忘れられない激○○料理

金座・銀座・銭座などで作られた大量の貨幣はどのようにして、幕府つまり江戸に運んだのですか。
寛永通寳は、各地で作られていますが、西日本で作った貨幣も一旦江戸に運んだのですか。
また、「お金道中」というのは、このお金を運ぶ幕府役人とその一行のことですか。
よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

再度、失礼致しますm(_"_)m



私、前投稿では「銀貨となりますと疑問も残ります。」とカキコミましたこともあり、
銀貨輸送につきアプローチを試みましたところ、
改鋳引替以外で江戸─京・大坂間以外の江戸前期の事例ではありますが、
「明暦の大火(明暦三<1657>年一月十八・十九日)」関連で下記に出会しました。

〇『静岡市史編纂資料.第3卷/静岡市市史編纂課編/静岡市/昭和3.1』
「第六章 德川家綱」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1176940/70
<70・71/358>(106~108頁)


當地之御金者燒候間、急速ニ御金請取度面々於(=)大坂(-)相渡スベク候、
但大坂ニハ黄金不足ニ候間、銀子ヲ以テ相渡スベク候千石己下ハ於(=)駿府(-)
銀子有次第スベク候、勿論遲候共苦シカラズ候面々ハ於(=)爰元(-)渡スベク候者也。

 二月十九日以(=)宿繼(-)被(=)仰下(-)候趣
今度御旗本ニ下サレ候銀子一萬貫目、江戸ヘ取寄セラレ候間、
一度ニ三十貫目、日數五日間ニ置候、宰領ハ其御書院番ノ内貳人宛申渡サレ、
駄賃ニテ十度程ニ差越サルベク候、宰領二人ニテ一人ニ二疋分駄賃相渡サルベク候、
右一萬貫目銀子到着次第、度々江戸御金奉行ヨリ手形遣スベク候間、
彼手形ヲ以テ重テ勘定立ラルベク候、於(=)駿府(-)下サレ候分ハ、
其時之裏判之手形遣スベク候旨仰下サレ候。

    駿府より江戸へ御銀差下候日限並馬數
一、三月十九日 四拾八駄 但一箱ニ付十貫目入一駄ニ三箱付 (以下省略)
一、同 廿四日 同斷 (以下省略)
一、同 廿九日 同斷 (以下省略)
一、四月 四日 同斷 (以下省略)
一、同  九日 同斷 (以下省略)
一、同 十四日 同斷 (以下省略)
一、同 十九日 同斷 内一駄四箱付箱有(L)之 (以下省略)
    以上
   銀奉行ニ參候衆晝休泊覺
  晝休 由比。 泊 吉原。 晝休 三島。 泊 箱根。
  同  大磯。 同 藤澤。 同 神奈川。 同 品川。
…(中省)…【駿城護衞系譜】

 かくして壹萬貫の丁銀は江戸に取寄せられた。宰領十四人、駄馬三百三拾六頭、
箱根の險を越ゆることゝて、輸送の困難であつた事は察せられる。

どうやら銀貨でも「馬」を酷使^^していた様子が伺えます。

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^
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この回答へのお礼

ウワッ!!これは素晴らしい!
よくぞこのような資料を見つけられましたね。
改鋳時には金貨・銀貨を輸送したはずだ、明暦の大火では御金蔵の金貨・銀貨も焼けたはずという推測の下で、資料に当たられたのですか!!
それにしてもいつものことですが、ずばりのご回答にまさに驚きです。

>かくして壹萬貫の丁銀は江戸に取寄せられた。
>宰領十四人、駄馬三百三拾六頭、箱根の險を越ゆることゝて、輸送の困難であつた事は察せられる。

馬1頭に30貫、実感が湧いてきます。

再度の親切なご回答、真にありがとうございました。

お礼日時:2014/06/24 20:35

あまり情報が無く一つの事例に過ぎませんが、下記の改鋳貨幣の引替に際しましては、


京・江戸間の旧貨・新貨の輸送には「伝馬」の利用が伺えます。

また、金貨・銀貨等の新・旧引替に関しましては、
基本的には江戸・京・大坂の三都限定のようですから、
公用の大量輸送を要する場合でも原則的には江戸─京・大坂間のみとは言えそうです。
(ただ、江戸・京・大坂以外の天領・藩領等の個々の旧貨・新貨の輸送については、
単に為替両替屋等の取扱いか、代官・郡代や各藩も関与したかはよくわかりません。)

