【復活求む!】惜しくも解散してしまったバンド|J-ROCK編 >>

今だったら、「携帯が無かった頃はどうやって待ち合わせしてたの?」とか
「カーナビが無かった頃どうやって首都高走ってたの?」とかって、
若い人から尋ねられる感覚でしょうか。

通信手段が未発達だった状態で、

・戦国時代、小国といえども広い日本で、どの地方を誰が仕切っているかを
 きっちり把握して、そこに攻め込んで領土を広げていって天下統一するなんて
 ことが何故可能だったのでしょうか?
 狼煙とか情報収集の忍者?とかでしょうが、どれほど実効性があったのか…。

・第一次・第二次世界大戦と、どうして海を越えて遥か遠方の国と戦争ができたのでしょうか?
 太平洋上の島に敵国の拠点があって、そこに向けて戦闘機を飛ばしていくとか
 現実感が全く湧かないので…。

ぼんやり疑問に思ったまま、永らくほったらかしにしていたのですが、
このモヤモヤがすっきりすると嬉しいです。
お恥ずかしい質問ですが、参考になるサイトや文献があれば照会いただけますと幸いです。

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A 回答 (8件)

戦国時代。

 敵味方の両方に親戚関係が有るのが普通でした。部下をいれれば確実に
親戚が敵側にも居たのです。そして家来といえども自分の家を守るのが最優先。
つまり親戚縁者の情報交換が最重要で確度の高い情報でした。

忍者や噂話は親戚情報を補完する役割です。そうであるからこそ戦国時代に於いても
縁結びは重大なる決断を要したのです。


世界大戦の太平洋ですが、ほとんどの島に人が居住しており普段から行き気が有りました。
経済や旅行により様子は判っていました。問題は軍事情報ですが収集活動で集められました。
なぜ行けたかの理由はエンジンが発達したからです。

北海道の小さな漁船がオーストラリア近くのマグロ漁場で漁をして帰ってきていた方が
感心します。漁船用電子誘導機器の無い時代、漁師は天測航法だけで太平洋を越えて漁をした。
そうして戦後の食糧危機に対応した。いたこ1枚下は地獄という漁船であらくれ漁師は天測

し航行し漁場から魚を持ち帰った・・・設備や道具に贅沢をこらせない漁師の方が軍隊
より尊敬に値すると想うのですよねーーー
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この回答へのお礼

「敵味方の両方に親戚関係が有るのが普通でした。」

→まったく知りませんでした。こんな情報源が最優先&高確度だったのですか。


「設備や道具に贅沢をこらせない漁師の方が軍隊
 より尊敬に値すると想うのですよねーーー」

→確かに、軍隊は財が優先的に投入されてますもんね。
 それよりも不自由な漁師の方が遠方まで行かれていたのは凄いことですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/20 12:25

答えは無限に出てしまいますから、それぞれ一番重要だった物を



・戦国時代は寺(坊主)の情報。
人が死ねば、坊主が供養します。
坊主に聞けば、どこにどんな村があって、誰が死んだと分かります。
戦があれば当然、死人が出て誰よりも結果を知ることが出来ます。
寺のネットワークは全国ですから、大名と寺は切っても切れない関係です。
まれに、寺とも絶縁の秘境の里などがあり、見つかり次第、従属させられます。
江戸時代になると、これが発展して檀家制度(寺請制度)キリスト教の禁止が名目だが、実際は戸籍制度であり、年貢のとりっぱぐれが無いようにする目的。
戦国時代の領地争いも、年貢の取り合い。
年貢があがってくるか来ないかで、領地が分かる寸法です。
ある村が年貢の納め先を変える事で、領地が取られたと気付き戦になります。
(ヤクザの島争いと同じです。あるときみかじめ料があがらずに島が取られたと戦争になります)

・第一次以降は電報です。
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/7139726.html

http://www.mitsubishielectric.co.jp/security/lea …
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この回答へのお礼

「坊主に聞けば、どこにどんな村があって、誰が死んだと分かります。
 戦があれば当然、死人が出て誰よりも結果を知ることが出来ます。」

「年貢があがってくるか来ないかで、領地が分かる寸法です。」

→いずれも、「おおっ」と思ってしまいました。
 非常に興味深いご回答をありがとうございます。


また、三菱電機のホームページにこういう暗号の情報が載っているのも
おもしろいですね。

ありがとうございました。

お礼日時:2014/06/20 12:20

>・・・ことが何故可能だったのでしょうか?


