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念ずるのである。
この世の全ては無であり空であると、
ただひたすら念ずるのである。
嬉しかろうが、楽しかろうが、有り難かろうが、苦しかろうが、悲しかろうが、そのようなことはどうでもよいのである。
念ずるとは如何なる場合であれ、この世の全ては無であり空であると、ただひたすら念ずるのである。
このように念ずることにより、
人はみな生きることの苦から解き放たれ、
救われるのである。

仏教の教えは唯一つ、これではないか。


補足: 
「色即是空空即是色」 → この世の全ては無であり空である。
「義無きを以って義とする」 → ただひたすら念ずる。
 

A 回答 (16件中1~10件)

多分、違うと思います。



仏教と、「教えは唯一つ」というのはお互い相容れないと思います。

「唯一つ」と断じてしまっては、そこで思考停止になってしまいます。

「念ずるべし」と指導する宗派もあるのかもしれませんし、方法論として「念ずる」というのを一つのやり方として取る事自体は否定するべきではないとは思いますが、宗派を問わず、仏教の最大の特徴は、「自分自身の頭で考え続ける事」を指導者側が修行者側、及び檀家の人に対して是として伝え続ける事だと思います。

「唯一つ」という発想は、むしろキリスト教やイスラム教などの、一神教に近い考え方のように思います。

教えを受ける側に対して、やさしく明確な答えを用意し、それを『教える』というやり方をしてしまった場合、個人的にはもうそれは、仏教ではなくなった時だと思います。本人が自分の頭で考えなくなってしまうからです。

つまり、仏教は指導者が「教える」のではなく、「本人が自らの頭で考えるのを助ける」という姿から離れるべきではない、仮に離れるのであれば、もう仏教を名乗るべきではないと思います。
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「縁起」の倫理学は可能か:仏教的生命倫理学の原理をめぐって


前川 健一
http://bioethics-s-n.up.seesaa.net/image/24-30E5 …

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とりあえず、こちらにもそのpdfを張っておいて

まったく余計な事を書かなければ良かったよ

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というか、だから縁起説は、因果関係ではなくて、つながりだとかいいだすのか。
縁起説を小乗は間違えた、だから空をつかってブッダの真意に戻した
とかなんとか。それは大乗側の話だけれど。

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ええ、この言葉通りの文章はありませんよ。それで満足ですか。
私が書きましたよ。

なんですか?私はいちいち、なにかの書籍のコピペを毎回しなくてはいけないのですか?
私が書くことは毎回、出典を明示する必要があるんですか?

いろいろ混ざったんだろう。

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『般若経』の空観は、直接には旧仏教部派の中で最有力であった有部(説一切有部)の「法実有論」に対する批判で、
空とは縁起説に対する新しい解釈にほかならない。

インド思想史 東京大学出版会

早島 鏡正, 高崎 直道, 前田 専学 他

76ページ



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般若心経に、空の中には五蘊も十二処も十八界もなく、十二縁起も四諦もないという意味がのべられているが、かように
一切を否定するのは、空がすべてを成立たしめる基底として、あらゆる制約を離れた無でなければならない意味をあらわすのである.
般若経はかように諸法皆空を力説するのであるが、しかしこれは主張の否定的な一面であって、他に必ず肯定的な半面がなければならぬ.
そしてそれはこの経典が般若を昂揚する所にもとめられる.

インド哲学史 130ページ

金倉圓照 著

平楽寺書店
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大乗仏教が起こって、般若の空を主張したのも、部派仏教の低俗な縁起説を是正せんがためであったし、更に後の大乗仏教で唯識説とか
三性三無性説とかが説かれるようになったのも、縁起説を我々の心の動きに即して説明し、又は哲学的に詳しく解明せんがためのものであった。

150ページ

原始仏教 水野弘元 平楽寺書店

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般若心経は仏陀の教えそのものではなく、後世の弟子が、「空」という概念を考え出したことから派生した一種の分派と捉えるべきではないですか。


仏陀は「諸行無常」と言い、「全ては無常である」と説いたのではないですか。
仏陀の言う瞑想とは仰るような「念ずる」ことだと信じ、「無であり空である」と頑なに念じ続けても、仏陀の言う無常の発見、つまり悟りには至らないでしょ?

ま、どうでもいいですが。

仏陀の瞑想はこの世界が無常であることを事実で発見することを目的としたものでしょう?

この世界も自分も全てが無常であると、一瞬一瞬ただただ生じては滅する、その連鎖にすぎないと、そのことを世界の実相を観察し、自分自身の五知で感じることで、この「生じては滅する」のだと「知る」こと、その発見のために瞑想しなさいと。

生じては滅する瞬間を捉えることが出来て初めて、「全ては無常である」ということが体感できるのだと思います。
その体感が、「私」とは存在しないのだと、ただただ「私と思い込んでいる」だけだと、「知る」ことが出来た証であり、煩悩が消え、あるがままの世界の実相の「流れ」を感じ、「今」の世で成すべきことを成し終え、時が来て入滅するだけでしょう?

