祝Queenの日!フレディ・マーキュリーの年代別ファッション&ヒットソングまとめ

僕は歴史が苦手(というか全くのど素人)です。ところで、桶狭間合戦は今川勢2万5千、織田勢2千5百の兵力で、なぜ今川義元が敗れたのか理由が分かりません。

そもそも、

(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?

(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (10件)

> 織田方は迂回奇襲をしたのですか? それとも正面攻撃をしたのですか?



物語を面白くするために『迂回奇襲説』がこれまで有力でした。 しかし、信長の戦い方は終始一貫正面攻撃です。 彼の性格からして、徹底的に情報を収集し、一気に正面攻撃をかけたと思われます。

> 今川義元は、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

今川義元の尾張・三河遠征は旧領を回復するための布石としてのものであった。 既に前哨戦で丸根、鷲津砦を攻略し、当日も織田軍の佐々政次、千秋四朗ら300を短時間で一蹴し終っていた。 目的は半ば達成できた。 義元は戦果に満足し、同時に織田軍を甘く見ていたのかも知れない。 

そこへ昼過ぎから急に豪雨に見舞われ、急遽休憩に入る。 二万五千と言われる部隊も休憩であり、いくつかに分かれて休憩に入り、本体は五千人だった。 しかも、総大将義元の休憩場所を織田軍の梁田政綱に知られてしまう。 この情報を元に信長は作戦を義元の首に絞る。 篠突く雨に乗じて義元本陣に急接近、雨の上がった瞬間正面から撃って出た。 

信長の武将としての先進性を示すもので、近代戦を戦う武将としての高い資質が伺われます。 

> 毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

従来の戦であれば、敵の対象の首が最高の論功行賞とされた。 しかし、ここに信長の卓越した人間観察と近代武将としての資質の高さが見て取れる。 情報を齎した梁田を最高に評価。 しかし毛利にも応分の褒章は与えています。 彼も信長の類い稀な指導性に信頼しており、評価に不満はなかったと思います。

貴重な情報こそ最高の富である。 これは21世紀の我々にも妥当する超近代的な考え方です。  伝来したばかりの鉄砲採用への先進性と言い、彼の資質の高さには目を見張ります。 まさに天才としか思えません。 
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。そうですね。信長が天才だというご意見に僕も異論はありません。

お礼日時:2014/05/11 22:13

情報収集の差でしょう



信長は今川の動きを れこそリアルタイムに察知していた
GPSもケータイも無い時代に それこそ今と変わらないぐらいにです

1 信長は「桶狭間山」の山頂に居た今川の本体を強襲しています
  桶狭間はその名前から谷間のように思われていますが実際は山なのです
  信長はその山を登って正面から襲い掛かりました

2 これは完全な油断でしょう
  まさか信長が来るとは思わず 自ら先頭を進軍していたようです
  今川義元は戦でも度々先頭を歩くことがあったようです

3 信長はこの戦いに勝てたのは情報が大きかったことを評価しています
  なので的確な情報をもたらした梁田氏を加増 毛利新助もちゃんと2000石の加増を受けています
    • good
    • 3
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。僕は今まで、桶狭間が山だと知りませんでした。恥ずかしい限りです。

お礼日時:2014/05/12 20:12

梁田政綱の件



信長の近臣(弓衆)の太田牛一は、若い頃から信長について調べたことを書きためていて、これを老後に編集したのが「信長公記」。この公記には梁田氏の件は書かれていません。それどころか、「信長が義元の位置を知らないで発した発言」が書かれています。「あの疲れた部隊を攻撃しろ」と信長は命令しました。もし、信長が義元の位置を知っていたなら、「あの後ろに義元がいる」と命令して、作戦目的を明確にし、味方の士気を上げているはずです。

この太田牛一を「愚直でおもしろみが無い。」と批評した小瀬甫庵が、おもしろおかしく信長公記を書き換えたのが「信長記」(まぎらわしいので甫庵信長記と呼ばれる)。
この梁田の件は桶狭間の戦いの後、50年以上経って初めて甫庵信長記に書かれました。おもしろおかしく書き換えた本にです。
そして、同時代人の大久保彦左衛門に甫庵信長記は「偽り多し」と評されています。

☆現代の研究では、
信長公記・・・・単独で論拠となり得る、余裕で一級史料。
三河物語・・・・彦左衛門の主観が多いが、一応一級史料。
甫庵信長記・・・・小説
という扱いであります。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、分かりました。

お礼日時:2014/05/12 06:02

小瀬甫庵は、作家としては天才です。


帝国陸軍のプロの軍人や歴史学者を欺いて、400年間も奇襲説を信じさせていたのですから。
さらに、「梁田政綱を用いて情報を探らせた。情報が大切だ。」なんて400年も前に創作していたんだから。
おそるべき人物です。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

簗田政綱のエピソードは、まるっきり作り話だったのですか?