可能だったのではなく結果論です。
確実に自分の身の回りの敵を潰していった結果です。
信長も大阪や北陸を平定するのに相当手間取っています。
大阪や北陸を平定した後に味方がどんどん増えたというか敵対する人間が減っていきました。
中国地方を平定する前に殺されてしまいました、
秀吉の時代になると軍事力よりも政治力の時代に移り、政治的駆け引きで当面敵対する人間がいなくなっただけです。

関係者全員が同じ速度の通信手段と情報の精度を持っていれば、それが現代より遅かろうが精度が粗雑であろうが何の支障もありません。
現代の技術がなければ広範囲の支配権を手に入れることが出来ないということはありません。
アレキサンダーもジンギスカンも日本列島などよりもはるかに広い土地を支配下に収めました。
アレキサンダーにせよジンギスカンにせよ、攻め込んだ土地に充分な予備知識があったわけではありません。
行く先行く先を潰していった結果です。

上杉謙信にしても、ぐずぐず武田信玄などとやり合っていないで、さっさと京都へ攻め込めば歴史は変わっていたでしょう。
曲がりなりにも関東管領の任状を持っていました。
いずれも結果論です。

第一次世界大戦であれ第二次世界大戦であれ同じです。
いずれもすぐ隣の地から戦線を広げていっただけです。
米国にたいしてもハワイの軍港を潰しただけです。本土まではとうとうとうたどり着きませんでした。
近場の東南アジアで戦線を広げただけです。
英国に対しても、本国には指一本ふれていません。
シンガポールを攻め落としただけです。

>太平洋上の島に敵国の拠点があって、そこに向けて戦闘機を飛ばしていくとか 現実感が全く湧かないので…。
地理上の位置関係が分かっていますからそちらへ向けて飛行機を飛ばすなり船を行かせるだけです。
別にカーナビなど必要がありませんでした。
トマホークミサイルではありません。誤差何メートなどという精度は必要がありせん。

海と空だけの空間で目的地へ飛ぶ技術は海軍の航空隊のパイロットは訓練を受けていました。
陸軍の航空兵は陸地の目標がないところを飛ぶ訓練を受けていなかったため、中国大陸へ移動する際には海軍機の先導を頼んでいました。
神風特攻隊もあの辺にいると、先導機につれられて行きました。
先導機は途中で帰ってきています。
末期には迷子になって燃料が尽きて落ちてしまった機もいるようです。
だれも確認して報告できる人はいませんでした。
米軍も特攻機が現れてからあらんかぎりの銃弾を空に向かって打ち続けていました。
自分の艦隊の上で撃ち落とすのなら。来る間に戦闘機の大編成で撃ち落とせばすむはずです。
レーダーがどうのといっても当時の対応能力はお互いにこんなものでした。

お互いに精密な情報を持たず、あっても使いこなせなければ、情報の精度というのはこの程度で充分です。
戦国時代も同じです。
攻め込んで敵に出会ったら勝つだけです。
信長も寡勢で戦ったのは桶狭間でだけです。
後は常に過剰な兵を用意していました。

>このモヤモヤがすっきりすると嬉しいです。
時間というものに対する感覚の違いがピンとこられておられないからかと思います。

ゾウの時間ネズミの時間 サイズの生物学 本川達雄 中公新書
時間の比較社会学 真木悠介 岩波書店
などという書籍があります。
誰もがいつでも24時間を同じ長さで感じているわけではないということが理解できるかと思います。
距離についても同じように考えればピンときます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「秀吉の時代になると軍事力よりも政治力の時代に移り、政治的駆け引きで当面敵対する人間がいなくなっただけです。」

→そうだったのですか。てっきり合戦でどんどん支配下に収めていったのかと思っていました。
 勉強不足でした。


「関係者全員が同じ速度の通信手段と情報の精度を持っていれば、それが現代より遅かろうが精度が粗雑であろうが何の支障もありません。」

→このご回答を求めて質問した訳ではなかったのですが、これはこれでスッキリした部分もあります。


「地理上の位置関係が分かっていますからそちらへ向けて飛行機を飛ばすなり船を行かせるだけです。」

→なるほど、自身の位置、目的地、を、きちんと把握できていたのですね。


「時間というものに対する感覚の違いがピンとこられておられないからかと思います。
 ゾウの時間ネズミの時間」

→読んでみます。さっそくアマゾンで注文しました。

お礼日時:2014/06/20 12:12

>戦国時代



別に家康や秀吉は全国を完全支配していたわけではありません。伊達政宗とか、毛利輝元なんていう戦国大名が各地にいて、その大名たちが秀吉や家康に臣下の礼をとったから「天下統一」となったのです。各地の戦国大名はある種の独立国家であり、自治権がありました。だから江戸時代も幕府はずけずけとそれぞれの藩(大名)のところへは入っていけないのです。だから幕府も各藩にスパイを送りました。「行くと戻れぬ薩摩飛脚」なんていわれたのは、幕府のスパイも薩摩藩にバレると殺されるので薩摩藩の内情は幕府もなかなかつかめなかったのです。

またその他にも、商人などの人の流れはあったわけです。商人は大名にとってビジネスの相手であり、スパイでもあります。その商人が「今大阪ではこんなことが起きている」というような情報を手に入れてきますし、その商人が大阪の他の商人から情報をもらえば、他の地方の情報も手にい入ります。ただし、もちろんそれはリアルタイムの情報ではないし、時として誤報も混じるわけです。
商人の他には、お坊さんも自由に行き来できましたから、そのお坊さんからの情報も入ります。戦国時代に外交官として活躍した僧侶がいたのは、そういう理由です。その宗派によるネットワークからの情報がいろいろ入るわけですね。

質問者さんがおいくつか分かりませんが、社会人なら出入りの業者さんから同業他社の動向を聞くことがありますよね。あそこは最近経営がヤバいらしいですよなんてのが伝わってきます。それと同じなんですよ。そして得てしてそういうルートから入る情報のほうが重要であることがありますよね。
いつの時代でも、そういうネットワークからの情報というのが重要なのです。

