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私という人物がこの世から消えて無くなる時というのはどの時なのだろうか?
私という存在が死ぬ時?
私以外の存在がなくなる時?
私以外の存在が私という存在を忘れた時?

A 回答 (8件)

これは一つの哲学的考察のサンプルと


思ってお読みください。
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あなたという存在がこの世界に揺るぎなく
在ったわけではありません。
そして、今も「在る」わけではありません。
無論、あなただけでなく、誰しもがそうだし
命というものは究極には、この世を形作る無数の粒子の
波が、一時 輪郭のはっきりしない形状にまとまった、
それだけのことなのかも知れません。

海の波は、一つ一つ「波」として見分けられます。
でも、どこからがその波で、他の波とはどこで
区切られているのかと問われれば、波の端部では
波としての明確な主張を緩やかに失い、平らかになり
そして他の波へと海面の傾斜を変えて行きます。

考えてみれば、人間が「自分」だと頑なに信じている
殆ど全てのものは他者から受け継いだものですし、
書物やインターネットや、様々な「外から得たもの」で
出来ています。

自分なりに組み合わせを変えたりアレンジしたりして
新たなオリジナルを生み出したと思って見ても、その
手法も着想も起源をたどれば全て外から来たもので
出来ています。

つきつめて考えれば判ることですが、人間はその
肉体も精神も、揺るぎなく確固たる永遠の存在足り
得ません。

外からの力や情報を一時蓄え、一塊となったものが
生まれ、成長し、老いて、そして消えていく。

波の生成と消滅は、人間の一生と比べるには
余りにも単純だと思われるかも知れません。
でも、ひも解けば命も複雑なだけで、同じように
波の姿をしています。

他人とは全く別の、固有の揺るぎない存在、
絶対的に存在しているのは「自分」だけだと感じる
人は少なくありません。

それ故、自分が死ねば世界は消滅するはずだと
頑ななまでに思い込んでしまう人も少なくない。

まさか、自分の方が存在しているかどうかさえ
あやふやなモノだとは、中々考えられない。

でも、その出生は永らく続いてきた遺伝子の
出現パターンの一つでしかないし、神経網の
発達や記憶の生成、思考経路パターンの
モデルや、各々の脳内情報物質の蓄積・搬送
回路網も、つまり人格を形成している全ての要素に
ついて「自分だけ」の意志で、「自分だけの思考」の
結果として構築したものなど何一つありはしません。

何故なら、その「自分」自体が膨大な遺伝子と情報の
継ぎ接ぎで出来ているものだからです。

自分を構成している仕組みを自分で作り出す。
それを「思考している、自分は揺るぎなく存在している」と
勘違いしてしまうけれど、そのからくり自体が、時に
神と呼ばれたり真理の謎と言われたりする、不可思議な
マリオネットの糸を操る何者かの意図をおぼろげに
うかがわせる・・・つまり、確固たる自分など実はどこにも
存在しないのだ、という論理的帰結に至る。

波がどこからどこまでが波であるのか、波はいつどこから
生まれてどこへ消えていくのか。

その問いは、そのまま人はどこから来てどこへ行くのか、と
いうものと同義です。

波を構成する海水の分子は、同じ場所にとどまり、ぐるぐると
円運動をしているだけです。
無数の海水の分子で構成される、海という流体の中を
海流や、風や、太陽熱、海底から海面までの対流など、
様々な「力」が流れて行く過程で、ある瞬間、ある点において
「波」という形状を顕すのです。 言わば、一瞬の表情、の
ようなものとも言えるでしょう。 それを「相」と呼びますね。

我々が自分だと思い込んでいるものは、全て外来のもの。
そして、生きている間でさえ、外から情報は流れ込み、
体の中で淀み、渦巻き、何らかの処理を経て、再び外へ
流されていく・・・

今も、自分ではないものたち、外の世界と自分と思い込んで
いる自分の中の「世界」は明確な区切りも実はないままに
地続きに繋がっている。

その波がいつから生まれたかも判然とせぬように、我々の
記憶も、その黎明に朧なまま溶けています。
そして、いつどのように消えていくのかも、一つの波をつぶさに
観察しても明確な境界や時点など無いままに、なだらかに
低くなり、薄れて消失していきます。

