大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?



回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。

機を見て表に出て戦うのはリスクもありますが、そういう見方もできますね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

古来、攻城戦で最終的に籠城側が勝つ条件は、2つだけです。


1)外から援軍が来て、挟み撃ちにする。
2)攻城側に、戦を続けれない理由が発生し、自主的に退去する。
なぜなら、城方の補給(兵糧、矢玉、戦闘員)が続かなくなるからです。

籠城側が勝ったことで最も有名なのは、第2次上田戦争での真田方ですが、徳川方がもっと日時を掛けることができたらな、敵わなかったことでしょう。

大阪冬の陣も、淀君が大砲に怯えたというキッカケはありますが、その背景には、鉄砲の玉の準備不足で、戦いを継続出来なくなったという事情が有ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鉄砲の弾の準備不足って、ものすごい初歩的なミスですねw

お礼日時:2014/06/30 17:37

私はほぼ絶望的だと思います。


たとえ家康を討ったとしても豊臣方に勝ち目はほとんど無かったでしょう。
関ヶ原の頃ならいざ知らず当時、既に家康は家督を秀忠に譲って10年以上経っています。
実際に大坂の陣の時の総大将は秀忠です。
もちろんこの時点でも家康はただの「隠居した老人」ではなく、大きな影響力がありますので、その家康が討たれれば一時的に徳川方が混乱し、体勢を立て直すために一時撤収する事はあるかもしれませんが、総大将の秀忠が無事である以上、総崩れになる見込みは薄いでしょう。
つまり家康を討っても一時の勝利でしかなく、結局は体勢を立て直した徳川方に敗れる可能性が極めて高いです。

あと大坂方の敗因に淀殿が挙げられる事は多いですが、これも疑問があります。
別に淀殿が賢明だとか、正しかったとか言いたいわけでは無く、大坂方の戦闘を左右する程の影響力を行使したとされる通説はあくまでも豊臣家が滅んだ後のものであり、人物像が歪められた可能性が考えられるからです。
他の人も書かれているように、援軍のあてもなく籠城して狭い場所に押し込められると必然的に士気は低下します。
長期戦になれば兵糧も不足するでしょうし、内部からの裏切り者も出てくる可能性も高いです。
つまり冬の陣において大坂方が和睦したのは、やむを得ない判断であり、淀殿がどのような態度をとったかはあまり関係がないと思われます。
幕府が積極的に淀殿の人物像を歪曲したのか、それとも講談などで真田幸村や後藤又兵衛らを持ち上げる際の都合のよい悪役とされた結果なのかは分かりませんが、個人的に大坂方の敗因とするのは淀殿に対する過大評価だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

しかし、家康を討たれて、そのまま徳川方は戦いを続けたのだろうか。
もし続けたのであれば厳しい戦いになったでしょうが、その時は撤退した可能性も十分あると思います。(別の機会に、秀忠、もしくは家光以降の将軍に滅ぼされた可能性は残りますが)

また、和睦に応じた点についてですが、個人的にはギリギリまで粘ったほしかったですね。長期化すれば豊臣恩顧の大名や反徳川の大名が寝返った可能性もゼロではないんじゃないかと・・
まあ、難しいでしょうけどね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

追加で。



ご質問の回答を見つけました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … (大坂冬の陣、豊臣方の兵糧・兵站はどのくらいまで持つ見込みだったのでしょうか?)

いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、良い情報をありがとうございました。

お礼日時:2014/06/27 13:07

全権を真田幸村に預ければ勝てた可能性は十分にあったと思います。



瞬時に大阪城の弱点を見抜いて真田丸を築いたり、
数千の寄せ集め浪人集団で15万の家康軍に突撃して本陣を蹴散らすほどですから
彼が総大将であったとしたら家康はかなりの苦戦を強いられて、あるいは敗北した可能性も
あったと思います。

ただ、総大将待遇で受け入れられるとも思っていなかったでしょうし、
真田幸村にそもそも家康の命を取る気があったのか、
勝利することを目的として大阪城に入ったのかは分かりませんが。