>第一次・第二次大戦

20世紀になると、通信手段はかなり発達してきますので、現代とはあまり変わらんですよ。ただリアルタイムじゃないだけって話で。それこそ恋愛で例えれば、今はLINEやメールで数秒でその人へ連絡できますが、昔はハガキや手紙だったから届くまで数日かかっていたというだけです。
飛行機が敵のところへ間違いなく飛んでいけるのは、手で航法計算をやっていたからです。だから計算間違いをするとそこへたどり着けない・笑。実は太平洋戦線では、空母攻撃隊が敵空母を発見できずに帰ってきたってよくあったんです。それは日米双方で起こりました。
太平洋戦争末期の本土空襲となると、敗色濃厚で日本軍も士気が下がってきて、迎撃する日本軍パイロットも死にたくない。で、日本軍というのはレーダーや無線機が不毛でしたから、迎撃機が出撃するときに「何時何分にどこどこを通過を確認。おそらく何時何分に横浜に到着と推測される」と指示を受けて出るんだけど、死にたくないからわざとそこに行かないで適当にグルグル回ってくるんですね。それで帰還して「いやあ、探したのですが見つからなかったっす」としれっとやったのです。

今は営業マンも携帯のGPSで会社から監視される時代ですが、携帯電話もポケットベルもなかった時代は営業マンは会社を出るともうつかまらない。だから営業回りに行くフリをしてパチンコ屋でサボるとかみんなやっていたのです。

ちなみにおじさんの世代は携帯もポケットベルもない時代に恋愛をしていた世代なので、約束の時間に相手が来なかったら、「どうしたのかな、事故にでもあったのかな」なんてヤキモキしながら待ち合わせの場所でずーっと待っていたのです。「約束をすっぽかされて待ち合わせの場所で何時間も待った」なんて、おじさんの若い頃にはよくある笑い話(時には笑えないのですけど)でしたよ。
なんとなく当時の空気感を知りたければ、星の王子様の著者であるサン・テグジュペリの「夜間飛行」という短編小説がお勧めですよ。まだレーダーがなかった時代に夜間飛行機が遭難するとどうなるかって話です。
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この回答へのお礼

「別に家康や秀吉は全国を完全支配していたわけではありません。伊達政宗とか、毛利輝元なんていう戦国大名が各地にいて、その大名たちが秀吉や家康に臣下の礼をとったから「天下統一」となったのです。」

→なるほど、このあたりが勉強不足で良くわかっていないので疑問が生じたのかもしれません。
 なんとなく天下統一というのが、中央が完全に日本全国をぎちぎちに支配していると
 勘違いしていたようです。
 「臣下の礼」っていう言葉も初耳でして…。ちょっと勉強したくなりました。


「恋愛で例えれば…」

→非常に分かり易い例えをありがとうございます。


「空母攻撃隊が敵空母を発見できずに帰ってきたってよくあったんです。それは日米双方で起こりました。」

→やはり失敗も多かったのですね。

「なんとなく当時の空気感を知りたければ、星の王子様の著者であるサン・テグジュペリの「夜間飛行」という短編小説がお勧めですよ。」

→さっそくアマゾンで注文しました。

お礼日時:2014/06/20 12:02

・戦国時代、小国といえども広い日本で~



戦国時代の情報源は、様々ですが、行商の者や僧侶、噂話も重要な情報源でした。

一つの情報源のみに頼っていた訳ではないです。

新しい土地では、手の者に事前に調査をさせた情報と、地の者の案内や味方に付いた豪族からの情報等とを併用した様です。

活用出来るかどうかは大名次第でしょうし、また情報はリアルタイムではないので、「賭け」の要素は強かったでしょうね。

また情報として欲しがったのは近隣のモノで、遠方のモノはさして重要でなかったのは、秀吉の統一事業においての遠方大名の対応に見られるのではないでしょうか。

中央の情報に疎いと思われる行動が、見えたりします。

ちなみに天下統一を考えていたのは、確実に言えるのは信長のみで、他の大名は領国経営で手一杯でした。

・第一次・第二次世界大戦と~

測量技術は高度に発達しており、大航海時代には既に天測航法により自船の位置を正確に把握して航海していました。

島の緯度や経度による位置や海岸線の大きさなどは、通常、世界に公表されています。

領土として国際的に認められるには、正確な位置情報が、領海を決定するには海岸線の特定が、それぞれ不可欠です。

拠点があるかどうかは、諜報活動によって求められるものですので、これは独自に調査しなければなりませんが。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「新しい土地では、手の者に事前に調査をさせた情報と、地の者の案内や味方に付いた豪族からの
 情報等とを併用した様です。」

→併用で分析していたのですね。
 (そのあたりも、歴史家の方が過去を探って調べてくれたのですよね。)


「情報として欲しがったのは近隣のモノで、遠方のモノはさして重要でなかったのは、
 秀吉の統一事業においての遠方大名の対応に見られるのではないでしょうか。」

→興味が湧きましたのでまた調べてみようと思います。


「測量技術は高度に発達しており、大航海時代には既に天測航法により自船の位置を正確に把握して航海
 していました。
 島の緯度や経度による位置や海岸線の大きさなどは、通常、世界に公表されています。
 領土として国際的に認められるには、正確な位置情報が、領海を決定するには海岸線の特定が、
 それぞれ不可欠です。」

