《スマナサーラ》というのは そのひとの思想について言っています。
その文章を取り上げ 二件 問います。
▽ 釈迦尊の教え・あなたとの対話 ホームページに寄せられたご質問から
▽ ((17) 救うことが大事では?) ~~~~~~~~~~
http://www.j-theravada.net/qa/qahp17.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Q: スマサナーラ師の著作を読んでいる読者です。
一応、自分の探求の為に色々な哲学書を読みました。そんな中で、日本仏教界ではサリンを地下鉄にばらまいた団体や子供の首を切ったサカキバラ等に救いの手をさしのべないのはどうしてでしょうか?彼らを救う事こそ仏教にとって大事なことだと思うのですが?みなさんはどう思いますか?
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
A: カルト的な団体は基本的には閉鎖的です。入信しない限りアクセスできません。
仏教はこころの自由は大事にします。
故に、社会的活動する団体であるならば入会できますが、こころの自由を売り渡す団体には入団できません。
人はだれでも助けてあげるべきです、(できるならば)。
「救う事」は非仏教的な行為です。
仏教は、「教えてあげる」、「導く」、「協力する」、「助ける」、「たまに『目を覚ませ』と叱る」などはしますが、「救う」ことだけいたしません。悟りの道だから不可能です。救うーsalvationはたての関係です。残念ながら仏教は横の関係で語っています。仏陀、覚った方々が先輩で求道者に道案内はします。
スマナサーラが批判受けながらも毒説的に説法しているのは仏陀の本当の教えに目を覚まして頂きたいからです。かの団体の人々とも話し合ったことがあります。皆私に仏教を教えてあげることに踏ん張ったのですが人(私)の話には決して耳を向かなかったのです。魚に陸上マラソン教えるようなものでした。
話を聞きたいと思う人には話せます。
自分の受信機の電源を切っている人に世界中へ放送するものでも聞こえるでしょうか。
放送局は各家庭に入り込んで強引に受信機のスイッチを入れるべきだと思いますか。
地下鉄サリン事件、子供殺しなどをした方々の団体を日本仏教界にどなたがいれたのでしょうか。「私こそ仏教です」と自称しても仏教になるのでしょうか。
人が「私は日本の総理大臣です」と言ったら、たったそれだけの理由でその人は総理大臣ですか。大事なのは人が持っている看板ではなく、その人の中身だと思いますが。
仏教は全ての生命の見方であってある特定の犯罪グループの見方ではありません。
生きる道を間違っているのはオカルト団体に入団している人々だけだと思い難いです。
経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。ですから平等に皆に教えてあげるべきです。
終り。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 問いは こうです。
(α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?
☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。
▽ ((62) キリスト教批判?) ~~~~~~~~~~~~
http://www.j-theravada.net/qa/qahp62.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Q: スマナサーラ長老の新刊本『ブッダの智恵で答えます』の64ページに
「『すべて私の意のままに運ぶのだ』と威張っているのは、キリスト教の神様だけです。しかし聖書を読んでみると、最初から最後まで、一つも神様の希望どおりにいっていない。だから聖書と言うのは、旧約聖書も新訳聖書も、神様の完全なる失敗の記録なのです。それで神様は腹を立てて、黙示録という脅しで聖書を終えているのです。『最後にお前らを審判してやるぞ。地獄に落としてやるぞ』と。」と書かれています。
ブッダを尊敬するクリスチャンとしてこの本からも学びたいと思ったのにこれでは読む気を失います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
A.投稿ありがとうございます。
批判されると嫌な気持ちになるのは人間の一般的な感情だと思います。
しかし、誰も彼もの機嫌を取って、当たり障りのない言葉だけ羅列したところで、何の役にも立ちません。新しいアイデアを提供したことにもなりません。思考を刺激したことにもなりません。
世界は親分と子分で構成しているものではありませんので、人々は自由に自分が観察したものを公表するのです。
その意見に反対であるならば、具体的に異論を立てる自由が人にはあります。
「オレが嫌だ」というだけでは、もの足らないと思います。
キリスト教を批判しているのは、こちらだけではありません。イスラムの人も、何をいわんやキリスト教信者の人も批判するのです。
しかし、教会が腹を立てたという話は聞いたことがないのです。仲良く楽しく批判しあうことによって、どちらも成長するのではないかと思います。
とりあえず参考図書として、『誰も教えてくれない聖書の読み方』ケン・スミス著 山形浩生訳 晶文社 をお勧めします。超面白いです。
A.Sumanasara
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 問いは こうです。
(β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?
