大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?



回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。

機を見て表に出て戦うのはリスクもありますが、そういう見方もできますね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

古来、攻城戦で最終的に籠城側が勝つ条件は、2つだけです。


1)外から援軍が来て、挟み撃ちにする。
2)攻城側に、戦を続けれない理由が発生し、自主的に退去する。
なぜなら、城方の補給(兵糧、矢玉、戦闘員)が続かなくなるからです。

籠城側が勝ったことで最も有名なのは、第2次上田戦争での真田方ですが、徳川方がもっと日時を掛けることができたらな、敵わなかったことでしょう。

大阪冬の陣も、淀君が大砲に怯えたというキッカケはありますが、その背景には、鉄砲の玉の準備不足で、戦いを継続出来なくなったという事情が有ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鉄砲の弾の準備不足って、ものすごい初歩的なミスですねw

お礼日時:2014/06/30 17:37

私はほぼ絶望的だと思います。


たとえ家康を討ったとしても豊臣方に勝ち目はほとんど無かったでしょう。
関ヶ原の頃ならいざ知らず当時、既に家康は家督を秀忠に譲って10年以上経っています。
実際に大坂の陣の時の総大将は秀忠です。
もちろんこの時点でも家康はただの「隠居した老人」ではなく、大きな影響力がありますので、その家康が討たれれば一時的に徳川方が混乱し、体勢を立て直すために一時撤収する事はあるかもしれませんが、総大将の秀忠が無事である以上、総崩れになる見込みは薄いでしょう。
つまり家康を討っても一時の勝利でしかなく、結局は体勢を立て直した徳川方に敗れる可能性が極めて高いです。

あと大坂方の敗因に淀殿が挙げられる事は多いですが、これも疑問があります。
別に淀殿が賢明だとか、正しかったとか言いたいわけでは無く、大坂方の戦闘を左右する程の影響力を行使したとされる通説はあくまでも豊臣家が滅んだ後のものであり、人物像が歪められた可能性が考えられるからです。
他の人も書かれているように、援軍のあてもなく籠城して狭い場所に押し込められると必然的に士気は低下します。
長期戦になれば兵糧も不足するでしょうし、内部からの裏切り者も出てくる可能性も高いです。
つまり冬の陣において大坂方が和睦したのは、やむを得ない判断であり、淀殿がどのような態度をとったかはあまり関係がないと思われます。
幕府が積極的に淀殿の人物像を歪曲したのか、それとも講談などで真田幸村や後藤又兵衛らを持ち上げる際の都合のよい悪役とされた結果なのかは分かりませんが、個人的に大坂方の敗因とするのは淀殿に対する過大評価だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

しかし、家康を討たれて、そのまま徳川方は戦いを続けたのだろうか。
もし続けたのであれば厳しい戦いになったでしょうが、その時は撤退した可能性も十分あると思います。(別の機会に、秀忠、もしくは家光以降の将軍に滅ぼされた可能性は残りますが)

また、和睦に応じた点についてですが、個人的にはギリギリまで粘ったほしかったですね。長期化すれば豊臣恩顧の大名や反徳川の大名が寝返った可能性もゼロではないんじゃないかと・・
まあ、難しいでしょうけどね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

追加で。



ご質問の回答を見つけました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … (大坂冬の陣、豊臣方の兵糧・兵站はどのくらいまで持つ見込みだったのでしょうか?)

いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、良い情報をありがとうございました。

お礼日時:2014/06/27 13:07

全権を真田幸村に預ければ勝てた可能性は十分にあったと思います。



瞬時に大阪城の弱点を見抜いて真田丸を築いたり、
数千の寄せ集め浪人集団で15万の家康軍に突撃して本陣を蹴散らすほどですから
彼が総大将であったとしたら家康はかなりの苦戦を強いられて、あるいは敗北した可能性も
あったと思います。

ただ、総大将待遇で受け入れられるとも思っていなかったでしょうし、
真田幸村にそもそも家康の命を取る気があったのか、
勝利することを目的として大阪城に入ったのかは分かりませんが。

総指揮官が淀殿だったのが敗因の一つだとは思います。
ただ、そもそも淀殿が真田幸村に召集をかけなければ彼の活躍の場もなかったわけですが。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豊臣方、徳川方の兵糧事情はご存知ですか?
そこさえクリアできていれば、豊臣方が勝っていたかもしれませんね。