元より、あなたも私も一時、この時空にさざめいた波の一山に
過ぎません。
波のように現れ、波のように消えていく。

なめらかに、人知れず、ありふれた風景の小さな変化の一つとして。

だから、私の答えは、「元から存在などしていない」です。

でも、「絶対そんなことはない、私はここに絶対的に存在している」
という、強い感覚を手放すことは中々に難しいことです。
頭では理解出来ることでも、実感として認めがたい時、人は
いつか自分は死ぬのだ、消えてしまうのだ、ということについて
不安を感じ、時に強迫観念のような恐れに苛まれます。

その恐怖に蓋をして考えぬようにすることで、逆に享楽的に
なる人も数多い。

無数の人々、という巨大な世界の体積に押しつぶされそうな
息苦しさから逃れようと、宝くじを買ったりパチンコに何万円も
つぎ込んだりして、一時のラッキーを、僥倖を得ようと足掻いたり
します。
まるで、「蜘蛛の糸」を登る亡者のように、必死に「今」にしがみつく。

それを原動力に人は進化してきたのだし、文明を形作って
来ましたし、孤独に死んで行く未来に耐えかね、男と女は切実に
愛し合い、貪り合い、子を産み、家族という小さな社会を作って
肩を寄せ合って暮らしてきました。

生きている限り、

「自分は自分であって自分でしかなく、自分と他人は一連なりの
連続体であり、自分は他者でもあり、故に全てであり、同時に無である」

ということを頭でしか理解し得ません。

時折耳にする、「観自在」、或いは「色即是空」という概念も、
西洋哲学に云う「アルファであり、オメガである」ということも、
つまりは同じことを意味しています。

「個」を揺るぎない有限、絶対存在と捉えてしまう枷から逃れ、
全てを連なった連続体の中の「相」として捉える。

そのことで、私達の僅かばかりの刹那の生涯を、自分に連なる
家族や人々、そして社会の中に、僅かばかりの限定された
「意味」を見出し、道半ばで斃れ消え去るとしても、想いや
思考を、共に暮らした日々の輝きや愛を、託して消えゆく。
それがとても自然なことだと、理解して死ねるならば、
穏やかな気持ちで薄れゆく景色を眺めながら命の海に
還って行くことも腑に落ちるものです。

ちょっと長く書いてしまいました。
なかなかビシッと短い文章で考えを述べることが苦手です。
お許しください。

波間に浮かんでは消える、あの波一つが誰一人覚えて
いないのは道理のことだし、そのことであの波が不幸だった、
などということもなく、ただ、今日も海辺に寄せては返す
初夏の湘南の海に陽光がキラキラと奇麗です。

あなたも私も、途方もない時間や空間を超えて、いずこかの
時空で私達にとてもよく似た、私達のなにがしかの属性を
携えて再び命として再生された誰かに連なって存在する。

そして、それは未来だけでなく、過去にも連なっている。

だから、私達は真の意味において 不滅です。

落下中の雨の一滴でしかない、私達の「生」ですが、
大地に当たって砕け散ったから消えてしまう訳ではない。

地に沁み入り、やがて河になり、遠くいずこかの海に
注ぎ込むでしょう。

そうしてまた、いずれかの大洋で、気化して空に昇る。

またいつか、いずれかの大地の上に雨粒となって
降り注ぐのです。

あなたも私も、固有の形は失われても、それはただの
「相」です。 命そのものは途方もなく巨大な流転の
さなかにあり、未来永劫、失われたりしないのです。

単なる私事ですが、ご参考にと書かせて頂きました。

どうもありがとう。
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#2の者です。



>では私が私だと思っている私と相手が私だと
>思っている私どっちが本当の私ですか?

宇宙とは、あなたの脳の中にある。
宇宙(あなた)は唯一であり、「どっちが本当の私」
などと問うのは、意味を持たない(これだけ言っても、
また肉体的自己認識へと萎縮するのだろうが)。
あなたが『相手に映る自分は異なるのではないか』
と思っている以前に、相手自体も“あなたに映っている
相手”と、“相手にとっての相手自身”も異なっており、
見えている宇宙自体が異なっている(パラレルワールド)
のだ(そこにいる“別の自分”を知る事は永遠にできない)。

我々は、物理という唯一の共通性を持ち、他人とは
自分の一部=自我成立のための、無(=不確定性無限)
の潜在としての認識可能性における、異なる原理(プラ
ンク定数hの収束=物体収縮=宇宙膨張)の時系列化と
いうプロセスの、射影として生じているのだ。
自己が認識できないものは存在しない‥‥他人の評価
など直接の意味はない、その他人自身の認識能力の
評価の指標になりはしても。
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肉体を持っている間は、当たり前ですが、あなたという「現象」は消えようがありません。