総指揮官が淀殿だったのが敗因の一つだとは思います。
ただ、そもそも淀殿が真田幸村に召集をかけなければ彼の活躍の場もなかったわけですが。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豊臣方、徳川方の兵糧事情はご存知ですか?
そこさえクリアできていれば、豊臣方が勝っていたかもしれませんね。

大野治長あたりなら、豊臣政権内部の力関係においても総大将が務まったかもしれませんね。

真田幸村は結果的に大活躍したけど、大阪の陣が始まった時点では、なんの実績もない、
みすぼらしい中年男性ですからね。。
(関ヶ原での活躍は、対外的には父親の活躍ということになったみたいですね)
でも、能力的には彼がふさわしかったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/04/22 22:03

籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。


大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。
もし徳川方の要求を受け入れて秀頼が大坂城を退去すればあるいは「一大名」として生き残れた可能性はなくはないかもしれませんが・・・・それでも「脅威」には違いないので何らかの理由で取り潰しをされたでしょう。
関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。
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この回答へのお礼

>籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。

徳川方は誰一人として一番外側の堀の石垣に触れることさえできなかった、とのことなので、
豊臣方の指揮官が通常の人であれば、そのまま徳川方はあきらめて撤退したのではないでしょうか?

>大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。

冬の陣で負けなければ、今後の展開が変わったんじゃないでしょうか。
とりあえず言いくるめて講和、といっても、劣勢の状態で講和するのと、戦いになんとなく
勝った状態で講和するのでは、全然違います。
逆に徳川に条件をつけることもできたんじゃないでしょうか。

>関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。

ここで違うんじゃないかということにもつながる質問です。
冬の陣で負けない可能性が十分にあったんじゃないでしょうか?

お礼日時:2014/04/22 21:43

それは聞いたことがあります。



NHKでやってました。

大阪城は掘りに西洋式のいいところも取り入れた難攻不落の城だったそうです。

囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。

大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。


ただ諜報活動や大砲の心理戦は効いたようです。

いずれにしても豊臣方のリーダーが頼りなかったんでしょうね。
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この回答へのお礼

>囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。
大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。

20万の兵だから、徳川方だって兵糧の確保は大変でしょうね。

豊臣方の兵糧面はどうだったんだろう・・?

お礼日時:2014/04/22 21:38

豊臣が滅亡したのは大坂夏の陣。

冬の陣で、大砲の一悶着があり、和議することとなった。この時の条件は豊臣方に有利なものだったが、外堀だけは埋めさせてくれ、というのが家康の出した条件だった。いざ工事が始まると、全ての堀が埋められ、大阪城は丸裸となる…
冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。
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この回答へのお礼

>冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。

大砲で淀の方がびびった点以外は、豊臣方が優勢だったんじゃないでしょうか。
どうなんだろう。。

冬の陣で負けてなければ、今後、再び鋼鉄の守りの大阪城が責められることになったとしても、
豊臣恩顧の大名や、徳川を恨んでいる大名が味方してくれたかもしれないのに。。

お礼日時:2014/04/22 21:36

>この考え方について、どうでしょうか?



せめてそのあたりの話を小説でいいから
読みましょうよ。

そうすれば負けるべくして負けた。
ことくらいすぐにわかるから。

一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

せめて真田幸村あたりの言にもう少し
耳を傾けていたら。
というのが歴史のIFですね。
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この回答へのお礼

>一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

そういう状態によろところもあるでしょうね。
指揮官がダメすぎたと思います。

しかし、そういう状態であったとしても、大砲の脅しに屈せず、深夜まで大砲の爆音が
鳴り続けていたとしてもその恐怖に耐えぬいてさえいれば、勝ったのではないでしょうか、
という質問です。

大坂方の兵糧は大丈夫だったんでしょうか。
10万の兵を雇った経済力、そして、大阪の街、全体を囲む大阪城であれば、兵糧面でも
耐え抜くことができたんでしょうか。

お礼日時:2014/04/22 21:32

篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。



いくら兵力があろうと、指揮官が馬鹿なら負けてしまうという事なんじゃないですか。
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この回答へのお礼

>篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。

やはり、そういう見方なんですね。
大阪冬の陣においては、豊臣方にも十分、勝機があったということですよね。

徳川>>>>>>>>>豊臣という力関係の元、当然の結果として大阪の陣で豊臣方は敗れた、
みたいな見方が世間一般に蔓延しているような気がしたので質問しました。

お礼日時:2014/04/22 21:26

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Q徳川家康 大阪夏の陣で死す

結構有名な話ですよね?
大阪夏の陣の最終盤に真田幸村が三千の兵を三隊に分けて松平忠直軍一万三千に
突撃をかけ、家康の本陣を突き崩す
真田隊の鉄砲(幸村が仕掛けた地雷を踏んだとも…)で深手を負った家康は葬儀の棺に
紛れ脱出をはかるが、これを怪しんだ後藤又兵衛に棺を槍で突かれそれが致命傷で死んだらしい
そして小笠原秀政が影武者となった

しかし後藤又兵衛の件はやや難有り
又兵衛はその前に伊達の鉄砲で死んだという説が有力だからだ

Aベストアンサー

それ以前に本能寺の変の際に死んだ説もありますね。
徳川家康が乗っていた御輿に銃弾の穴と血痕が残っています。
(その御輿は現存しています)
また『影武者徳川家康』という小説では関ヶ原の戦いで
死亡したとありますね。
まあこれは小説なので着色がありますからね。
しかし徳川家康が神社に訪れた時だったでしょうか?
名前と生年月日を奉納した時に、2歳若く記された書面があります。
(この書面も現存しています)
どこかの時点で徳川家康は死亡し、影武者が徳川家康に
なり代わった可能性は十分あると思います。

Q歴史のIF 大阪の冬・夏の陣

大阪の冬・夏の陣の際、実際には大阪城には現役の大名が一人も入城せずに、浪人集だけがそれぞれの思惑により入城し豊臣方として戦いましたが、徳川方に敗れ豊臣家は滅亡しました。そこで、もし豊臣恩顧の大名がかけつけて大阪城内で政治や軍事の主導権を握ったならば、結果はどうなったでしょうか。                                                     <例>                               秀吉の正妻のおね(高台院)                   前田利長(元五大老・加越能120万石の兵力36000名とともに)    福島正則(恩顧筆頭・芸備50万石の兵力15000名とともに)     蜂須賀家政(阿波17万石の兵力5000名とともに)          宇喜多秀家(八丈島脱出・元五大老・秀吉猶子)          高山右近(キリシタン大名やキリシタンたちに影響力絶大)                                    例えば、この6人が大阪城に入城して一致団結して徳川家康と戦ったら、歴史はどうなったと思いますか?皆さんの意見を聞かせて下さい。                     

大阪の冬・夏の陣の際、実際には大阪城には現役の大名が一人も入城せずに、浪人集だけがそれぞれの思惑により入城し豊臣方として戦いましたが、徳川方に敗れ豊臣家は滅亡しました。そこで、もし豊臣恩顧の大名がかけつけて大阪城内で政治や軍事の主導権を握ったならば、結果はどうなったでしょうか。                                                     <例>                               秀吉の正妻のおね(高台院)...続きを読む

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例なら少しは持ちこたえ
やはり大阪方に 伊達と上杉 奥州同盟ぐらい作る頭がないと
戦略的挟撃体制の構築ができればもうすこしもちこたえ
ねね 前田は 腰くだけ 宇喜多 その他は家康包囲ができればいりません 淀殿が真田(並の大名ならいらない)に一任させる度胸と度量の問題だけなんでしょう 真田丸をみれば わかるじゃないですか
恩顧といってもみんな裏切り 正面から秀頼の顔をさえ見ないようにすれば消えてなくなるものとかんがえていた訳で それ自体はそんな時代なんだから とりとめていけないわけじないし ある意味安定した大名なんて逆に信用できないものなのにね 大阪方に必要なのは一任意思と絶対統一のオペレーション 兵力の絶対数ばかりじゃないですから
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その一方、同日、他地域(泉南)での豊臣方の部隊が敗北し、その報を受けた大坂城から、道明寺に出陣した諸部隊の、大坂城への撤退の命令が出ました。

