アレルギー対策、自宅でできる効果的な方法とは?

大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?

大阪城の守りは非常に固く、徳川方は大阪城の一番外型の堀の石垣に触れることさえできず、
真田丸では多くの戦死者を出し、戦いの最初のころは豊臣方が優勢だったと聞きます。

兵力としても徳川方20万だったのに対して、豊臣方は10万で、絶望的な差ではありません。

そこで活躍したのが、大砲だったと聞きます。
昼夜を問わず、4キロから6キロ先まで届く大砲を打ち、指揮官である淀の方を精神的に
追い詰め、和睦に持ち込んだと聞きます。
大砲はめったに当たることがなかったものの、運悪く居間に落ちたものが次女数人をバラバラにして、淀の方を恐怖させたとか、柱が折れたとか。

しかし、大砲が何発撃たれようが無限ではないのだし、滅多にあたらないため大阪城の防御力を下げたり、落城させたりするような威力まではなかったと思うので、私としては、最後まで戦っていれば豊臣方が勝っていたのではないかと思うのです。。
(運悪く、淀の方のいるところに弾が落ちて、命を落とす可能性もありますが、その確率は低いと思います。精神力の戦いだったと思います)

jこの考え方について、どうでしょうか?
ご意見等、お願いします。

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A 回答 (12件中1~10件)

>大阪冬の陣で大阪城は落ち、豊臣は滅亡しましたが、対応を間違えさえしなければ、持ちこたえることができたのではないでしょうか?



回答・・・難しいと思います。
特に兵糧攻めにあったらもたないかと。
毛利元就による尼子の月山富田城攻めのように、2年近くの兵糧攻めにあい敗北した戦例もあります。
大阪城もそうなる可能性があるかと。
それに長期間、兵の士気を維持できるかの問題もあります。
期待されていた豊臣恩顧の大名の多くは徳川方につき、味方は劣勢。その上、大砲を一方的に打ち込まれていては…
そもそも徳川方は真田丸での敗北後に神経戦を仕掛けるようにしています。
夜に鬨の声を上げたり、鉄砲をうちかけ大阪方を眠らせないようにし、さらに大砲での攻撃です。
兵の士気をどうやって維持するのか…

一方、徳川方は兵糧不足に悩まされた事もあるようですが、これは一時的な混乱という説もあります。京を遠く離れた遠方ならともかく大阪近辺は堺など港も多く商業地帯としても発展していましたから、兵糧の確保も一旦、道筋をつければそう難しくないかと思います。

ただし、豊臣方が籠城で持ち堪えるのは難しくても、作戦によっては勝てたのではないかと思います。

そもそも「夏の陣」でさえ、真田幸村と毛利勝永らの活躍により徳川方は叩かれ、家康本陣は崩れ、三方が原の敗戦以来、初めて馬印が倒され、家康も敗北を覚悟し切腹をしようとしたという話があるくらいです。
もし豊臣秀頼が出陣し全ての予備兵力を戦線に注ぎ込んでいたら…
もし明石全登の別働隊の作戦が成功していたら…
豊臣方は家康の首をとり状況は大きく変化し勝利する事ができたかもしれません。

そういう事を勘案すると、もし「冬の陣」においても、籠城するばかりでなく機を見て南の家康本陣に対し攻撃に出ていたらどうなったか…
徳川方は大阪城の四方を囲みました。
浅野、蜂須賀、鍋島、上杉、佐竹等は東、西、北に配置されており、南に徳川方の全軍がいたわけではありません。
確かに南の家康本陣は厚いです。前衛には前田、伊達、藤堂らもいました。
しかし、兵力の減った「夏の陣」でさえ正面攻撃で家康を追い詰めたのです。
ならば「夏の陣」より兵力の多い「冬の陣」において乾坤一擲の突撃を茶臼山の家康本陣に向け行えば、あるいは家康の首をとれたかもしれません。
ちなみに真田幸村は12月20日に家康本陣への奇襲を進言しましたが採用されませんでした。

「冬の陣」では籠城策よりも、籠城策からの野戦への転換ならば豊臣方にも勝利の希望はかなりあったのではないかと思っています。
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、ありがとうございます。
おっしゃるとおりですね。

機を見て表に出て戦うのはリスクもありますが、そういう見方もできますね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