→そうですか。100年前なんてまだまだ未熟だと思っていたのですが、
 私がイメージしていたよりも、ずいぶん進んでいたということのようですね。

お礼日時:2014/06/20 11:50

戦国時代や幕府による安定的な統治がなされていなかった時代、小国の領主や豪族は、全国の情報など得る手段は持っていないし、得る必要もほとんどなかったのです。



近隣諸国との関係が重要で、例えば織田信長と今川家の争いも、どちらに組すれば生き残る事ができるのかを心配するのは織田家と今川家の領地の周辺地域の極限られた範囲のみであり、関東や関西の小領主は全く知らなくても困らなかったのです。

全国や広い範囲での情報を必要とするのは、少なくとも大名や,野心を持って領土拡大をねらっていた下克上などを平気でしていた一部の武将のみです。

狼煙などは実際に戦争になり、敵が進軍してくるのが明らかな場合に、見張り台や見張りとして放った斥候などが緊急で、手段を選んでいられない場合に行なったものでしょう。なぜなら、狼煙を上げたら味方に伝わりますが、敵にも丸見えですから。
出来る限り直接報告を持ち帰る斥候を準備するのが戦での当然の準備です。余裕があれば早馬を準備し、馬を乗り継いで最前線から本拠地まで連絡をさせるでしょう。

戦になるかどうかと言う情報については、実際に戦を準備するとなると、足軽となる兵士を募集する事から始めるのが常ですから、人を集め始めるとなれば、近隣の町や村にも声がかかるわけで、その噂が少しずつ波及していくことで、隣国や周辺地域に伝わる事で、「あの国では戦争を準備しているぞ!」という事になるわけです。

忍者なども大名クラスにでもならない限り、常備できるものではないですから、小領主や地方の豪族などは、あくまで近隣の噂が頼りであり、噂から真偽を確かめる為に、信頼できる配下を送り出して、情報を収集するというのが普通でしょう。

積極的に全国や遠くの地域の情報を収集することを重要とは考えていないのが普通の事だった時代なのです。
旅の商人や、修行僧、旅芸人や山師など、広範囲な行動範囲を持つ特殊な人々がもたらす遠い地の話が僅かな情報源だったでしょう。

第二次世界大戦では、既に有線、無線の通信手段があったので、自国の領土では有線で、海や航空機では無線で連絡を取り合っていましたので遥かに早い情報伝達が出来ていたはずです。
第一次世界大戦以前では、やはり斥候や偵察部隊を送り込むのが主流ですし、特別に速度を重視して馬を乗り継いだり、伝書鳩や海では快速艇で直接情報を持ち帰っていたりしたのです。
また、望遠鏡を駆使して、手旗信号なども利用されたと言うのが、いまでも海軍で手旗信号が教練に用いられる伝統になっています。
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この回答へのお礼

興味深いお話をありがとうございます。

現在の技術がある状況からその当時を想像すると、
なぜそれでうまくいっていたのか非常に不思議な感じがしますが、
きっと、失敗だらけ?だったんでしょうね。

お礼日時:2014/06/20 11:41

今 忍者やスパイと言ってもピンと来ないかも知れませんが


当時は今の想像以上に 忍者や間者 早馬に飛脚という技術が発展していました
彼らの多くは修験道で経験を積んだ修験者だったりで
普通の人が通れない道を通ったり 色々な技術が使えました
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

間者・修験道 といった言葉は知りませんでした。
いろいろとしっかり勉強してみたいと思います。

お礼日時:2014/06/20 11:33

目に見える狼煙以外は忍者等でしょうねー、等には藩に属してない漂泊系とか旅芸人とかですねー山の尾根を通って全国定期的に放浪してた民族等生活の糧は御椀.しゃもじ等を作って定住民と米等と物々交換してて全国放浪するので情報は嫌でも入って来ます。



忍者だって各藩お抱えでそれぞれ呼称が違ってますし、草とかラッパ乱派とか何種類も有りますねー、それがトンスルが忍者はトンスル起源とか茶道もトンスル起源とか嘘バレバレを恥ずかしも無く吠えまくってますねー、半島の何処とか呼称とか何代目等、説明出来なければバレバレの事なのに、他のトンスル起源説も皆同じです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

ただ、後段は、質問に対して何を示唆してくださっているのか良く分かりませんでした。
理解不足ですいません。

お礼日時:2014/06/20 11:28

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Q無線がない時代の戦場での情報伝達方法

こんにちは。
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表題の件ですが、過去の人たちは数々の戦場で、
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まとめますと、知りたいことは、
(1)何が使われたのか
(2)具体的な使用方法
(3)それのメリット、デメリット
(4)できれば、それが使われた過去の戦いの名前