テーラワーダをめぐって 賛同および批判をお寄せください。
No.1ベストアンサー
- 回答日時:
こんにちは。
最初のQ&Aを読み、何か違和感を覚えました。
最初はその違和感を感じさせるものが分からなかった。
ですが、《驕り》を敏感に感じ取っていたようです。
皮膚感覚的に《驕り》を感じ取っていたようです。
たとえば、
「魚に陸上マラソン教えるようなものでした。」
人(私)の話を聞いて分からない奴は、ヒトではなく魚なんですよ。聞く耳を持たないような奴は、ヒトではなく魚。同じ人間だなんて考えていない。
そうした《驕り》があふれているんですよ、この文章。
まぁ~、Theravadaですから。
比丘(魚籠?)、仏教の出家者は、優婆夷・優婆塞より限りなくステータスが高い。恐れ多くて、優婆夷・優婆塞は、比丘に声をかけたり、話しかけたりしてはいけない。お話をしていただくのを待つしかない。それくらいエラいんでさ~、Theravadaの比丘というのは。
”経済的効果のみを狙って生きている、しっかりしていると自称している人々も、仏教から見れば『人生の寄り道に迷っている』と思います。”
なんてありますが、
それは、《あなた》もなんですよ。
こうした自覚がないんですわ~、欠如している。
【誤】「救う」ことだけいたしません。
【正】「救う」ことはできません。
所詮、オシエですから、人を「救う」ことはできない!!
この文脈でならば、
☆ (α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。 》について ブディストのみなさんは どういう評価をしますか?
◇自身を救うのは、他者ではなく、自分ですからね~。自分の行為であり、自身に内在する???。摩訶不思議なハタラキ、チカラ。
そして、
☆ 質問者としては 《おのおのワタシが ナゾの何ものかによってあたかも魚が網に掬われるようにしてチカラを与えられて みづからをすくう》と思っています。
と一致します。
☆ (β) この質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
◇超~上から目線ですから(ニコニコ)。
対等な関係ではないので、《仲良く楽しく批判しあう》などありえない。
何しろ、《魚》ですから、わたしたち(笑い)。
Theravadaを信じられない奴は、みんな《魚》です。
自分を人間やヒトだなんて思ってはいけませんよ。
思い上がりも甚だしい!!(笑い)
こんにちは。ご回答をありがとうございます。
◇ 比丘(魚籠?)、仏教の出家者は、優婆夷・優婆塞より限りなくステータスが高い。恐れ多くて、優婆夷・優婆塞は、比丘に声をかけたり、話しかけたりしてはいけない。お話をしていただくのを待つしかない。それくらいエラいんでさ~、Theravadaの比丘というのは。
☆ あぁ。そうなんですか。だから 托鉢に出向いて生活が成り立って行くのでしょうか。日本の現状は どうなんでしょうか。まだいくらかは そういった比丘の特権を保持していましょうか。
なるほど。ステータスがあるという土壌があるのですね。その上で話をしている。という。
そう捉えると だいたい分かりますね。――分かっても 何にもなりませんが。
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
【誤】「救う」ことだけいたしません。
【正】「救う」ことはできません。
所詮、オシエですから、人を「救う」ことはできない!!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ この訂正とその確認は 大事でしょうね。これをはづさなければ それほどマチガイはないのでしょうに。
一つ目の質疑応答で 回答の末尾に
▽ 終り。
とあります。ただ単に軽く言ったとも あるいは いかに会得したとは言え外国語としての日本語だから こういった言い回しになるのかとも思いましたが これにも 変な感じがして来ました。
▽ ですから平等に皆に教えてあげるべきです。
と言うのは われに耳を傾ける人たちには平等に なのですね。
とにかく自分は 平等にひとに相い対している いつものとおりです はい おしまいと言っているように感じてしまいました。
さて テーラワーダあるいはヰパッサナー瞑想等々 これをどう扱うか?
というより 読者や賛同者がいるのですよね。本部が 経済的に成り立って行けているほどには。
創価学会と幸福の科学は いちおう取り上げてありますが このテーラワーダは どう扱えばよいのか?