古来、攻城戦で最終的に籠城側が勝つ条件は、2つだけです。


1)外から援軍が来て、挟み撃ちにする。
2)攻城側に、戦を続けれない理由が発生し、自主的に退去する。
なぜなら、城方の補給(兵糧、矢玉、戦闘員)が続かなくなるからです。

籠城側が勝ったことで最も有名なのは、第2次上田戦争での真田方ですが、徳川方がもっと日時を掛けることができたらな、敵わなかったことでしょう。

大阪冬の陣も、淀君が大砲に怯えたというキッカケはありますが、その背景には、鉄砲の玉の準備不足で、戦いを継続出来なくなったという事情が有ります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
鉄砲の弾の準備不足って、ものすごい初歩的なミスですねw

お礼日時:2014/06/30 17:37

私はほぼ絶望的だと思います。


たとえ家康を討ったとしても豊臣方に勝ち目はほとんど無かったでしょう。
関ヶ原の頃ならいざ知らず当時、既に家康は家督を秀忠に譲って10年以上経っています。
実際に大坂の陣の時の総大将は秀忠です。
もちろんこの時点でも家康はただの「隠居した老人」ではなく、大きな影響力がありますので、その家康が討たれれば一時的に徳川方が混乱し、体勢を立て直すために一時撤収する事はあるかもしれませんが、総大将の秀忠が無事である以上、総崩れになる見込みは薄いでしょう。
つまり家康を討っても一時の勝利でしかなく、結局は体勢を立て直した徳川方に敗れる可能性が極めて高いです。

あと大坂方の敗因に淀殿が挙げられる事は多いですが、これも疑問があります。
別に淀殿が賢明だとか、正しかったとか言いたいわけでは無く、大坂方の戦闘を左右する程の影響力を行使したとされる通説はあくまでも豊臣家が滅んだ後のものであり、人物像が歪められた可能性が考えられるからです。
他の人も書かれているように、援軍のあてもなく籠城して狭い場所に押し込められると必然的に士気は低下します。
長期戦になれば兵糧も不足するでしょうし、内部からの裏切り者も出てくる可能性も高いです。
つまり冬の陣において大坂方が和睦したのは、やむを得ない判断であり、淀殿がどのような態度をとったかはあまり関係がないと思われます。
幕府が積極的に淀殿の人物像を歪曲したのか、それとも講談などで真田幸村や後藤又兵衛らを持ち上げる際の都合のよい悪役とされた結果なのかは分かりませんが、個人的に大坂方の敗因とするのは淀殿に対する過大評価だと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

しかし、家康を討たれて、そのまま徳川方は戦いを続けたのだろうか。
もし続けたのであれば厳しい戦いになったでしょうが、その時は撤退した可能性も十分あると思います。(別の機会に、秀忠、もしくは家光以降の将軍に滅ぼされた可能性は残りますが)

また、和睦に応じた点についてですが、個人的にはギリギリまで粘ったほしかったですね。長期化すれば豊臣恩顧の大名や反徳川の大名が寝返った可能性もゼロではないんじゃないかと・・
まあ、難しいでしょうけどね。

お礼日時:2014/06/30 17:36

追加で。



ご質問の回答を見つけました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question … (大坂冬の陣、豊臣方の兵糧・兵站はどのくらいまで持つ見込みだったのでしょうか?)

いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

遅くなりましたが、良い情報をありがとうございました。

お礼日時:2014/06/27 13:07

全権を真田幸村に預ければ勝てた可能性は十分にあったと思います。



瞬時に大阪城の弱点を見抜いて真田丸を築いたり、
数千の寄せ集め浪人集団で15万の家康軍に突撃して本陣を蹴散らすほどですから
彼が総大将であったとしたら家康はかなりの苦戦を強いられて、あるいは敗北した可能性も
あったと思います。

ただ、総大将待遇で受け入れられるとも思っていなかったでしょうし、
真田幸村にそもそも家康の命を取る気があったのか、
勝利することを目的として大阪城に入ったのかは分かりませんが。

総指揮官が淀殿だったのが敗因の一つだとは思います。
ただ、そもそも淀殿が真田幸村に召集をかけなければ彼の活躍の場もなかったわけですが。。。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