この命令に従って、豊臣全軍を撤収させねばならない時、真田幸村の部隊が殿軍(しんがり)を請け負いました。殿軍を請け負った真田隊は、追撃してくる徳川方の伊達勢を痛撃しつつ、豊臣全軍の撤収を成功させました。

この時に、追いすがる伊達勢に対し、真田幸村が放った言葉、

「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」

これが真田幸村の名言と言えば言えるでしょう。

「徳川は大軍のくせに、その中に、勇将・名将が全くいない」、こんな意味ですね。

Q江戸開府から大坂陣までの豊臣家

関が原の三年後、徳川家康は江戸幕府を創設し、豊臣家から完全に政権を奪う事になり、大坂陣まで両者の間には不穏な空気が流れるのですが、そんな中大坂城の豊臣秀頼を訪ねた大名は誰がいたのでしょうか?

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両加藤や福島ら豊臣系大名は幕府にとって目障りだったのか、取り潰されたり、大幅に減封されますが、同時に田中,堀尾,中村,小早川ら豊臣家に縁の深い大名も無嗣廃絶となっており、これも単なる偶然とは思えないのですが、実際はどうだったのでしょうか?

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ただ、「是れ家康公の前を憚るか」(当代記)と書かれたほど、こっそりと見舞ったようです。病気見舞いですら内密にしなければならぬ状況なので、記録に残らない訪問があった可能性は考えられます。

Q大坂の陣について。何を変えたかった?得をした人

大坂の陣について。
・彼らは何を変えたかったんでしょう
・戦によって得をしたのは誰?
・戦を避けることは出来なかったのですか?

解答お願いします。

大坂の陣といっても、冬の陣、夏の陣とあり、
違った方向からみれば、思想や出来事の見え方も変わるのでしょうが…
その辺りの事も含め、総合的に教えてください。

私は今高校生なので、わかりやすい説明をお願いします。
また、必ずしも資料に基づいた正確な説明である必要はありません。

Aベストアンサー

もう一度豊臣の世を取り戻したかったんです
じゃなきゃ真田幸村は豊臣には付きません

得をしたのは小笠原家です
大阪夏の陣で実は戦死した徳川家康の影武者を小笠原秀政が勤めたおかげで小笠原家は加増されています

戦を避けることはできたはずです
徳川は 豊臣が大阪城を退去するか 淀を人質にすれば秀頼の命は保障すると言っていました
しかし淀が拒否ったので無理でした

素直に従ってりゃよかったのに

Qなぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

なぜ豊臣秀吉は姫路城を捨てて大阪城を作ったんですか?

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Q大阪夏の陣 豊臣生き残り

真田佐衛門佐幸村
真田大助幸昌
後藤又兵衛基次
長宗我部宮内少輔盛親
明石伯耆守全澄
長岡興秋
大谷吉久
塙団右衛門直之
薄田隼人正兼相
毛利豊前守勝永
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大野治房
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この中で生き残った牢人はいたのでしょうか?

Aベストアンサー

>この中で生き残った牢人はいたのでしょうか?

地元(豊臣政権の三中老の1人だった生駒家支配)の伝承ですが・・・。
真田佐衛門佐幸村・大助親子ですね。
大阪夏の陣で敗れた幸村は、地元に落ち延びて来たとの事です。
そこで、庄屋の家で傷を癒しました。
よくある話で、(世話をしていた)庄屋の娘とねんごろになり男児をもうけています。
※今でも、この子孫は「六文銭」が家紋です。
傷が癒えた幸村は、大助が待つ薩摩へと落ち延びた!とのお話です。^^;
そういえば、大坂城落城の時「鬼のような真田が、花のような秀頼を連れて、逃げも逃げたり鹿児島へ」という唄が有名ですよね。
実際、鹿児島では秀頼の墓と伝わる五輪供養塔も残っています。
また、秀頼が上陸した浜辺とか「乞食の姿で落ち延びて来た」とか多くの伝承が残っています。
日田藩主は、一子相伝として「秀頼の子孫」となっていますね。
明治維新後の旧藩主への爵位を与える時の家系には、豊臣姓を記載しています。
※日田藩主子孫の方が、一子相伝を一冊の本に書いています。探せば、入手可能。
※私も、数年前に購入しました。
信じるか信じないかは、あなた次第です!(笑)

>この中で生き残った牢人はいたのでしょうか?