以上です。
もちろん(1)(2)(3)(4)全てにお答え頂く必要はないです。
おわかりになる範囲で教えてください。
参考URLの貼り付けだけでも結構です。

よろしくお願い致します。

こんにちは。
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軍隊で指揮を任されるのが士官です。士官の役割については、こんな話があります。
プロイセンのウィリアム皇太子が一人の少佐を呼んで詰問しました。「お前はなぜ作戦に失敗したのか?」するとその少佐は、「私は皇太子殿下の命令の通り作戦をしました。間違っていません」と答えました。それに対し皇太子は「階級はなんのために与えてあるのだ?命令違反をするときを判断できる者に与えているのだ。ただ命令に従うだけなら、貴様は将校ではなく、兵士でよい」といいました。以来、世界中の軍隊の階級の意義はこれに基づくものとなりました。

余談ですが、この「将校は命令違反が判断できること」がネックになったのが革命ロシアつまりソ連です。革命によって赤軍が誕生しましたが、軍隊の指揮のプロである軍人の協力がなければ赤軍は単なる烏合の衆です。実際、プロフェッショナル軍隊のドイツ軍や独立したポーランド軍などにひどい目に遭っています。そこで旧ロシア軍将校を赤軍に組み入れたのですが、この将校たちは元はといえばロシア皇帝の家臣なわけですし、貴族階級出身も多かった。そんな連中が「命令違反を判断できる」なんていわれたらいつクーデターが起きるか分かりません。なので、ソ連軍では「政治将校」といういわばプロフェッショナル軍人である将校を監視するための将校を作ったのです。そして、政治と思想のプロフェッショナルであるものの軍事には疎い政治将校がある意味軍事将校より強い権限を持ったためにソ連軍は命令違反ができない、逆にいえば柔軟性に欠けた硬直した組織になってしまったのです。


さて、現在でこそ通信機が非常に発達していますが、この通信機が軍隊の隅々までいきわたったのは第二次大戦のアメリカ軍以降からといってもいいでしょう。第二次大戦のドイツ軍といえどもアメリカ軍ほどには通信機がいきわたっていませんでした。ちなみにドイツ軍で多用されていたのが信号弾なのですが、これを言い出すと話が広くなりすぎるので、今回は割愛。もし興味あったらお礼にレスをつければ説明します。
それまでの軍隊で、最も信用できる通信手段は人間そのものに他なりません。つまり伝令兵です。伝令兵は主君や大将の命令を聞き、それをきちんと理解して前線の指揮官のところへ行って伝え、その返事と前線の様子を正確にまた大将のところに伝えなければなりません。

戦国時代、武田信玄の伝令兵として活躍した百足衆、織田信長の黒母衣衆が有名です。信玄の百足衆は特徴ある百足の旗指物を、黒母衣衆はその名の通り黒い大きな母衣を背中に抱えていました。つまり、味方からよく目立つようにしていたのです。だって、戦場で混乱しているときにウロチョロしている奴がいたら「なんだお前は!」ってなるでしょ。でも見た目で伝令兵だと分かれば「ああ、伝令兵が通っているから通そう」ということになります。
伝令兵にとって最も重要なことは、「生き残ること」です。戦場を駆け抜けて命令を伝え、ちゃんと帰ってきて「命令は伝えましたよ」ということを報告しなければなりません。そうじゃないと大将も「俺の命令をちゃんと伝えたかなあ。途中で戦死してないかなあ」と不安になるでしょ。
そんな伝令兵が求められる能力は頭がよく、体力に優れたことです。体力も、馬に乗ることもあるから馬術、それに敵と出会ったら銃を撃ちあるいは剣術を使い、川があれば泳ぎ、馬がなければ自ら走らなければなりません。そこでこれら馬術、射撃、フェンシング、水泳、ランニングの五種目をひとりでやる競技としてオリンピックの「近代五種」が生まれました。近代五種は近代オリンピックの祖クーベルタン男爵が自ら選んだ由緒ある競技なのです。

伝令兵は、現代の軍隊でも残っています。伝令兵のメリットは「敵に通信を傍受される心配がない」ことです。デメリットとしては「戦死する可能性がある」ということですね。
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ところで、密集隊形のほうが命令って伝わらないんですよ。だって、戦場でわいわいやっているのに密集隊形の真ん中あたりにいる奴らにどうやって伝えるのさ。ひとりひとり伝言で伝えてもらう?でも、「伝言ゲーム」って言葉がありますよね。
ハンニバルの殲滅戦として有名なカンナエの戦いではまんまとローマ軍がカルタゴ軍に包囲されてしまいますが、ローマ軍はご存知の通り重装歩兵のファランクスです。みんな集団で固まっているし、ヘルメットをかぶっていて耳は聞こえないし、視界も正面しか見えません。前方の敵が少しずつ引いていれば「それ押せ!もうひと押しだ!」となるでしょう?「このまま前に行きすぎると危ない。ちょっと戻れ」と思っても止められないんですよ。

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Q昔、(戦国時代など)最も早い情報伝達手段は「のろし」?

中央と地方、前線(戦場)と参謀などの連絡に最も早い伝達手段は早馬とかより「のろし」だった・・・と聞いた事があります。実際はどうだったのでしょうか?

Aベストアンサー

>最も早い伝達手段は早馬とかより「のろし」だった・・・と聞いた事があります。実際はどうだったのでしょうか?