「無」だ、「空」だと念じても「無常」を知ることは出来るのでしょうか?
「南妙法蓮華教」「南無阿弥陀仏」と唱えても、「無常」を知ることは出来ないのと同義のような気がします。
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 これを書き込む意義があると思って。




 ○ 色即是空:〔世の中は〕義無き

 ○ 空即是色:・・・を以って義とす。
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 無とか空とかは知るものであって、念じる対象ではないと思います。



 仏教には哲学的な聖道門と宗教的な浄土門があると云います。
 無や空は哲学的ではあっても情的ではありません。

 大衆にとっての念仏は苦海からの脱出なので、幼子の母を思う心に通じると思います。
 無や空を念じて何か得るものが有るんでしょうか?

 幼子が母を呼べば母は答えてくれるように、人は神仏を思う時は南無阿弥陀仏と、また天にまします我らが父よ、と呼びかけるので“答えて”もらえるのです。

 無や空を念じても神仏は答えてくれそうにはありません。
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この回答へのお礼

 
>無や空を念じても神仏は答えてくれそうにはありません。

人が南無阿弥陀仏と念じるとき、仏は「色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であるのだから安心しなさい」と答えてくれるんだよ。
 
これが仏教の教えなんです。
 

お礼日時:2014/06/13 09:06

 回答ナンバー5、にポチしました。



 ポチ、ついでに・・・

 “色は空であり空は色である”とは、実体がないと云う事である、と一般に解釈されてますが、この“実体”を、存在し続けて変化しないものと受け止め、対比すれば、この世の現象は変化そのものであるので実体とは云えず、だから昔の人はそれを“空”と云ったんだと思います。

 空即是色、とはこの世の現象は変化して実体とは言えないけれど、“その時”には確実に存在しているので、空ではあるけれど色(存在)なんだ、と云うわけです。

 また“初めと云うものもなければ終わりということもないんだ”と釈尊は云ったらしいけど、これは永遠に存在し続ける宇宙そのものを云っているのでしょう。

 重複しますが・・・
 宇宙そのものは永遠に存在し続けていて実体と云えますが、そこに繰り広げられる現象は変化し続けています。
 色は空である・・・でも、空とはいってもそれは色(現象あるいは存在)なんですね。

 ☆ この永遠に存在し続ける宇宙を存在たらしめているその本体(実体)は「絶対の大心霊体」なんだと受け止めています。
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この回答へのお礼

 
「色即是空空即是色、この世の全ては無であり空であるのだから何も心配することはありませんよ、安心しなさい」と仏が教えてくれているわけです。
これが仏教です。
だからただただ仏の教えを信じて南無阿弥陀仏と念じればよいのです。
 

お礼日時:2014/06/13 09:13

 こんにちは。



 ★ 仏教の教えは唯一つ
 ☆ それは 《オシエはいっさい要らない》ということです。

 アミターバ・ブッダが あなたをすくうかどうか そんなことは 人間には分からないというオシエが 最高のものです。

 アミターバ・ブッダのこころは 親鸞ひとりがためであったとは このことです。


 ○ オシエはいっさい要らないという最高のオシエ

  念ずることにも神仏にすがることにも拠らず 
  あるいはそれらをたたえることにも拠らず
  人はみなすでに生まれつきの姿において
  生きることの苦から解き放たれており
  無条件の自由のもとにあり
  救われているのである。



 これを親鸞が明らかにしました。
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この回答へのお礼

>☆ それは 《オシエはいっさい要らない》ということです。

般若心経も聖書もオシエであるから、般若心経も聖書もいっさい要らないってことですか。
またこれらの教えを説く寺も教会もいっさい要らないってことになるのか。
 

お礼日時:2014/06/12 13:30

utayomiさんのところに投稿しても仕方ないかもしれないけれど


空について法華経は批判的であるかということを考えるために

以前投稿して皆さんに回答してもらった
「nibbuta」と「nibbāna」はどう違うの?とか

法華経の譬喩品第三で




第三章:譬喩(譬喩品第三)

それらの邪見に関することを完全に解き放してから、
私はあらゆるものごと(諸法)が空であることを覚知したので、
そこで『私は安らぎを得たのである』と思いました。
しかし、これは〔真の〕安らぎであるとは認められません。(12)

梵漢和対照・現代語訳 法華経 上
植木雅俊 訳

177ページ

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

vimucya tā dṛṣṭikṛtāni sarvaśaḥ

śūnyāṁśca dharmānahu sparśayitvā|

tato vijānāmyahu nirvṛto'smi

na cāpi nirvāṇamidaṁ pravucyati||12||

http://www.dsbcproject.org/node/4257

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T0262_.09.0011a12:     我悉除邪見 於空法得證    
T0262_.09.0011a13:     爾時心自謂 得至於滅度    
T0262_.09.0011a14:     而今乃自覺 非是實滅度

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tato vijānāmyahu nirvṛto'smi