豊臣方、徳川方の兵糧事情はご存知ですか?
そこさえクリアできていれば、豊臣方が勝っていたかもしれませんね。

大野治長あたりなら、豊臣政権内部の力関係においても総大将が務まったかもしれませんね。

真田幸村は結果的に大活躍したけど、大阪の陣が始まった時点では、なんの実績もない、
みすぼらしい中年男性ですからね。。
(関ヶ原での活躍は、対外的には父親の活躍ということになったみたいですね)
でも、能力的には彼がふさわしかったのかもしれませんね。

お礼日時:2014/04/22 22:03

籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。


大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。
もし徳川方の要求を受け入れて秀頼が大坂城を退去すればあるいは「一大名」として生き残れた可能性はなくはないかもしれませんが・・・・それでも「脅威」には違いないので何らかの理由で取り潰しをされたでしょう。
関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。
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この回答へのお礼

>籠城戦で籠城側が勝利を収めるには城外からの援軍か攻め手の撤退しかありません。

徳川方は誰一人として一番外側の堀の石垣に触れることさえできなかった、とのことなので、
豊臣方の指揮官が通常の人であれば、そのまま徳川方はあきらめて撤退したのではないでしょうか?

>大阪冬の陣で豊臣方に味方する大名はおらず、味方したのは旧臣や浪人だけでした。
たしかに籠城が長引けば徳川方にも不利な面も出てきますが、そうなれば「とりあえず言いくるめて講和」をして・・・・と結果はあまり変わらないかと思います。

冬の陣で負けなければ、今後の展開が変わったんじゃないでしょうか。
とりあえず言いくるめて講和、といっても、劣勢の状態で講和するのと、戦いになんとなく
勝った状態で講和するのでは、全然違います。
逆に徳川に条件をつけることもできたんじゃないでしょうか。

>関が原で主導権を握れず、徳川家康に征夷大将軍になられてしまった段階で豊臣は滅ぶしかなかったのです。

ここで違うんじゃないかということにもつながる質問です。
冬の陣で負けない可能性が十分にあったんじゃないでしょうか?

お礼日時:2014/04/22 21:43

それは聞いたことがあります。



NHKでやってました。

大阪城は掘りに西洋式のいいところも取り入れた難攻不落の城だったそうです。

囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。

大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。


ただ諜報活動や大砲の心理戦は効いたようです。

いずれにしても豊臣方のリーダーが頼りなかったんでしょうね。
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この回答へのお礼

>囲っていた徳川軍は連れてきた馬を食べて、耐えていたそうです。
大名を動員しての大軍で囲む期間のリミットも近づいていたとか。

20万の兵だから、徳川方だって兵糧の確保は大変でしょうね。

豊臣方の兵糧面はどうだったんだろう・・?

お礼日時:2014/04/22 21:38

豊臣が滅亡したのは大坂夏の陣。

冬の陣で、大砲の一悶着があり、和議することとなった。この時の条件は豊臣方に有利なものだったが、外堀だけは埋めさせてくれ、というのが家康の出した条件だった。いざ工事が始まると、全ての堀が埋められ、大阪城は丸裸となる…
冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。
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この回答へのお礼

>冬の陣の時、戦況は徳川方に有利だったとはいえ、決め手は家康の「ずるさ」でしょうな。

大砲で淀の方がびびった点以外は、豊臣方が優勢だったんじゃないでしょうか。
どうなんだろう。。

冬の陣で負けてなければ、今後、再び鋼鉄の守りの大阪城が責められることになったとしても、
豊臣恩顧の大名や、徳川を恨んでいる大名が味方してくれたかもしれないのに。。

お礼日時:2014/04/22 21:36

>この考え方について、どうでしょうか?



せめてそのあたりの話を小説でいいから
読みましょうよ。

そうすれば負けるべくして負けた。
ことくらいすぐにわかるから。

一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

せめて真田幸村あたりの言にもう少し
耳を傾けていたら。
というのが歴史のIFですね。
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この回答へのお礼

>一言でいうと指揮命令系統の差。
大阪方は悲しいかな烏合の衆の寄せ集めです。
そして総大将が不在で、トップが淀殿という
勝ちようのない陣容で挑まざるを得なかったのが
現実です。

そういう状態によろところもあるでしょうね。
指揮官がダメすぎたと思います。

しかし、そういう状態であったとしても、大砲の脅しに屈せず、深夜まで大砲の爆音が
鳴り続けていたとしてもその恐怖に耐えぬいてさえいれば、勝ったのではないでしょうか、
という質問です。