大野治長あたりなら、豊臣政権内部の力関係においても総大将が務まったかもしれませんね。

真田幸村は結果的に大活躍したけど、大阪の陣が始まった時点では、なんの実績もない、
みすぼらしい中年男性ですからね。。
(関ヶ原での活躍は、対外的には父親の活躍ということになったみたいですね)
でも、能力的には彼がふさわしかったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/04/22 22:03

籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。


大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。
もし徳川方の要求を受け入れて秀頼が大坂城を退去すればあるいは「一大名」として生き残れた可能性はなくはないかもしれませんが・・・・それでも「脅威」には違いないので何らかの理由で取り潰しをされたでしょう。
関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。
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この回答へのお礼

>籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。

徳川方は誰一人として一番外側の堀の石垣に触れることさえできなかった、とのことなので、
豊臣方の指揮官が通常の人であれば、そのまま徳川方はあきらめて撤退したのではないでしょうか?

>大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。

冬の陣で負けなければ、今後の展開が変わったんじゃないでしょうか。
とりあえず言いくるめて講和、といっても、劣勢の状態で講和するのと、戦いになんとなく
勝った状態で講和するのでは、全然違います。
逆に徳川に条件をつけることもできたんじゃないでしょうか。

>関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。

ここで違うんじゃないかということにもつながる質問です。
冬の陣で負けない可能性が十分にあったんじゃないでしょうか?

お礼日時:2014/04/22 21:43

それは聞いたことがあります。



NHKでやってました。

大阪城は掘りに西洋式のいいところも取り入れた難攻不落の城だったそうです。

囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。

大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。


ただ諜報活動や大砲の心理戦は効いたようです。

いずれにしても豊臣方のリーダーが頼りなかったんでしょうね。
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この回答へのお礼

>囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。
大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。

20万の兵だから、徳川方だって兵糧の確保は大変でしょうね。

豊臣方の兵糧面はどうだったんだろう・・?

お礼日時:2014/04/22 21:38

豊臣が滅亡したのは大坂夏の陣。

冬の陣で、大砲の一悶着があり、和議することとなった。この時の条件は豊臣方に有利なものだったが、外堀だけは埋めさせてくれ、というのが家康の出した条件だった。いざ工事が始まると、全ての堀が埋められ、大阪城は丸裸となる…
冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。
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この回答へのお礼

>冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。

大砲で淀の方がびびった点以外は、豊臣方が優勢だったんじゃないでしょうか。
どうなんだろう。。

冬の陣で負けてなければ、今後、再び鋼鉄の守りの大阪城が責められることになったとしても、
豊臣恩顧の大名や、徳川を恨んでいる大名が味方してくれたかもしれないのに。。

お礼日時:2014/04/22 21:36

>この考え方について、どうでしょうか?



せめてそのあたりの話を小説でいいから
読みましょうよ。

そうすれば負けるべくして負けた。
ことくらいすぐにわかるから。

一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

せめて真田幸村あたりの言にもう少し
耳を傾けていたら。
というのが歴史のIFですね。
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この回答へのお礼

>一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

そういう状態によろところもあるでしょうね。
指揮官がダメすぎたと思います。

しかし、そういう状態であったとしても、大砲の脅しに屈せず、深夜まで大砲の爆音が
鳴り続けていたとしてもその恐怖に耐えぬいてさえいれば、勝ったのではないでしょうか、
という質問です。

大坂方の兵糧は大丈夫だったんでしょうか。
10万の兵を雇った経済力、そして、大阪の街、全体を囲む大阪城であれば、兵糧面でも
耐え抜くことができたんでしょうか。

お礼日時:2014/04/22 21:32

篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。



いくら兵力があろうと、指揮官が馬鹿なら負けてしまうという事なんじゃないですか。
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この回答へのお礼

>篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。

やはり、そういう見方なんですね。
大阪冬の陣においては、豊臣方にも十分、勝機があったということですよね。

徳川>>>>>>>>>豊臣という力関係の元、当然の結果として大阪の陣で豊臣方は敗れた、
みたいな見方が世間一般に蔓延しているような気がしたので質問しました。

お礼日時:2014/04/22 21:26

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今学校で、豊臣秀吉について勉強しているのですが、豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人のことが、よく分かりません!!
どなたか、詳しく教えていただけないでしょうか。

