでやってました。

大阪城は掘りに西洋式のいいところも取り入れた難攻不落の城だったそうです。

囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。

大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。


ただ諜報活動や大砲の心理戦は効いたようです。

いずれにしても豊臣方のリーダーが頼りなかったんでしょうね。
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この回答へのお礼

>囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。
大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。

20万の兵だから、徳川方だって兵糧の確保は大変でしょうね。

豊臣方の兵糧面はどうだったんだろう・・?

お礼日時:2014/04/22 21:38

豊臣が滅亡したのは大坂夏の陣。

冬の陣で、大砲の一悶着があり、和議することとなった。この時の条件は豊臣方に有利なものだったが、外堀だけは埋めさせてくれ、というのが家康の出した条件だった。いざ工事が始まると、全ての堀が埋められ、大阪城は丸裸となる…
冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。
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この回答へのお礼

>冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。

大砲で淀の方がびびった点以外は、豊臣方が優勢だったんじゃないでしょうか。
どうなんだろう。。

冬の陣で負けてなければ、今後、再び鋼鉄の守りの大阪城が責められることになったとしても、
豊臣恩顧の大名や、徳川を恨んでいる大名が味方してくれたかもしれないのに。。

お礼日時:2014/04/22 21:36

>この考え方について、どうでしょうか?



せめてそのあたりの話を小説でいいから
読みましょうよ。

そうすれば負けるべくして負けた。
ことくらいすぐにわかるから。

一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

せめて真田幸村あたりの言にもう少し
耳を傾けていたら。
というのが歴史のIFですね。
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この回答へのお礼

>一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

そういう状態によろところもあるでしょうね。
指揮官がダメすぎたと思います。

しかし、そういう状態であったとしても、大砲の脅しに屈せず、深夜まで大砲の爆音が
鳴り続けていたとしてもその恐怖に耐えぬいてさえいれば、勝ったのではないでしょうか、
という質問です。

大坂方の兵糧は大丈夫だったんでしょうか。
10万の兵を雇った経済力、そして、大阪の街、全体を囲む大阪城であれば、兵糧面でも
耐え抜くことができたんでしょうか。

お礼日時:2014/04/22 21:32

篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。



いくら兵力があろうと、指揮官が馬鹿なら負けてしまうという事なんじゃないですか。
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この回答へのお礼

>篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。

やはり、そういう見方なんですね。
大阪冬の陣においては、豊臣方にも十分、勝機があったということですよね。

徳川>>>>>>>>>豊臣という力関係の元、当然の結果として大阪の陣で豊臣方は敗れた、
みたいな見方が世間一般に蔓延しているような気がしたので質問しました。

お礼日時:2014/04/22 21:26

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紛れ脱出をはかるが、これを怪しんだ後藤又兵衛に棺を槍で突かれそれが致命傷で死んだらしい
そして小笠原秀政が影武者となった

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Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
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ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
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最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
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愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
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Q本気で強くなりたいのですが、僕は少林寺拳法で強くなりたいと思っています。 そうなのですが 乱取りが無

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Aベストアンサー

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でもあんまり根気よくやらない方がいいですよ。疲労で腕が怪我をしてしまいますからね(>_<)
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筋トレは・・・
極端な話し毎日やってしまうと、筋肉がつきません。逆に疲労がたまって良くないです。
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Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q乱取りで技が決まらない

打ち込みや捨てではできる技が乱取りではまったく決まりません
たとえは背負い投げは体を回す前にとめられてしまいます
どこに気をつけたらいいのでしょうか

Aベストアンサー

相手の体勢を崩すことが重要ですよ。揺さ振るなり回るなりしましょう。
相手が技をかけ様とする時も、狙い目ですよ。
基本ですが、連携も使いましょう単発ではまず成功しませんよ。
大内から背負い、膝車から払い腰、小内から体落としなど。
投げ技をするときは体を低く入れること注意しましょう。

Q【歴史・日本史】大阪城を豊臣秀吉が建立を命じた時に城を建てる前にその土地の神様、仏様を祀る神社仏閣を

【歴史・日本史】大阪城を豊臣秀吉が建立を命じた時に城を建てる前にその土地の神様、仏様を祀る神社仏閣を城を建てる前に建てたと思いますがその神社仏閣は現在も残っていますか?

それはどこの神社仏閣ですか?