お礼日時:2014/05/11 22:19

今川軍25000人説は、明治の陸軍が、間違って割り出した数字です。

太閤検地では駿河・遠江・三河で69万石なんですが、陸軍はなぜか、100万石に太閤検地での平均的な出兵数「1万石で250人」をかけたのです。
信長公記でも4万5千以上というトンデモ数字になっています。そもそも、きっちりと検地をしていない時代の出兵数なんて、大名本人も知りようがありません。出兵数の確定のために検地を進めるのですから。
まあ、太閤検地のデータから類推して1万数千人ってとこでしょう。

織田軍に関しては、一応、数の根拠のある、「三河物語・ベテラン兵士石川による山上からの目撃談・織田軍5000人」があります。

今川軍1万数千人の一部(前軍+本陣)に対して、織田軍の5000人(本陣+主力部隊)なら、合理的な勝機はあります。もちろん、信長の強運は言うまでもないですが。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。なるほど、出兵数については、そういうことだったのですか。納得しました。

お礼日時:2014/05/11 22:16

1、迂回奇襲説は江戸の「軍記物」という小説「甫庵信長記」によります。

エエ加減な書物なんですが、娯楽性は高く、ある意味、傑作なので大ヒットして、奇襲説も広まりました。
正面攻撃説は、信長の近臣の太田牛一による調査研究書「信長公記」によります。この書物は信頼度が高く評価されています。

2,「信長公記」によると、義元本陣は、桶狭間山の「前軍」の後方にありました。ですから、「最前線」というよりは「前線」です。おそらく、この「前軍」を頼りにしていたのでしょう。この「前軍」がなぜかあっさりと崩壊してしまいましたが。ちなみに、「信長公記」によると、信長はこの「前軍」を、攻撃部隊と見誤っています。

3,梁田の話も「甫庵信長記」の作り話です。「信長公記」では、攻撃部隊と思って間違って攻撃した「前軍」が、あっさり崩壊して、直後に義元本陣が発見されています。信長は義元の位置を知らなかったのです。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。解説は参考になりました。

お礼日時:2014/05/11 22:07

1.


結論は出ていませんが、近年の研究では正面強襲説が有力となっています。迂回奇襲説の根拠となったのは、旧日本陸軍の研究に基づくもので、公けの機関の、しかも戦争を仕事としている陸軍が研究してそういう結論に至ったのだから町の歴史家のいい加減な研究ではないというのはあります。当時の軍人としては、正面強襲説をとるとなると軍事的には「禁忌の手ばかりを打って戦争に勝った」というメチャクチャな結論に至るので、「これで買ったなら常識的に考えれば迂回奇襲が正しいだろう」となったのです。
でも、実際の信長が打った手は非常識に非常識を重ねるようなとんでもない手でした。でも結果から考えると「それが最も合理的だった」という凄まじい手でもあったのです。戦術的には非常識極まりなくても、戦略的には合理的だったんです。これこそが信長は戦国時代随一の戦略家だと私は思っているのですけれどもね。

2.
おそらくですが、大高城に向かっていたのではないかと思うのですよ。大高城に入れば、そこが勢力圏で安全な前線基地になりますからね。
それに義元本隊がいたあの場所は必ずしも最前線ではありません。仮にあの場所に信長がのこのこ出てくれば、それこそ今川軍の思う壺で包囲殲滅されてしまいます。だから、常識的に考えればそんなことをするはずがないし、もししてきたらしてきたで「飛んで火にいる夏の虫」だったんです。
なぜかというと、もし信長が出陣したらその知らせが今川軍のどこかに知れていずれその行動が明らかになりますからね。だけどあの辺りについてはホームで地理も知り尽くしていた信長はいってみれば最短の裏道を使って出陣したので「信長本人が出陣した」という情報を今川方もなかなか掴めなかったんだと思います。

3.
良勝(新助)さんはその功績で黒母衣衆という信長の親衛隊に入ったようです。ただし、この黒母衣衆は何も戦場の親衛隊という役割だけではなくて、秘書として直属の部下になるという文官としての役割があったんですね。どうも良勝さんはこっち方面に才能があったらしく、「依頼ありました件は、信長さまに伝えてよろしく取り計らうように命じられていますので、安心してください」というような手紙が残っています。
トヨタの期間工が豊田社長直属の秘書になったようなものですから、破格の大出世といっていいと思います。義元の首をとらなかったら一生足軽に毛が生えたような武士で終わっていたかもしれません。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は大変参考になりました。

お礼日時:2014/05/11 22:02

この質問は、Wikipediaの「桶狭間の戦い」を読んでの疑問ですよね。



私も、この件については、WIkipediaを上回る情報も見解も持っていないのですが、
ただ、このWikipediaの記事を読んで、得られることは、以下です。

結局、桶狭間の合戦については、何が真実なのかは分かっていないし、今後分かる見込みも無い。

我々は、多くの歴史小説やNHK大河で繰り返し描かれる共通点を、歴史の真実と受け止めがちなのですが、
真実はそうでないことや、少なくとも何が歴史の真実なのか分からないことは、多々有ります。

そのように受け止めるしかないのではないでしょうか。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ご意見ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/11 21:57

私も素人ですが、



(1)織田方は迂回奇襲をしたのですか?それとも正面攻撃をしたのですか?

迂回奇襲をしたと読みました。今川義元の居場所をつきとめてそこを襲いました。恐らく団子になった陣地ではなく細長かったのでしょう。細長く広がった陣地を横から攻められればいくら大軍でも不利になります。

(2)大将たる今川義元は、鳴海・大高両城付近から敵が掃討された後、沓掛城を出ればよかったのに、なぜ後方に陣取らず、先陣切って最前線に出てしまったのですか?