大坂方の兵糧は大丈夫だったんでしょうか。
10万の兵を雇った経済力、そして、大阪の街、全体を囲む大阪城であれば、兵糧面でも
耐え抜くことができたんでしょうか。

お礼日時:2014/04/22 21:32

篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。



いくら兵力があろうと、指揮官が馬鹿なら負けてしまうという事なんじゃないですか。
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この回答へのお礼

>篭城して指揮してたのが、寧々だったら状況は違ったかもしれませんが…。

やはり、そういう見方なんですね。
大阪冬の陣においては、豊臣方にも十分、勝機があったということですよね。

徳川>>>>>>>>>豊臣という力関係の元、当然の結果として大阪の陣で豊臣方は敗れた、
みたいな見方が世間一般に蔓延しているような気がしたので質問しました。

お礼日時:2014/04/22 21:26

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関ヶ原の戦いでもし(IF)小早川秀秋が裏切らなかったらどうなってた

小早川秀秋がもし東軍(家康側)に寝返らなかったら関ヶ原の戦いは西軍(石田三成側)の勝利となっていたのでしょうか。
小早川秀秋は家康から寝がいりを要求する手紙をもらっていたらしいのですが。
もし寝が入り、の決断をできなかった、もしくは家臣に反対されて西軍を裏切らす東軍と戦ってた場合

関ヶ原の戦いの結果はどうなっていたのでしょうか
あと裏切りという作戦を家康が立てていたのですが
裏切ってくれなかったとしたときのために
家康は何か策でも立てていたのでしょうか

皆様の考えをどうかよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 関ヶ原の戦いのポイントは、戦いの前に岐阜城が落とされたことにあります。ここで西軍の主力の一つの織田が全滅しました。そのとき西軍主力の宇喜多は、伊勢にいました。石田は、岐阜城の重要性に気がつかないで織田を見殺しにしています。その間、戦略をたてに大垣と佐和山を行ったり来たりしています。
 そうして濃尾平野の重要部分を徳川方に押さえられて
関ヶ原を迎えます。
 もひとつは、島津義弘の軍が、正規の部隊でないことだと思います。島津軍が、1万人くらいの戦力で司令官になって作戦指揮していたら家康も無謀な関ヶ原の野戦にでることはなかったでしょう。義弘の朝鮮の役の活躍や関ヶ原以後の対島津の扱いから見ても誰もが納得できるでしょう。
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 といっても、石田は、小早川に(関白)を約束していたので決戦場にいないわけにはいきませんね。結局これも実現の可能性はゼロです。
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関ヶ原の戦いのとき、清正と正則は三成を気に入っていなかったので、豊臣政権の未来を徳川家康に託して東軍に着いた。しかしそれは家康の勢力拡張政策に貢献することになってしまい、家康は天下を手に入れるために豊臣家を滅ぼしてしまった。清正と正則はあとで関ヶ原の戦いのときに、気に入らないが三成に味方したほうがよかったと思ったのだろうか。

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「この人のやり方が合理的に合っていても、僕のやり方を無視しているものなので、心情的にこの人に賛成できない」
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これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

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これに対し官僚である石田三成に関しては全く共感できない存在であり、『偉そうにしているイヤな奴』という認識でしかなかったようです。

豊臣恩顧といっても、加藤清正や福島正則にとっては秀吉と北の政所への忠誠心が主であるのに対し、石田三成にとっては淀の方や秀頼などを含んだ豊臣家に対する忠誠心だったようであり、各々の感覚が異なると思います。

加藤清正や福島正則は戦国期を生き抜いてきた武将として、力のある武将(徳川家康)が天下を取ることになっても致し方ないという感覚があったと思われますが、石田三成はあくまでも天下は豊臣家のものだという考えのようですからこういう基本的な考え方が違うと思われます。

>清正と正則は三成に味方したほうがよかったと思ったと思いますか。

思わないでしょう。
加藤清正や福島正則は、他の回答にあるように尾張時代からの秀吉の子飼いの武将であるとともに戦国の世を生き抜いた武闘派の武将です。
これに対して石田三成は秀吉の近江時代からの部下であり、有能な官僚タイプの人です。

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Q豊臣家が一代で(二代で)滅亡した理由は?