悟りを開いたお釈迦様も肉体を持っている間は全く同じでした。
消えていないからこそ、肉体という「現象」が貴方の五官に感知され、あなたという「幻」が「統覚機能」により作りだされるのです。
肉体を失った後も、解脱しブラフマンに溶け込むまでは、あなたはあなたという「幻」を認識し続け、輪廻を繰り返します。
あなたが解脱しブラフマンに溶け込んだ瞬間に、ようやくあなたはマーヤーの「幻」を脱し、この世から消えてなくなり、輪廻の苦しみから解放されるのです。
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お礼、ありがとうございます。



わたしはですね、
前の回答では、
たとえ外界に事物が存在しようとも、
ヒトにとっての世界とは、主観世界であって、客観世界ではない、
と言うとるのですよ。
そして、各人がそれぞれ異なる主観世界を有している、
と。
テーブルの上のリンゴはその例証。

そして、
私にとっての世界は、私の主観世界だから、私の消滅をもって世界はなくなると言っていい、
と言っているのよ。
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○私という存在が死ぬ時


○私以外の存在が私という存在を忘れた時
のどちらでもいいんじゃない。

好きな方を選べばいいわさ。
これは、
質問者さんが「死をどのように考えるか」、「死(という言葉)をどのように定義するのか」という問題だから。

たとえば、
社会的存在としての死をもってその人の死とするのであれば、
生物学的に生きている人に向かって「お前はすでに死んだ人間だ」と言っても間違いではない。

ある人が生物学的に死したのち、その人に対して他者に残る記憶の忘却をもって死とすれば、
「私以外の存在が私という存在を忘れた時」
も成り立つ。

永遠不滅の霊魂を仮定すれば、
「死は存在しない」
とさえ言うこともできる。

この回答への補足

死ではなく、[私]が[この世]から[消えてなくなる]とはどういうことか?
私とは?この世とは?消えてなくなるとは?ということです。
回答者さんの前の回答から言わせると、
私とは[意識]である。この世とは[私の意識がある場所]である。
消えてなくなるとは元々私にしかこの世は見えておらず、この世からは全く私は認識されていないのだから端からこの世からは消えている。この世も私も[私の意識]しか知らないのだから、私が消えてなくなる時とは[私という存在が死ぬ時]
ではないですか?

補足日時:2014/05/06 16:28
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この世の全てが終わる時

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宇宙は、自己存在成立のための必要として派生


している。
そして、自己の性質には、量子的な過程における
“本質(超弦)的無=不確定無限の、潜在的認識
可能性の変移(プランク定数hの収束の時系列化=
物体収縮=宇宙膨張)”によって、階層現象を表面的
に(いい加減に)捉える事によって、有限的存在性を
発生させるという原理の射影として、相補的に分化
した環境において有限な肉体(空間的・時間的)を
以って感受し、その認識の深まりにおいて宇宙を
自覚化して肉体の空間的有限性を超越し、その
他我化=博愛において肉体の時間的な有限性をも
超越する。
肉体の大きさが有限であるように、寿命も有限である。
だからこそ、異性を愛し、子供を育て、未来を信じて
死んで行けるのだ。

他人は、自我成立のプロセスの射影に過ぎない。
他人の評価に自己認識を依存するようでは、真の
自己存在の本質に根差した自覚はできない。
死がそんなに重要に思う事自体が、自我が肉体に
束縛されている証しに過ぎない。

この回答への補足

では私が私だと思っている私と相手が私だと思っている私どっちが本当の私ですか?

補足日時:2014/05/10 03:28
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とてもむずかしい質問ですね。


私は質問者様の「私以外の存在が私という存在を忘れた時?」という意見にほぼ同意します。
これは死後何年かは覚えてくれる人はいるけどその人達もいなくなったら・・・という考えで誰も自分が居たという事を知らなくなれば存在が消えてしまうのかなと思いました。

が、最近 手塚治虫のブッダを読んで 肉体は死んでもそれを糧にする微生物やらなんやらで生命のサイクルは回り続けるので自分もその一部になるのかなー 大地に帰るというか。
小さい環境で自分の存在を知る人はいなくなるかも知れませんが、大きい目で見ると自分も自然のサイクルの中で回り続けている事になるのかなぁと
自分の肉体を糧とした生き物が生き続け、その生き物を糧とした生き物が生き続け・・・みたいな。
人間としての存在はなくなるかも知れませんが生きた証?として他の命の糧になって動き続けるのかなーと思っています。

なんかよく解らなくてすみません(;´∀`)
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