何だか こちらは 変にお手上げの感を持ちます。
No.12
- 回答日時:
>★ 救うということと助けるということとは各々縦の関係と横の関係を前提としています。
> ☆ ということは 《救うということ》をも 一般には前提としているとおっしゃっており そういう行き方の宗教――ほんとうは>.信仰――があるということですね?
> とすれば 一般にふつうにスマナサーラさんへの質問者氏は その一般的な《すくい》ということについて テーラワーダ・ブ>ディズムは どう捉えているのか? こう問うているはずです。
> つまりは
> ★ 先師の役割は弟子の成道を助けることであり、決して救うことではないのです。
> ☆ であったとしても その《助けた》結果として 《すくわれる》ということになるのではないか? もしならないとしたら 《成>道を助ける》という意味がない。のではないか? こう問うているものと考えられます。
>くどいように言えば
> ★ 縦の関係と横の関係
> ☆ すなわち救うと助けるとの違いがあったとしても けっきょくどちらも《すくい》すなわち《成道》を目指しているのではない>か? という問いであるはずなのです。
「救うということと助けるということとは各々縦の関係と横の関係を前提としています。」という文章表現の問題なのですが、
「救う」という言葉には、所謂神と人との関係のように、絶対的なキャパシティの差を前提とした神から人への非可逆的なベクトルが強く含まれており、常に神は救う側で、救うという行為を取り巻く世界は「救う神」を中心に形成されます。それに対し「助ける」という言葉をとりまく世界はあくまでも「助けられる者」を中心に形成されており、「助ける者」は、その脇役に過ぎないのです。
> ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> βこの質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
> 《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
>
> そもそもカルト宗教の一種であるキリスト教あたりを、お釈迦様の教えと対等に
> 扱うこと自体がおかしいのです。
>
> スマナサーラ先生は、端から相手にしていないということでしょう。
>
> お釈迦様の教えに批判の余地はありません。
> キリスト教信者にできることは、その内面に映り込んだ邪神を消し去り、今生は苦痛に満たされて
> いることを正面から受け止め、今生における偽りの幸福を捨て去り、肉体が滅びた
> 後の解脱を目指して、仏の道に入ることのみです。
>
> ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
> ☆ 自己表現は しばしば《自己の心の中の思いや考えやあるいは悩みや苦しみ》を投影すると言われています。
>
> 批判ということは きちんと筋道立てて 理由を述べなければ何にもなりません。
> おまえのかあちゃん出べそと口に出しているだけになります。
私は、誰を批判した訳でもありません。ただ
> βこの質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
> 《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
という貴方の問いに対し、私が貴方のために費やしてもよいと判断した時間内に
記述可能な限りの真理を説いただけです。
ご回答をありがとうございます。
★ ・・・それに対し「助ける」という言葉をとりまく世界はあくまでも「助けられる者」を中心に形成されており、「助ける者」は、その脇役に過ぎないのです。
☆ そんなことを訊いているのではありません。そんなことは すでに前提としてその先を問うています。
すなわち
★ 「助ける者」は、その脇役に過ぎないのです。
☆ というのなら 何の《脇役》なのですか?
つまりは やはり《すくい または 成道》に到ることへのではないのですか?
おそらく問題は 《すくう》の場合は 人間がおこなうことではないという点に注意せねばならない。ということでしょう。でも きっかけにはなる。とすれば 広く大きく《助ける》もひっくるめて《すくう》の問題に入る。と見るのが ふつうであるはずなのです。そうではないでしょうか?
No.11
- 回答日時:
α《「救う事」は非仏教的な行為です。
》そのとおりです。お釈迦様は、神などいないとおっしゃっておられます。
宗教的な意味で人を救済するということは、逆にいうと神を認めることになるからです。
救うということと助けるということとは各々縦の関係と横の関係を前提としています。
先師の役割は弟子の成道を助けることであり、決して救うことではないのです。
βこの質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
そもそもカルト宗教の一種であるキリスト教あたりを、お釈迦様の教えと対等に
扱うこと自体がおかしいのです。
スマナサーラ先生は、端から相手にしていないということでしょう。
お釈迦様の教えに批判の余地はありません。
キリスト教信者にできることは、その内面に映り込んだ邪神を消し去り、今生は苦痛に満たされて
いることを正面から受け止め、今生における偽りの幸福を捨て去り、肉体が滅びた
後の解脱を目指して、仏の道に入ることのみです。
ご回答をありがとうございます。
★ 救うということと助けるということとは各々縦の関係と横の関係を前提としています。
☆ ということは 《救うということ》をも 一般には前提としているとおっしゃっており そういう行き方の宗教――ほんとうは信仰――があるということですね?