タイトル通りです。

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かなー。と思ったのですが、全く根拠はありません。感覚的な感想です。

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「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有能な大名たちが秀次と親密であったようです。秀次の人物の大きさが推定できます。

秀次が「殺生関白」と言われる奇行を繰り返したという話は、秀次を悪者にするための創作と見てよいと思います。また、秀次とその家族を地獄に突き落とした「秀吉の実子・秀頼の誕生」ですが、秀頼が本当に秀吉の子だったのかは極めて疑わしいと思いますね。これは私見ですが。

秀頼が登場せず、秀次が豊臣政権を確実に受け継いてから1598年に秀吉が死んだとします。史実では関ヶ原の合戦があった1600年に32歳となっている秀次は、まったく異議なく関白として国家運営を継続したでしょう。豊臣家の家臣に過ぎない徳川家康による政権奪取など、誰も夢想もしなかったはずです。家康は一人の大名として生涯を終えることとなったでしょう。

国力を浪費した朝鮮出兵は行われず、聚楽第の破壊、肥前名護屋城や伏見城の建設といった無駄な大工事も行われません。恐らく、16世紀最後の10年間の日本史はまったく違った平穏なものになったでしょう。

実子がなかった秀吉や弟の秀長と異なり、秀次には4人の男子の他何人も子供がいましたので、秀次の死後(1630年代?)に後継者を巡って世が乱れることもなかったでしょう。この時代、権力者の重要な仕事は「後継者を確実に作ってお家騒動を防ぐこと」ですから、秀次はこの点でも合格です。

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ウィキペディア 豊臣秀次 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E6%AC%A1
秀次の子孫がずっと関白位を継承し、「江戸時代」ではなく「大坂時代」が17世紀後半から続く、という形になったと推定されます。

「秀吉が秀次を殺してしまった」これが豊臣政権にとって致命的であったという見解があります。

秀次の事績を詳しく見ると決して無能な人ではありません。秀次が1591年に関白となり、秀吉の後継者として認知されると、多くの大名が秀次に忠誠を誓い、秀次は無難に政務をこなしています。文化人としても及第レベルであったようです。逆に、秀次が無能であったとか人望がなかったという具体的な証拠(同時代史料)はありません。

伊達政宗、最上義光、細川忠興のような、関ヶ原の合戦以後まで見事に生き残った有...続きを読む

Q北条氏はどうして秀吉に最後まで逆らいましたか?

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よろしくお願いします。

Aベストアンサー

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
島津家:1584年の沖田畷の戦いで、九州のNo1へそして九州平定へ
伊達家:1589年、摺上原の戦いで、芦名氏を滅亡させ、奥州No1に
上杉家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態
毛利家:1582年、信長に潰されるカウントダウン状態

など、信長に潰される直前で、家臣団として「潰されるより、頭を下げましょう」という合意がなされやすい状況であったケースと、直前に領土を拡大させ、まだまだ、本領としてしっかり統治できていなかった(捨てても、まぁ いいやと諦められる)領土の大きかった大名家です。家臣団も、しょうがないやと思える。

ところが、北条家は、五代にわたってじわりじわりと領土を拡大し、五代目氏直の段階で、史上最大の領土を確保したところでした。
※ 氏政・氏直の無能論というのがありますが、領土を拡大させたという意味では有能であったといえます。
ただ、100年かけて獲得した領土なので、家臣団はギブアップ宣言ができない、しかも、毛利家における宇喜多家のように、新参の半分同盟国のような扱いの家臣団でなく、重代の家臣団であり、結束が強いがために、氏政・氏直としても、簡単にギブアップできなかった。
ということではないかと

北条氏の問題は、成長している最中であったこと。しかも、数年で急激に成長したのではなく、時間をかけて成長したこと。ここが、他の大代妙と違う点です。
戦国大名はおしなべて、実は家臣団の連合体という側面が実は強い。大名のトップが、「負けました」と宣言したら、家臣団に殺されます。

豊臣家に頭を下げたのは
徳川家:1582年以降に駿河・甲斐・信濃など急激に膨張
長宗我部:1585年に四国平定、そして四国征伐が同年
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 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Q戦国大名の最大版図

タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。

関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。

人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。


・伊達政宗
・北条氏直
・上杉謙信
・上杉景勝
・武田信玄
・徳川家康
・豊臣秀吉
・織田信長
・柴田勝家
・明智光秀
・長宗我部元親
・毛利元就
・毛利輝元
・島津義久


人数が多くて申し訳ありません。

よろしくお願い致します。

Aベストアンサー

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせると30万石を越える程度はあったようです。

上杉謙信
越後の半分程度が直接的に支配できているところなんだとは思います。
揚北衆と呼ばれる(本庄、色部、新発田)勢力は北越後の広大な範囲を領地にしていましたが、家臣という感じではなく「協力者」というイメージが近いです。勝手に外交したり人事権も及ばない状態でしたから。
そういう独立勢力を束ねて越後、北関東、越中、能登まで支配している感じです。最大版図は私もどこまで含めて良いのかさっぱりわかりません。
味方と言い切れない独立勢力が大勢いるということです。

信長、秀吉、家康のそれぞれの時代によって最大版図のとらえ方も様々に違っているようには思いますね。

No1です
まだ出ていないところを書かせていただきますね。

柴田勝家(清洲会議後)
基本的には越前一国の領主でしかありませんから約50万石だろうと思います。清洲会議で北近江も柴田側の領地になっています。
ここで問題なのが、
佐々成政(越中)佐久間盛政(加賀)前田利家(能登)
この人達は信長亡き後、勝家の家臣と言い切れないところなんだと思います。単に「味方陣営」なのでしょう。その「味方陣営」まで含めるならば180万石くらいあります。

明智光秀
近江国滋賀郡と丹波一国をあわせ...続きを読む

Q大阪城は大砲の存在を考えて作られてますか?

大阪城は大阪の陣で落城していますが、その際は大砲が大きな役割を果たしたといいます。
有効射程距離が4キロから6キロあったとか。。

豊臣秀吉が1583年に築城した際(完成は何年でしょうか?調べても築城にとりかかった年しかわからないのですが。)、大砲は近畿圏など貿易の港から遠い地域にいる者がわかる程度に伝わっていたのでしょうか?
また、そうだとしたら大砲の攻撃にも備えられるように作ってあったのですか?

Aベストアンサー

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。
 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本格的な大砲攻撃を想定して造られた城ではありません。
 織田信長も鉄甲船に大砲を積んで実戦に活用したりしていますので,秀吉が大砲の存在を知らなかったはずはありませんが,当時の大砲の威力からして,その攻撃に備えるために城の造りを抜本的に変える必要性までは感じなかったでしょう。
 小田原攻めに大砲を使わなかったのは,わざわざ大砲を持ち込むのが戦略的に有効でなかったからであり,徳川家康も大坂城の実質的な主人が淀の方でなければ,大砲は使わなかったかもしれません。なお,大坂夏の陣の約20年後に起こった島原の乱では,オランダの協力を得て大砲攻撃が行われたものの大した戦果は挙げておらず,結局は兵糧攻めと人海戦術でようやく一揆の拠点・原城を落としています。
 原城は,有馬氏によって築城され,一揆当時は廃城となっていた小城であり,そんな城を落とすのにも大砲が大した役に立たなかったということは,要するに当時の大砲では,城を物理的に破壊する役割はほとんど期待できなかったということになります。

 当時の大砲の威力については諸説あるので詳しく触れませんが,何十門もの大砲を連日撃ち続けて,城内に命中したのが1発だけだったと言われていますから,大砲自体が城を強襲で落とす役に立っていたとはいえません。せいぜい淀の方の戦意を低下させるのに大きな役割を果たしたといえるだけです。
 本格的な大砲の攻撃にも対処できる城(要塞)というのは,五稜郭のような星形に近い形状で造られることが多く,防壁の造り方なども根本的に変わってきますが,そのような築城技術は当時の日本にはなく,大坂城も本...続きを読む

Q山崎の戦い、光秀の味方は何故少なかったのか?

 本能寺の変で明智光秀が信長を討ちますが、その後の山崎の戦で羽柴軍に敗れます。
 大義名分では主君の仇討ちの秀吉に理がありますが、軍勢の数にかなりの差があります。細川、筒井、高山など、光秀の頼みとしていた武将はことごとく秀吉方に付きます。光秀は謀反人ですが、当時、信長に反旗を翻していた勢力もかなりあったはずです。
 各武将はお家の行く末を案じての決断だとは思いますが、秀吉と講和した毛利は別として、その他の反信長勢力を糾合できなかったのでしょうか?
 11日天下として、上杉、長曾我部など援軍を集められなかったのでしょうか?丹羽長秀は大坂にいたそうですが、四国征伐には行ってないでしょうか?