地元(豊臣政権の三中老の1人だった生駒家支配)の伝承ですが・・・。
真田佐衛門佐幸村・大助親子ですね。
大阪夏の陣で敗れた幸村は、地元に落ち延びて来たとの事です。
そこで、庄屋の家で傷を癒しました。
よくある話で、(世話をしていた)庄屋の娘とねんごろになり男児をもうけています。
※今でも、この子孫は「六文銭」が家紋です。
傷が癒えた幸村は、大助が待つ薩摩へと落ち延びた!とのお話です。^^;
そういえば、大坂城落城の時「鬼のような真田が、...続きを読む

Q今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣

今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む

Q大阪の陣で

豊臣方は何をどうしても勝ち目はなかったのでしょうか?

Aベストアンサー

徳川方にとっても決して楽な戦いではなかったと思います。

秀忠が総大将だったら、真田・後藤の軍勢に急襲されてぼこぼこにやられたあと、あっさり後方の伊達政宗に裏切られて全滅していたでしょう。六十三歳の老骨に鞭打って、具足も満足に着用できなくなっていた家康が睨みを利かせていたからこそ幕府軍も何とか統制を取れていたのが実情です。

一方の豊臣方は家康の首さえ取ればよかったのです。残った秀忠と秀頼の器量勝負になれば、秀頼の方に諸将がなびく可能性の方が高かったのではないでしょうか。当時の秀頼は一大名に過ぎなかったと言う説もありますが、あの状況で大坂方が五万人の浪人を集結させることができたのは、威信でも資金力でもまだまだ徳川に対抗できるだけの力があったことの証拠です。

従って、徳川方の勝利が確定したのは、真田信繁の最後の突撃をかわして家康が逃げ延び、豊臣方が総崩れとなった慶長二十年五月七日の午後三時過ぎではないかと考えます。すなわち大阪城落城の一時間前。ここでようやく決着がついた。

それにしても、家康は本当にいつの時も戦いを仕掛ける時期の見極めが見事だった。夏の陣の時には、家康の寿命はあと1年に迫っていたのです。豊臣との決戦のタイミングがこれより早くても遅くても危なかった。真に「天の時」を知る名将でした。その意味では、徳川が勝ったのは天命で、豊臣方にやはり勝ち目はなかったのでしょう。

徳川方にとっても決して楽な戦いではなかったと思います。

秀忠が総大将だったら、真田・後藤の軍勢に急襲されてぼこぼこにやられたあと、あっさり後方の伊達政宗に裏切られて全滅していたでしょう。六十三歳の老骨に鞭打って、具足も満足に着用できなくなっていた家康が睨みを利かせていたからこそ幕府軍も何とか統制を取れていたのが実情です。

一方の豊臣方は家康の首さえ取ればよかったのです。残った秀忠と秀頼の器量勝負になれば、秀頼の方に諸将がなびく可能性の方が高かったのではないでしょうか。当時...続きを読む

Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

天下統一をはたした豊臣家は、何故事実上一代で滅んでしまったのでしょう?

秀吉びいきの父などは「正室に子どもができなかったからだ」などと言っているのですが、養子や側室の子どもが跡を継ぐなんてよくあることだと思うし、これが原因とはならない気がするのですが…。

私が考えたのは
・家康が際立って有能な上、際立って野望マンマンだったから。
・秀頼と淀君が無能だったから。

かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

歴史に詳しい方、詳細を教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

家康は多くの男子を儲け、彼らが「御三家」といった形で別家を立てて徳川家の権力継承をサポートしました。秀次の多くの男子(史実で死んだ時点で4人、その後もどんどん生まれたはず)は、長男以外は別家を立てて豊臣家の柱石となります。秀次の娘たちは、有力な大名の正室となり、その大名家と豊臣家との関係を深めます。要するに、家康や秀忠がやったことを秀次がやるわけです。

ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

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