その通りで、意外な事に幕末まで「のろし(狼煙)」でした。
藩領域を越えても、「のろし」は確認する事が出来ます。
「のろし」自体は、藩領国運営上でも利用しています。
謀反・一揆・他藩動乱・他藩からの攻撃など、国境(くにさかい)から本城に向かって「のろし台」が設置しています。
当時は、関所の番人と同様に「のろし番人」が存在しています。
学術的な発掘調査を行っている県は少ないですが、地名からも存在を確認できます。
各教育委員会では、中世城郭館等調査報告書を作成しています。
「のろし跡」の所在地・現状が載っている報告書もありますよ。

>誤報ののろし(妨害)を上げたりとかはなかったのでしょうか?

のろしは、各藩毎に異なっていたようです。
ただ「煙」を上げるのではありません。
時刻・煙の色・のろし時間など、詳細に決まっていたようですよ。
のろし番人を倒した間者が誤報の「のろし」を上げても、誤報と分かったようです。

余談ですが、琵琶湖周辺の研究家・愛好家が「琵琶湖一周のろしリレー」を実際に行っています。
非常に短時間で、情報が伝わりました。

>最も早い伝達手段は早馬とかより「のろし」だった・・・と聞いた事があります。実際はどうだったのでしょうか?

その通りで、意外な事に幕末まで「のろし(狼煙)」でした。
藩領域を越えても、「のろし」は確認する事が出来ます。
「のろし」自体は、藩領国運営上でも利用しています。
謀反・一揆・他藩動乱・他藩からの攻撃など、国境(くにさかい)から本城に向かって「のろし台」が設置しています。
当時は、関所の番人と同様に「のろし番人」が存在しています。
学術的な発掘調査を行っている県は...続きを読む

Qなぜ飛脚は馬ではなく人力で走るのか?

江戸時代、飛脚がいますよね。なんでも大阪から東京まで3日でいったとかなんとか。

それはそうとして、時代劇で飛脚を見るたびにおもっていました。

「なぜ、馬を使わないんだろうか?」

馬のほうがいいような気がするんですが、どうでしょうか?

いや馬を使っていたこともあるとは思うんですけど。

飛脚ってほとんど人力走りじゃないですか。おかしくないでしょうか?

Aベストアンサー

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも馬を御す技術を持った者のことだったため、乗馬が特権化した。
・仏教思想から、馬に限らず牛なども家畜というより家族として扱った
ということが影響していると思われます。

そのうえで飛脚についていうと、江戸時代でも馬による伝令はあったのです。ですから、飛脚とは別に馬を使った伝令も江戸時代にはあったのが事実です。
これらの伝令用の馬は平安時代に「駅伝駅馬」として整備を始め、江戸時代には駅がおかれた地域を中心に宿場町が発展していました。
つまり江戸時代の宿場には駅(伝令のために馬を用意し、宿泊できる施設も整えた施設)もあったのです。

ところがこれは平安時代から政治的軍事的な伝令のためのもので、庶民がつかえるようなものではありませんでした。武士といっても国の根幹にかかわるような伝達事項でなければ、馬は利用できなかったのです。

そのため、庶民が気軽に利用できる郵便制度として飛脚が発展し、まるで現在の宅配便のように気軽に利用できるようになっていたのですが、ここでそもそもの問題があります。それは「なぜ江戸-大坂間などを頻繁に飛脚が往復する必要があったのか」ということです。

この時代は人の行き来が難しい時代ですから、現代のように関東と関西に親戚がいて、お父さんは東北に出張、お母さんは九州に旅行、という具合にはいきません。当時のほとんどの人は生まれた場所から10kmぐらいの行動範囲しかなかったのです。

そのため飛脚は実は「商売」のために往復していたのが実際のところです。実は江戸時代、江戸と大坂では金貨経済と銀貨経済と貨幣も貨幣単位も違いましたし、大坂の堂島には米の先物取引があり、米相場は大坂しかし米の消費地は江戸、という二重経済をしていたのです。

今で言えば日本の中に円建ての経済地域とドル建ての経済地域があるようなもので、しかも毎日為替相場が動いて、その日の金貨と銀貨の交換比率が変わるという具合だったのです。

現在でもFXのように、為替相場は儲けることができます。また米の先物取引で儲けることもできます。この儲けのために頻繁に江戸-大坂間を証文がやり取りする必要があったので、飛脚が発達したのです。
しかしこれは階級社会から見れば士農工商の商、何の労働もしないで富をえるいちばん悪い儲け方だったので、当然ながら役人は馬の使用を許可しなかったのです。

これが、実際に馬を利用しなかった(できなかった)一番大きな理由です。

もっとも、日本も馬の去勢を取り入れていたら扱いやすい馬が増え、江戸時代には普通に馬や馬車を利用していたかもしれません。

日本から古来から大陸産の馬を時々輸入していたようで、去勢の方法も知らないはずは無かったのですが、たぶん当時の文化的な理由から馬の去勢をしなかったのだと思います。(じつは人間の去勢である宦官も日本は大陸から受け入れていません。日本は中国・朝鮮からいろいろな文化を受け入れつつかなり取捨選択しているのです)

