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あらゆる国や地域で宗教がありますが、人は死んだらどうなるのかという問いの答えに関してそれぞれの宗教における共通点のようなものは存在するでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

あらゆる国と言われると答え難くなりますので、知っていると思っている事だけを書いてみます。



宗教の起源は『死に対する不安や恐怖心』だと思います。此処のところを考えた時、他人の死は当然と思えたとしても、自分の死に行く事を『思いたくなかったり、思わないようにしています。』何故なら未知の深淵を覗き込むが如く、恐怖感に包まれてしまうからです。

死にたくないと思っている自分に『気が付くから』と思います。願わくは、どんな事でもしますので『神様に永遠の命をお願いしたくなります。』

ところが過去の歴史を紐解いたとしても、過去の聖人の生涯を辿ったとしても『生まれて、死ななかった人など居ない事に気が付きます。結論から書くなら『自分自身は間違いなく死ぬ事』がはっきりしてきます。

『死ぬ事』が意識に上がってしょうがなくなります、意識地獄に落ちて行きます。ノイローゼになって『自分が死刑囚の身分』になった事から逃げる事が出来ない事が分かります。

或は生活苦という事も挙げられるかも知れません。或は生きる事自体に苦しくなると言う意味で深刻な苦しみを抱くかも知れません。漠然とした不安感や、得体の知れない不気味な不安感に押し潰されてしまいそうになる気分です。

一言で言うなら『生き難い想い』と言う事になります。この生き難い想いが仏教では『業』キリスト教では『原罪』と言う意味になると思います。

こう云った生きる事にも、死に行く事にも付きまとっている『自分自身に加わっている圧迫感』或は『有限の壁を越える事が出来ないで居るもどかしさ』を現実の生活に投影させて『永遠への回帰』と言う心が芽生えると思います。


こう云った一個の人間、自分自身が抱える問題を深刻な問題として提起する事が、魂の叫び、つまり魂の救いを求める事が宗教の原点と思います。有限と永遠のせめぎあいを抱える事が『迷える子羊』と言う意味になります。

人間は肌や人種や国柄の違いこそあっても人類共通の問題を抱えていると思います、それが『生と死』の問題です。死を明らかにしたい思いと、永遠をものにしたい思いを抱えている事を意味します。

この二つを『わが手にしっかりと抱く事が出来た時』宗教の原点と到達点が見えてきます。

人間の心は個人にとっては『秘密のペールに包まれています。』この秘密のペールを剥がす事によって少し分かり易くなると思いますので、その秘密に迫って見ます。

心理学的には『意識する自分』と『意識していない自分=無意識時の自分』と言う関係性です。心理学的にもう一つの表現をするなら『一念』と『二念』です。どちらも人間が対話をしている相手の事です。

行動学的に表現するなら『自我意識』と『没我=我を忘れた自分』です。

精神医学的に表現するなら『感情や考えを感じている自分』と『感情や考えを湧き上がらせている者』です。

身体医学的な表現をするなら『健康を願う自分』と『健康を維持している者』です。

不眠症を題材にするなら『眠りたいと思っている自分』と『眠らせている者』です。

脳科学的に証明するなら次の中で証明されています。


自分では分らないとしても、人間にはもう一つ心が在ります。始めに科学的な証拠をウイキペデアから紹介します。

『”ロジャースペリー 分離脳』
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究
ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。”

この記事だけでは、俄かには信じる事が出来難いと思いますので、この記事を補強するために、脳卒中になってしまって、自分の経験として、『左脳の自分』と『右脳の自分』とを、別々に体験した『脳科学者』の体験談が載っている動画を紹介したいと思います。

URL:
もし出ないようでしたら、ジルボルト、テーラ脳卒中と検索して下さい。

この動画で語られている内容が貴方の質問『あらゆる国や地域で宗教がありますが、人は死んだらどうなるのかという問いの答えに関してそれぞれの宗教における共通点のようなものは存在するでしょうか?』です。