Aベストアンサー

神社は、生國魂神社です。(大阪府大阪市天王寺区生玉町)
仏閣は、石山本願寺ですが、こちらは再建されていません。
石山本願寺攻めの時に同時に焼失した四天王寺が豊臣秀吉によって再建されています。(四天王寺は大阪府大阪市天王寺区四天王寺)

Q元立ち乱取りを乗り越えるためのサプリ

こんばんわ、私は大学で合気道をやっています。
私の部活では元立ち乱取りがあります、合気道ですが柔道の元立ちと同じと考えてくれて構いません。

そこで質問があるのですが、元立ち乱取りを乗り越えるために
スタミナを向上させるサプリかなにかがありましたら教えていただきたいです。
勿論、武道としてスポーツとして、体力を増やして精神を養うという要素の多い元立ちですが
初めての元立ちを今度やるので、心配で仕方がありません。。

参考までに、今まで先輩方は、
・前日の夕飯ににんにくを多く摂取する
・食べる酸素というサプリ?を使う
・VAAMを元立ち前に飲む
等を実践してきたようです。

これを飲むと、なんとかやっていける!というものがありましたらご紹介お願いします。
VAAMは何分前に飲むと効果的だ!などのご指摘でもありがたいです。
その他に、サプリでなくとも、前日~当日まではこうゆう食事形態にしたほうがいいなどの
アドバイスがございましたらお願いします。

(長文・乱文失礼いたします)

Aベストアンサー

連続組み手みたいなものかな・・・・・?

アミノ酸なら20分前程度で吸収されます。

手に入るなら(日本でも普通のサプリで有ると思いますが)、クレアチンは瞬発力は自覚できるほどにUPします。

飲み方の注意も有るので、買うときに聞いてください。

行なう日までは徐々に練習量を減らして、体力を温存しておくとか、今はあまり流行らないけど、カーボローディングは私の場合は効果が有ります。

これはビタミンやミネラルをサプリで日常かなり多めに摂取しているカラですので、これらも大めになるべく長く飲み続けると良いでしょう。
これを行なうと、クレアチンも効果が出やすいです。

ニンニクはビタミンが多いけど、組み手だと臭がられるんですよね(其の面でも効果が有るのですが・・・)。

クエン酸も良いですし、すべて組み合わせですが、
上記の基礎サプリとしてのビタミン・ミネラルは必ず摂取してから、他のを使用するほうが効果が実感できます。

乱文謝。m(__)m

Q大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。

これに対し、
徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍
徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍
の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわけですが、その過程で

* 徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼の官位を剥奪させた。

* 同じく徳川方が朝廷に工作し、豊臣秀頼を追討することを正当化する文書を出させた。

などということが行われたとは聞いたことがありません。

「正二位の高位の公卿を討つ」という尋常ならざる事態ですから、
「予め、秀頼の官位を剥奪して無位無官の地下人に落としてから天下の兵で攻撃する」
といった手続きが要るように思うのですが、そのような手続きは踏まれなかったのでしょうか?

豊臣秀頼は、大坂冬の陣の前の時点で正二位・前の右大臣という高い官位を有していました。秀頼の父である秀吉、その養子である秀次は、いずれも関白任官の直前には「正二位内大臣」の官職にありましたので、秀頼の「正二位・前の右大臣」という官位官職は「関白任官待ちの状態」と言えます。

これに対し、
徳川秀忠 従一位 右大臣 征夷大将軍
徳川家康 従一位 前の右大臣 前の征夷大将軍
の両名が「鐘銘事件」をきっかけに「因縁をつけて」、豊臣秀頼と断交し、諸大名を動員して大坂城を攻囲するに至ったわ...続きを読む

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>大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

出先なので公卿補任で確認をしていませんが、豊臣秀頼の官位は剥奪されていないと思います。秀頼が公家であるのか武家であるのかの問題もありますが、武家と考えられていますし、二条城で家康に会うことにより臣従の形式をとっていますから、武家の棟梁である征夷大将軍の統制下にあると考えられたために、朝廷は介入しなかったと思います。室町時代には官職が将軍よりも高位の公卿であっても、地頭であった公家は将軍にコジュウしていますし、従軍する事もあり、将軍の統制下に入っていますし、奉公の仕方が悪いと追放になった御家人としての公家もいますから、高位の者といえども将軍の統制下にあったことは間違いありません。
高位の武家では織田信長も、大内義隆も、足利義輝も非業に倒れていますが、当然解官してから倒したわけではありません。戦国時代を通じて、多くの高位の武家、そして公家も討たれています。大内義隆が討たれた時には、巻き添えで従1位前左大臣の三条公頼が討たれていますし、従3位権中納言北畠具教も信長に殺されています。ですから、正2位の者が討たれたといってもそう珍しいことでもなかったのです。

以上、参考まで。

>大坂の陣の前に豊臣秀頼の官位は剥奪された?

出先なので公卿補任で確認をしていませんが、豊臣秀頼の官位は剥奪されていないと思います。秀頼が公家であるのか武家であるのかの問題もありますが、武家と考えられていますし、二条城で家康に会うことにより臣従の形式をとっていますから、武家の棟梁である征夷大将軍の統制下にあると考えられたために、朝廷は介入しなかったと思います。室町時代には官職が将軍よりも高位の公卿であっても、地頭であった公家は将軍にコジュウしていますし、従軍する事もあり...続きを読む


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