二万五千の大軍ですから負けるとは思わなかった。負ける筈のない戦いですからここは勇猛果敢の将であることを顕示しておきたかったのでしょう。

(3)織田信長は、義元の首を取った毛利新助よりも、簗田政綱を功第一としたそうですが、これでは毛利新助は怒り出してしまわなかったのですか?

二千五百対二万五千といっても戦いの限られた現場ではむしろ不意を突いた織田軍のほうが優勢だったわけで義元は神輿にのって逃げ回っていたそうです。そういう状態であれば褒美をほしい足軽が神輿を狙うのは当然です。
義元の居所を正確につかみ奇襲が成功したわけですからやはり情報提供者が一番の功労者でしょう。ただ、義元を討ったという名誉は毛利新助が得ました。毛利新助は有名になりましたが情報提供者の名前は私は初めて聞きました。
毛利新助は二番目の褒美をたっぷりもらったでしょうから二番目の地位には多少不満でも十分うれしかっただろうと推測します。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。ご意見は参考になりました。

お礼日時:2014/05/11 21:55

曖昧な記憶ですが、


(1)圧倒的な戦力差であり、今川方は戦闘になるとは思っていなかった >油断、最前線に布陣。
(2)戦闘になると思わなかったので、今川前線部隊は織田軍を素通りさせてしまった。 >織田側は奇襲と思っていなかったが、結果的に今川側からみて奇襲。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

お礼日時:2014/05/11 21:52

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q桶狭間の戦いのあと

織田信長が今川義元を破った桶狭間の戦いは有名です。
しかしそのあとどうなったのでしょうか?
織田軍の軍勢に対して今川軍の方が多勢であったと思われます。
領地に戻って、体勢をとりなおすことはできなかったのでしょうか?
織田軍が今川領にやってきたとき、今川軍は簡単に降参して軍門に下ったのでしょうか?
それとも武士の身分を取り上げられたり、追放されたりしてしまったのでしょうか?

戦国時代の戦には暗黙の了解があって、大将の首をとったら勝敗が決まることになっていたのは本当でしょうか?
そんなことを聞いたことがあります。

Aベストアンサー

確かに今川勢の方が多勢ではありましたが、桶狭間の戦いが起こったのは5月18日で現在の暦では6月になります。
当時の戦国大名というのは兵農分離ができておらず、農民が兵隊として戦っていました。6月は田植えには大事な時期で、その大事な時期にもう一度、大きな戦をする事は今川家の来年の収入に大きく響きます。このため、義元の跡を継いだ今川氏真は敵討ちができなかったのです。

桶狭間の戦いの後、織田軍は今川家の領内には侵入していません。織田家は松平元康と同盟を結び、美濃に侵攻していきます。
織田家と同盟を結んだ元康は名を徳川家康と改め、今川家の領地に攻めかかります。

義元の子・今川氏真は有能な人物で、仇討ちこそできなかったものの家康に寝返った井伊氏や飯尾氏などを粛正していましたが、同盟者であった武田信玄が家康と結び、両方から駿河に攻め込まれると、遠江の掛川城に籠城し、半年近くも家康を相手に奮戦し、今川家の意地を見せています。
氏真の戦いぶりに苦戦した家康は和睦を持ちかけ、氏真は掛川城を開城して妻・蔵春院早川殿の実家である北条氏康の所に移ります。
その後も氏真は駿河を取り戻す工作を行い、後には上洛して織田信長に蹴鞠を披露して、長篠の戦いでは信長、家康に次ぐ大将として出陣しています。
しかし、信長は氏真に駿河を返す約束を破り、氏真は家康のもとで晩年を過ごしました。
氏真の死後、今川家は旗本として幕府に仕え、長男の範以(のりもち)の子・今川直房が高家となり、氏真の二男・高久の家系は品川氏を称しました。

大将の首を取ったとしても、戦いの勝敗が決まるとは限りませんでした。家来達だけでも戦いを続けた例もあります。しかし、多くの場合が大将が討ち死にすると志気が低下したり混乱したりして、総崩れとなり敗北となっています。

確かに今川勢の方が多勢ではありましたが、桶狭間の戦いが起こったのは5月18日で現在の暦では6月になります。
当時の戦国大名というのは兵農分離ができておらず、農民が兵隊として戦っていました。6月は田植えには大事な時期で、その大事な時期にもう一度、大きな戦をする事は今川家の来年の収入に大きく響きます。このため、義元の跡を継いだ今川氏真は敵討ちができなかったのです。

桶狭間の戦いの後、織田軍は今川家の領内には侵入していません。織田家は松平元康と同盟を結び、美濃に侵攻していきま...続きを読む

Q武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。

武田信玄があと5年生きていたら歴史はどうなっていたでしょうか。
徳川家康は三方原の戦いでなくなっていたのではないでしょうか。
信玄が天下統一をできたとは思えませんが、戦で信長には負けなかったと思っています。皆さんどう思われますか?