噛み砕いて言うなら、脳内での対話が貴方に質問を抱かせている事を意味します。

禅では貴方の質問に答えています。禅匠に或る日一僧が問い掛けます。『人生とは何ですか?』禅匠はすかさず答えています。『お前は何故この事を疑問に思っているのか?』です。

つまり疑問に思う時、疑問を抱く本人の心の中に”既に答えが用意されている事”を禅匠は知っています。ですが禅匠は答えを教えないで居ます。飽くまでも本人に気付きを促すだけです。

禅では脳内の対話を見越しています。

動画でお分かりと思いますが、右脳の機能は『生命発生装置兼生命維持機能』です。宗教用語で言うなら、仏教では『仏性』」です。キリスト教で言うなら『神』です。ユダヤ教では『ヤーウェイ』です、『在りて在る者』と言う意味です。医学用語では未だ未確認のものとしていますが、日本語にするなら『命を働かせている機能』です。

生と死を二元的に見ている見方が人間の心を『苦しくさせている原因』です。詰まり心の矛盾の産物が『生き難い想い』と言う意味です。

自我意識は”言葉”を持った時から物事を分析して分別して分けて表現する機能になった事を意味します。つまり割り切って世の中を見て判断する機能になった事を意味します。物事を割り切ると言う意味は『割り切れる機能しかない』と言う意味です。。割り切れる事柄は言葉にするなら『有限の世界』を意味します。

他方右脳の機能は母親のお腹の中で細胞分裂する事も、細胞分裂する順序でさえも十分に知り尽くしています。お腹の中で出た後の準備をしています、出た時には既に全ての事柄をしっかりと知り尽くして生きています。

身体に対する生命維持機能も知り尽くして働かせています。心臓や肺の動かし方を質問をしてくる赤ん坊がいない事からも証明されています。

行動に付いても生命維持機能も知り尽くして働かせています。手や足の動かし方などを質問をしてくる赤ん坊がいない事で証明されています。

心に付いても生命維持機能も知り尽くして働かせています。安心する事も不安になり事も恐怖する事までも『何故不安になるのでしょうか?』と言う赤ん坊などいない事からも証明されています。

こう云った生まれ持った機能と一緒になった状態を聖書では『幼子が天国に一番近い存在』としています。思春期頃『自分の裸を他人に見せる事で恥ずかしい』と言う感情が沸き上がる頃を、知恵が付いた為に苦しみの世界に投げ出される『失楽園』と表現しています。


今まで一つの心で対処していたものが『脳の機能分化の結果』お互いに疑心暗鬼になりながらも二つの心に分かれて対処をし始めるようになります。是が中二病吐露ばれる現象です。

そうして生まれ持った自分の機能に付いても疑いを抱くようになります。


身体に対する生命維持機能も知り尽くして働かせていますが、それに対して疑いを抱く場合では、その部位に付いての病名になります。自律神経に疑いを持つ場合では自律神経失調症、腸に疑いを持つ場合では過敏性腸症候群といった具合です。


行動に付いても生命維持機能も知り尽くして働かせています。がその者に疑いを持つ場合では、疑いを差し挟んだところが症状名になっています。話す場合では吃音、字を書く事では字が書けなくなったと錯覚をしてしまう現象です。行動や考える事自体に疑いを持つ場合では強迫神経症と言った、神経症の諸症状になっています。

心に付いても生命維持機能も知り尽くして働かせています。がそのものに疑いを持つ場合では、『感情や考えを湧き上がらせている者』に疑いを持つと言う意味から『湧き上がる感情』に違和感を抱く場合では感情生涯の諸症状を示します。『湧き上がる考え』の場合では湧き上がる考えに違和感を抱いたり、湧き上がる考えを抱かせる者との区別さえ付かなくなる場合もあるようです。詰まり自分が誰かさえ分からなくなるといった場合です。