Aベストアンサー

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成され、名古屋市の中心部をパレードします。

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康(「三英傑」と呼ばれる)は、公募(名古屋市在住or在勤の人)で選ばれます(2004年は、名古屋まつり50周年記念ということで、中日ドラゴンズOBの谷沢さん、彦野さん、今中さんが演じられましたが)。

そして、三英傑の「隊」は、栄地区にある3つのデパートがバックアップしています。
豊臣秀吉隊のバックアップをするのは、「丸栄」というデパートです。

ご質問からは少し話がそれてしまいましたね。
ごめんなさい。

豊臣秀吉は、その「出自」については正確なことは分かっていません。
秀吉自身もいろいろなことを「書かせている」んですよ。
母親については、後に「大政所」と称された「なか」という人です。
父親については、「木下弥右衛門」という人だとされていますが、この「木下弥右衛門」については、詳細が不明なんです。一般的には「百姓」と伝えられていますが、この当時、「百姓」にもいろいろな「種類」があり、どのような百姓であったのかは分かっていないんです。
きょうだいについては、姉、弟、妹が1人ずついたとされています。
姉は、同父同母のようですが、弟と妹については異父であるという説の方が大勢ですね。
この弟が、#2さんが紹介されている「秀長」です。
#2さんは有名ではないと仰っていますが、私が住んでいる地域で郷土史を齧った人間ならば知らないはずがない人です。
豊臣家のナンバー2として、なくてはならない人物で、大層興味深い人ですよ。

ご質問者さまは、来年の大河ドラマの主人公が誰かはご存知ですか?(演じるのは上野樹里さん。)
来年の大河ドラマの主人公は、「江(ごう)」という名前の人なんですが、この人は「豊臣秀吉の甥の妻」でもあった人なんです。
最終的には、「徳川家康の三男の妻」になりましたが、その人の2番目の夫が「豊臣秀吉の姉の息子=豊臣秀吉の甥」だったんです(死別)。
ちなみに「江」は、「織田信長の姪(妹=市の子)」でもありますし、「豊臣秀吉の義理の妹(秀吉の側室である茶々の妹)」でもあります。

さらに「江」に関連して申し上げれば、豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えていますが、「豊臣秀吉の姉の息子・秀勝」と「江」の間には女の子が1人生まれています。
この女の子は後に「九条幸家」というお公家さんの妻になり、「道房」という息子を産みます。
その血筋が現在の天皇家につながっているんですよ。
九条幸家→九条道房→娘→九条輔実→九条幸教→二条宗基→二条治孝→九条尚忠→九条道孝→節子→昭和天皇→今上天皇 というカンジです。

豊臣秀吉には3人の実子がいたとされていますが、先ほども申し上げましたとおり豊臣秀吉の直系の血筋は途絶えています。
2人の子は幼くして亡くなっていますが、側室である「淀殿」が産んだ「豊臣秀頼」は成人し、側室との間に男の子と女の子がありました。
女の子(後の「天秀尼」)は、鎌倉にある東慶寺に入って出家して生涯を終えました。
男の子(国松)は、大阪の陣のあと徳川方に殺されていますが、こういった人にはつきものの「生存説」があります。

> 豊臣秀吉の家族や、豊臣秀吉に関係している人
とのことでしたので、ちょっと話を飛躍させてしまいました。

妻である「北政所(おね)」、上司にあたる「織田信長」、同僚だった「前田利家」あたりは、わざわざ上げるまでもないと思いましたので…。

豊臣秀吉関係でしたら「賤ヶ岳七本槍」も調べるキーワードの1つにされるとよろしいかと思います。
「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれる武将のうち、「福島正則」と「加藤清正」は、「豊臣秀吉」と親戚だったと言われています。

愛知県名古屋市在住のオバサンです。

豊臣秀吉は、現在の名古屋市に該当する地域の出身のため、毎年、名古屋市で開催されている「名古屋まつり」の『郷土英傑行列』にも登場します。
今年(平成22年)の名古屋まつりは 10月16日(土)、17日(日)に開催されますが、名古屋開府400年の年ということで、例年とは少し趣向が変わっています。

『郷土英傑行列』は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康という、名古屋市にゆかりの深い戦国武将に扮したパレードです。
それぞれに関連のある人物などによって一団が形成さ...続きを読む


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