そこで『私は安らぎを得たのである』と思いました。


na cāpi nirvāṇamidaṁ pravucyati||12||
しかし、これは〔真の〕安らぎであるとは認められません。(12)

~~~~~~~~~~~~~~~

よく注意してみると、
上のサンスクリット文では、ニルヴリトで、
下のサンスクリット文では、ニルヴァーナです。

ですから12の詩句は

空はニルヴリトだと思ったけど
ニルヴァーナではなかった。という解釈でいいのだろうか。

これは、般若心経を並べて読むと、どうも相性が悪くて
法華経を重視するらなら般若心経を読まなくなる可能性があるような。

まあ、南無阿弥陀仏の浄土真宗も般若心経は読まないらしいから、

意外とそちらのほうがよかったりして?
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こんばんは。

先ず質問の内容は念仏思想つまり今世は苦しいばかりで死んだら西方浄土へ行けたら楽しく成るとの現実社会からの逃げの思想で有り全く間違ってます。断言する証拠なら法華経を素直に読んだら明確に解ります。御縋り信仰に人を幸せにする哲学は無い事は釈尊や日蓮が明確に断言してます。違いますか?
質問者様の信仰の自由を侵害するつもりは全く有りませんが宗教の無知に気付いて欲しいと願うばかりです。私で無く釈尊や日蓮が言う事ですから信頼出来るのでは?…。
この世は空…だと言うなら何の為に生まれ生きてるのか?…幸せな人生を送る人間も居るのか?…生き生き働く人も、逆境を乗り越え生き抜く人が居るのか?…その全てを空…と言うのですか?…色即是空を色々言う暇が有るなら法華経を真剣に勉強した上で再度色即是空を見て同じ気持ちに成れないと私は断言出来ます。
根本的に信仰は宗教は何の為に何を教えようとしてるのか?…衆生処遊楽、幸福への成仏への哲学が書かれてます。成仏は死ぬ事では有りませんよ。勉強して下さい。法華経は宗教界の最高経典です。
念仏思想は自殺思想、逃げる自己中思想です。目先の空虚感だけ見てそれが全てだと思うのは間違いです。自分が変われば全てが変わります。
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この回答へのお礼

数ある仏教とされる教えの中で、仏の教えは唯一つであることは間違いありません。
まず大きく大乗と小乗に分かれます。
大乗は大勢の人を救わんとする教え、小乗は自分だけを救う教え。
仏の心は広いのでこれからして仏の教えはまず大乗以外には考えられません。
そして浄土教は大乗、法華経は小乗であるから、浄土教は仏の教え、法華経は邪教となります。
実際、餓鬼界や畜生界や修羅界などを作り出したのは法華経である。
そして浄土教の中にあってただ南無阿弥陀仏と念じれば誰でも救われると説いたのは法然や親鸞の浄土真宗であるから浄土真宗が仏の教えに最も近いはずである。
 

お礼日時:2014/06/11 13:56

觀自在菩薩。

行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。
舍利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。
舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不淨不增不減。
是故空中。無色。無受想行識。無眼耳鼻舌身意。無色聲香味觸法。無眼界。乃至無意識界。
無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。無苦集滅道。無智亦無得。
以無所得故。菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。心無罣礙。無罣礙故。無有恐怖。遠離顛倒夢想。究竟涅槃。
三世諸佛。依般若波羅蜜多故。得阿耨多羅三藐三菩提。
故知般若波羅蜜多。是大神咒。是大明咒是無上咒。是無等等咒。能除一切苦。真實不虛。故說般若波羅蜜多咒即說咒曰
揭帝揭帝 般羅揭帝 般羅僧揭帝菩提僧莎訶
般若波羅蜜多心經

http://ja.wikisource.org/wiki/%E6%91%A9%E8%A8%B6 …

無無明。亦無無明盡。乃至無老死。亦無老死盡。 

省略されていますが十二因縁を否定しています。

無苦集滅道。

四諦を否定しています。


菩提薩埵。依般若波羅蜜多故。 

菩薩は般若波羅蜜多によるそうです。

ここで、冒頭に觀自在菩薩が登場しているのがポイントになってきます。

行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。

空だそうです。


般若心経が「菩薩と空の思想」であり、十二因縁や四諦を否定しています。
大乗側の経典ということがいえるでしょう。


ところで縁起ですが、縁起説はブッダの覚りとして扱われています。

仏所行讃
http://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/B …

それなのに空によって否定されるということは
どうやら縁起と空は対立しているらしいということです。

というか、だから縁起説は、因果関係ではなくて、つながりだとかいいだすのか。
縁起説を小乗は間違えた、だから空をつかってブッダの真意に戻した
とかなんとか。それは大乗側の話だけれど。
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この回答へのお礼

 
>般若心経が「菩薩と空の思想」であり、十二因縁や四諦を否定しています。
大乗側の経典ということがいえるでしょう。

その通り、般若心経は大乗の教えです。
 

お礼日時:2014/06/11 20:23

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