本当は誰でも知っている事を、もっと言うなら赤ん坊でさえ知っている者を、同じ脳内で対話をしていながら疑う場合に障害と感じています。

キリスト教での理想の姿『幼子』と仏教での理想の姿『嬰児』は同じ事を説いています。心の矛盾を解消して『心を一つの心にして生きてゆく事』を説いています。

そうするなら『心同士が争うことの無い』=『涅槃』=心の中が静まり返った状態になって、動画のような豊かで争う事が無くなって、お互いの心の奥底でお互いが善くなる事を望む心が主体になる生活が始まると、全ての宗教が説いていると思います。

人は死んだらどうなるのかという問いの答えは『赤ん坊が何処からやってきたのかに通じています。』永遠からやって来て、又永遠に帰ってゆく事になると思います。

この事が分かる時、生死の問題が解決する、と表現します。禅を体得した武士達が何も恐れる事無しで戦場に赴き、戦場を駆け回った歴史が、日清、日露戦争で発揮された事によって、今の日本が成り立っていると感じています。日本人が東北での、あの津波の中でも『世界中が驚くほど整然とした行動でいられる事自体』世界では驚きであっても、日本人には当たり前の事の理由です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

動画を拝見させていただきました。非常に面白いです。


私の発した問に一番近い答えだと思われますのでベストアンサーにさせて頂きます。

お礼日時:2014/05/03 12:17

>「徳川軍の旗竿、厭離穢土欣求浄土


オンリエドゴングジョウドは同じ仏教でもあーこの世は辛い来生で幸福に成ろうの回教聖戦戦士
にも通じる思想で戦国時代戦ってましたから徳川の三河軍は強い分けです。

後は世界各地の土着信仰.ユダヤ.キリスト教から神道等死生観は如何なんだろう。」


徳川家康が、負けて、「戒めに」その絵を残した、ってのは、有名ですね。

織田と「戦勝国」になって、武田の旧領から「山縣正景」?の、赤い軍団を、受け継いだ。
「井伊(後、大老の家)の赤備え」って、言うみたいですけど。


「回教聖戦戦士」って、言ったら、普通は、トルコ帝国の
「キリスト教徒改宗少年軍団(イェニチェリ)」ですか。連想しちゃいますね。

「トルコ行進曲」って、
「後ろには死、あるのみ」って、そういう「督軍」だったようです。
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zokkon999様、こんばんは。




宗教と、「国や地域」は、それほど密接ではないと思いますよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます

お礼日時:2014/05/03 11:56

最も大きな共通点は、死んだからといって終わり


じゃない、という点でしょう。
そんな確かな証明(自由に行き来できるとか)
もないものを大前提とするという奇矯さを同じく
するというのを、共通点として指摘しない訳には
いかない。

それは、そうした世界宗教が勃興したのが、
人類の社会性が発達し、短絡的利己=個体間の
抗争による優秀な個体の選択より、協調性の方が
社会的に貢献するようになった時期と一致する
事に示されている。
低認識における短絡的利己主義において、「自分
さえ良ければ他はどうなってもいい」と思いがち
だか、その実みんながそうしたら、「自分だけ
良く」もならないという社会生命的自覚の欠如を、
他律的に補完するタガとして広まったのだ。
そのためには、ヤリ逃げはできない=死んでも
終わりじゃない、という事が必要なのだ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2014/05/03 11:51

死後どうなるかの答えを求められているのでしょうか?


残念ながら宗教にいくら頼っても確かな答えも確信も得られないかと思います。
仮に全ての宗教が同じことを言ってたとしてもそれは「他のみんながそう言ってるから」という以上の意味はなく、いざ自分の死を前にしたら恐怖と疑念を止めることは恐らくできないでしょう。

ちなみに仏教開祖の釈尊は弟子に「死後の世界は実在しますか」と問われた時「神様とか死後の世界とかが実在するかどうかなんていくら考えても結論はでない。そんなこと考えても仕方がない」というようなことを仰ったとされていますね。
前の回答者様のお一人が書かれた孔子の教えに似ていると言えるかもしれません。

死への恐怖を克服するには死後がどうなっているかではなく今の自分を高めていくしかないのかなという気がしますね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます


>死への恐怖を克服するには死後がどうなっているかではなく今の自分を高めていくしかないのかなという気がしますね。

そうしていきたいですね

お礼日時:2014/05/02 12:26

「黄泉・冥府はマイナスの世界(責め苦を受ける地獄とは違う。

ただ、楽しい世界ではない)」
という表現は、誤解を与える可能性がありますので、
以下のように訂正。


【純粋に黄泉・冥府の形を取る場合、】黄泉・冥府はマイナスの世界(責め苦を受ける地獄とは違う。ただ、楽しい世界ではない)

ですね。

仏教の地獄、キリスト教のハデスは、苦痛に満ちた世界ですので。
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こんにちは。



死後の世界は、
 黄泉(よみ)・冥府型・・・シュメルのクル・ヌ・ギ・ア(帰還することのない土地)、日本の黄泉、ギリシアのハデスetc.
 常世(とこよ)型・・・(この世の)何処か遠く離れた場所にある理想的な世界
 輪廻・再生型・・・死ぬと他の生物に生まれ変わる。仏教、ヒンズー教など
 復活型・・・死者は、最後の審判の前に、神によって復活させられ、裁きを受ける。キリスト教など
に大きくタイプ分けされるかと思います。

黄泉・冥府型を常世タイプに含めることもできると思うのですけれど、
黄泉・冥府はマイナスの世界(責め苦を受ける地獄とは違う。ただ、楽しい世界ではない)、常世はプラスの世界なので、この両者は、一応、分けて考えるべきなのでしょう。

純粋に上の4タイプのうちの1つを取る場合もありますけれども、いくつか複合した形の場合もあります。

 シュメル・古代メソポタミア:黄泉・冥府、《クル・ヌ・ギ・ア》。死した人はこの世界から絶対に帰ってこれない。神さまの場合は、例外があって、太陽や季節の循環と結びつく。
 仏教伝来以前の古代日本:黄泉 or 常世
 キリスト教:冥府(地獄・ハデス)+常世(天国・パラダイス)+復活
 仏教・ヒンズー教:冥府(地獄)+常世(神々の世界や阿弥陀浄土などの浄土)+輪廻
といった具合です。
そして、
死後の世界は、人が《生と死》をどのようにとらえるか、考えるか、これによって決まります。

で、ご参考までに
霊界
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C
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この回答へのお礼

タイプ分けありがとうございます。
>死後の世界は、人が《生と死》をどのようにとらえるか、考えるか、これによって決まります。
考える内容は十人十色なのですが、その十人十色の中でも何らかの点である程度の共通項が見いだせれば面白いのになと思っています

お礼日時:2014/05/02 12:19

宗教とは、ある一定の価値観を有する。

共通しているのはそれだけ。但しその内容はさまざまです。まあ、明確な価値観を有していないのは宗教や哲学とは言えない。日本の場合はそんなんばっかりですがw
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この回答へのお礼

ありがとうございます
そうですねぇ。曖昧さが残るのは否定できないです。

お礼日時:2014/05/02 12:15

共通点が無いというのは前回答の方のとおりだと思います。


多くの場合、脅して帰依させる方法として地獄やら煉獄やらを使っているのが怖いです。根本的にオウム真理教と同じです。
蛇足ですが、孔子の見解はなかなか興味深いです。
不可知論というよりは、死んだ後のことなどを考えよりより善く生きるかを考えるのに精一杯!という超ポジティブシンキングですね(^-^)
こういう点が儒教を宗教とは見なさない理由の一つかもしれません。

君子は世を没えて名の称せられざることを疾む。

朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。

季路、敢えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、いずくんぞ死を知らん。
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この回答へのお礼

ありがとうございます
まだ生きる事もそんなに知らないのに死んだ後のことなんて....
まさにその通りですね。

お礼日時:2014/05/02 02:29

死後については共通点はないです。



キリスト教と仏教では全く違います。
ヒンズー教の事はわかりませんが…。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やはり考え方が根本から違うのでないんですかね。

お礼日時:2014/05/02 02:18

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