とすれば 一般にふつうにスマナサーラさんへの質問者氏は その一般的な《すくい》ということについて テーラワーダ・ブディズムは どう捉えているのか? こう問うているはずです。
つまりは
★ 先師の役割は弟子の成道を助けることであり、決して救うことではないのです。
☆ であったとしても その《助けた》結果として 《すくわれる》ということになるのではないか? もしならないとしたら 《成道を助ける》という意味がない。のではないか? こう問うているものと考えられます。
くどいように言えば
★ 縦の関係と横の関係
☆ すなわち救うと助けるとの違いがあったとしても けっきょくどちらも《すくい》すなわち《成道》を目指しているのではないか? という問いであるはずなのです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
βこの質疑応答は 問いと答えとがかみ合っていないのではないか?
《仲良く楽しく批判しあう》ことなど何もおこなっていないのではないか?
そもそもカルト宗教の一種であるキリスト教あたりを、お釈迦様の教えと対等に
扱うこと自体がおかしいのです。
スマナサーラ先生は、端から相手にしていないということでしょう。
お釈迦様の教えに批判の余地はありません。
キリスト教信者にできることは、その内面に映り込んだ邪神を消し去り、今生は苦痛に満たされて
いることを正面から受け止め、今生における偽りの幸福を捨て去り、肉体が滅びた
後の解脱を目指して、仏の道に入ることのみです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ 自己表現は しばしば《自己の心の中の思いや考えやあるいは悩みや苦しみ》を投影すると言われています。
批判ということは きちんと筋道立てて 理由を述べなければ何にもなりません。
おまえのかあちゃん出べそと口に出しているだけになります。
No.10
- 回答日時:
B様、こんばんは。
>「《犀の角のごとく独り歩め》とは こういうことかと思い 変なかたちで目からうろこなのですが みなさんはどう考えますか?」
「大先生は、仰った!」では、そういうことにならないでしょう。
うう-む。
まづは こんばんは。ご回答をありがとうございます。
スマナサ―ラ氏の見解とそこに見え隠れする基本的な思想 これをめぐってよくよく考えるなら この人は あたかも《天上天下唯我独尊》と宣言してのごとく 《わが道を行く》人の像をかたちづくっている。と考えられますまいか?
つまり 接点はありますか? あり得ますか?
No.9
- 回答日時:
聖書自体は絶対ではないちん。
〔* 愛は〕すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は忍んだり耐えたりしないちん。
全てお慈しむちん。
それを耐え忍ぶことととらえる人間もどきの怪人にライダーキックをを御見舞するのが悪の正義を体現する最近の私の日課でし。
酔いがかなり回って幼児語になってしまった。
そろそろ限界。
宿題があれば言ってくれ。
おやすみなさい。
ご回答をありがとうございます。
★ 聖書自体は絶対ではないちん。
☆ 聖書は 補助線ですから。
おみくじを引いて 一等賞の赤玉が出たというとき その赤玉は 一等賞の商品そのものではありません。聖書は 一等賞の品物にたとえられる神に対して 赤玉です。
・・・と説明してやればよい。
わざわざ
★ ライダーキックを御見舞する
☆ までのことではあるまい。
伝家の宝刀は 抜かずじまいになってこそ 仮面ライダーなり。
No.8
- 回答日時:
また雑文。
たぶんおっしゃっていることに 微妙な視点をくわえてみると 話が一致するかと思います。
★ 自らの信仰に到達すること / 仏陀になり成仏する事 / 自己の完成と自覚 / 人間になる事
☆ これらをみな《動態》として捉えるという視点です。信仰は 動態であり過程であると。
ここで動態と表現している事を、「望み」という言葉に置き換えてみればいかがかな。
教えられ望むのが欲望で、それとは違う自らの望みの事だよ。
さらにつづきましてです。
★ ~~~~~~~~~~~~~~
ここで動態と表現している事を、「望み」という言葉に置き換えてみればいかがかな。
教えられ望むのが欲望で、それとは違う自らの望みの事だよ。
~~~~~~~~~~~~~~
☆ そうですね。《のぞみ》ですね。
信仰・希望・愛というふうに その順序で三つ揃えで言ったりします。
● (パウロ:コリント前書 13章) ~~~~~~
7: 〔* 愛は〕すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
8: 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
9: わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