Aベストアンサー

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと思います。
1573年4月、義昭が信長に降伏。
1573年7月、信長が義昭を追放。室町幕府滅亡。
まして、信玄がこの時重病(死亡)に陥り、武田軍が引き返すことがなければ、信長は一旦戻った岐阜城から再度上京し義昭と対峙することなく、武田軍と戦うことになる。
そうなれば信長は逆に篭城し、兵農分離されていない武田軍が一旦兵を引くのを待つか、あるいは打って出、武田軍、義昭をはじめとする信長包囲網の挟み撃ちにあい敗れる、または和平交渉した可能性が高い。

信玄があと5年生きていれば、
(1):徳川家が史実のような形で存続できた可能性は低い。
(2):武田家の世代交代も違う形になっている。
(3):1582年3月織田・徳川・北条連合軍の侵攻により、武田家は滅亡したが、(1)(2)であれば、違う形になっている。
(4):(3)の武田家の滅亡がなければ、1582年6月本能寺の変もない。

歴史は変わっていたと思います。
1572年10月、武田軍上洛開始。
1572年12月、三方が原の戦いで、武田軍が徳川軍に勝利。
1573年2月、足利義昭は信長に対し挙兵。
1573年4月、3年間死を公にするな、との遺言を残し武田信玄死亡。

この時、足利義昭は二条御所の周囲に堀をめぐらし城構えの上、持久戦に入っている。
義昭とすれば、信玄が上洛するまでの間、守りぬくだけでよかった。
そのため、信長の講和の申し入れも受け入れなかった。
信玄死亡の報が義昭に届いていれば、義昭は講和を受け入れていたと...続きを読む

Qレジェンドの意味

レジェンドの意味

レジェンドとは伝説という意味ですが、音楽やスポーツにおいてもレジェンドという言葉がしばしば用いられているのを耳にします。

この場合のレジェンドとは、どういった意味で使われているのでしょうか?
知っている方がいましたら、教えてください。


よろしくお願いします。

Aベストアンサー

日本語で伝説的人物というと、私にはどうしても過去の人のイメージがつきまとうので、「伝説として末永く語り継がれるであろう大スター」ということになるかと思います。

英語の辞書ではこのように説明しています。
http://www.thefreedictionary.com/legend
>One that inspires legends or achieves legendary fame.
伝説になる予感がする、あるいは伝説になるような名声を成し遂げた人物、といったところですか。

>a person whose fame or notoriety makes him a source of exaggerated or romanticized tales or exploits
名声や悪名の高さゆえに、誇張されたり美化されたりしてあれこれ語られる人物、ですね。

ということで、legend そのものにピタリと当てはまる日本語の単語はないような気がします。

Q「引導を渡す」という言葉について

「引導を渡す」という言葉について、教えていただけますか。
この言葉は、(とどめを刺す)様な意味で使われることはあるのでしょうか。
例えば、
「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」
とかいう使い方をすることがあるでしょうか。
(壊れかけの車を、ごまかしごまかし使っていたのを、もう諦めて、廃車にする)
ような意味では使われるような気がするんですが、
ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか、
教えていただけますか。
なんとも分かりづらい質問で、申し訳ありません。

Aベストアンサー

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(ガーター)を語って、死者を、迷界から浄土へと導くよう試みる儀式のことになります。

これを、「引導を渡す」と言います。「迷界から浄土へ導く」とは何かと言うと、これは、死者に、「死んだ事実」を確実に認識させ、現世への執着を棄て、悟りの仏道へと進むよう説くことだとも言えます。

つまり、「お前は間違いなく死んだ」ということを、死者に宣言する儀式にもなります。民主主義的とか何とか関係なく、端的に「事実」を語り、事実を宣言する儀式だとも言えます。死の不可逆性を悟って、始めて、浄土への道も開かれるからです。

最初に、こういう「引導を渡す」という形の儀式をしたのは、中国黄檗集の祖、黄檗希運で、彼は9世紀頃の人です。

仏教用語から転じて、「最終的な宣告をして、諦めさせる」という意味があるようですが、これは「最終的な宣告をする」にウェイトがあります。引導を渡しても、相手が納得するとか、諦めるとは限らないからです。

仏教なら、「お前は死んだのだ、そのことを知り、成仏せよ」と引導を渡しても、死者が納得せず、この世への未練から、亡霊などになったり、輪廻に落ちるということは、別に珍しいことでもないからです。

他方、「止めを刺す」というのは、殺したはずの相手を、生き返る余地などないように、念を押して、首を突くとか心臓を刺して、死を確実にすることです。ここから転じて、念を入れて、終わらせるという意味になります。

「敵の攻撃に止めを刺した」というのは、単に攻撃を撃退するだけでなく、もう攻撃できないよう、念を入れて撃退・壊滅させることでしょう。またこれで、最後の最後だということで、「日本画のあの分野では、現代ではA氏がとどめを刺した」という風に使います。

>「(壊れかけの)会社の車に、おれが引導を渡してやった。」

これは用法としてあると思います。「引導を渡す」というのは、かなり転用されます。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

「引導を渡す」と「とどめを刺す」では、意味が元々違います。しかし、或る場面だと、二つの言い方で、どちらでも使える場合があります。「総務にかけあって、あの車は、おれがとどめを刺してやった」というのは、同僚などに語る場合は使うと思います。

そもそも車に向かい、「お前はすでに死車だ、そのことを知り、迷わず成仏せよ」などというのはおかしい訳です。この場合の「引導を渡す」は、「もう無用の車だと宣言する」ということでしょう。車に擬人的にこう言っているのだとしても、車に同意や納得を求めている訳ではありません。