話が脱線しましたが、江戸時代の中期になると庶民でも利用できるぐらい飛脚が発展したので、時代劇にも登場するのでしょう。それに比べて伝令の駅馬は地味すぎるのと政治的なドロドロが多すぎてテレビには向かないのではないでしょうか。

実は日本は世界の歴史から見て、稀有なほど馬を利用しない文化だったのです。たとえば馬車は地中海や中近東では紀元前には出現しているのですが、日本ではついに一度も利用しないで、自動車社会になってしまいました。日本の道が狭く道路を整備しづらいのは、馬車を利用しなかったからだ、という説もあるぐらいです。

なぜ馬が利用されなかったのかはついては、体系的な説明がなかなかなく、私も調べているかぎりの知識になりますが、いくつかの事実をあげると
・馬の去勢を行わなかった。
・武士階級はそもそも...続きを読む

Q最初の天皇はなぜ誕生したのか?

初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?
神武天皇は、国王(日本で一番偉い人)みたいなものだったのですか?

Aベストアンサー

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたのであろう。と予測する立場があるんですね。
ですから国家や天皇の成り立ち自体はよくわかっていない中で、神話などの古伝承から国家や天皇の成り立ちを整合性を以って説明できるのでは?と目下奮闘中といった人々もいる。とのあり方が現況では一番進歩が見られるスタンスであり、逆にそのような暗中模索な状況こそが、現在の学界における日本国家成立の研究、ないし天皇支配の淵源の研究などの現状だと思います。

そして天皇(大王)を中心とした国家といった概念が表れたであろうとされるのが、いわゆる4世紀の古墳時代と呼ばれる時代であったことは、考古史料から、特に前方後円墳などの規格性の強い墓制の出現で見当がつきつつあるのですが、そこの詳しい実態は、日本はもとより、3世紀段階における日本の国情を伝えた古代中国の史書などが4世紀時点ではないためよくわからないんです。いわゆる「謎の4世紀問題」ですね。

いずれにせよ『魏志』倭人伝などの記述から、卑弥呼が活躍する前後(3世紀)にあっては「倭国大乱」と評価できる内戦状態が、その規模は別として事実あったのでしょうね。もちろんその戦闘状態は天皇の出現と無関係であるとも思えないんです。その様な中、詳しい経緯はわかりませんが、倭国大乱と呼ばれる混沌とした戦乱の世にあって、統一的国家としてのヤマト政権を樹立するだけの武力ないし交渉力が、4世紀段階における天皇(大王)の祖先にあったことは疑う余地はないのかな?と思いますし、考古史料などが語る結果から帰納法的に糸を手繰りつつ明らかにしようと試みている、3世紀から4世紀にどのような経緯で歴史がつながるのか?といった問題は、識者はもとより僕に限らず古代史に興味を持つ者が一番知りたい部分なのです。

ですから率直に申し上げれば「初代天皇は、どういう経緯で出来たのですか?」という質問については「こっちが知りたい部分です」といった頼りない回答になり、せっかくのご質問に明確にお答えできないことを心苦しく思いながらも、現状をご理解いただければありがたいと思う次第です。

実はそのことについてわからないので困っているんです。
というのも3世紀に活躍したとされる邪馬台国の卑弥呼という女王の解釈により、最近では神武天皇でさえ紀元前660年前の人物とすることには異論がありながらも、その存在自体はありえて、だからこそ正史である『日本書紀』に記載されているのでは?といった論調もあります。
神武天皇そのものというより、神武の伝承として伝わる物語の核になる史実が存在した。それは現存はしていませんが『日本書紀』編纂の主な材料となりえた『帝紀』などに書かれていたの...続きを読む

Q江戸時代の情報伝達

たとえば江戸で起きた大火災などの情報は、上方や九州には何日くらいかけて、伝わったのでしょうか。飛脚とかではなく、庶民のくらし情報としてです。

Aベストアンサー

当時の新聞に相当する瓦版が江戸で発行されるのは早くても一両日を要したでしょう。
従ってやや正確詳細な情報はそれからとなります。

それ以外にも常飛脚は定期便ですから箝口令がないかぎり同じ速度で伝わったでしょう。
それに江戸の各藩邸には留守居役がいて情報の種類によっては早馬、早飛脚をたてて領国に通報する定めでした。
基本的には当時の幕藩体制ではそれぞれ独立し、他領には特別関心を払わない習慣がありました。
情報の重要性を一番認識していたのは商人で江戸で大火があると再建の為木材需要が増えると考え、木曽の木材を値上がり前に買い占め巨利を得たという話がありますから。

Q戦国時代における戦での遺体の取り扱いって?