Aベストアンサー

 一般の常識的回答からは逸脱しますが・・・

 明智光秀は、細川藤孝が自分の側につくことを確信していた様に感じられます。
 
 細川藤孝はこのとき、息子忠興共々髷を落としてしまい、中川・高山などと違い中立を守ります。また、光秀の娘で忠興の妻であった玉(ガラシャ)を離縁し幽閉ますが、結局正妻の座に戻しています。

 武士が髷を落とすのは、侘び・恭順を示す場合に行なわれる行為で、単に長年の盟友(元々二人とも足利将軍家の家来であった。)と袂を分かつとしても、髷まで落とす必要性があるとは考えにくいことです。
 細川藤孝と明智光秀の間には、他人には知りえない何らかの盟約があって、その盟約を破る侘びと考えれば、光秀の娘をほとぼりが冷めた頃に息子の正妻に戻すというのも、せめてもの罪滅ぼしで納得できる感じがします。

・細川藤孝が明智側についた場合

 細川藤孝は、関が原の合戦の時には手勢五百ほどで一万五千の軍勢を丹後田辺城で釘付けにしたほどの戦略家。そして、細川が味方していれば、洞ヶ峠を決め込んだ大和の筒井順慶は光秀側についたはず。

 更に、兵力不足と指揮官不足で二正面作戦を行なえなかったために、一度安土城を攻め取りそれから軍を戻したため時間のロスが生じ、京と大阪の間の山崎が戦場となったのが、実際の歴史の展開。

 歴史にIF(もし)はないが、細川藤孝が中国攻めの進軍体制のまま明智側についていれば、細川藤孝が東の安土城を攻略し、明智光秀と筒井順慶は、西の大阪城にいた丹羽長秀・織田信孝軍(本能寺の変を聞いた兵が逃亡し兵力が半減。軍としての機能を喪失していた。)を撃破。その時点で中川・高山軍も明智軍に合流していた可能性が高い。

 ここに羽柴秀吉軍が攻めてきたとしても、兵力は山崎の合戦とは全く逆。また地の利も大阪城を占領し摂津を押さえた明智側が有利。
(その情報を得れば、羽柴軍は摂津に進軍しなかっただろう。結局播磨で持久戦体制を取らざるを得ない。)

 織田の五軍団+徳川家康の状況
  明智軍‥‥畿内の支配・経済を確立・朝廷利用。
  羽柴軍‥‥明智・毛利に挟まれて活動不能。
  丹羽軍‥‥壊滅
  柴田軍‥‥上杉との対峙で釘付け(史実)
  滝川軍‥‥北条の攻勢で壊滅(史実)
  徳川軍‥‥信濃・甲斐を切り取る(史実)

 この後どうなるかは分からないが、明智か徳川の政権になった可能性が高いと思われる。
 
 歴史上のことですし、敗者の明智光秀についての資料が多く失われていること、勝者の側に立った細川幽斎と敗者との関係ですから、今後も確定的資料が出てくることは考えられません。
 ですが、朝廷も絡んで(近衛前久・吉田兼見は変の後、織田信孝に狙われたらしい。)細川藤孝と明智光秀の間には、何かしらあったような資料が散見されます。

 キャスティングボードを握るキーパーソンが、どちらに動くかで、結果が大幅に変わってしまう(関が原の合戦もまたしかり。)ことは、よくあるように思います。

 一般の常識的回答からは逸脱しますが・・・

 明智光秀は、細川藤孝が自分の側につくことを確信していた様に感じられます。
 
 細川藤孝はこのとき、息子忠興共々髷を落としてしまい、中川・高山などと違い中立を守ります。また、光秀の娘で忠興の妻であった玉(ガラシャ)を離縁し幽閉ますが、結局正妻の座に戻しています。

 武士が髷を落とすのは、侘び・恭順を示す場合に行なわれる行為で、単に長年の盟友(元々二人とも足利将軍家の家来であった。)と袂を分かつとしても、髷まで落とす必要性が...続きを読む


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