だから、もう壊れかけ、実は廃車となっているはずの車に、最後の止めを刺して、実質廃車にした、という意味で、「止めを刺した」はありえると思います。

会社か総務の方針かなどで、とっくに廃車(死者)になっている車が、迷って、この世にいるのを、お前はもう廃車だ、この車はもう廃車だ、と宣言することが、「引導を渡す」であり、またそのことは「とどめを刺す」ことにもなるからです。

(もっと偉い人が、車を廃車にしない総務の担当に、廃車にしなさいと、引導を渡す、ということはあります。しかし、担当にとどめを刺すとは言いません。担当に引導を渡し、車にとどめを刺した……というような言い方になるでしょう。無理に例を作ると)。

「引導を渡す」と「止めを刺す」は、元々の意味が違いますから、特定の場面でしか、この二つの表現は成立しません。それも、かなり口語的で、「砕けた表現」の場合に、両方使えると思えます。

だから、この場合は、あれは廃車だと思っている同僚に向かい、軽く言う場合は、「おれが引導を渡した」「おれがとどめを刺した」は使えますが、上司に向かい、「課長、私が、あのぼろ車にとどめを刺しましたよ」というのは、酒の席だとかで冗談めかして言うならともかく、ちょっと使わない方が適切です。

>ここでは、単に(とどめを刺す)という意味で使えるかどうか

ここでは、話す相手や場面によりますが、「引導を渡す」は、「止めを刺す」という意味で使えると思います。しかし、この二つの表現は、本来起源が違うので、一般的な使用の慣習などで、判断しなければならないと思います。

口語調で、少し乱暴に言う場合以外は、基本的に、違う表現・言葉だと考えた方がよいと思います。
 

 
「引導」というのは、元々中国で古くから使われていた言葉で、特に「道教」では、一種の気息術か、呼吸法で、大気を吸い込むことを言いました。しかし、普通の言葉として、「手引きする」「案内する」というような意味をあいます。

仏典を漢訳するとき、サンスクリット語 parikarsana の訳語に、この「引導」を選んだのです。「法華経」では、人々を導いて仏道に入らせる意味で使われています。また、死者を済度する意味でも使います。

後に、死者の葬儀の時、導師が、棺の前で、法語や仏教の教えの詩(...続きを読む

Q桶狭間の戦い 本当にあんな差があったのか?

今川義元4万五千(2万五千説もあり)
織田信長3千
なんて言われて、あらまぁ10倍の勢力と戦って、よく勝ったわね。なんて言われていますが、ちょっと待ってね、後年になりますが、太閤検地によれば

http://daiiti-web.hp.infoseek.co.jp/zatu001.htm

今川:駿河、遠江、三河で、約70万石
織田:尾張、57万石

だいたい、100万石で3万程度の動員力ですから、今川の2万五千は、いっぱいいっぱい、甲駿相三国同盟 万々歳の動員力です。
この時点で、信長の尾張統一戦は半ば(確か)上四郡の統一は終わっていたので30万石で一万くらいの動員力はあったはずです。

10,000ー3,000 七千はどこに行ったんだろう?

あるいは、後世にいかに信長がすごいかと、語るために少々少なめに伝えたのだろうか?

Aベストアンサー

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・今川:二万余
「甫庵信長記」
 ・織田:三千(善照寺の東に集結したとき)
 ・今川:四万五千
「足利季世記」
 ・今川:一万余
「家忠日記増補追加」
 ・織田:三千余
 ・今川:四万余

出典によって結構バラツキが大きいです。

織田/今川の大きな格差は、そもそも数字の比較対照が違っていると思います。

今川は総勢。大高城救援に向かった松平元康勢など各地に散らばった全ての兵数。

一方で織田は義元本陣に突入した一部の兵数。鳴海城・大高城を囲んだ丹下・善照寺・中島・鷲津・丸根の砦に陣する兵数は完全に除外されています。

私が思うに、二千・三千といった兵数は信長直轄の精鋭のみの兵数です。弟信勝と争った稲生の戦い(弘治二年・1556)のとき七百だった直轄軍を、永禄三年(1560)には二~三千にまで増強したのだと思います。

参考URL:http://www.pref.aichi.jp/kenshi/information/index.html#02

たまたま今日、頼んでいた「愛知県史 資料編11 織豊1」が届きました(参考URL参照)。高いのでボーナス時期でしか購入できません…。この中に「特集 桶狭間の戦い」と題する史料集がありましたので、数字を拾ってみます。

「信長公記」
 ・織田:二千に不足(中島砦を出るとき)
 ・今川:四万五千
「三河物語」
 ・織田:三千
「道家祖看記」
 ・織田:二千あまり
 ・今川:六万余
「定光寺年代記」
 ・今川:一万人被打(討たれた人数)
「享禄以来年代記」
 ・織田:七百余
 ・...続きを読む

Q明智光秀はどうして信長を殺したんでしょか?

こんにちは
日本史に詳しくないのですが、
明智光秀はどうして信長を殺したいと思ったんでしょうか?

また信長というのは攻撃的な性格という印象がありますが
いろんな人間から恨みを買ったため、そのうちこういう目にあうのも
自然な成り行きだったという事なんでしょうか?
それとも…???