近年の戦争の映画で戦死者の遺体を棺に収め、国旗などでくるんで本国に移送するという場面を見たことがあるのですが、日本の戦国時代はどうしていたのでしょうか?
大きな戦では大量の遺体が発生すると思うのですが、そのまま放置されたのでしょうか?それとも組織的に回収されたのでしょうか?
また、海外(中世の欧州など)でどうだったのかも分かれば教えてほしいです。

ご存知の方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、通行するクルマ以外に邪魔者はいません。効率よく死体処理(カラス等の食事)が進むでしょう。

ご質問ですが、戦国時代の戦いでの戦死者の遺体は、下記の経過を辿ったと思われます。

1. 戦死者は、首を取られた状態で戦場に残されている。
よほど大きな合戦、例えば武田信玄が徳川家康を完敗させた三方ヶ原の合戦でも、徳川軍の戦死者は1000人行かない計算のようですから、そんなに大きな数ではありません。普通の合戦なら「戦死者10人」とかの単位です。

2. 戦闘が終わって両軍が引き上げると、既に回答されているように農民たちが「戦場狩り」を行います。これは、「田畑を荒らしたことに対する補償」の意味も含まれていたようです。
この際は、我々の眼から見て価値がある鎧、刀、槍などはもちろん、着ているものもフンドシに至るまで全て剥ぎ取られます。戦国時代の日本は、今の北朝鮮のような「使えるものは全て使う」社会ですから、例えば「戦死者がつけていた、血に染まったフンドシ」でも洗えば価値があるので剥ぎ取られました。地位のある武士が着ていた服は、農民から見れば「超豪華な織物」ですから、血や泥を落として分解すれば高値で売れました。(和服は、縫った部分をほどけば長い反物に戻ります)

3. 農民が徹底的に戦場狩りを行った後、戦死体は、全て丸裸になったでしょう。即ち、冒頭で説明した「クルマに轢かれたタヌキ」と同じ状態です。この状態であれば、後は野生動物が死体を処理してくれたと想像できます。実際、合戦の後の戦場をカラスが徘徊している様子が、当時の手紙か何かで描写されている例があったと思います。

4. 現在も痕跡が残るように、地元の僧侶が穴を掘って死体を埋め、供養したと言う例もあったでしょう。これは、「戦場狩りで大儲けした農民たちが、罪滅ぼしの気持ちで供養を依頼」ということが多かったのではと思われます。

現代の山の中の道を走っていると、タヌキなどの小動物が車に轢かれて死んでいるのを目にするのが珍しくありません。周りに人家もないようなところだと、近所の人が見かねて死体を処理することもないでしょう。保健所などの行政当局が通報(誰の?)を受けて死体を処理するのか?

実際は、タヌキの死体は直ちに他の動物(例:カラス)が寄って来て綺麗に食べてしまうそうです。
参考文献:カラスはどれほど賢いか 都市鳥の適応戦略 中公文庫
http://www.7andy.jp/books/detail?accd=31131995
山の中であれば、...続きを読む

Q戦国時代は戦の給与・武器と食料は誰が負担する?

 
 戦国時代、戦費は参加する人間負担だと言われます。

 (1)知行のある人間が、村々に割り当てして兵を徴収する訳ですが
  村から集まった兵は給与はゼロ、なしだんでしょうか? 
  もしも、給与ゼロだったら、当然略奪とか起こりますよね?
  給与ゼロだったら、戦いに参加したくないです。
  給与があったり、褒美があったり、略奪できて得るものがあれば別ですが。

 (2)村から集まった兵は、武器や食料は自分で準備したんでしょうか?
  農民は自分で食料や鉄砲など用意できないです。
  もし、各自負担だったら、食料を荷駄などでまとめて輸送はできません。

  食料や武器は、大名が用意するもんでしょうか?それとも各武将が用意する
  もんですかね?あくまでも各自負担ですか?


 (3)もし、食料や武器は各自負担だったら、まあ、統制は取れない軍隊になります。
  普通に考えれば、食料や武器は統一で運用したほうが、戦いは合理的に進められ
  ますが、 この辺は戦国時代はどのように運用されていたんでしょうか?

  詳しい人がいたら教えて下さい。

Aベストアンサー

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。


(1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を集めたケースもいくつかあります。
恩賞首を討ちとれば、当然褒美はあります。

(2)武器は基本的に武将が支給します、食料は数日(二日?)程度は自弁で持ち歩き、それ以上は基本大名が用意します。
なお当時の農村は武装しています。農民が丸腰になったのは秀吉が刀狩りしてからです。それまでは農民は各自武装して自分の村を自分で守っています。

(3)基本的に戦国時代の部隊で統制がとれているのは希ですよ。
食料や武器が統一運用できるようになったのはごく一部の大名であり、多くの大名は自国の領内もしくはその近隣地域に略奪してまわるのがせいぜいです。遠征戦をできるのはごく一部の経済的に裕福な大名で、それができた限られた大名が統一的に食料の調達や輸送ができたのだと思われます。織田・羽柴・毛利・武田・上杉といった大名でしょうか、各自強力な金蔓があります。なお徳川は関ヶ原のみ遠征戦を経験していますが、関ヶ原も道中の大名の協力のもと食糧供給を受けていて、おそらくそういった戦略輸送・戦略移動は極めて苦手だったでしょう。

えーとまず質問者さんの疑問に思ってる点が徐々に変化していったのが戦国時代ですので、戦国時代と一言で言っても時期・大名によって変わっていった時代です。
ですので概ねこんな感じといった概略を答えることはできても、実際どうだったかは個別その戦いを調べてみないとわからないでしょう。


(1)基本的に戦に行く事そのものに対する給与は0ですね。ただし職業兵としての足軽であれば足軽であることそのものに俸禄があります。農民兵はただのタダ働きですね。ですがなかには派手に金銭をばらまいて兵士を...続きを読む


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