なお、『近世交通史料集/児玉幸多編/吉川弘文館』によれば、
「壱駄あたりの荷物重量は、無賃の伝馬は慶長6年正月から30貫、慶長7年6月以後32貫、
元和2年11月以後40貫」だそうですから、
千両箱を含め金貨であれば馬一頭当たり六千両程度、
十頭で六万両程度と十分対応可能(襲撃のリスクはあったのでしょうが)と思われますが、
銀貨となりますと疑問も残ります。

次に、銭座に関しましては、
「其國は勿論他國へも御定之ごとく金壹兩に四貫文、
壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候」などとありますから、
各々の銭座で対応していた様子も伺えます。

あと、残念ながら「お金道中」は何を指すのか全く分かりません(><)

〇『東京市史.外編 第5/東京市編/東京市/昭和6.3』
「第十二章 新舊貨幣引替事務」 <116~119/199>(187~192頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1225142/116
金座の新舊貨幣引替事務は、元祿の改鑄以來生じた重要事務で、
江戸及び京都の金座に於て引替に從事した。
尤も此の以前にも、切れ金即ち損傷貨幣及び、輕目金即ち量目不足となった
貨幣の引替は行つてゐたのであるが、改鑄に際しては、悉く舊貨を引上げて、
之を改定の品位量目を以て、吹直すの必要から重要の事務となつたのである。
引替には、新舊貨幣の交換割合を定めて、一定の歩打を附し、交換に一定期限を設け、
此期間經過後は舊貨は單に潰し金として、目方を以て買入るゝ事とし、
改鑄の目的を貫徹するために、引替の完了に百方努力したのであるが、
元祿以降幕末に至る十餘回の改鑄は正徳、享保の復古的改鑄の如き一二の場合を除く外は、
殆どみな良貨を惡鑄して、その差益を幕府に収めて、財政の缺乏を補ふを以て目的としたので、
新貨即ち惡貨は、舊貨即ち良貨を驅逐するの現象を呈し、屢々引替を困難ならしめたので、
幕府は或は引替期間を延長し、或は交換割合を改めて打歩を增加し、
或は遠近に應じ引替の手當又は運賃を與へて引替を促し、
又は引替を怠る者を嚴科に處するの令を出す等、手段百端、苦心努力したのであつた。
而して直接この引替の事務に從つたのが金座であつた。

次ぎに掲ぐるのは、元文年中の改鑄に際し記された金座の文書で、
當時の引替事務を窺ふことが出來る。

引替金之儀、江戸・京共に來未正月(元文四年)より午前直引替被(=)仰付(-)、
京都引替金之徃來は御傳馬を以て致(=)上下(-)候様被(=)仰渡(-)候に付、右仕方左に申上候。
…(中略)…
一、京都引替之儀、一ヶ月古金三四萬兩程宛引替候得共、
  代り文字金五六萬兩程之引替高罷成候間、右之通引替可(L)然奉(L)存候、
  唯今迄引替所へ御渡被(L)成候文字金四萬兩私方へ御渡被(L)下、
  引替元手金に仕度奉(L)存候、右古金江戸着之節者、翌日の御出役御方御見分にて封印切、
  輕目改、古金請取、文字金差登候様可(L)仕候、京都引替文字金徃來一ヶ月兩度に上下仕、
  引替候様に可(L)仕候。
一、御傳馬之儀、御用中御證文一通にて御金竝宰領共に上下仕候様に奉(L)願候、
  尤も其度々馬數書付御届可(=)申上(-)候、勿論道中徃來之儀、
  御證文寫私印形之先觸相添差出候様可(L)仕候 以上
                     後 藤 庄三郎
「朱書」書面之通可(=)相心得(-)候 以上 
…(中略)…
依つて以て、引替の模様を窺ひ得るであらう。