Aベストアンサー

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではないでしょう。ご紹介したサイトには7つもの推測が記載されていますが、これだけの背景があれば、謀反を起こすには十分すぎるたのではなかったかと思います。

 光秀は、今で言うインテリで、大変まじめな性格でした。逆に、プライドが高く、融通の利かない面があったと推察されます。このことから、信長の過酷な性格と相容れない部分が多く、最後には追い詰められて限界に達したのでしょう。

 彼は信長に見出され、一気に出世階段を駆け上がっていきますが、人使いの面では、他の織田家の武将同様、酷使されていました。信長は、今まで評価してきた幹部でさえも、働きが少し鈍るだけで首にしたりしたのですが、こうした面が、彼を追い詰めることになったのでしょう。

 余談ですが、現代を見ても、急成長している企業で、社長の腹心が唐突に辞職するケースは大変多いのです。社長からすれば、部下に十分すぎる給料をやって、相応のポストを与えて、一体何の不満があるんだ?と言うことなのでしょうが、それに応える部下の心労は、人並みではないと言うことでしょう。こうした企業では総じて、頭脳だけでなく、図太い神経をも持ち合わせていなければ、勤まらないことが多いようです。

 ご参考まで。

 本能寺の変は、日本史の謎の一つですね。

 さて、下記のサイトがありましたのでご紹介します。
■本能寺の変
http://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/honnoujinohen.html

 よく言われるのは母親の見殺し説です。
 光秀が波多野秀治を攻略する際に、自分の母親を人質として差し出すことで開城に成功しました。しかし、信長は波多野秀治を殺してしまい、それに怒った家臣は光秀の母親を殺してしまいます。こうしたことが引き金になったのではないかと言われています。

 ただまあ、理由は一つではな...続きを読む

Q今川義元は愚将?名将?

友人たちと“今川義元”について議論をしていて様々な意見が出ましたが、結論は出ませんでした。
今川義元は愚将だと思いますか?
名将だと思いますか?

Aベストアンサー

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の合戦については、下記の本が詳しいです。

桶狭間の戦い 戦史ドキュメント 小和田哲男/〔著〕
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=30723531
桶狭間の合戦について多くの史料を詳細に分析した、現時点で最新の研究成果といえるでしょう。

今川義元が討ち死にした時の状況は、「史実の三方ヶ原の合戦の時期に、徳川家康が、遠江に侵入した武田信玄を討ち取った」に等しい「奇跡の勝利」です。義元は、味方の城の後方の「安全な地域」に陣を張っている所を、予期せぬ織田軍の攻撃に本陣を破られて討ち死にしました。

西洋で史上最高の名将とされるナポレオンは「敵より迅速に機動し、常に自分の全力で敵の一部を叩く」ことを常にできる武将で、そのようにして連戦連勝してフランス皇帝に上り詰めました。信長の桶狭間での戦勝はナポレオンのやり方と理屈は同じです。

「義元は十分に名将といえるが、信長は世界の戦史上も稀な『超名将』であった」ということです。

今川義元は十分に名将と言うべきでしょう。

学問の師(兄弟子)である雪斎を参謀として家督争いを勝ち抜いて今川家の当主となった時、今川の所領は駿河と遠江の2カ国でした。家督相続後、武田家・北条家と同盟し、かつ北条氏が占拠していた駿河の富士川以東部分(河東)を今川領に戻しました。

義元の代で三河を完全に所領化し、尾張も3分の1程度を所領化していました。家督相続後に今川家の所領を2倍以上にしたと言えます。尾張での勢力圏をさらに広げようと出兵した所を織田信長に討たれました。

桶狭間の...続きを読む

Q織田信長と徳川家康の関係

この時代のテレビドラマは、大河ドラマをはじめとして非常に多く製作されていますが、見ていていつも気になるのは、織田信長の時代に、信長は家康を厚遇しているような描写が多いことです。その頃、確かに信長と家康は同盟していたとはいえ、力や勢いでは信長の方がはるかに上で、足利義昭にもあれだけ不遜な態度をとっていた信長が家康にだけ賓客のように扱っていたというのが信じられないのですが(秀吉に対しては「さる」なのに、家康に対しては「家康殿」などと言っています)。このような家康の「持ち上げ」は、やっぱり後で幕府を開いたことによる製作者のご祝儀相場であると考えていいでしょうか?実際の信長は家康に対し、もっと偉そうな態度をとっていただろうと考えている私が間違っているでしょうか?

Aベストアンサー

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田家の敵であったわけですが、これは「戦国の習い」であり、致し方ないものとされたでしょう。

今川義元の死後しばらくして家康は今川氏真と手を切り、信長と同盟を結んで背後の憂いを経ちました。この時に家康が信長の居城である清洲城を訪問したといわれますが、ここで両者は約20年前の思い出を語り合ったと想像できます。この時期に織田と徳川が同盟し、信長の死までの20年間揺るぎなく同盟が継続したのも、「信長・家康の少年時代の良き思い出」があったからかもしれません。

その後、信長の娘の五徳姫が家康の嫡男の信康に嫁いで血縁関係が結ばれ、信長と家康は誠実に同盟義務を果たしあったと評価できます。

家康は朝倉攻撃(浅井の裏切りで失敗に終わる)や姉川の合戦で近江に出陣して信長を助けましたが、一方で家康は主敵である武田信玄・武田勝頼との抗争で少なくとも3度、織田からの援軍を得ています。