10: 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
11: 幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。
12: わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
13: それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.7
- 回答日時:
笑い話です。
○ 神に知られることである。
これは既に豪語していて、アマテラスさんを妊娠(認信)させたのは俺だ。
こう言っています。
アマテラスさんはおれの女だ、ちょっかい出すな。
全てありがたいギャグです。
つづきましてです。
あなたにとっての《アマテラスさん》は 親鸞にとってのアミターバ・ブッダであるようですね。
● (歎異抄) ~~~~~~~~~~
http://xn--6quo9qmwi.com/tannisho19.html
聖人の常の仰せには、
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人が為なりけり、
されば若干の業をもちける身にてありけるを、
助けんと思し召したちける本願のかたじけなさよ」
と御述懐候いしことを、・・・
(現代語訳)
親鸞聖人がいつも
「大変長い間、
阿弥陀仏が考えに考え抜かれ建てられた本願をよくよく考えてみると、
全く親鸞一人を助けんがための本願であった。
こんな数限りもない悪業をもった極悪の親鸞を
助けて下された阿弥陀仏の本願の尊さよ、ありがたさよ。」
と述懐しておられたことを、 ・・・
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
No.5
- 回答日時:
▽ α) 《「救う事」は非仏教的な行為です。
》について★ 自らが仏陀になる事を志すならば、救いでは成仏しないと言いたいんでしょう。
☆ よく分からないのですが。 《ブッダになる》ことは 《苦や無明や煩悩から自由になり それとして〈すくわれる〉こと》だと思っていましたが? いえ 今も思っていますが。・・・
神を志すあなたの考え方の原点からすれば、人間を自覚できるのは神様からの親切が何らかの形であると言う事で、私の文脈が読み解けなかったのでしょう。
神を志す事と違い、人間を志す事は、考え方として私の言う様な文脈になります。
やあ、私を仮面ライダーに改造したのはアマテラスさんだ。
確かに神はいるが、私はそれを理解するのが遅かったな。
つづきましてです。
★ 神を志す事と違い、人間を志す事は、考え方として私の言う様な文脈になります。
☆ そうですか。
つまり そうは言っても 《神と出会う つまり 神に出会ってもらう》というのは 《神を志す》ことであるかも知れません。
ただし その実質的な中身は 《人間として わたしがわたしであること》です。《わたしが わたしすること》です。
ですから たとえば《隣人を愛せ》というようなことを言っても なかなかはっきりしません。そのとき 《相手が意識として排泄するゴミや老廃物を あたかも電磁波としてのようにこちらはアースする》つまり ごみ処理工場と成ると言っています。これは 人間論です。
★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~
やあ、私を仮面ライダーに改造したのはアマテラスさんだ。
確かに神はいるが、私はそれを理解するのが遅かったな。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
☆ ん?
たぶん 人間の能力と努力のみによって成ったものは それほどはうつくしくない。かも知れません。
No.4
- 回答日時:
落書きのような独り言です。
西洋的に、自らの信仰に到達することが、
東洋では仏陀になり成仏する事であった。
それは自己の完成と自覚であり、人間になる事であり、神を理解することである。
東洋は神を志さずに人間を志す傾向がある。
ただそれだけ。
つづきましてですね。
たぶんおっしゃっていることに 微妙な視点をくわえてみると 話が一致するかと思います。
★ 自らの信仰に到達すること / 仏陀になり成仏する事 / 自己の完成と自覚 / 人間になる事
☆ これらをみな《動態》として捉えるという視点です。信仰は 動態であり過程であると。
★ 神を理解することである。
☆ これを
○ 神に知られることである。
と言うとよいというのが こちらの見方です。
★ 東洋は神を志さずに人間を志す傾向がある。
☆ これについては 《いちゃもん》をつけますが たぶん《じゅうぶん神秘的な思想》もアジアのそこここにはあると思われます。
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