前掲文書中、引替所とあるは、元文の改鑄に際し舊貨取集めを爲替兩替屋十名、
…(中略)…へ命じ、是等の爲替兩替屋から金座へ取集金の引替を請はしめ、
彼等には引替費用として金一兩に付銀一分づゝ、又銀の場合には百目につき一分五厘づつを
持主から請取らしめた。これを引替所と稱し、一定期限後は、此引替所を徹して、
金座直接の引替となつたのである、右は元文以來の制度で其以前は兩替屋を通じ、
或は直接金座について引替を行はしめたのである。

〇『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』
「經濟之部一 第一、貨幣 一、鑄造發行の沿革」
<314/732>(560頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/314
◇寛永十四年丁丑八月
錢鑄所
 水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内
一只今迄被(=)仰付(-)候分にては諸方弘かね候間、代物澤山鑄させ、其國は勿論他國へも
 御定之ごとく金壹兩に四貫文、壹分に壹貫文づゝ拂(L)之様に可(=)申付(-)候
…(中略)…【憲教類典二】

<319・320/732>(571・572頁)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1902248/320
◇元祿十一年戊寅二月
口上之覺
一遠國之古金銀を新金銀に引替之爲他國へ出し候儀、…(中略)…
一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候
一江戸近國は江戸にて引替京大阪近國は大阪にても引替候間、引替請負候町々様子聞合
埒明候様に可(L)然候、依(L)之引替所各別紙に書付申候 (別紙闕)
以上
寅二月 荻原近江守 【舊政府御達留一】

以上 少しでも疑問解消の糸口に繋がれば幸いです^^

ほか関連URL
〇日本銀行金融研究所>金融研究>
『金融研究 第18巻第4号(1999年9月発行)』
・「江戸時代における改鋳の歴史とその評価/大塚英樹」
http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/jap …
・「江戸時代の貨幣鋳造機関(金座、銀座、銭座)の組織と役割─金座を中心として/大貫摩里」
http://www.imes.boj.or.jp/research/abstracts/jap …
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この回答へのお礼

丁寧なご回答、真にありがとうございます。

小判の輸送については、おおよその様子が分かりました。
改鋳時、新旧貨幣の引替えの際、馬で運んだという記録があるのですね。
輸送手段としては、「馬」か「船」しかないと思っていましたから、馬の事例があると分かって一安心です。
船の場合「一渡海有(L)之國々若破船等之ためも候間、金銀少づゝ段々引替申様に可(L)然候」というきめ細かい指示には実感が出ています。

問題は、銭貨(寛永通宝)の輸送ですね。
ものすごい嵩になりますから。
錢鑄所(水戸、仙臺、吉田、松本、高田、長門、備前、豐後中川内膳領内など)へ民間業者が「買い付け」に行ったのか、どうしたのでしょうか。
いつか、何かの機会にひょこっと見つかるかも知れませんので、今回はこれで締め切りたいと思います。

「茶壷道中」はよく出てきますが「お金道中」は出てきません。
こんな用語はないのかも知れませんが、下記URL(個人のサイト)によれば『史話 日本の歴史17』大石慎三郎「参勤交代は日本経済を活性化させた」には出ているそうです。

http://www.h6.dion.ne.jp/~tanaka42/zeitaku-2.html 


『日本財政経済史料.第2/大蔵省編/財政経済学会/1924-1925』は、大変参考になりました。
読みたい箇所がいっぱいあります。
いつも綿密に調べて下さって真にありがとうございました。

お礼日時:2014/06/23 19:46

お礼ありがとうございます。



>大量の新造貨幣の場合はどうでしょうか。


金飛脚は、商取引が主でしょうからね。
他のかたからの回答をご期待下さい。
お役に立てず申し訳ないです。
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御用金の荷車一行じゃなにですか?!


時代劇で見た気がします。
ドラマかもしれないけど・・・
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
そうですね。府内で作った貨幣は荷車で運んだと思います。

お礼日時:2014/06/20 20:31

金飛脚(かねびきゃく)という職に従事する人たちが、配送していたのだと思います。


また、後に公金為替という制度がつくられたため、両替商により現金を為替にかえ、輸送がスムーズになったと言われています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
大量の新造貨幣の場合はどうでしょうか。

お礼日時:2014/06/20 20:30

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