(1) 三方ヶ原の戦いの前後 (信長は、足利義昭が諸大名を扇動して形成した『信長包囲網』でがんじがらめにされていましたが、約3千人の援軍を出しました。この兵力は、家康が浜松城に篭城して信玄に対抗するのであれば大きな戦力となります)

(2) 信玄の死後、勝頼が遠江の高天神城を攻略した時 (結果として援軍は間に合いませんでしたが、信長自身が出馬しました)

(3) 勝頼が長篠城を攻囲した時 (信長の本拠地から近いこともあり、信長自身が大兵力を率いて出馬し、家康軍と共同して、長篠の合戦で大勝利を収めました)

長篠の合戦で武田軍が大損害を蒙った後は、武田と織田+徳川のパワーバランスが明らかに武田に不利になりましたので、武田が積極的に織田・徳川に戦を仕掛けてくることは減りましたが、長篠の合戦の後は家康が信長の合戦に援軍として参加することはなくなり、徳川が独力で武田の脅威を排除する(排除できる)ようになっていたようです。結果として、遠江から武田の勢力は次第に駆逐され、家康は三河・遠江の二国の太守となりました。

「信長が、家康の嫡男の信康と正室の築山殿の処刑を家康に命じた」
とされる事件ですが、近年の研究では
「信康と五徳姫の仲が悪かったのは事実のようだが、五徳姫が信康の非を父の信長に訴え、それが信康と築山殿の『信長から家康への処刑命令』につながった」
というのは俗説であるとする見方が有力になっているようです。

史料から伺えることは、
「家康と信康との間に対立が生じ、家康が自分の意思で信康を幽閉、次いで切腹させた。信長は『家康殿の思うように処置されれば良い』という立場であった」
ということのようです。

現に、織田と徳川の同盟は信康の死の後も全く揺らいだ形跡はありません。
これは私見ですが、
「『家康が嫡子である信康と対立して腹を切らせた』というのは、信玄の嫡子の義信に対する仕打ちと全く同じで人倫にもとり、外聞が悪い。『信長に命じられて止む無く腹を切らせた』とすれば、家康の名誉が守られる」
ということで、江戸時代になってストーリーを作ったのではないかと考えます。

また、信長の死後に、羽柴秀吉と対立した織田信雄を助ける形で、家康は小牧・長久手の合戦を戦っています。
後世から見れば、「家康の武略に秀吉が翻弄された」「羽柴と織田の対立を徳川が利用した」ようにも見えますが、実際の所、兵力では羽柴軍は徳川・織田軍より圧倒的に優位です。羽柴軍の戦いようによっては「圧倒的な兵力で徳川を押し潰す」ことも可能であり、家康はそれを覚悟して開戦した筈です。
「家康が、信長の死後も友諠を忘れていなかった」状況証拠となるでしょう。

家康が信長に対してどのような感情を持っていたのかは史料からはなかなか伺えませんが、状況証拠として、
「関ヶ原の戦いの後で家康が天下を取った後の、信長の子孫への待遇」
で推し量れるのではないでしょうか。

関ヶ原の合戦で家康に明らかに敵対し、剃髪して高野山に上った織田秀信は仕方ないとして、

信長の弟の織田長益(有楽斎)
信長の不肖の子であった信雄

の二名が、1600年現在で生き残っていた信長の主な近親ですが、家康はいずれにも「大名」の地位を与えております。

信長の縁者の江戸時代以降の状況については、ウィキペディアに詳細に書かれていますが、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%B0%8F#.E6.B1.9F.E6.88.B8.E6.99.82.E4.BB.A3.E4.BB.A5.E9.99.8D
さしたる武功もなく、「積極的ながら西軍についた」者も少なくない中で、天下人となった家康は、信長の縁者を十分に優遇していると言えるのではないでしょうか。

結論としては、信長は家康のことを「頼りになる弟」と考え、そのように待遇していたのではないかと考えます。

信長は家康より9歳年上です。そして、家康が幼少の頃に1年ほど尾張の織田信秀(信長の父)の所にいた事実があります。この時に、まだ10代であった信長は、家康と交流を持ち、互いに器量を認め合ったと想像することは容易です。No1さんもこれを指摘しておられますね。

その後松平家は今川家の傘下に入りました。今川義元が桶狭間で討ち死にし、今川家の勢力が一気に縮小に向かうまでは、家康は織田...続きを読む

Q20歳以上の人と援助交際するのも犯罪ですか?

20歳以上の人と援助交際するのも犯罪ですか?

自分の周りには結構援助交際してる奴が多いです。
『それって犯罪じゃないの?』って聞くと18歳以上(相手が)だから大丈夫だとか・・・。
それで、みんなが援交で利用するサイトを教えてもらったのですが
確かに援交したい女の子がたくさんいました。
(内容は分からないように投稿してあるけどメールのやりとりしたらそういう意味だった。)

でも自分は興味はあるけどそれが犯罪に関わる事ならしたくないと思います。
援助交際=売春ですよね?
売春をwikiで調べたところ犯罪になるケースは以下の通りでした。
1)公衆の目に触れる方法による売春勧誘等(5条)
2)売春の周旋等(6条)
3)困惑等により売春をさせる行為(7条)、それによる対償の収受等(8条)
4)売春をさせる目的による利益供与(9条)
5)人に売春をさせることを内容とする契約をする行為(10条)
6)売春を行う場所の提供等(11条)
7)いわゆる管理売春(12条)
8)売春場所を提供する業や管理売春業に要する資金等を提供する行為等(13条)

↑を見てみると勧誘、斡旋、仲介的な?人達が処罰受けるようになってますよね?
私の場合だとサイト側が捕まる感じで本人は捕まらない?ように見えます。

本人同士の合意の上で援助したら大丈夫なんでしょうか?

20歳以上の人と援助交際するのも犯罪ですか?

自分の周りには結構援助交際してる奴が多いです。
『それって犯罪じゃないの?』って聞くと18歳以上(相手が)だから大丈夫だとか・・・。
それで、みんなが援交で利用するサイトを教えてもらったのですが
確かに援交したい女の子がたくさんいました。
(内容は分からないように投稿してあるけどメールのやりとりしたらそういう意味だった。)

でも自分は興味はあるけどそれが犯罪に関わる事ならしたくないと思います。
援助交際=売春ですよね?
売春をwikiで調べた...続きを読む

Aベストアンサー

#3です。そうです「グレーゾーン」なんですよ。

『売防法』は、「不特定の相手との性交を対象」としているので、単にセフレに小遣いを渡しているだけなら、売防法違反とはならんでしょう。通常の成人間の金品が絡んだ男女関係では、このセフレもしくは愛人関係に当たりますね。

ただご質問にある「サイトを通して知り合った者同士の援交」の場合。これは都合良く当人たちが、援交と称しているだけで、実際には売防法違反となります(実例や判例あり)。法律上では「援交」とは、『未成年者に関する』を基本にしているのであって、成人間は該当しません。

また補足ですが「買春」も、『未成年者の売春』に対する言葉であり、ご質問のように「成人間」の場合には、例え売防法で捕まったとしても一方を「買春」とは言いません。(判例を検索すれば分かります)

ご参考までに☆

Q長生きしてたら武田信玄は信長に勝てたと思いますか?

全国1億2千万信玄ファンの皆さん、こんにちは。

自宅で資料整理をしていたら、往年の名作「信長の野望 戦国群雄伝」のガイドブックが出て来てしまいました。仕事で忙殺されてるというのに、思わずよみふけりですよ!(嗚咽

生来の里見家フリークな私は、別に武田信玄に対して悪意を抱いているわけではないのですが。
果たして信玄が長篠の戦いまで存命であったなら、信長に勝てたのでしょうか?

どう考えても、無理ゲーと申しますか、馬で柵は突破できないだろ的な考えを抱いてしまいました。

甲斐の虎、戦国最強の呼び声も高い武田信玄のファンの皆さまからの熱いご意見をお待ちしております。
(煽っているわけではありませんので念のため。徹夜明けでテンションが高いだけです)

Aベストアンサー

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としていた武田家に対して、木曽・揖斐・長良の河川運送と伊勢湾の海上輸送に基礎を置いた津島や熱田の商業都市から始まって、琵琶湖の水運に基礎を置く近江商人の活動域、瀬戸内海運と淀川の水運に基礎を置く商業都市である堺を支配することにより、織田領では平時にも大規模な物品流通が確立しており、徳川領も織田経済圏の東の部分を形成していました。


・武田軍の戦い方について
1、三方ケ原では、武田軍は圧倒的に有利な位置に陣を構えながらも、徳川軍との戦端をなかなか開こうとは  しなかった。
  結局開戦は、午後4時ごろから始まったようだ。
2、武田軍は、有力な領主の連合体によって形成されている。
3、織田軍のような高度の兵站能力は持っていない。

 1・2・3から見て、信玄の場合、「上洛」とは、甲斐・信濃から西に向かって、有力な戦国大名を傘下に収めて領土を拡張して京に至るというやり方であるようだ。

 三方ケ原の戦いでは、信濃を領地化した時と同じように、遠江・三河を領地に編入することが第一目的であって、その結果上洛できる条件が整うなら、実行に移すという考えではなかったかと思う。

 つまり、信玄の上洛は、徳川軍が武田軍の軍門に下り、その戦力が武田軍に加わるということが条件であったのではないかと推測している。
・三方ケ原の戦いでは、両軍の対峙が長く、開戦時間が夕刻と言っても良い頃になった。
・敗戦の程度の割に、徳川軍の武将の死者が少ない。
・三方ケ原の戦いの後、浜松城に対して包囲攻城戦が行われていない。
この様な疑問に対する答えとして、信玄が家康を武田軍に組み込むことを考えていたと見ている。



 

 他の回答者の方々が指摘していない点について

・織田軍と武田軍の性格の違い
 織田軍は、専業兵なのに対して、武田軍の兵力の主体は農民兵です。

 織田軍は、戦闘を専業とする兵を主体としており、兵糧をはじめとする兵站部門を持っていました。
 それに対して、武田軍は騎馬が多く、他の戦国大名と比べて物資輸送能力は高かったものの、織田軍のような兵站と言うレベルの軍需物資輸送ではありませんでした。特に物資の海上輸送能力は織田軍の方が格段に高かったようです。
 これには、内陸を領地としてい...続きを読む


人気Q&Aランキング

価格.com 格安SIM 料金比較